2018.12.02
やだっ。
補強資料出てきたわ。
2018.12.03
◆補記もしたわよ。
エントリ立てるほどでもなから、ここに記すわ。
結構重要な内容なんだけども、短いからね、ここでいいわ。
2018.08.27
ちょっとぉ、応募総数聖子に盛られたわよ。
本稿敬称略
本放送は
1984年11月18日(日)放送『田原俊彦ひとつぶの青春』松田聖子ちゃんゲスト回
1)録音番組であることの確認及び録音日のおおよその推定
録音番組であることは周知だけど、雑誌記事(註1)からもわかる。
記事引用
-----引用--------
表題
『トシちゃんの
スペシャル・マンスリー』
(上 写真 幅90~100cmの机(中央に上からマイク下がる)はさんで向かい合う聖子,トシ)
11月は、毎回ゲストを迎えて、賑やかに番組を繰り広げてゆく。
18日は、歌謡界のトップ・アイドルで、この番組の元パーソナリティー,松田聖子を迎える。
彼女はトシちゃんの友人でもあり、ライバルでもあり、最近はまた共演するニュースが流れており、ナイス・カップルだ。
二人でミニ・ドラマを演じたり、聖子の英語版「野ばらのエチュード」があったりで、
初のダブル・ジョッキー。はてさて、どうなることでしょう?
----引用終わり-------
雑誌名はさだかでないが、「11月は…」との記載から月刊誌だとおもわれる。
月刊誌だと25日頃には発売日で、だとすると16~18日頃校了のはず。
またこの月刊誌とおぼしき記事の撮影/執筆時には、すでに録音完了だ。
それにしても狭いスタジオ。
ふたりの距離つか寸法を感じつつ録音聞くと泣けるよ。
なお、ラジオでのふたりの共演は、この前には無かった。(註5)
-----引用--------
と「ラジオでさあほんとこうして話すのってさあ」
せ「初めてじゃない?」
と「初めてじゃない?」
せ「初めて」
と「いつもさ。コメントは出し合ってるね」
せ「そ、コメントは出し合ってる」
と「そで、遊びに来いよとかねえ。会うたびにさ」
せ「そうそうそう」
と「そう。云ってるんだけどね、なかなか。
----引用終わり-------
今に至るもこの番組しかない。
だから当該記事の写真は、この番組の時にしか撮れない。
あら、やりとりがおうむ返しじゃない。
当時のふたりの親密さをよく表してるわね。
2)これより前には録音できない期間
トシが聖子ちゃんゲストの回の事前告知(放送日不明)をしている。
文字おこしされた方がある(註2)。
※聖子ちゃんゲスト回の文字おこし全文もある。
感謝感激である。
つべにあがってんやつからは編集削除された要部(註3)
「あなたはそういうところがいいのよねーやっぱり」
「やっぱり相手の人には、あなたみたいにこう威張ってて欲しいし♪」
「あたしもそういう人がいいな」
「かま、構ってもらいたいもんなのよ」
も記載あります。
-----引用--------
10月15日のTV「欽ドンスペシャル」で流れたね、僕と聖子チャンのCM、ずいぶんね、たくさんの方がなんか見ててくれてたようでね、こんなに反響があると思わなかったんですけどね、500通ほどお便りいただきまして、賛成派がおよそ9割、それから残りの1割がね、『絶対共演はイヤ!』っていう意見がありましてね、少し紹介してみたいと思うんでね、
(引用中略)
本当、僕もこの頃久しぶりでね、仕事場で聖子チャンと会ったことないんでね、
久しぶりに会って、すごく楽しかったしね、もう、プライベートでもね、一緒に次の日、ゴルフやってね、
遊んじゃったりとかしてね、もお、エンジョイできたんでね、久しぶりに、なんか、幼馴染の顔をね、
ゆっくり見れたって感じでね、とても、・・・ええ、まぁ・・・、公私共々、ね、楽しかったですね。
(引用中略)
えっ~、聖子ちゃんにね、一声掛けました!返事は・・・『いいとも~!』
というわけでね、決まりました! 11月のね、18日。松田聖子ちゃんをゲストにお迎えして、おおくりします。ラジオではね、初めての共演ということになりますんでね、さぁ、どうなるか楽しみなんですけどね、まずは、11月18日をお楽しみにしておいてください。
----引用終わり--------
つまり
1984年10月15日より後の録音→放送であることが確定する。
なお、
この告知放送自体は
「11月のね、18日。松田聖子ちゃんをゲストにお迎えして、おおくりします。」
と云ってるから、
10月にされたと考えられる。
1984年10月21日(日)または、
1984年10月28日(日)の放送だ。
あるいは、
10月に録音したので11月放送であるにもかかわらず、
ついうっかり「11月のね、18日。」と云った可能性もあるけど。
どちらにしろ大勢に影響なし。
また、「500通ほどお便りいただきまして、」との発言に注目したい。
聖子ちゃんゲスト回で以下の会話がなされている。
『ハッピーサンデー』がかかった後の会話
-----引用--------
聖:このスタジオにぴったりフィットって感じ♪
俊:んー
聖:この曲はーあの聞いてる皆さんに詩を(吹き出しそうになりながら)書いて頂いてね。
俊:んー
聖:3万通もねお寄せ頂いたんです。皆さんから。
俊:あ、ホントー♪そうなんだ。
----引用終わり--------
「3万通もねお寄せ頂いた」のだから、
もし1ヶ月間応募したとすると1000通/日の応募があったことになる。
応募2ヶ月間でも500通/日だ。
つまりこの番組はその程度の影響力はある。
しかるに
「500通ほどお便りいただきまして、」
で、CFの反響はたったの500通だ。
作詞は時間掛かるけど、感想は容易に書ける。
---2018.08.27 追記-----
ちょっとぉ、応募総数聖子に盛られたわよ。
1983年03月27日放送 松田聖子『ひとつぶの青春』最終回←リンク動画の該当部
文字おこし
せ
「この番組のテーマ曲『ハッピーサンデー』これにはですね。
仙台市のハセガワマユミさん 福岡市のフジタトシコさん、
そのほかたくさんの方から、リクエストをいただいてるわけなんですよね。
でこの曲は、この放送をお聞きのみなさんからえー送られた
(録音すん切れっぽい)
えー応募総数4874通の中から、最優秀作品として選ばれました、
埼玉県は川口市の、しゅふの方でございます、タカクワサナエさんの作品をもとに、
松本隆さんに作詞をしていただきまして。
えー財津和夫さんに作曲をしていただいたわけなんですよね↑
でこの曲が、それまでのテーマに変わっさっきありましたあのあれが最初のテーマだったわけですね。
で、あれが、えーその『ハッピーサンデー』に変わりまして、番組のオリリナルテーマ、として、
初めて流れたのが6月6日なんですね。
んえ、そのときをおもみだしながら、今日はですね『ハッピーサンデー』を、どーぞ」
無効票があって、有効票数4874通じゃないわよね、やっぱ。
んでも、初回放送が聖子の入院
1982年03月25日(木) 過労による急性胃腸炎で東京女子医大病院に入院
(※入院の遠因もつかんだわよ。後日この件やるわ)
1982年04月03日(土) 退院(▲10日間入院)
もあり
1982年04月11日(日)初回放送
なのよね。
んで
1982年06月06日(日)に『ハッピーサンデー』が放送されたんでしょ。
4月いっぱい募集して、
5月頭締切→4874通から選考→採用→作詞→作曲→編曲→オケ録音→聖子歌入れ→06月06日放送
って、どーゆースケジュールなのよ!!
まあいいわ。
とにかく1982年04月11日か1982年04月18日かに募集かけて、
半月で5000通でいいわね。
すると、333通/日だわ。
やっぱすごい数よ。
作詞でこれよ。
だからCFの感想くらい1000通/日じゃきかないわよ。
だって、トシと聖子よ。
云いたいことあるじゃない。
でも、
結論に変化ないわ。
-----追記ここまで----
すると、
1984年10月15日の夜にCF放送→葉書書く→翌16日に投函→近県分のみ17日にラジオ曲に到着
であれば、500通は辻褄が合う。
つまりこの告知放送の録音は17日が最速だ。
整理期間入れても、18日録音であろう。
よって、
1984年10月17日より前には、この告知放送分の録音もできないし、
聖子ちゃんゲスト回の録音も不可だろう。
(専業のアナウンサーならばできるかもしれないけど)
CF録りのときに「ゲストに来て」と依頼した可能性もあるしね。
「えっ~、聖子ちゃんにね、一声掛けました!返事は・・・『いいとも~!』」と云っているから。
なおゲスト回本放送のときに、
この告知聞いてのこーふんしたお葉書があってもよさそうなもんだが、
一枚も読んでいない。
(一万通は着たとおもふよ)
反響後の録音で無いことの現れだろう。
おそらくは、
告知放送分の録音と聖子ちゃんゲスト回の録音は同一日だったのではないか。
トシちゃんのスケジュールも非常にタイトだったのだから。
だから、聖子ちゃんゲスト回でグリコ記念CFについて、
----引用 註5--------
せ「ねー。うふっ。やりましたね」
と「CF」
せ「やりましたね」
と「もー今、流れてるみたいだけどね」
せ「流れてるみたいですけど」
と「また4年前のふんいきと違って」
せ「うーん、一番なんかあたし。(声が潤む)一番落ち着くみたい。一緒にいて」
と「落ち着くみたい?」
せ「(声が潤む)うーん。他の人より」
と「ぼくと?」
せ「そう。あっは」
------引用終わり--------------
と、「もー今、流れてるみたいだけどね」「流れてるみたいですけど」
確定的で無い発言になっているんじゃないかな。
なお、いくらなんでも、
----引用 註5--------
せ「うーん、一番なんかあたし。(声が潤む)一番落ち着くみたい。一緒にいて」
と「落ち着くみたい?」
せ「(声が潤む)うーん。他の人より」
と「ぼくと?」
せ「そう。あっは」
------引用終わり------
この部分は、
1984年10月06日(土)→07日(日)グリコ記念CF撮影 箱根ピクニックガーデン
の後でないとできない会話だ。
だって久しぶりに逢えたのが、このCF撮影の時だったんだわ。
んで且つ
1984年10月08日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ2時間スペシャル『あなた』
の後なの。
「あなたがいてほしい」とおもわず熱唱してしまったわ。
だからこの発言なのよ。
その上、番組冒頭に
-----引用--------(註3)
今日は二人で、そうですね、
じっくり将来のことなど話し合わなくっちゃ♪
------引用終わり------
であって、
ほんとにじっくり話し合ったのよ。
(後日ちゃんと解析するけど、
のりこさんは松田聖子やってる時には感情を表現しやすいわ。
それでも要請は、恥ずかしいからできない「チュン・チュルル・ル」なの)
2-2)補強資料
2018.12.03
見つけたわよ。
↓なんかほらこう、この前には録音してない感じよね、ぜったい。
1984年10月15日 夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハー卜のイアリング』61回目 黄パンツスーツ青シャツ
「先週1984年10月08日(月)」に『あなた』歌ったのよね。
---トーク部文字おこし---
ま「…ちゃん」
せ「はい」
ま「まあ今日は新曲、あんた頭どうしちゃったの?(以下段取りノイズで聴取不能)」(頭を指さす)
せ「あははんあは」(右手グーで口元/笑いをこらえる)
い「あのねえ。曲がねーえ」(両手腰にあてたまま)
せ(両腕前で伸ばし手を握る/註:聖子が何か決意して云うときのポーズよ)
ま「はい」
い「ハートのねイヤリング」
ま「はいはいはいはい」
い「だからねえちゃんと耳にやってますけどね」
せ(左手パーでを左耳にあてる)
ま「そうなのよ」
い「そんでほら、(腕組み)先週泣いたじゃない」
せ(ふっと吹き出すような)
い「そんでさあ。なんで泣いたんだろうって云われてさあ」
せ(アップ/うなずく。ちょっと困ったような顔/いを見る)
い「まーたね、じゅんがなんか云ったんだとかね、いろんなこと云われるのよ」
註:まっ確かにいろいろ云ったわね
せ(「ああーっ」て云うような口元/声聞こえず)
ま「どーしたの?」
(手でせの肩を強く抱き引き寄せる。せ引き寄せで少しよろける)
/以下プロモート開始まで抱いたまま
註:このをばさんは、純粋に勘違いしていることが判明してるわ
せ「いえ。もうやっぱり歌がすごく(うなずく/小声→)すてきだったから」(うなずく)
ま「うーん」
せ「はい」(大きくうなずく/云い切ったとい感じで顔をあげる/目大きいわね)
ま「うーん」
い「あっそいであのね」
註:いは、をばさんが余計なこと云わぬように畳みかけているようにみえるわ
せ(いを丸い眼で見あげる)
ま「うーん」
い「あのあきこちゃんもね(ピアノ弾く仕草)」
せ「はい」(大きくうなずく)
ま「うーん」
い「いっしょけんめ、弾いてくれたしね」
せ(大きくうなずく)
ま「それから気になる」
せ(一瞬顔がタイトになる)
ま「人がいたしねぇ」←註:ひな壇にの意
註:ほんものは楽屋で衣装替えよ
せ「あっはっは」(以下【声のない苦笑】に変わる)
い「あっ」
ま「ねぇー」
い「なんですか?」(スタッフを見、プロモート用の品を受け取る)
註:いは、をばさんが余計なこと云わぬように畳みかけているようにみえるわ
ま「いろいろあったわけなんですよーぉ」
註:そっちじゃない。
いろいろも何もナニも無いじゃない!!
会ってもないわよ。
せ(いの方だけを見ている)
い(まを完全無視/せと二人で新曲プロモートを始める)
註:どうも迎撃作戦に気づいたらしい気配があるのよ
/先週あんなにあおっていたのに/機を見るに敏だわ
↓
新曲プロモート
↓
歌はじめ
--------
これ↓
せ「あっはっは」(以下【声のない苦笑】に変わる)
は、未だ。
あのあれよ。
あなたと間で、
結論めいたものが出てない証拠だわ。
だから怖さもあるだろうけど、一種の余裕も感じるの。
【声のない苦笑】の表情がね、あのあれよ。
録音の後は、こんな余裕ないのよ。
余裕ない時期の文字おこし1984年11月05日(月)分もしてあるんだけど。
これはいいわ。
あんまりで載せる気にならない。
結論として、ここからも
1984年10月15日(月)より後で、
1984年11月05日(月)より前の録音の推定は完璧だとおもふわ。
更に1984年11月01日(木)(映画製作発表会見)より前も確定的だわね。
-◆--補記-2018.12.03--エントリ立てるほどでもなから、ここに記すわ--◆-
「そんな重大なこと、放送やら生放送で云うとでも? マサカうそでしょう」
それが、あれよ。
云うのよね。
1〉スケジュールがめちゃめちゃタイトでそもそも時間ない
収録とか生放送はいいチャンスなわけよ。
2〉「松田聖子」の時は、自身の感情表出の抑制をある程度緩めてる
※のりこさんご自身はかなり抑制的だとおもふの。
つか
「「松田聖子」は、よい感情であるならその表出を抑制しない」方針だとおもふわ。
(デビュー当初からこの方針は貫かれてる。このとき18歳よ。奇跡だわね)
だからあの超絶な感情移入や表現力が成り立っているの。
感動して泣くのもこれよね。
3〉だから表面的にでも松田聖子やってるときのほうが、
たとえ要求の示唆であったとしても云いやすいわ。
(例えばこの『ひとつぶの青春』収録は好例よね。ラジオだから表情も見られないですむし)
なの。
だから「松田聖子」という「芸名」で活動したのが、
それこそこう「松田聖子」をつくった一因と云えるわよね。
もし芸名にも適した本名であったら、松田聖子的な歌手は存在できなかったはずだわ。
◆--補記-終わり--◆-
3)絶対に録音できない期間
国内で且つKDDビル間借り時代のFM東京での録音つーのも、前掲の雑誌記事から確定してる。
だから、聖子ちゃんが海外に行っている間には録音不能。
この近辺で海外渡航期間は以下の通り。
1984年10月21日 ニューヨーク レコーディング
↓
1984年10月29日 帰国
1984年11月08日 映画撮影のためにメキシコへ出発
↓
1984年11月29日 帰国
11月はまあ無理。
10月も20日より前でないといけない。
-------------------------------------
以上から、
1984年10月17日乃至10月18日録音しかないのだ。
おおまけにまけても、海外渡航からして10月17日~20日だ。
もし20日だったとしても以下に述べる大勢に影響は無いけどね。
さて、
この頃の聖子ちゃんを年表風にまとめよう。
出演した番組、基本は生放送。
まぎれもなくその日だと確定するからね。
録音録画分は、収録日/放送日の別に記してある。
(聖子ちゃんが急に腕組みした
ヤングアジア音楽祭『愛と青春の旅立ち』も同様にふかぁーく推定して入れたから)
2023.08.16追記
ヤングアジア音楽祭収録日確定。
あとコンサートも確定だから書く。
リンク切れあるかもしんないが、一応つべのリンクはっておこうかな。
●------↓この時期の聖子ちゃん年表↓-------●
1984年10月04日(木) ザ・ベストテン『ピンクのモーツァルト』6位
1984年10月06日(土)→07日(日)グリコ記念CF撮影 箱根ピクニックガーデン
「一緒に次の日、ゴルフやってね、遊んじゃったりとかしてね…」
「・・・ええ、まぁ・・・、公私共々、ね、楽しかったですね。」
1984年10月08日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ2時間スペシャル『あなた』
2018.12.04
註:やだっーーー。
歌い終わりで左右見回し「あなた」の姿を探してるわよ。
「私の横には あなた あなた あなたがいてほしい」を聴いてくれたかとおもって。
こんなに好きだったのに……
(1984年10月11日(木)ザ・ベストテン『ピンクのモーツァルト』着外)
1984年10月15日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハー卜のイアリング』61回目 黄パンツスーツ青シャツ
「いえ。もうやっぱり歌がすごく(うなずく/小声→)すてきだったから」(大きくうなずく)
「はい」(云い切ったとい感じで顔をあげる)
同日
1984年10月15日(月) グリコCM4年ぶり放送(1984年10月06日(土)録画分放送)
1984年10月17日(水)乃至
1984年10月18日(木)『田原俊彦ひとつぶの青春』松田聖子ちゃんゲスト回録音
(10月19日又は20日の可能性もある)
前半/後半
(1984年10月18日 ザ・ベス卜テン『ピンクのモーツァルト』16位着外)
1984年10月21日(日) ニューヨーク レコーディング
↓(1984年10月25日 ザ・ベス卜テン『ピンクのモーツァルト』着外)
1984年10月29日(月) 帰国
1984年11月01日(木) 19thシングル『ハートのイアリング』,ベスト・アルバム『Seiko・Town』発売
同日
(1984年11月01日(木)ザ・ベストテン着外)
同日
1984年11月01日(木) 主演映画4作目『力リブ・愛のシンフォ二ー』製作発表
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P147
-----引用---【】印引用註------
会見は映画のことはそっちのけで、質問は、私の結婚問題に終始していた。
そのころは、【すでに私が結婚についてある決意】をしていた時期だった。
それに反して、集まった人々は、結婚することはあまりにも当然のこととし、
その上に立って発表の時期ばかりを聞いていた。
----引用終わり--------
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P168
-----引用---
大きな別離を迎えた女性は、長いあいだずっと恋愛をしないか、
またすぐに新しい愛をはぐくむかのどちらかだろうと、
別れの結論を出したときに考えたことがある。
----引用終わり--------
1984年11月03日(土)九州厚生年金会館「Magical Trump」
1984年11月04日(日)福岡サンパレス「Magical Trump」
1984年11月05日(月)2023.08.16確定 年表要部に変更無し
ヤングアジア音楽祭『愛と青春の旅立ち』録画
腕組み←リンク要部
1984年11月05日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』赤パンツスーツ黒シャ
司会者に四の五の云われてるわ。
文字おこししたが書く気にならん。略。
1984年11月08日(木)映画『力リブ・愛のシンフォ二ー』撮影のためにメキシコへ出発
↓
1984年11月15日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』10位 録画出演
久米(要旨)「先週からロケに行っている。先ほど届いたビデオ」
※註:このビデオ収録が「食中毒事件」の前だから時系列整合させた
↓
1984年11月15日1800時頃~日本時間
1984年11月15日0400時頃 現地時間 聖子ちゃん食中毒事件 発症→救援要請
1984年11月15日0900時頃 現地時間 処方薬服用
1984年11月15日2000時頃 現地時間 日本人医師診察
↓
(1984年11月16日(金)午前11時50分頃 世田谷ケーブル火災)
1984年11月18日(日)田原俊彦ひとつぶの青春 聖子ちゃんゲスト回放送
↓
1984年11月22日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』3位 録画出演
現地中継/共演者と共に
↓
1984年11月29日(木)帰国
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P163-164
------引用-----
私がある別れをひそかに考え始めてから、夏、秋、冬へと三つの季節が通り過ぎていた。
そして彼に出合った。それまで愛に臆病になっていた私の心から、ほとばしり出るものがあることだけは、かすかに感じていた。
帰国後、私は、すぐさま現実に引き戻された。はるか海と大陸を隔てたメキシコでは忘れることができたが、日本では私の結婚問題をめぐる報道は、異様なほど過熱していた。
メキシコでの最後の夜、
「声が聞きたくなったら、連絡するよ」
と彼はいった。
けれども、このまま電話はないかもしれないと思った。女性である私のほうから電話することは、やはりためらわれる。
もし、このまま連絡がなければ、メキシコでの思い出の日々は、過ぎゆく秋のなかへひっそり閉じ込めよう。これからは、ひとりで生きてゆこう……帰りの飛行機のなかで、私はそう決心していた。
ひとつの賭けだった。
------引用終わり-----
1984年11月29日(木)ザ・ベス卜テン『ハートのイアリング』2位パーマ赤スーツ黒シャツ落ち葉犬「ごめん」
おみやげを徹子,久米にあげてる。
三週間行ってきたと云ってる。
以下MC部分文字おこし
---文字おこし---
徹子「ところで中毒事件があってねえ。あなたは?」
聖子「食中毒。あの水がちょっと合わなくて」
徹子「あっ」
聖子「ええ。えもあの。そんなにひどくなかったし。大丈夫でした」
徹子「そうでしたか。なんかあなたは日本のものを召し上がってらっしゃるんですかちらでは」
聖子「ええ。ですから、あのーお米を持って行って、炊飯器でご飯を炊いて」
徹子「ああ。ぱ日本食が無いとダメ」
聖子「はい」
徹子「あちらでは瓦斯の大爆発があって大変だったりしたんですけど。日本でも火事があって世田谷のほうが」
※世田谷ケーブル火災1984年11月16日金曜日午前11時50分頃
聖子「そなんです。ウチの方がちょうどダメになって」
久米「あらっ」
聖子「電話が通じなくなりまして。はい」
徹子「お母様から、あーお電話があったとかそういうことは?」
(聖子伏し目がち)
聖子「ええ。最初はあったんですけど。ずーっと使えなくなっあって。んで直ったらすぐ電話がありまして」
徹子「ああそう。どんなお話し」
久米「○○聞きたいねえ」
徹子「どんなお話しえした?」
聖子「身体のことをやっぱり心配していました」
徹子「ああそうー。久しぶりで歌って戴くんですけど、いかかですか」
聖子「緊張します。(徹子見てほほえむ)なんか間違えそうで。いつものことなんですけど」
徹子「まあ今日はまた真っ赤なかわいいお洋服で。じゃあお願い。あらっ」
聖子「あーあはっは」
久米「今日はえすねえ。帰ってきたばかり。さっき夕方日本にお着きの、松田聖子さんなんですが。
日本の秋を満喫して戴こうというわけで。
東京の神宮の銀杏の落ち葉を沢山集めてまいりまして。たっぷりと秋を味わっていただきたいとおもいます。
かわいいお友達も一緒でございます。それではどうぞ」
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P166
---引用-------
帰国したその夜、思いがけず、彼から電話があった。
「見たよ」
帰りの飛行機の中で「今夜、テレビに出るから見ててね」といった私の言葉に対する返事だった。
---引用終わり----
1984年12月03日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』63回目 紫パンツスーツ黄シゃつ
1984年12月06日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』2位
1984年12月08日(土)10thアルバム『Windy Shadow』発売
1984年12月10日(月)ザ・トップテン『ハートのイアリング』
1984年12月13日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』4位紫パンツスーツ黄シゃツ忠臣蔵セット
田原俊彦『ラストシーンは腕の中で』5位
ふたり腕組みしてガラスドアを出て来たらしい 「はいポーズ」の記念写真 註4
1984年12月15日(土)武道館18:30開演 Seiko Golden Juke
主催ニッポン放送/サンミュージック/キョウドー東京 3000円
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P166
---引用-------
そして、十二月十五日に、彼は武道館のコンサートに来てくれたのだった。
---引用終わり-------
1984年12月16日(日)武道館14:30開演 Seiko Golden Juke
テレ朝放送用の収録あり
主催ニッポン放送/サンミュージック/キョウドー東京 3000円
1984年12月17日(月)ザ・トップテン『ハートのイアリング』紫背広黄シャツ髪バクハツ無し
今年の聖子ちゃん年間海外渡航一覧フリップ有り
「ちょうどメキシコの時に世田谷の電話が繋がらなくって。知らなかったんですよ。何回かかけてもウチに通じなくて。心配しました」
「来年は、まず2月に約一ヶ月ニューヨークにレコーディング」
(1984年12月17日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ放送日 ※出演無し)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1984年12月20日(木)ザ・ベス卜テン『ハートのイアリング』4位先週と同じ黄スーツ青締シャツ頭かわいいショート
1984年12月21日(金)
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P167
---引用-------
十二月二十一日は彼の誕生日。あれこれ考えた結果、とにかく手作りのものを贈ろうと決めた。
私に出来ることと云えば……。街に出て、クリーム色の毛糸をたっぷり買い集めた。
21日までに完成させるとすると、セーターのつもりがベストになってしまった。
春らしい淡いクリーム色のベストが編み上がった。
誕生日ぎりぎりに完成したそのベストにリボンをかけ、彼にプレゼントした。
---引用終わり----
1984年12月24日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』64回目 白パンツスーツ黒シゃ
「さよならと…」以下で目が潤む
2番サビ
「優しく叱ってよ 素直じゃ無いわたし」
ジャケッツの合わせの下を持ち、がばっと左肩をはだけシースルー黒シャツ肩を出す。
「すばやーく」でしまう。
歌唱後笑ってる。
としちゃん居る
1984年12月25日(火)大阪城ホール「Golden Juke」
1984年12月26日(水)大阪城ホール「Golden Juke」
1984年12月26日(水)尾崎亜美にシングル詞曲依頼
1984年12月27日(木)『天使のウインク』上がり
1984年12月27日(木)ザ・ベストテン豪華版『ハートのイアリング』4位 オフで欠場
1984年12月31日(月)「紅白歌合戦」に『Rock'n Rouge』5回目
これのトーク部文字おこししたけどさ。
あんまりだ。
開けて--------1985年-------------
1985年01月のことは、
1985年03月03日放送『松田聖子 愛にくちづけ』でお話ししてる。
また、わたしの文字おこしあるからそっちも見てください。註6
更に未確定部分多くて年表にならない。
確定部分のみ一部だけど記載する。
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P167
---引用-------
(お正月は)
私も偶然、ハワイでCM撮影の仕事が入っていた
---引用終わり----
(1985年01月03日(木)ザ・ベストテン放送無し)
1985年01月09日(水)愛知県体育館「Golden Juke」
(1985年01月10日(木)ザ・ベストテン『ハートのイヤリング』6位 オフ欠場)
久米「松田聖子さんはですねえ、えーオフのために今日お休みでございまして」
徹子「あらー」
久米「おこし戴けない」
徹子「(暮れの)豪華版のときもお休みでしたねえ」
久米「そうあれは去年の最後の方のオフで今日は、今年最初方のオフでお休みでございますして」
ふたり「ほんとうにすいませーん」
1985年01月12日(土)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1985年01月14日(月)夜のヒットスタジオ『天使のウィンク』65回目 白レース長袖ドレス
結婚前の夜ヒット最後の出演
(1985年01月17日(木)ザ・ベストテン着外)
1985年01月18日(金)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1985年01月19日(土)倉敷市民会館「Golden Juke」
1985年01月20日(日)島根県民会館「Golden Juke」
以下略
●---------------年表終わり-----------------●
人生的に危機的な状況下で、すさまじゐスケジュール。
正直で嘘つかないな方だから、およそ二股なんてことはあり得ない。
歌聴けばわかることだけど。
-----------------------------------------
参考文献
◆註1
美波風の風天ブログ
2011-12-17 16:40:23
田原俊彦、明日は高山DSダンス小僧(^^)&爆報&懐かし記事
1984年04月03日 新宿厚生年金会館で行われたトシちゃんコンサートの舞台に聖子ちゃんを上げたときの記事もある。
場内を埋めた女性ファンから「聖子!」コールがおこったつーあれだ。
◆註2
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2012年06月05日(火)
【聖(・з・)(・ε・)俊】今週は聖俊weekだ!ひとつぶの青春こぼれ話
◆註3
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2015年08月25日(火)
【聖(・з・)(・ε・)俊】ひとつぶの青春のまとめっぽいもの2
◆註4
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2012年01月28日(土)
【聖(・з・)(・ε・)俊】ファン専用画像⑩と「ひとつぶの青春」総括
◆
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
◆註5
らじかのよかん
2017年10月15日 | 松田聖子ちゃん研究
赤いスイー卜ピー
※前記全文文字おこしを知らないので、おもわず自分でやった分
◆註6
らじかのよかん
2017年11月15日 | 松田聖子ちゃん研究
松田聖子 愛にくちづけ その4 自分自身について
やだっ。
補強資料出てきたわ。
2018.12.03
◆補記もしたわよ。
エントリ立てるほどでもなから、ここに記すわ。
結構重要な内容なんだけども、短いからね、ここでいいわ。
2018.08.27
ちょっとぉ、応募総数聖子に盛られたわよ。
本稿敬称略
本放送は
1984年11月18日(日)放送『田原俊彦ひとつぶの青春』松田聖子ちゃんゲスト回
1)録音番組であることの確認及び録音日のおおよその推定
録音番組であることは周知だけど、雑誌記事(註1)からもわかる。
記事引用
-----引用--------
表題
『トシちゃんの
スペシャル・マンスリー』
(上 写真 幅90~100cmの机(中央に上からマイク下がる)はさんで向かい合う聖子,トシ)
11月は、毎回ゲストを迎えて、賑やかに番組を繰り広げてゆく。
18日は、歌謡界のトップ・アイドルで、この番組の元パーソナリティー,松田聖子を迎える。
彼女はトシちゃんの友人でもあり、ライバルでもあり、最近はまた共演するニュースが流れており、ナイス・カップルだ。
二人でミニ・ドラマを演じたり、聖子の英語版「野ばらのエチュード」があったりで、
初のダブル・ジョッキー。はてさて、どうなることでしょう?
----引用終わり-------
雑誌名はさだかでないが、「11月は…」との記載から月刊誌だとおもわれる。
月刊誌だと25日頃には発売日で、だとすると16~18日頃校了のはず。
またこの月刊誌とおぼしき記事の撮影/執筆時には、すでに録音完了だ。
それにしても狭いスタジオ。
ふたりの距離つか寸法を感じつつ録音聞くと泣けるよ。
なお、ラジオでのふたりの共演は、この前には無かった。(註5)
-----引用--------
と「ラジオでさあほんとこうして話すのってさあ」
せ「初めてじゃない?」
と「初めてじゃない?」
せ「初めて」
と「いつもさ。コメントは出し合ってるね」
せ「そ、コメントは出し合ってる」
と「そで、遊びに来いよとかねえ。会うたびにさ」
せ「そうそうそう」
と「そう。云ってるんだけどね、なかなか。
----引用終わり-------
今に至るもこの番組しかない。
だから当該記事の写真は、この番組の時にしか撮れない。
あら、やりとりがおうむ返しじゃない。
当時のふたりの親密さをよく表してるわね。
2)これより前には録音できない期間
トシが聖子ちゃんゲストの回の事前告知(放送日不明)をしている。
文字おこしされた方がある(註2)。
※聖子ちゃんゲスト回の文字おこし全文もある。
感謝感激である。
つべにあがってんやつからは編集削除された要部(註3)
「あなたはそういうところがいいのよねーやっぱり」
「やっぱり相手の人には、あなたみたいにこう威張ってて欲しいし♪」
「あたしもそういう人がいいな」
「かま、構ってもらいたいもんなのよ」
も記載あります。
-----引用--------
10月15日のTV「欽ドンスペシャル」で流れたね、僕と聖子チャンのCM、ずいぶんね、たくさんの方がなんか見ててくれてたようでね、こんなに反響があると思わなかったんですけどね、500通ほどお便りいただきまして、賛成派がおよそ9割、それから残りの1割がね、『絶対共演はイヤ!』っていう意見がありましてね、少し紹介してみたいと思うんでね、
(引用中略)
本当、僕もこの頃久しぶりでね、仕事場で聖子チャンと会ったことないんでね、
久しぶりに会って、すごく楽しかったしね、もう、プライベートでもね、一緒に次の日、ゴルフやってね、
遊んじゃったりとかしてね、もお、エンジョイできたんでね、久しぶりに、なんか、幼馴染の顔をね、
ゆっくり見れたって感じでね、とても、・・・ええ、まぁ・・・、公私共々、ね、楽しかったですね。
(引用中略)
えっ~、聖子ちゃんにね、一声掛けました!返事は・・・『いいとも~!』
というわけでね、決まりました! 11月のね、18日。松田聖子ちゃんをゲストにお迎えして、おおくりします。ラジオではね、初めての共演ということになりますんでね、さぁ、どうなるか楽しみなんですけどね、まずは、11月18日をお楽しみにしておいてください。
----引用終わり--------
つまり
1984年10月15日より後の録音→放送であることが確定する。
なお、
この告知放送自体は
「11月のね、18日。松田聖子ちゃんをゲストにお迎えして、おおくりします。」
と云ってるから、
10月にされたと考えられる。
1984年10月21日(日)または、
1984年10月28日(日)の放送だ。
あるいは、
10月に録音したので11月放送であるにもかかわらず、
ついうっかり「11月のね、18日。」と云った可能性もあるけど。
どちらにしろ大勢に影響なし。
また、「500通ほどお便りいただきまして、」との発言に注目したい。
聖子ちゃんゲスト回で以下の会話がなされている。
『ハッピーサンデー』がかかった後の会話
-----引用--------
聖:このスタジオにぴったりフィットって感じ♪
俊:んー
聖:この曲はーあの聞いてる皆さんに詩を(吹き出しそうになりながら)書いて頂いてね。
俊:んー
聖:3万通もねお寄せ頂いたんです。皆さんから。
俊:あ、ホントー♪そうなんだ。
----引用終わり--------
「3万通もねお寄せ頂いた」のだから、
もし1ヶ月間応募したとすると1000通/日の応募があったことになる。
応募2ヶ月間でも500通/日だ。
つまりこの番組はその程度の影響力はある。
しかるに
「500通ほどお便りいただきまして、」
で、CFの反響はたったの500通だ。
作詞は時間掛かるけど、感想は容易に書ける。
---2018.08.27 追記-----
ちょっとぉ、応募総数聖子に盛られたわよ。
1983年03月27日放送 松田聖子『ひとつぶの青春』最終回←リンク動画の該当部
文字おこし
せ
「この番組のテーマ曲『ハッピーサンデー』これにはですね。
仙台市のハセガワマユミさん 福岡市のフジタトシコさん、
そのほかたくさんの方から、リクエストをいただいてるわけなんですよね。
でこの曲は、この放送をお聞きのみなさんからえー送られた
(録音すん切れっぽい)
えー応募総数4874通の中から、最優秀作品として選ばれました、
埼玉県は川口市の、しゅふの方でございます、タカクワサナエさんの作品をもとに、
松本隆さんに作詞をしていただきまして。
えー財津和夫さんに作曲をしていただいたわけなんですよね↑
でこの曲が、それまでのテーマに変わっさっきありましたあのあれが最初のテーマだったわけですね。
で、あれが、えーその『ハッピーサンデー』に変わりまして、番組のオリリナルテーマ、として、
初めて流れたのが6月6日なんですね。
んえ、そのときをおもみだしながら、今日はですね『ハッピーサンデー』を、どーぞ」
無効票があって、有効票数4874通じゃないわよね、やっぱ。
んでも、初回放送が聖子の入院
1982年03月25日(木) 過労による急性胃腸炎で東京女子医大病院に入院
(※入院の遠因もつかんだわよ。後日この件やるわ)
1982年04月03日(土) 退院(▲10日間入院)
もあり
1982年04月11日(日)初回放送
なのよね。
んで
1982年06月06日(日)に『ハッピーサンデー』が放送されたんでしょ。
4月いっぱい募集して、
5月頭締切→4874通から選考→採用→作詞→作曲→編曲→オケ録音→聖子歌入れ→06月06日放送
って、どーゆースケジュールなのよ!!
まあいいわ。
とにかく1982年04月11日か1982年04月18日かに募集かけて、
半月で5000通でいいわね。
すると、333通/日だわ。
やっぱすごい数よ。
作詞でこれよ。
だからCFの感想くらい1000通/日じゃきかないわよ。
だって、トシと聖子よ。
云いたいことあるじゃない。
でも、
結論に変化ないわ。
-----追記ここまで----
すると、
1984年10月15日の夜にCF放送→葉書書く→翌16日に投函→近県分のみ17日にラジオ曲に到着
であれば、500通は辻褄が合う。
つまりこの告知放送の録音は17日が最速だ。
整理期間入れても、18日録音であろう。
よって、
1984年10月17日より前には、この告知放送分の録音もできないし、
聖子ちゃんゲスト回の録音も不可だろう。
(専業のアナウンサーならばできるかもしれないけど)
CF録りのときに「ゲストに来て」と依頼した可能性もあるしね。
「えっ~、聖子ちゃんにね、一声掛けました!返事は・・・『いいとも~!』」と云っているから。
なおゲスト回本放送のときに、
この告知聞いてのこーふんしたお葉書があってもよさそうなもんだが、
一枚も読んでいない。
(一万通は着たとおもふよ)
反響後の録音で無いことの現れだろう。
おそらくは、
告知放送分の録音と聖子ちゃんゲスト回の録音は同一日だったのではないか。
トシちゃんのスケジュールも非常にタイトだったのだから。
だから、聖子ちゃんゲスト回でグリコ記念CFについて、
----引用 註5--------
せ「ねー。うふっ。やりましたね」
と「CF」
せ「やりましたね」
と「もー今、流れてるみたいだけどね」
せ「流れてるみたいですけど」
と「また4年前のふんいきと違って」
せ「うーん、一番なんかあたし。(声が潤む)一番落ち着くみたい。一緒にいて」
と「落ち着くみたい?」
せ「(声が潤む)うーん。他の人より」
と「ぼくと?」
せ「そう。あっは」
------引用終わり--------------
と、「もー今、流れてるみたいだけどね」「流れてるみたいですけど」
確定的で無い発言になっているんじゃないかな。
なお、いくらなんでも、
----引用 註5--------
せ「うーん、一番なんかあたし。(声が潤む)一番落ち着くみたい。一緒にいて」
と「落ち着くみたい?」
せ「(声が潤む)うーん。他の人より」
と「ぼくと?」
せ「そう。あっは」
------引用終わり------
この部分は、
1984年10月06日(土)→07日(日)グリコ記念CF撮影 箱根ピクニックガーデン
の後でないとできない会話だ。
だって久しぶりに逢えたのが、このCF撮影の時だったんだわ。
んで且つ
1984年10月08日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ2時間スペシャル『あなた』
の後なの。
「あなたがいてほしい」とおもわず熱唱してしまったわ。
だからこの発言なのよ。
その上、番組冒頭に
-----引用--------(註3)
今日は二人で、そうですね、
じっくり将来のことなど話し合わなくっちゃ♪
------引用終わり------
であって、
ほんとにじっくり話し合ったのよ。
(後日ちゃんと解析するけど、
のりこさんは松田聖子やってる時には感情を表現しやすいわ。
それでも要請は、恥ずかしいからできない「チュン・チュルル・ル」なの)
2-2)補強資料
2018.12.03
見つけたわよ。
↓なんかほらこう、この前には録音してない感じよね、ぜったい。
1984年10月15日 夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハー卜のイアリング』61回目 黄パンツスーツ青シャツ
「先週1984年10月08日(月)」に『あなた』歌ったのよね。
---トーク部文字おこし---
ま「…ちゃん」
せ「はい」
ま「まあ今日は新曲、あんた頭どうしちゃったの?(以下段取りノイズで聴取不能)」(頭を指さす)
せ「あははんあは」(右手グーで口元/笑いをこらえる)
い「あのねえ。曲がねーえ」(両手腰にあてたまま)
せ(両腕前で伸ばし手を握る/註:聖子が何か決意して云うときのポーズよ)
ま「はい」
い「ハートのねイヤリング」
ま「はいはいはいはい」
い「だからねえちゃんと耳にやってますけどね」
せ(左手パーでを左耳にあてる)
ま「そうなのよ」
い「そんでほら、(腕組み)先週泣いたじゃない」
せ(ふっと吹き出すような)
い「そんでさあ。なんで泣いたんだろうって云われてさあ」
せ(アップ/うなずく。ちょっと困ったような顔/いを見る)
い「まーたね、じゅんがなんか云ったんだとかね、いろんなこと云われるのよ」
註:まっ確かにいろいろ云ったわね
せ(「ああーっ」て云うような口元/声聞こえず)
ま「どーしたの?」
(手でせの肩を強く抱き引き寄せる。せ引き寄せで少しよろける)
/以下プロモート開始まで抱いたまま
註:このをばさんは、純粋に勘違いしていることが判明してるわ
せ「いえ。もうやっぱり歌がすごく(うなずく/小声→)すてきだったから」(うなずく)
ま「うーん」
せ「はい」(大きくうなずく/云い切ったとい感じで顔をあげる/目大きいわね)
ま「うーん」
い「あっそいであのね」
註:いは、をばさんが余計なこと云わぬように畳みかけているようにみえるわ
せ(いを丸い眼で見あげる)
ま「うーん」
い「あのあきこちゃんもね(ピアノ弾く仕草)」
せ「はい」(大きくうなずく)
ま「うーん」
い「いっしょけんめ、弾いてくれたしね」
せ(大きくうなずく)
ま「それから気になる」
せ(一瞬顔がタイトになる)
ま「人がいたしねぇ」←註:ひな壇にの意
註:ほんものは楽屋で衣装替えよ
せ「あっはっは」(以下【声のない苦笑】に変わる)
い「あっ」
ま「ねぇー」
い「なんですか?」(スタッフを見、プロモート用の品を受け取る)
註:いは、をばさんが余計なこと云わぬように畳みかけているようにみえるわ
ま「いろいろあったわけなんですよーぉ」
註:そっちじゃない。
いろいろも何もナニも無いじゃない!!
会ってもないわよ。
せ(いの方だけを見ている)
い(まを完全無視/せと二人で新曲プロモートを始める)
註:どうも迎撃作戦に気づいたらしい気配があるのよ
/先週あんなにあおっていたのに/機を見るに敏だわ
↓
新曲プロモート
↓
歌はじめ
--------
これ↓
せ「あっはっは」(以下【声のない苦笑】に変わる)
は、未だ。
あのあれよ。
あなたと間で、
結論めいたものが出てない証拠だわ。
だから怖さもあるだろうけど、一種の余裕も感じるの。
【声のない苦笑】の表情がね、あのあれよ。
録音の後は、こんな余裕ないのよ。
余裕ない時期の文字おこし1984年11月05日(月)分もしてあるんだけど。
これはいいわ。
あんまりで載せる気にならない。
結論として、ここからも
1984年10月15日(月)より後で、
1984年11月05日(月)より前の録音の推定は完璧だとおもふわ。
更に1984年11月01日(木)(映画製作発表会見)より前も確定的だわね。
-◆--補記-2018.12.03--エントリ立てるほどでもなから、ここに記すわ--◆-
「そんな重大なこと、放送やら生放送で云うとでも? マサカうそでしょう」
それが、あれよ。
云うのよね。
1〉スケジュールがめちゃめちゃタイトでそもそも時間ない
収録とか生放送はいいチャンスなわけよ。
2〉「松田聖子」の時は、自身の感情表出の抑制をある程度緩めてる
※のりこさんご自身はかなり抑制的だとおもふの。
つか
「「松田聖子」は、よい感情であるならその表出を抑制しない」方針だとおもふわ。
(デビュー当初からこの方針は貫かれてる。このとき18歳よ。奇跡だわね)
だからあの超絶な感情移入や表現力が成り立っているの。
感動して泣くのもこれよね。
3〉だから表面的にでも松田聖子やってるときのほうが、
たとえ要求の示唆であったとしても云いやすいわ。
(例えばこの『ひとつぶの青春』収録は好例よね。ラジオだから表情も見られないですむし)
なの。
だから「松田聖子」という「芸名」で活動したのが、
それこそこう「松田聖子」をつくった一因と云えるわよね。
もし芸名にも適した本名であったら、松田聖子的な歌手は存在できなかったはずだわ。
◆--補記-終わり--◆-
3)絶対に録音できない期間
国内で且つKDDビル間借り時代のFM東京での録音つーのも、前掲の雑誌記事から確定してる。
だから、聖子ちゃんが海外に行っている間には録音不能。
この近辺で海外渡航期間は以下の通り。
1984年10月21日 ニューヨーク レコーディング
↓
1984年10月29日 帰国
1984年11月08日 映画撮影のためにメキシコへ出発
↓
1984年11月29日 帰国
11月はまあ無理。
10月も20日より前でないといけない。
-------------------------------------
以上から、
1984年10月17日乃至10月18日録音しかないのだ。
おおまけにまけても、海外渡航からして10月17日~20日だ。
もし20日だったとしても以下に述べる大勢に影響は無いけどね。
さて、
この頃の聖子ちゃんを年表風にまとめよう。
出演した番組、基本は生放送。
まぎれもなくその日だと確定するからね。
録音録画分は、収録日/放送日の別に記してある。
(聖子ちゃんが急に腕組みした
ヤングアジア音楽祭『愛と青春の旅立ち』も同様にふかぁーく推定して入れたから)
2023.08.16追記
ヤングアジア音楽祭収録日確定。
あとコンサートも確定だから書く。
リンク切れあるかもしんないが、一応つべのリンクはっておこうかな。
●------↓この時期の聖子ちゃん年表↓-------●
1984年10月04日(木) ザ・ベストテン『ピンクのモーツァルト』6位
1984年10月06日(土)→07日(日)グリコ記念CF撮影 箱根ピクニックガーデン
「一緒に次の日、ゴルフやってね、遊んじゃったりとかしてね…」
「・・・ええ、まぁ・・・、公私共々、ね、楽しかったですね。」
1984年10月08日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ2時間スペシャル『あなた』
2018.12.04
註:やだっーーー。
歌い終わりで左右見回し「あなた」の姿を探してるわよ。
「私の横には あなた あなた あなたがいてほしい」を聴いてくれたかとおもって。
こんなに好きだったのに……
(1984年10月11日(木)ザ・ベストテン『ピンクのモーツァルト』着外)
1984年10月15日(月) 夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハー卜のイアリング』61回目 黄パンツスーツ青シャツ
「いえ。もうやっぱり歌がすごく(うなずく/小声→)すてきだったから」(大きくうなずく)
「はい」(云い切ったとい感じで顔をあげる)
同日
1984年10月15日(月) グリコCM4年ぶり放送(1984年10月06日(土)録画分放送)
1984年10月17日(水)乃至
1984年10月18日(木)『田原俊彦ひとつぶの青春』松田聖子ちゃんゲスト回録音
(10月19日又は20日の可能性もある)
前半/後半
(1984年10月18日 ザ・ベス卜テン『ピンクのモーツァルト』16位着外)
1984年10月21日(日) ニューヨーク レコーディング
↓(1984年10月25日 ザ・ベス卜テン『ピンクのモーツァルト』着外)
1984年10月29日(月) 帰国
1984年11月01日(木) 19thシングル『ハートのイアリング』,ベスト・アルバム『Seiko・Town』発売
同日
(1984年11月01日(木)ザ・ベストテン着外)
同日
1984年11月01日(木) 主演映画4作目『力リブ・愛のシンフォ二ー』製作発表
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P147
-----引用---【】印引用註------
会見は映画のことはそっちのけで、質問は、私の結婚問題に終始していた。
そのころは、【すでに私が結婚についてある決意】をしていた時期だった。
それに反して、集まった人々は、結婚することはあまりにも当然のこととし、
その上に立って発表の時期ばかりを聞いていた。
----引用終わり--------
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P168
-----引用---
大きな別離を迎えた女性は、長いあいだずっと恋愛をしないか、
またすぐに新しい愛をはぐくむかのどちらかだろうと、
別れの結論を出したときに考えたことがある。
----引用終わり--------
1984年11月03日(土)九州厚生年金会館「Magical Trump」
1984年11月04日(日)福岡サンパレス「Magical Trump」
1984年11月05日(月)2023.08.16確定 年表要部に変更無し
ヤングアジア音楽祭『愛と青春の旅立ち』録画
腕組み←リンク要部
1984年11月05日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』赤パンツスーツ黒シャ
司会者に四の五の云われてるわ。
文字おこししたが書く気にならん。略。
1984年11月08日(木)映画『力リブ・愛のシンフォ二ー』撮影のためにメキシコへ出発
↓
1984年11月15日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』10位 録画出演
久米(要旨)「先週からロケに行っている。先ほど届いたビデオ」
※註:このビデオ収録が「食中毒事件」の前だから時系列整合させた
↓
1984年11月15日1800時頃~日本時間
1984年11月15日0400時頃 現地時間 聖子ちゃん食中毒事件 発症→救援要請
1984年11月15日0900時頃 現地時間 処方薬服用
1984年11月15日2000時頃 現地時間 日本人医師診察
↓
(1984年11月16日(金)午前11時50分頃 世田谷ケーブル火災)
1984年11月18日(日)田原俊彦ひとつぶの青春 聖子ちゃんゲスト回放送
↓
1984年11月22日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』3位 録画出演
現地中継/共演者と共に
↓
1984年11月29日(木)帰国
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P163-164
------引用-----
私がある別れをひそかに考え始めてから、夏、秋、冬へと三つの季節が通り過ぎていた。
そして彼に出合った。それまで愛に臆病になっていた私の心から、ほとばしり出るものがあることだけは、かすかに感じていた。
帰国後、私は、すぐさま現実に引き戻された。はるか海と大陸を隔てたメキシコでは忘れることができたが、日本では私の結婚問題をめぐる報道は、異様なほど過熱していた。
メキシコでの最後の夜、
「声が聞きたくなったら、連絡するよ」
と彼はいった。
けれども、このまま電話はないかもしれないと思った。女性である私のほうから電話することは、やはりためらわれる。
もし、このまま連絡がなければ、メキシコでの思い出の日々は、過ぎゆく秋のなかへひっそり閉じ込めよう。これからは、ひとりで生きてゆこう……帰りの飛行機のなかで、私はそう決心していた。
ひとつの賭けだった。
------引用終わり-----
1984年11月29日(木)ザ・ベス卜テン『ハートのイアリング』2位パーマ赤スーツ黒シャツ落ち葉犬「ごめん」
おみやげを徹子,久米にあげてる。
三週間行ってきたと云ってる。
以下MC部分文字おこし
---文字おこし---
徹子「ところで中毒事件があってねえ。あなたは?」
聖子「食中毒。あの水がちょっと合わなくて」
徹子「あっ」
聖子「ええ。えもあの。そんなにひどくなかったし。大丈夫でした」
徹子「そうでしたか。なんかあなたは日本のものを召し上がってらっしゃるんですかちらでは」
聖子「ええ。ですから、あのーお米を持って行って、炊飯器でご飯を炊いて」
徹子「ああ。ぱ日本食が無いとダメ」
聖子「はい」
徹子「あちらでは瓦斯の大爆発があって大変だったりしたんですけど。日本でも火事があって世田谷のほうが」
※世田谷ケーブル火災1984年11月16日金曜日午前11時50分頃
聖子「そなんです。ウチの方がちょうどダメになって」
久米「あらっ」
聖子「電話が通じなくなりまして。はい」
徹子「お母様から、あーお電話があったとかそういうことは?」
(聖子伏し目がち)
聖子「ええ。最初はあったんですけど。ずーっと使えなくなっあって。んで直ったらすぐ電話がありまして」
徹子「ああそう。どんなお話し」
久米「○○聞きたいねえ」
徹子「どんなお話しえした?」
聖子「身体のことをやっぱり心配していました」
徹子「ああそうー。久しぶりで歌って戴くんですけど、いかかですか」
聖子「緊張します。(徹子見てほほえむ)なんか間違えそうで。いつものことなんですけど」
徹子「まあ今日はまた真っ赤なかわいいお洋服で。じゃあお願い。あらっ」
聖子「あーあはっは」
久米「今日はえすねえ。帰ってきたばかり。さっき夕方日本にお着きの、松田聖子さんなんですが。
日本の秋を満喫して戴こうというわけで。
東京の神宮の銀杏の落ち葉を沢山集めてまいりまして。たっぷりと秋を味わっていただきたいとおもいます。
かわいいお友達も一緒でございます。それではどうぞ」
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P166
---引用-------
帰国したその夜、思いがけず、彼から電話があった。
「見たよ」
帰りの飛行機の中で「今夜、テレビに出るから見ててね」といった私の言葉に対する返事だった。
---引用終わり----
1984年12月03日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』63回目 紫パンツスーツ黄シゃつ
1984年12月06日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』2位
1984年12月08日(土)10thアルバム『Windy Shadow』発売
1984年12月10日(月)ザ・トップテン『ハートのイアリング』
1984年12月13日(木)ザ・ベストテン『ハートのイアリング』4位紫パンツスーツ黄シゃツ忠臣蔵セット
田原俊彦『ラストシーンは腕の中で』5位
ふたり腕組みしてガラスドアを出て来たらしい 「はいポーズ」の記念写真 註4
1984年12月15日(土)武道館18:30開演 Seiko Golden Juke
主催ニッポン放送/サンミュージック/キョウドー東京 3000円
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P166
---引用-------
そして、十二月十五日に、彼は武道館のコンサートに来てくれたのだった。
---引用終わり-------
1984年12月16日(日)武道館14:30開演 Seiko Golden Juke
テレ朝放送用の収録あり
主催ニッポン放送/サンミュージック/キョウドー東京 3000円
1984年12月17日(月)ザ・トップテン『ハートのイアリング』紫背広黄シャツ髪バクハツ無し
今年の聖子ちゃん年間海外渡航一覧フリップ有り
「ちょうどメキシコの時に世田谷の電話が繋がらなくって。知らなかったんですよ。何回かかけてもウチに通じなくて。心配しました」
「来年は、まず2月に約一ヶ月ニューヨークにレコーディング」
(1984年12月17日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ放送日 ※出演無し)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1984年12月20日(木)ザ・ベス卜テン『ハートのイアリング』4位先週と同じ黄スーツ青締シャツ頭かわいいショート
1984年12月21日(金)
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P167
---引用-------
十二月二十一日は彼の誕生日。あれこれ考えた結果、とにかく手作りのものを贈ろうと決めた。
私に出来ることと云えば……。街に出て、クリーム色の毛糸をたっぷり買い集めた。
21日までに完成させるとすると、セーターのつもりがベストになってしまった。
春らしい淡いクリーム色のベストが編み上がった。
誕生日ぎりぎりに完成したそのベストにリボンをかけ、彼にプレゼントした。
---引用終わり----
1984年12月24日(月)夜のヒッ卜ス夕ジオ『ハートのイアリング』64回目 白パンツスーツ黒シゃ
「さよならと…」以下で目が潤む
2番サビ
「優しく叱ってよ 素直じゃ無いわたし」
ジャケッツの合わせの下を持ち、がばっと左肩をはだけシースルー黒シャツ肩を出す。
「すばやーく」でしまう。
歌唱後笑ってる。
としちゃん居る
1984年12月25日(火)大阪城ホール「Golden Juke」
1984年12月26日(水)大阪城ホール「Golden Juke」
1984年12月26日(水)尾崎亜美にシングル詞曲依頼
1984年12月27日(木)『天使のウインク』上がり
1984年12月27日(木)ザ・ベストテン豪華版『ハートのイアリング』4位 オフで欠場
1984年12月31日(月)「紅白歌合戦」に『Rock'n Rouge』5回目
これのトーク部文字おこししたけどさ。
あんまりだ。
開けて--------1985年-------------
1985年01月のことは、
1985年03月03日放送『松田聖子 愛にくちづけ』でお話ししてる。
また、わたしの文字おこしあるからそっちも見てください。註6
更に未確定部分多くて年表にならない。
確定部分のみ一部だけど記載する。
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
P167
---引用-------
(お正月は)
私も偶然、ハワイでCM撮影の仕事が入っていた
---引用終わり----
(1985年01月03日(木)ザ・ベストテン放送無し)
1985年01月09日(水)愛知県体育館「Golden Juke」
(1985年01月10日(木)ザ・ベストテン『ハートのイヤリング』6位 オフ欠場)
久米「松田聖子さんはですねえ、えーオフのために今日お休みでございまして」
徹子「あらー」
久米「おこし戴けない」
徹子「(暮れの)豪華版のときもお休みでしたねえ」
久米「そうあれは去年の最後の方のオフで今日は、今年最初方のオフでお休みでございますして」
ふたり「ほんとうにすいませーん」
1985年01月12日(土)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1985年01月14日(月)夜のヒットスタジオ『天使のウィンク』65回目 白レース長袖ドレス
結婚前の夜ヒット最後の出演
(1985年01月17日(木)ザ・ベストテン着外)
1985年01月18日(金)
(後日大幅に気が向いたら補充するかもしれない)
1985年01月19日(土)倉敷市民会館「Golden Juke」
1985年01月20日(日)島根県民会館「Golden Juke」
以下略
●---------------年表終わり-----------------●
人生的に危機的な状況下で、すさまじゐスケジュール。
正直で嘘つかないな方だから、およそ二股なんてことはあり得ない。
歌聴けばわかることだけど。
-----------------------------------------
参考文献
◆註1
美波風の風天ブログ
2011-12-17 16:40:23
田原俊彦、明日は高山DSダンス小僧(^^)&爆報&懐かし記事
1984年04月03日 新宿厚生年金会館で行われたトシちゃんコンサートの舞台に聖子ちゃんを上げたときの記事もある。
場内を埋めた女性ファンから「聖子!」コールがおこったつーあれだ。
◆註2
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2012年06月05日(火)
【聖(・з・)(・ε・)俊】今週は聖俊weekだ!ひとつぶの青春こぼれ話
◆註3
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2015年08月25日(火)
【聖(・з・)(・ε・)俊】ひとつぶの青春のまとめっぽいもの2
◆註4
ともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~
2012年01月28日(土)
【聖(・з・)(・ε・)俊】ファン専用画像⑩と「ひとつぶの青春」総括
◆
神田法子 著 『聖子』
昭和61年1月10日 第1版第1刷
昭和61年1月20日 第2刷
発行所 小学館
◆註5
らじかのよかん
2017年10月15日 | 松田聖子ちゃん研究
赤いスイー卜ピー
※前記全文文字おこしを知らないので、おもわず自分でやった分
◆註6
らじかのよかん
2017年11月15日 | 松田聖子ちゃん研究
松田聖子 愛にくちづけ その4 自分自身について