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らじかのよかん

ふっ急になんかわかんないんですけど↑

色川武大・阿佐田哲也最後の日々

2024年12月04日 | 色川武大・阿佐田哲也研究
「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」では多くの方が、
「最後に色川・阿佐さんに会ったのは…」としている。
別冊・話の特集の発行が逝去の3ヶ月後なので、記憶は鮮明とおもわれる。

本項は、
以下のエッセイなどから日付,事柄を抽出し、
日付順に並べ替えたものである。

出典
1989年05月31日 竹書房
「近代麻雀オリジナル増刊号 阿佐田哲也 雀聖追悼特集号」定価880円(本体854円)
(3件しかない)

1989年07月10日 話の特集社
「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」定価1,030円(本体1,000円)
(ほとんどはここから)

1989年05月号初出 現代 講談社
「好色つれづれ日記(其の弐)」(絶筆) 色川武大
1989年12月15日第一刷 文藝春秋
「ばれてもともと」色川武大 に収録
(1989年03月08日~10日まで?)

日付不明(○月上旬など)は、推定で配置。
同一日のものは、月日略して直下に配置。
出典は、氏名の後に近代麻雀,話の特集,好色つれづれ日記などとする。
明らかな誤記は修正した。
前後関係から明らかな東京~一関の移動も入れた。
1989年03月17日~04月02日の間に、東京一関間を二往復半している。

2024.10.31_追記
追悼エッセイ著者が、色川武大をなんと呼んでいるかを、色川さん,阿佐田さんなどと出典の後に追加した。
また、黒鉄ヒロシの項に誤記あったので修正した。

2024.12.02_追記
絶筆の再推定をした。


1988年--------

1988年初夏
 永六輔 話の特集 色川さん
 一関の「ベイシー」で、色川邸という設計図を見た。
 僕も、その時は一関に来ることになっていました。
 そこにマルセ太郎を誘っておこう、それを黙っていて、色川さんを客席に案内しようか

1988年09月08日(木)
 立松和平 話の特集 色川さん
 海燕新人賞選考会
 選考委員
 色川武大、大庭みな子、田久保英夫、立松和平、古井由吉
 新宿の酒場で夜明けを迎えた
 色川、立松、編集部寺田、編集部田村

1988年12月29日(木)
 嵐山光三郎 話の特集 阿佐田さん
 ×立川競輪場オールスター戦
 (引用注:KEIRIN グランプリ)
 黒鉄ヒロシと一緒

 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 昭和最後の、立川の年の暮れは寒かった。
 競輪場の周辺でタクシーを見つけることが出来なかった阿佐田さんと僕は

1988年12月
 宮崎三枝子(ホワイト主人) 話の特集 色川さん
 昨年暮れボディ&ソウルの京子さんと三人で中国料理をご一緒した

1989年01月---------------------

2024.12.01追記
01月推定
1989年03月号「小説新潮」
「芝居の男」エッセイ執筆

01月01日(日)?
 二所ノ関正裕 話の特集 先生
 長門裕之宅で”元旦雀”

01月01日~09日?
 横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
 「引越貧乏」脱稿直前
 成城のお宅で深夜”豚しゃぶ”を御馳走になる
 一関では約束の原稿のない、放浪しながら自律的な執筆活動に入りたい。

01月10日(火)
 横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
 「引越貧乏」完成

01月28日(土)
 山口瞳 話の特集 色川さん
 京王プラザホテル
 第1回将棋ペンクラブ大賞授賞式
 一関に引っ越すという話を聞いていたので、そのことを訪ねると
 「資料だけですよ」と言う。
 「あそこにはベイシーって店があるけれど……」
 「そのベイシーの話で行くことになったんですよ」
 六十歳(年男・還暦)になるので心機一転したいという意味のことを言っていた。
 「みんな借家でしょう。『麻雀放浪記』の印税はどうしたの?」
 「みんな使っちゃった」
 「しょうがねえなあ」
 どうも俺ナルコレプシーじゃないらしいんだ。
 「単なる不眠症かもしれない」

1989年02月------------------------

02月
 川村二郎 話の特集 色川武大氏
 讀賣文学賞授賞式

02月
 色川孝子 話の特集 あの男,彼
 酔っ払って帰って来て、私の膝の上にデンと乗っかったかと思うと何時間も降りずにいろいろなことを喋っていました。
 (引用注:成城の色川邸でのことなのか、二十坪の建売住宅でのことか不明)

02月
 黒柳徹子 話の特集 色川さん
 博品館で『ニノチカ』という芝居をやっていて、それを見に来て下さった。
 (引用注:博品館劇場・劇団NLT提携公演ニノチカペレストロイカ万々歳 01月25日(水)~02月06日(月)
 作:メルヒオール・レンゲル 演出:飯沢匡 黒柳徹子、立川三貴、賀原夏子)
 「芝居のほうが映画よりさきで、こんなに面白いとは知らなかった!」
 六本木で中国料理をたべようという事になって、私の運転する車でギッウズメになって行った。
 大山のぶ代、砂川啓介、十朱幸代、飯沢匡
 「二十一世紀になるときは、生きて見ましょうよ」
 色川さんがぽつりと
 「僕は無理だな」

02月10日(金)
 藤野健一(「オール讀物」編集長) 話の特集 色川さん
 (打ち合わせ 対面か電話か不明)
 なくなるちょうど二ヶ月前
 一関に越したら大きな仕事にとりかかりたい
 当分オールに書けそうにない
 ひとつ面白いアイディアがあるんだが……

02中旬
 岸田今日子 話の特集 色川さん
 つかこうへいの芝居に出ていたら観に来てくださった。
 楽屋の入口からちょっと離れた所に一人で立って、もじもじして
 「とても面白かった」とおっしゃった。
 二人だけで四谷のおすし屋さんに行った。
 こんなことは初めてだった。
 イカのハラワタをつまみながら戯曲を書くつもりだとおっしゃった。
 出版社に近い宿屋で仕事をすることになっていたというのに、十二時すぎてしまって、
 一台だけつかまったタクシーにわたしを乗せると、ニコニコしておすし屋さんののれんの前に立っていた。

 岸田今日子 近代麻雀 先生
 この2月に芝居を観に来て頂き二人で食事をしました。
 二人きりでというのは、これまで一度もなかったことなのですが、最初で最後になってしまいました。

02月25日(土)
 大山のぶ代 話の特集 色川さん
 フランクシナトラを聴きに行ったのが最後
 大山や毒蝮三太夫に
 「あっちへ(岩手方面)行くことがあったら連絡してよ。電話番号はまだ覚えてないけど」
 と住所を書く。

1989年03月-----------------------

03月
1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」
「あとがき」執筆
平成元年三月、の日付入り

2024.12.01追記
03月推定
1989年05月号「群像」講談社
「政治家について」エッセイ執筆
※「ばれてもともと」掲載の
1989年05月号初出「現代」講談社「好色つれづれ日記(其の弐)」に絶筆としてあるが、
「政治家について」のほうが後で、絶筆かもしれない。
どちらも月刊誌1989年05月号掲載。
「政治家について」は、「夜風の縺れ」2022年小学館に載っている。
リクルート事件について書いてある。
絶筆については後述する。

03月01日(水)
 山藤章二 話の特集 色川さん
 立川談志主催の「超二流会」
 フランキー堺の「フランキー講談」を楽しむ
 
 大山のぶ代 話の特集 色川さん
 ×03月終わりに
 (引用注:日付誤り)
 立川談志主催の「超二流会」
 フランキー堺の「フランキー講談」

03月07日(火)まで?
 青柳賢治 近代麻雀 先生
 フラリと行ったらちょうど送別会をやっていた。

 青柳賢治(プロ雀士) 話の特集 先生
 ×01月終わり頃
 (引用注:日付誤り)
 成城のお宅へ来訪
 引っ越し準備ほとんど完了
 後藤、川上宗薫夫人、黒川、元秘書アン
 鍋物、お酒、ビール
 引っ越しの送別会のようであった。
 「こんどの家は部屋がたくさんあるから、いつでも泊まりにいらっしゃい」

03月08日(水)? 上野駅前和風旅館泊
 色川武大 好色つれづれ日記
 上野駅前和風旅館 三畳の部屋
 上野の三畳に舞い戻って澄まして原稿など書いている。

 家賃支払先
 一関の借家 トイレと風呂場修繕のため入居できず
 東京の仕事場マンション 内装工事のため今月いっぱい入居できず
 元の東京の借家 荷物がいくらか残存している

 カミサンは大分前に小さな建て売り住宅を買いそこに一人住まい
 (引用注:01月10日(火)脱稿 
 初出1989年02月号 小説新潮 色川武大「引越貧乏」に、二十坪の建売住宅の記載あり。
 1989年07月10日初版 新潮社「引越貧乏」の見返しに、小さい文字の「引越貧乏」原稿写真あり。
 大きな字で書いている余裕がなくなったのであろう。
 また、二十坪の建売住宅とおもわれる建物が、
 2008年03月「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で放映されたはずだ)

 カミサンが和風旅館三畳間に下着持ってくる
 二人で根岸の洋食”香味屋”に行く
 カミサンはハンバーグを食べる

03月09日(木) 浅草ビューホテル泊
 色川武大 好色つれづれ日記
 浅草おかみさん会主催、常磐座のショー日替わりゲスト出演。
 浅草ビューホテルに投宿
 編集者Hと”藪蕎麦” 菊正冷酒でせいろ。
 ”梅むら”豆かん(一人前三百五十円)楽屋土産
 金竜館横ハトヤで小憩
 常磐座出演
 松屋裏”香とり”カキフライ冷奴

 樋口修吉 話の特集 色川さん
 の聞いた03月のうわさ
 高橋伸の店に訪ねてきた
 「あっ、伸ちゃん、俺、色川。
 今ビューホテルにいて暇だから、これから遊びに行こうと思うんだけど、いいかい?
 たださ、あんたも知っているように、俺は人見知りするから、初対面の人がいるといやなんだけど……」

 高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生
 午前3時過ぎまで痛飲
 「ビューホテルだから大丈夫! 近いからね!」
 ビューホテルの部屋から眺めた浅草の街が
 「ビルが変に墓石みたいにみえるよ、死んだ街だね!」

03月10日(金) 浅草ビューホテル泊
 色川武大 好色つれづれ日記(其の弐)
 ビューホテル15階から夜明けの東京東部を見る。
 朝靄の中に立って居るビルが墓石のように冷めたく不吉に見える。
 昼めし”天藤”天丼
 常磐座昼夜二回公演
 ”香とり”
 理性をすべて失い”さと”。

 高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生 
 シミキン一座にいた、逗子とんぼと出版社の村尾とでにぎやかな話

03月
 吉行和子 話の特集 色川さん
 ちらっとお会いした。
 「いかがですか」
 「東京は墓場のようですね」

03月中頃
 矢崎泰久 近代麻雀 阿佐田さん
 電話で「メシでも喰おう」と誘われた。

 樋口修吉 話の特集 色さん
 矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び 

03月11日(土)~?
 東京→移動→一関

03月17日(金)までの間
 一関→移動→東京
 03月17日(金)の
 小田島雄志「色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであること」による

03月17日(金) 不明ホテル泊
 小田島雄志 話の特集 色川さん
 誕生日恒例の「すしが食いほうだい」会
 四谷のすし屋に入ると
 せがれとそのフィアンセと女房と、もう一人いた。
 色川さんだった。
 色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであることを説明した。
 いつもの四倍、五倍はしゃべった。
 二時間ほどして
 「じゃ、これから衣公子のところ(銀座・まり花)へ」

 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 (「色川さん」「阿佐田さん」を、当方も調子を合わせて思い付きで使い分けていた)
 夜に「まり花」
 「仕事は終わったんですけどね。花月園がね」
 (引用注:日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場)
 「その間、ずっとホテル住まいですか」
 「そのつもりです」
 「ホテル代なんて不経済ですよ。その分も弾にして花月園に撃ち込んだらどうです」
 拙宅を宿に使ってもらうように勧誘

03月19日(日) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 「お世話になります」と電話をもらった。
 昼は競輪場通い、夜は二部屋に別れて仕事。
 いやがる阿佐田さんをミ無理矢理にお風呂にいれたり
 以後24日まで一週間の合宿生活。

 樋口修吉 話の特集 色川さん
 の聞いた03月のうわさ
 黒鉄ヒロシの家に泊まって競輪に行った。

03月20日(月) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 
 黒鉄ヒロシ邸に泊まる

03月21日(火) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 
 黒鉄ヒロシ邸に泊まる

03月22日(水) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 
 黒鉄ヒロシ邸に泊まる

03月23日(木) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 
 黒鉄ヒロシ邸に泊まる

03月24日(金) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 
 黒鉄ヒロシ邸に泊まる

 三遊亭夢楽 話の特集 阿佐田さん
 花月園競輪場特観席
 黒鉄ヒロシも一緒

03月25日(土)
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 講談社に行く阿佐田さんと六本木で別れた。

03月25日(土)~26日(日)
 東京→移動→一関

03月26日(日) 一関滞在
 中村誠一 話の特集 色川さん
 一関の「ベイシー」
 菅原昭、美人、色川さん
 色川さんの持薬を2錠頂いて飲んでしまった。
 (引用注:リタリン?)
 すし屋 フカヒレずし→ベイシー
 →色川さんの家 アート・ブレイキーとセロニアス・モンクのビデオ

03月27日(月)~30日(木)
 一関→移動→東京

03月30日(木) 帝国ホテル泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 夜
 阿佐田さんは「まり花」のシートに座って居た。
 「帰らなかったんですか」
 「いろいろと……」
 (引用注:03月25日~26日一関に行き、03月27日~30日また東京に戻った)
 「だったら居てくれれば良かったのに。どこに泊まっているんです」
 「帝国ホテル」

03月31日(金)  帝国ホテル泊
 大沢アン(元秘書) 話の特集 師匠
 帝国ホテル
 その日は珍しく誰も来客がなく、ひしさしぶりに二人だけでのんびり雑談
 (引用注:「誰も来客がなく」といっているので、部屋でだろう)

 樋口修吉 話の特集 色さん
 04月01日0230時頃
 帝国ホテルロビー
 「ねえ色さん。この前伸さんのところへ行ったでしょ。とんかつ屋の」
 上目遣いに私を見る。
 一関の住所と電話番号を書いた。
 
1989年04月-----------------------------

04月01日(土)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 「小説現代」新人賞選考会終え 一関へ

 花柳幻舟 話の特集 色川さん
 東京で食事 
 2日後に電話で入院を知る
 悲報はその2日後(引用中:日付誤り)

 朝堀正元 話の特集 色川
 04月02日の夜、色川から架電
 (引用注:04月02日には一関にいるから「明日(04月03日)の新幹線」はない、04月01日であろう)
 明日の新幹線で一関に帰るが…
 一度遊びにきてくれ

04月01日(土)~02日(日)
 東京→移動→一関

04月02日(日)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 岩手放送テレビ水沢競馬中継ゲスト
 夕刻ベイシーへ戻る。
 色川のおごりで六名ほど造り酒屋の和風レストランで夕食会。
 2300頃色川を自宅へ送る。

04月03日(月)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 2000近く
 色川からベイシーに電話。具合が悪い。
 村田はバイクで先行、医師を車に乗せ色川宅へ。
 診察
 心筋梗塞の疑い
 救急車を呼ぶ
 一関病院にも電話、帰宅していた医師を病院で待機。
 2100頃救急車
 一関病院搬送
 2230頃 瀬峰病院に移送決定
    東京の孝子夫人へ二度目の電話
 2300 一関病院出発
 2400 瀬峰病院到着
    集中治療室
    孝子に三度目の電話 明日0600新幹線→0900頃には到着の段取り

 小原徹也(医師) 話の特集 色川さん
 2000少し前ベイシーの菅原昭二から色川の具合が相当に悪いの報を受け菅原とともに往診
 咽頭軽く発赤、不整脈、血圧180~190
 胸部腹部所見に異常を認めず
 心筋梗塞が最も疑われたのでポータブル心電計検査
 典型的な新鮮な心筋梗塞を示す心電図
 「心筋梗塞の疑いが最も強いので、絶対安静が必要であり、入院を要する」と告げる
 救急車で一関市内の総合病院に入院
 一時不整脈が消失したが、二時間後再び出現したので、宮城県瀬峰病院に転院

04月04日(火)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 0900 玄関に孝子迎え
 医師の説明
 今度が二度目の心筋梗塞、心臓の半分がやられた。次にやると非常にあぶない。
 徹底的に治療する。油断しないよう。
 絶対安静、面会謝絶
 菅原、一関に戻る

04月05日(水)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 ベイシー定休日なので、翌06日昼頃まで病室にいた

04月06日(木)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 夜見舞い
 すこし楽になった様子
 「いや、昨日までに比べたら天国みたいなもんですよ」

04月07日(金)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 大雨
 郵便物、FAX、見舞いの花など積んで瀬峰病院

04月08日(土)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 元気そう
 シャーベットが食べたいというので、ジュースを凍らせたもの持参
 食べて「仕合せ」と言う。

04月09日(日)
 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 前日に色川が
 「大丈夫ですから、どうぞお店やってください」
 と言うので、昼からベイシー開店
 夜中に見舞う
 「今日はね、とても気分が良くってね。お店どうでした?」
 いろいろ会話
 「それじゃあ、お休みなさい。また明日……」
 と言い胸のあたりで手を振ると、手のひらをこちらに向けて軽く振った。

04月10日(月)
 逝去

 菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
 朝孝子から電話

04月11日(火)
 山口瞳 話の特集 色川さん
 色川さんの通夜は新宿矢来町の生家で行われることになった。

04月13日(木)
葬儀 新宿「千日堂会館」に800名以上参列
当時のテレビに写った参列者の方々(一部/順不同)
黒柳徹子、山田邦子、篠山紀信、貴花田(貴乃花)、阿木陽子、永六輔、
奥田瑛二、安部譲二、花柳幻舟、杉浦直樹、冨士真奈美、岸田今日子、
高品格、長門裕之
弔辞「別れの言葉」丸谷才一(「次郎長放浪記」阿佐田哲也 中公文庫1986年の解説は丸谷才一)
弔辞 長門裕之
-------------


エッセイ執筆をお願いできない方々とか、
そもそも「話の特集」編集長矢崎泰久が知らない方々もいるだろうから、
前掲が色川・阿佐田の行動のすべてではない。

特に1989年03月に激しく動いているように見えるけど、
逝去と各人エッセイ執筆時期が近いからよく記憶しているのであって、
おそらく平素からこの勢いで人に会っていたとおもわれる。

意外や色川さんと呼んでいる方が多い。
そのような方に追悼エッセイ依頼したのかもしれない。

阿佐田さんと呼んでいるのは、
嵐山光三郎 話の特集
矢崎泰久 近代麻雀
黒鉄ヒロシ 話の特集
の各氏である。
このうち矢崎泰久は、近代麻雀なので阿佐田さんと呼んでいるのであって、
樋口修吉 話の特集によると、
 矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び
とのことである。
黒鉄ヒロシは
 「色川さん」「阿佐田さん」を、当方も調子を合わせて思い付きで使い分けていた
なので、阿佐田さんだけではない。
よってこれらの記載から、阿佐田さんとだけ呼ぶのは
嵐山光三郎 話の特集
となる。

最後の麻雀は、
01月01日(日)? 長門裕之宅で”元旦雀” ということになる。

最後の競輪は
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 黒鉄ヒロシ宅泊 だ。
おそらく最後の博打はこの競輪だろう。

-----------
2024.12.02追記
絶筆について

判明している1989年03月執筆は以下の通り。
・1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」「あとがき」平成元年三月日付入り
・1989年05月号「現代」講談社
「好色つれづれ日記(其の弐)」エッセイ
・1989年05月号「群像」講談社
「政治家について」エッセイ

月刊誌の発売日をみる。
月刊「現代」講談社 毎月01日発売(2008年12月01日発売2009年01月号で休刊)
月刊「群像」講談社 1989年当時は確定でないが、現在は毎月07日に翌月号を発売
月刊誌の〆切は概ね発売日の20日前である。(印刷所に入れるタイミングらしい)
すると、
現代1989年05月号→1989年04月01日発売→1989年03月10日頃〆切
群像1989年05月号→1989年04月07日発売→1989年03月17日頃〆切
となる。

03月10日(金) 浅草ビューホテル泊
なので、
前日09日と当日10日にあったことを浅草ビューホテルで書いたのが、
「好色つれづれ日記(其の弐)」であり、
現代1989年05月号は03月10日頃〆切と考えられるからつじつまは合う。

03月17日(金) 不明ホテル泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 夜に「まり花」
 「仕事は終わったんですけどね。花月園がね」
不明ホテルで執筆したこの仕事というのが
1989年03月17日頃〆切の群像「政治家について」であると考えると、
03月17日という日付までピッタリ一致はする。

1989年04月01日「現代」1989年05月号講談社発売
色川が心筋梗塞で倒れたのが
1989年04月03日
色川入院中の
1989年04月07日に「群像」1989年05月号講談社発売
色川逝去は
1989年04月10日

よって、色川逝去の
1989年04月10日には
1989年05月号講談社「現代」1989年04月01日発売も、
1989年05月号講談社「群像」1989年04月07日発売も、
共に発売中。

両編集部は「ウチが頂戴した色川先生のお原稿が絶筆になった」とおどろいたこととおもう。
その後、他社含めよその編集部員に聞いてまわったとおもわれる。
すると、
少なくとも講談社内と、聞いてまわったよその編集部間では、
1989年03月の原稿は順に
・1989年05月号「現代」講談社
「好色つれづれ日記(其の弐)」
・1989年05月号「群像」講談社
「政治家について」
と判明したことであろう。

03月19日(日)~24日(金) 黒鉄ヒロシ宅泊
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 昼は競輪場通い、夜は二部屋に別れて仕事。
この「仕事」がなんなのかわかればなあ。
少なくとも
「現代」1989年05月号→1989年04月01日発売なので
「好色つれづれ日記(其の弐)」は間に合わない。
よって、「好色つれづれ日記(其の弐)」は絶筆ではあり得ない。
この「仕事」が未完成原稿でなければ
「政治家について」か「あとがき」だ。

「政治家について」だと、
1989年05月号講談社「群像」1989年04月07日発売だから、
非常にタイトではあるが、間に合うか?

「あとがき」だと
1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」
で、実際の発売日は二週間から一ヶ月前であるから、
1989年04月01~15日に発売。
書籍なので〆切がよくわからないけど30日前には原稿できてないといけないとすると、
1989年03月01~15日に執筆でギリギリか。
03月08日(水)? 上野駅前和風旅館泊
 色川武大 好色つれづれ日記
 上野駅前和風旅館 三畳の部屋
 上野の三畳に舞い戻って澄まして原稿など書いている。
この原稿が「あとがき」かな?

すると、執筆時期と場所は
1989年03月09日頃 上野駅前和風旅館
「あとがき」
1989年03月10日頃 浅草ビューホテル
「好色つれづれ日記(其の弐)」
1989年03月17日不明ホテル~
      19日~24日 黒鉄ヒロシ宅
「政治家について」
これでどうだ。
「政治家について」はいかにも苦戦しそうだしね。

03月17日(金) 不明ホテル泊
 小田島雄志 話の特集 色川さん
 色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであることを説明した。
 いつもの四倍、五倍はしゃべった。
これに違和感があったから、
「いつもの四倍、五倍はしゃべった」を追悼エッセイに書いたとおもわれる。

そして、
色川にある種の予感があり、
絶筆を書きつつあったから、
「いつもの四倍、五倍はしゃべった」のであろう。

03月25日(土)
 黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
 講談社に行く阿佐田さんと六本木で別れた。
これは、「現代」且つ/又は「群像」編集部とおもわれる。
次号の相談かもしれない。

結局、阿佐田哲也「あとがき」,色川武大「政治家について」が絶筆である。
だから以下は云える。

まさか知らなかったとはおもえないので、
1989年12月15日第一刷 文藝春秋単行本「ばれてもともと」編集部が、
「好色つれづれ日記(其の弐)」を「絶筆」にしたと考えられる。
文藝春秋の編集部は、色川の絶筆に「政治家について」は相応しくないとおもったのであろうか。
または、単に「政治家について」は「ばれてもともと」に載せるほどでないから、
「好色つれづれ日記(其の弐)」を選んだけども、
「絶筆」は欲しかったので「好色つれづれ日記(其の弐)」を絶筆化したのであろうか。
「ばれてもともと」には、「好色つれづれ日記(其の壱)」も「政治家について」も未掲載である。

阿佐田哲也の絶筆は
1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」
「あとがき」平成元年三月 日付入り
阿佐田哲也が最後に書いたのは競輪だった。
阿佐田哲也生前最後の単行本は、この「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」である。
1989年07月 双葉社 
1991年10月15日 双葉文庫
「外伝・麻雀放浪記」
これは没後の編集でいわゆる追悼本あろう。
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」「あとがき」のラスト
---
まだまだ至難のパズルが解けるまでにいきません。私も勉強中です。もう少しレースが見えてきたら、もう一冊、この続きを記してみたいと思います。
お互いにがんばりましょう。
平成元年三月   阿佐田哲也
---

色川武大の絶筆は
・1989年05月号「群像」
「政治家について」
である。
絶筆であるが故、
色川が確認できる限り初めて政治について正面から書いたのだとおもうよ。
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阿佐田哲也 麻雀師渡世 阿佐田哲也の麻雀秘伝帳

2024年08月03日 | 色川武大・阿佐田哲也研究
色川武大の研究本的なものには以下がある。
刊行順
1989年05月31日 竹書房
「近代麻雀オリジナル増刊号 阿佐田哲也 雀聖追悼特集号」定価880円(本体854円)
追悼本
グラビア,阿佐田哲也の文字が大きな原稿,追悼エッセイ,対談,この時点での単行本未収録作品,観戦記など。
短期間によくぞまとめた。

1989年07月10日 話の特集社
「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」定価1,030円(本体1,000円)
追悼本
和田誠表紙,篠山紀信写真,追悼エッセイ。
篠山紀信の「生家居間にて母堂と」の写真により、色川武大は生涯「うちの息子」であったとわかる。
この視点は、他のエッセイなどにはないものだ。

2003年10月30日 河出書房新社
「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 色川武大vs阿佐田哲也」
グラビア,対談,エッセイ,この時点での単行本未収録作品,色川武大・阿佐田哲也・井上志摩夫 全著作レヴュー,年譜など。
読むとこいっぱいでうれしい。

以上、玉も多いようで値もこなれている。

-----
2003年の「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 色川武大vs阿佐田哲也」
「色川武大vs阿佐田哲也」の全著作レヴューは、
9人の筆者がそれぞれの書評を担当している。
内、
阿佐田哲也分は麻雀がわかる人が書いているようだ。

誤認がある箇所をみつけた。
「麻雀師渡世」
1971年09月 日本文芸社
「ギャンブルの職人 麻雀師渡世 ●勝負でメシを食い歩く人々!」
2008年08月11日 小学館文庫
「雀師流転」に収録

これのレヴューにはこうある。
---
麻雀小説の種本といっていい内容なのである。

また「茶木先生、雀荘に死す」とそっくりな話が「南郷元准尉。雀荘に死す」として載っている。

発売されたのは阿佐田哲也がブレイクした後の昭和四六年のことだから、おそらく阿佐田哲也が麻雀小説を書く前にどこかの雑誌に連載していた文章を、『麻雀放浪記』のヒットを見て日本文芸社がかき集めたのではなかろうか。
---

この「麻雀師渡世」初出はわからなかった。
「雀師流転」小学館文庫に収録された「麻雀師渡世」の中身で執筆時期を探ろう。

大役満の後には凶運がくるの章 小学館文庫P181
---
先日は吉行淳之介氏が九連宝燈をあがって厄払いのパーティを開いたという。
---
1970年02月のことである。

ドライブ専用ナンバー遊びの章 小学館文庫P263
---
いつだったか、長崎国体の軟式野球の部に、小説家の藤原審爾氏がオーナーになっているクラブチームが出場した。
---
長崎国体は1969年09月である。

これらから、
「麻雀師渡世」は
1970年02月(吉行淳之介氏の九連宝燈)から、
1971年09月(日本文芸社初版)までに書かれたものであると確定する。

「麻雀師渡世」内で触れられているモチーフで、先行する小説等があるのは以下の通り。

・黒人兵のテネフォ
1970年02月~1971年09月
「麻雀師渡世」小学館文庫P182
---
昔、進駐軍のキャンプへ行って、兵隊と打っていた頃、大甘の黒人兵が天和をあがったのを見たことがある。
「テネフォ! テネフォ!」
黒チャンは飛びあがって喜悦の声を出していたが、とたんに白人の古兵が短銃を発砲して、黒人兵の肩を射抜いた。
---
1968年
初出「黒人兵キャブ」 週刊大衆 
1969年12月 報知新聞社
「牌の魔術師 雀豪列伝」
1980年07月10日 角川文庫
「牌の魔術師」

・テツ坊
・モンペ
1970年02月~1971年09月
「麻雀師渡世」小学館文庫P306
---
ところが、私は意外な歓迎を受けた。
「あれが、有名な哲坊だよ」
「麻雀の神様さ」
というような囁きがきこえ、私が卓につくと三、四人の若者が折り重なってうしろへ来て見ている。

通称モンペといった。

「リーチ――!」
「ブワーン、満貫!」
---
・石田さん
1969年
初出「”切返し”の寒三郞」 週刊大衆 
1969年12月 報知新聞社
「牌の魔術師 雀豪列伝」
1980年07月10日 角川文庫
「牌の魔術師」
・ダンチ
1968年
初出「捕鯨船の男」 週刊大衆 
1969年12月 報知新聞社
「牌の魔術師 雀豪列伝」
1980年07月10日 角川文庫
「牌の魔術師」

これらは、先に短編小説があって、後から「麻雀師渡世」だ。
色川武大・阿佐田哲也は同じモチーフを繰り返すんだな。

「麻雀師渡世」が先で、後から他の小説の例をみよう。
・競輪予想屋河内山
1970年02月~1971年09月
「麻雀師渡世」小学館文庫P274
---
彼が◎○という予想なら、◎×を買う。◎×と書いてあれば、逆の◎○で大勝負だ。河内山の予想は、まずはずれるのであるから、彼と反対のところで勝負すれば、安心してレースを見ていられる。こんなときの予想代千円は惜しくあるまい。
---
・七ちゃん→競輪大魔神
1983年
初出「前科十六犯」色川武大 小説宝石 
1984年09月 角川書店
「黄金の腕」
1988年07月25日 角川文庫
「黄金の腕」
※同じモチーフで予想屋を「カンヌシ」っていっている作品もあったハズだ。

・南郷元准尉・雀荘に死す
1970年02月~1971年09月
「麻雀師渡世」小学館文庫P288
---
南郷元准尉が異様な声をあげて倒れたきり、目を剥いたままの姿になってしまったのはその夜中のチンチロの席上だった。
皆はかかり合いを恐れて逃げ散った。
---
・茶木先生、雀荘に死す
1972年
初出「茶木先生、雀荘に死す」
1975年03月 双葉社
「阿佐田哲也麻雀小説自選集」
1982年05月10日 角川文庫
「東一局五十二本場」
2002年12月 文春文庫
「阿佐田哲也麻雀小説自選集」

ほぼ同時つーのもある。
・通し「発展性」
1970年02月~1971年09月
「麻雀師渡世」小学館文庫P165
---
その末に、こういった。
「発展性のない手ですなあ――」
リーチをかけていた奴が、カンカンになって怒ったね。
「なにをいうんだ。リーチして、発展性もクソもあるものか」
---
・通し「はってんせい」
1971年10月 青春出版社
「阿佐田哲也の麻雀秘伝教室」
1995年09月01日 青春文庫
「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」 P144
---
さんざん考えた末に、
「はってんせいのない手ですなあ」
といった。しかし相手は怒ったね。
「リーチしてから発展性もクソもあるか。余計な口を出すな」
---
 2024.10.20追記 まだあった
・通し「ハッテン性」
1974年 双葉新書
「小説・麻雀新撰組」
1976年06月20日新装版 双葉新書
「小説・麻雀新撰組」 P121
---
ところがアンちゃんは奇妙に義理固い男で、何かいってやろうと身をもんで考えた。
とうとうこういった。
「ハッテン性のない手ですねえ」

「ははァ、これも発展性のない手だ」
追っかけリーチが怒ったね。
「俺の手にケチをつけるのか。リーチしたらもう手は変えられないんだ。そのあとで発展すつ手なんかあるものか」
---
・「発展性」の元根太
1977年08月号 近代麻雀臨時増刊号
「モデルが語る麻雀放浪記」(座談)
出演者
中島氏(女衒の達のモデル)
野口氏
(「ノンベ」または「モンペ」もしくは「ノンペ」。
1973年05月号近代麻雀「雀ゴロ人生に哀歌あり」誌上呼びかけの際は
---
禁をやぶってその男の本名を公にする。野口○○君といいます。年令は四十二、三歳、中肉中背、特に目立った特徴は無いが、昔は通称”ノンベ”といっていました。
---
1974年04月号近代麻雀「生きていた”捕鯨船の男”」
---
その”モンペ”君が便りをよこしたのである。
---
この座談では「モンペ」と呼んでいる。
よくわからないので現在研究中ナリ、
小説中のダンチ or モンペのモデル)
秋武氏(ガン牌清水のモデル)
阿佐田哲也
1989年05月31日 竹書房
「近代麻雀オリジナル増刊号 阿佐田哲也 雀聖追悼特集号」
「モデルが語る麻雀放浪記」
---
"通し"をいうのに苦吟

阿佐田 二十五、六年には足を洗っちゃったし、あのあたりにはいいカモもいなかったからね。あなたのことでよく覚えてるのは、どこかの土建屋のお兄ちゃんたちをコロそうってんで、二日くらいぶっつづけでやったとことがある。そのときに、まだ筋がよくないから入れてもらえなくて、あなたがカベをやったんだ。
秋武 うん、そんなことがあった。通しを教わってね。
阿佐田 それで、お客さんの一人が辺7筒か何かでリーチかけて、慣れないから通しがいえないんだよ。ハといわなきゃならないのを、苦悶したあげく"発展性のないテですねえ"っていったら、お客が”リーチかけてるのに発展性があるわけないだろ”って怒ってねえ(笑い)。あれが、あなたがワキ道へ踏み込んだ、記念すべき第一夜だよ。
---
「発展性」は、初期ガン牌清水であったか。
「発展性」→「はってんせい」→「ハッテン性」と表記を変えているのもコクがある。


よって「麻雀師渡世」レヴューの
「種本」とか
「阿佐田哲也が麻雀小説を書く前にどこかの雑誌に連載していた文章を、『麻雀放浪記』のヒットを見て日本文芸社がかき集めた」とか
ではない。
また、色川武大・阿佐田哲也は同じモチーフで何度も書くとわかる。


-----
「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 色川武大vs阿佐田哲也」の
こっちのレヴューもどうかな。
1971年10月 青春出版社
「阿佐田哲也の麻雀秘伝教室」
1995年09月01日 青春文庫
「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」
---
出版社主導はそれだけではない。じつは本文をゴーストライターが書いている可能性がある。イカサマ技は小説内で解説されているものばかりだし、文体も阿佐田哲也特有のゆったりしたスタイルではない。ただし序文とあとがきは本人の手によると思われる。
---
そーかなあ。

本書は

Ⅰ基本技
Ⅱ決め技
Ⅲ隠し技
Ⅳ本技
あとがき
であり、ⅠからⅢまではイカサマの解説である。

Ⅰ基本技の冒頭に、「天和 大柴様」が出てくる。
これは、
1968年
初出「天和の職人」 週刊大衆 
1969年12月 報知新聞社
「牌の魔術師 雀豪列伝」
1980年07月10日 角川文庫
「牌の魔術師」
そのままだ。

ⅠからⅢは文章の勢いも少しわるいか。
なんか、おどおどしてる気がする。

ところが、
Ⅳ本技で文体が俄然生き生きとする。
ここの内容は、
1969年02月 双葉社
「麻雀の推理」
1989年10月15日 双葉文庫
「Aクラス麻雀」
のエッセンスともいうべきもので、
自動卓でない当時、イカサマ知らないとやられるし、小説にはのせてるから書いたものの、
Ⅳ本技が一番云いたかったとわかる。
そして、Ⅳ本技は阿佐田哲也の文章だ。

ⅠからⅢも阿佐田哲也でしょうね。
こんなことろがある。
「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」Ⅱ決め技 P92
---
図は前述の四喜和十枚爆弾を切り返しの手口に仕込んだところだが、図1を見てほしい。二箇所に仕込まれていますね。これを、右端から五枚目までと、左端から五枚目までをそれぞれ左右の手に持ち、真ん中の七枚をガシャッとくっつけてしまう(図2)。
---
特にハウトウもので、図参照などの重要なところの語尾が「ますね」とか「ください」になるのは阿佐田の特長だ。

「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」Ⅳ本技 P173
---
点棒などは途中で預かっているだけで、自分の点棒箱にいつも定着しているわけではない。
上図を見てください。
いま、相手(荘家)に早いリーチがかかった。
---

1989年10月15日 双葉文庫
「Aクラス麻雀」
にもたくさんあるよ。
P25
---
自分の運量以外の運、つまり相手の運を利用してアガるやり方がある。一例をあげよう。
上の図を見てください。今、相手(親)に早リーチがかかった。
---
P106
---
その他の牌でも両面を兼ねないだけで、テンパイであることにはかわりがない。
図2を見てください。これは六九索待ちであるが、ここへ七索(牌活字)か八索(牌活字)をツモらない限り、つまり北(牌活字)とのシャンポンにならない限り、テンパイは変化しない。
---

「Aクラス麻雀」では
……改行
見てください。……

「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」のⅡ決め技のイカサマ解説では、
改行なしで
……ますね。……
なんだな。
あんまり見てほしくないのであろう。

一転して、「阿佐田哲也の麻雀秘伝帳」Ⅳ本技では、
……改行
見てください。
改行……
となり、
ここをこそ見て欲しいつーことがヒシヒシと伝わってきますなあ。

よって
ⅠからⅢも、これはまず阿佐田でしょうね。
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色川武大・阿佐田哲也の世界―没後十年記念展 1998年9月4日(金)→8日(火)

2023年09月18日 | 色川武大・阿佐田哲也研究
1998年9月3日(木)こーゆーのを見つけた。


おう。
明日9月4日に、有楽町交通会館に行く用事があるから帰りに寄ろう。

日替わりトークショウ間に合えばいいが、それが何時からなのかが書いてないぞ。
見たい順 (後日見たか/場所又は感想)
・井上陽水 (見てない/非常に残念)
・伊集院静 (見てない/残念)
・和田誠  (見た/青戸なんとかホール)
・永六輔  (見た/成城なんとかホール)

それどころか、開場が何時から何時までも書いてないや。
夕方頃着となろうが、夕方ならやってるだろ。

入場無料なのか。
タダだぜ。

9月4日(金)
当時の手帳出てきた。
2023.09.18手帳の記載
 中古市、銀座と同じ様
ははぁ、中古カメラ市であったか

午後5時~6頃に着いた。
タダだぜ。
2023.09.18手帳の記載
 4:20→色川阿佐田の世界見る
 本売れないんだって
 カタログを買う

受付にはきれいなおねえさんが二人ゐた。
が、大勢の客が雪崩のように出てくるところであった。
うわっ、トークショウ終わったな。
受付で止められることなく、
雪崩をかき分けかき分け、高座方面へ。

わっわっこの直前まで
色川孝子氏・矢崎泰久氏
の対談だったのかぁあぁーー。

チラシ

チラシによると毎日午後3時にショウがある。(敬称略)
9月4日(金) 夏堀正元・筑紫哲也
  5日(土) 畑正憲・矢崎泰久
  6日(日) 和田誠・矢崎泰久 
  7日(月) 永六輔・マルセ太郎
  8日(火) 伊集院静・井上陽水
(この他にもゲスト出演者を予定しています)

あと5分早ければ、孝子氏のご尊顔を拝せたのだが。
きっと、たっちゃんが恥ずかしがりチラシに名前載せたくないとかで、
(この他にもゲスト出演者を予定しています)
になったのではないかな。

会場の一角にH30cm程度の高座があって、会場の床に100程度の椅子が並んでいる。

ショウ終わったわさわさした会場内。
矢崎泰久氏が立ち話で関係者とおぼしき人に、
「あの奥さんがまたデ○ラメな人でさあ」と云っていた、はずなんだがなあ。
今の今まで対談してたのにそんなこと云っちゃって奥さんなのにまだその壁の奥にいるぞとおもった。

孝子氏は
 ↓つべにもあったんだよな
1999年頃かな「驚き桃の木20世紀 無頼 阿佐田哲也の虚と実」色川主役
 これ見て、孝子氏はこんな感じの人なんだなとおもった。デタ○メには見えない

2002~03年頃番組名不詳教育テレビ孝子氏主役
 色川孝子著「宿六・色川武大」1990年をベースにし、特に一関でのことについて
 冒頭でお墓参りをし「そっちはどうですか」と話しかける
に出ていた。
テープあるはずなんだが。

翌9月5日(土)はムツゴロウ氏か。
また来よう。
タダだぜ。
明日来ることを決意したので、会社帰り客も増えてきたし、
ざっと見て帰ろう。
2023.09.18手帳の記載
 6:00き○ら売出し 大変混んでいる
また中古カメラ市に舞い戻ったようだ

9月5日(土)
1330頃だったか。
2023.09.18手帳の記載
 1:25自行車で有楽町へ →2:00色川

タダだぜ。

入場し、昨日なにも云われなかったので受付素通りしたら、
おねえさん多少あわてた様子で
「ご記帳を…」
「あの一般の読者なんですけど…」
「記念ですから」
著名な方のご芳名とか、達筆なご芳名とか。
のたくり文字は非常に恥ずかしかった。
なるほど。
入場者全員記帳することになっているのだが、
昨日は雪崩でそうもいかなかっただけなのね。

展示は余裕のある綺麗な配置。
一つずつ丁寧にみせるような。

圧巻は「狂人日記」の冒頭部の原稿。
鉛筆書き。
前掲「驚き桃の木20世紀 無頼 阿佐田哲也の虚と実」では、
色川武大「狂人日記」の原稿と、阿佐田哲也「京王閣記念実戦記」とを対比させている。
番組見て、別人の如く筆跡も違えてたのかとおもいおどろいたので、この記念展では阿佐田哲也の原稿は展示していなかったのであろう。
こんなことしていたらそれだけで、長生きできないとおもう。

(もしかしたら記憶違いで、前後関係が逆であり先に驚き桃の木を見ていて、記念展でこれが実物かとおもったのかもしれない。
しかし、記念展で色川と阿佐田の原稿比較出来なかったのはたしかだ)

よしS取った。
最前列中央席おもひだした。上手側の最前列だ。
ムツゴロウ氏(63)まで2m3m程度。
90分85分の対談。

2023.09.18手帳の記載
けっこう人が座って待っている

記憶している内容
・1978年  色川武大「離婚」で第79回直木賞受賞。
その日、色川氏の懐には、副賞の50万円(源泉引かれて45万円かな)の現金がある。
みんなよってたかって
「阿佐田さん、やりましょう」
三日三晩後
「あの賞金は、全部おれが取った」
・「乗馬はこうやるんだ」と椅子の前で騎馬の形を作る。
腕の筋肉が怒張し目がぎらぎらと光っていた。
・ふたりで「本が売れない」とぼやいていた。
などなど。
迫力がすげかった。

動物と仲の良いムツゴロウ氏自身もまた、ケダモノであった。
よって、ムツゴロウの動物王国は、ケダモノのけだもの王国である。

この「ケダモノ」は、大藪の「野獣」とも違うナニかである。

2023.09.18手帳の記載
 3:00~4:25 畑さん悪い人だなー
 直木賞の賞金は畑さんにいったんだって
 時間オーバーで話しました
 終わって少しいてフォーラムをうろうろ

「本が売れない」そうなので、入場無料だし会場費設営費印刷費きれいなおねえさん費等みな高そうだし、何か買うものないかとみまわしたところ、
でかいパンフレットだけ売ってた。
受付のきれいなおねえさんに云って買うのだ。
1,000円
竹書房のでかい封筒に入れてくれた。
2023.09.18追記
パンフレットは前日に買っていた。
「本売れない」は、前日にも気づいていたし、
ムツゴロウ氏矢崎氏も云っていたな。

そして、前掲チラシ,新聞記事切り抜き,このでかいパンフレットは、
一式で竹書房のでかい封筒に入り保存されていた。

たぶん
9月6日の記事

客が200人居たかどうかは不明だが、
「耳を傾けた」つーかコワカッタから、客はカエルだったぞ。

9月8日(火) 伊集院静・井上陽水
行けばよかったなあ。
いまさらザンネンである。
コメント (2)
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宿六・色川武大

2007年01月02日 | 色川武大・阿佐田哲也研究
作家と著作は別ものである、とわかっているつもりだった。

ナルコレプシーに加え、阿佐田哲也を演じ、
なお、売れる純文学 を書こうとしていたとは。


狂人日記 は色川唯一の長編である。
読むだけでも、激しく体力を消耗する。


数年前、色川武大・阿佐田哲也没後10周年の記念展にいった。

狂人日記の原稿を見た。
升目いっぱいに、力強く書いてあった。
凄まじい集中力だったろう。


せめてあと五年、と思ってしまうのだが、
あるいはこのほうが、安らかでいいのかもしれない。
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八十円均一

2006年04月01日 | 色川武大・阿佐田哲也研究
古書が安い。
安すぎるぞ。

おれの読みたい、あるいは好きで読んだ本が安い。
「吉里吉里人」が、「虚人たち」が、
「方舟さくら丸」が、「アマノン国往還記」が、
なぜ、ハードカバーあるいは箱入りで、八十円均一なんだ。

もちろん売り物なので、おれの蔵書よりもきれいなわけで。
おもわず、「狂人日記」をダブり買いしてしまったではないか。


とにかく持てるだけ買って、たったの八百五十円とは。

おっ、計算まで少しまちがっているかな。


そこは、めったに開いていない古書店なので、
開店しているときに通りかかると、こーふんしてしまうのだよ。

さて、久々に文芸書活字モードに入るぞ。
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