らじかのよかん

ふっ急になんかわかんないんですけど↑

ラフカット2015千秋楽 第二話 『終電座』

2015年06月14日 | 深夜らじお倶楽部・谷山浩子さん研究

本稿ところどころ敬称略かも。

以下の感想やら見解は、らじおのものであるからして、当然に個人差があります。
またリンク先に動画サイトがまざっています。
楽曲聴きつつ読んでね♪


原案 谷山浩子
脚本・演出 工藤千夏
この「うさぎと猫」コンビは、
ラフカット2009 『真夜中の太陽』が初めてだ。
浩子さんの楽曲「真夜中の太陽」(←リンク動画)のスピリッツを織り込み、
学徒動員の女学生のお話にしたものだ。
まさに「真夜中の太陽」
合唱もありましたのだそうです(未見)。
一幕 約30分。

2009年江束区コンサートで、「再演されたらぜひ」と云っておられます。

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んで、再演なった。
行きました。
2010年5月に
『谷山浩子 Presents うさぎと猫の芝居小屋 Vol.1 』
ここで、第二の作品
不思議なアリス』(←リンク動画) 56分 が上演されている。
少女の残虐性を描いたものと理解している。

そして、
『真夜中の太陽』は51分に拡大されている。
これね、『白・千夏先生』なんだよなー。

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『真夜中の太陽』3回目の上演は、なんとおれの街で。
『うさぎと猫の芝居小屋vol.2「真夜中の太陽」-カメリアバージョン』

ここでは、第三の作品
合唱朗読劇『水の底』 を上演。
おれも出演していたりする。
これは、浩子さん22歳の作、童話「水の底」の朗読に4曲の合唱を構成したものなので、
ほぼストレートなのだが、原作にはあたりまえだが合唱は無く、結構観客への難易度が高い。
合唱は4曲
「風になれ ~みどりのために~」「約束の海」「ふたり」「ただ風のために」
発災年でもあり問題提起をしていて、
4曲目の「ただ風のために」→愛(割にフィジカルな)を解決手段と考えているようだ。
(動画見当たらず)

千秋楽の出来はすばらしいもので、ただただ泣くしかなかった。


現在『真夜中の太陽』は、定番の根太(←というのかわからんが)で、
作者の手を離れても上演されるようになった。


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さて今般、第四作品が上演された。
「ラフカット2015」

第二話
(本当は第四話にする予定だったが、小学生の役者が出演しているため時刻の関係で仲入り前にしたようだ)
終電座』(←リンク動画) 33分
時期的に行くのムリかなあとおもっていたが、やりくりついたので楽日に当日券で鑑賞。
最後列から数えた方が早い座席だ。
距離もあるし舞台を俯瞰するから、個別の細かい演技より、全体の構成に目が行く。
なのでたぶん他の人、特に前列の人とは相当に感想が異なるかとおもう。

2009年の『真夜中の太陽』もそうだったらしいのだが、
他の3話をエンタテイメントとすんと、突然純文学が混ざったような異質な感じを受けた。

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ある駅(タニヤマ駅だったかな)のプラットフォームで、
他の電車に接続しないオオタニヤマ行き終電を待つ十数人。
それぞれに会話/携帯電話での会話をしている。

一つの会話の役者のみ発話し、他の役者はパントマイムで演じる。
駅に電車が到着し皆が乗り込むところで全員ストップモーションになり、
なぜか蒸気機関車の汽笛吹鳴で、ふわーと元の時間に戻る。
そして今度は他の誰かの会話のみが聞こえる。
他の人はパントマイム。
これを数回繰り返す。
一回だけ冒頭部分で数組が一斉に話す。
何を言っているのかわからなくなる。


ここでの会話は、ほぼ自動化されたオトナの(大人ではない)それである。
日本人のオトナであるから当然に少なくとも1σ、たぶん2σ95%は発狂している。
したがってここでの登場人物は全員発狂している。
(詳細に踏みいると長くなるから、グレゴリー・ベイトソンか安冨歩の著書で確認してくれ)
いたたまれない。

多少正気を保っているのが、塾帰りの小学生の男の子と、就職したい女子大生である。
しかしこれとて例えば子供の「立場」を守るために深夜塾に通う「役」をこなしていたり、
正社員の「立場」を獲得するため、
ゲレキ書持参で「御社のなんとかがどーしたこーした」と深夜に掛け合い、就職したい「役」をこなしていたりで、
立場主義者には変りが無い。
ただ、不満そうなところに違和感の自覚を見る。

そもそも深夜、小学生が電車に乗ろうとしていることに誰も注意を払わない。
発狂している証拠だ。
それが現実に多発していたとしても、だったらなおさら発狂しとる。
大人なら「どーしたの」と子供を気遣うのが常識だし、
「塾帰りです」と云われたら、
まあ踏み込めなかったとしても
「それはご苦労様だね。夜なので帰り道に注意してね」くらい云っても罰は当たるまい。

酔っ払いのおっさんが時折本当のことをわめくのだが、酔いが覚めればどうせ元の立場主義者だ。
(レゴ社が3年間議論した結果、本当のこと云うのは「子供と酔っ払いだけ」と結論したと伝え聞いている)
唯一立場主義者でなく正気を保っているのは、
常に絶叫して泣く乳母車に乗った赤ちゃん(の人形)だけだ。


全員がオオタニヤマ行き電車に乗り込む。
あやしげな男が泣いている赤ちゃんをあやす。
泣き止む。
「おれ、保育士」
突然声が入る(歌詞の一節)
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ねえみなさん どうしてうちに
そこまでして帰るのです
ねえみなさん どうせ帰っても
疲れて寝て また仕事
帰るのやめませんか いっそこのまま
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ここから、男声の独白と合唱が入り交じる。
上からきらきらしたものが降ってくる。
全員が徐々に中央に集まり、
「終電座」を合唱する。


ムリなんだよ、そのままでは。
こわくて足が震え、涙が止まらない。
ムリなのだ。
まもるくん」(←リンク動画)のままでは。
おれの理解では、「まもるくん」(←歌詞)は「立場をまもるくん」で、
だから、新宿の地下道やら警官の制服やら建て売り住宅やらから「はえてくる」のだ。
「ななめにはえて笑ってる」のだ。

立場主義者のままで
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その時突然 みんなで閃く
星に行けないなら 星になれば
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こんなことしようとすると、水の対流と同じメカニズムでただの暴走現象になるぞ。
國家全體が集團暴走したら行き着く先は決まってる。

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夜はライトをつけている
明るくライトをつけている
だけど昼間に見ると だいぶ汚れてる
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「だけど昼間に見ると だいぶ汚れてる」
と歌詞の最後に書いてある。


ラスト
他の乗客は上手にはける。
塾帰りの小学生の男の子と、就職したい女子大生が会話する。
ちゃんと記憶していないけれど
「閃けるかな」
「うん」
というような会話だったか。
やっぱ違和感の自覚のある二人が話すのだ。

赤ちゃんが話せたら、もっとつっこんでいたのだろう。


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怖いけれど傑作である。
「怖い」のは現実のほうだが。

おそらくは、浩子さんが云いたかったことが、
そのまま芝居になったものとおもった。
「まもるくん」と「終電座」は同じアルバム「フィンランドはどこですか?」2007年に収録されてるしね。
その後の立場主義者の暴走はご存じのとおり。

第二話の後仲入り~第三話,第四話と続くのだが、
激しい情動の中に居るから、虚構に入れない。

『終電座』は虚構なのだが、一回転して元に戻った虚構で、
現実が模倣する可能性が高い。
ほら例のナニですよ。


芸術家というのは、
オトナでないのに、
オトナ的なものをこうまで描ききるのかと、畏怖と逞しさを感じた。


帰りに足がすくんでしまい、なかなか劇場を出ることができず、
加えて電車に乗るのが怖かった。
「人がたくさんいる」しね。


これの60分バージョンやったら、大変なことになるなあ。
でも見てみたいなあ。


「うさぎと猫の芝居小屋」の4作品一挙上演したら………

また歌いたいぞ。
コメント
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