「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」では多くの方が、
「最後に色川・阿佐さんに会ったのは…」としている。
別冊・話の特集の発行が逝去の3ヶ月後なので、記憶は鮮明とおもわれる。
本項は、
以下のエッセイなどから日付,事柄を抽出し、
日付順に並べ替えたものである。
出典
1989年05月31日 竹書房
「近代麻雀オリジナル増刊号 阿佐田哲也 雀聖追悼特集号」定価880円(本体854円)
(3件しかない)
1989年07月10日 話の特集社
「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」定価1,030円(本体1,000円)
(ほとんどはここから)
1989年05月号初出 現代 講談社
「好色つれづれ日記(其の弐)」(絶筆) 色川武大
1989年12月15日第一刷 文藝春秋
「ばれてもともと」色川武大 に収録
(1989年03月08日~10日まで?)
日付不明(○月上旬など)は、推定で配置。
同一日のものは、月日略して直下に配置。
出典は、氏名の後に近代麻雀,話の特集,好色つれづれ日記などとする。
明らかな誤記は修正した。
前後関係から明らかな東京~一関の移動も入れた。
1989年03月17日~04月02日の間に、東京一関間を二往復半している。
2024_10_31_追記
追悼エッセイ著者が、色川武大をなんと呼んでいるかを、色川さん,阿佐田さんなどと出典の後に追加した。
また、黒鉄ヒロシの項に誤記あったので修正した。
1988年--------
1988年初夏
永六輔 話の特集 色川さん
一関の「ベイシー」で、色川邸という設計図を見た。
僕も、その時は一関に来ることになっていました。
そこにマルセ太郎を誘っておこう、それを黙っていて、色川さんを客席に案内しようか
1988年09月08日(木)
立松和平 話の特集 色川さん
海燕新人賞選考会
選考委員
色川武大、大庭みな子、田久保英夫、立松和平、古井由吉
新宿の酒場で夜明けを迎えた
色川、立松、編集部寺田、編集部田村
1988年12月29日(木)
嵐山光三郎 話の特集 阿佐田さん
×立川競輪場オールスター戦
(引用注:KEIRIN グランプリ)
黒鉄ヒロシと一緒
1988年12月
宮崎三枝子(ホワイト主人) 話の特集 色川さん
昨年暮れボディ&ソウルの京子さんと三人で中国料理をご一緒した
1989年01月---------------------
01月01日(日)?
二所ノ関正裕 話の特集 先生
長門裕之宅で”元旦雀”
01月01日~09日?
横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
「引越貧乏」脱稿直前
成城のお宅で深夜”豚しゃぶ”を御馳走になる
一関では約束の原稿のない、放浪しながら自律的な執筆活動に入りたい。
01月10日(火)
横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
「引越貧乏」完成
01月28日(土)
山口瞳 話の特集 色川さん
京王プラザホテル
第1回将棋ペンクラブ大賞授賞式
一関に引っ越すという話を聞いていたので、そのことを訪ねると
「資料だけですよ」と言う。
「あそこにはベイシーって店があるけれど……」
「そのベイシーの話で行くことになったんですよ」
六十歳(年男・還暦)になるので心機一転したいという意味のことを言っていた。
「みんな借家でしょう。『麻雀放浪記』の印税はどうしたの?」
「みんな使っちゃった」
「しょうがねえなあ」
どうも俺ナルコレプシーじゃないらしいんだ。
「単なる不眠症かもしれない」
1989年02月------------------------
02月
川村二郎 話の特集 色川武大氏
讀賣文学賞授賞式
02月
色川孝子 話の特集 あの男,彼
酔っ払って帰って来て、私の膝の上にデンと乗っかったかと思うと何時間も降りずにいろいろなことを喋っていました。
(引用注:成城の色川邸でのことなのか、二十坪の建売住宅でのことか不明)
02月
黒柳徹子 話の特集 色川さん
博品館で『ニノチカ』という芝居をやっていて、それを見に来て下さった。
(引用注:博品館劇場・劇団NLT提携公演ニノチカペレストロイカ万々歳 01月25日(水)~02月06日(月)
作:メルヒオール・レンゲル 演出:飯沢匡 黒柳徹子、立川三貴、賀原夏子)
「芝居のほうが映画よりさきで、こんなに面白いとは知らなかった!」
六本木で中国料理をたべようという事になって、私の運転する車でギッウズメになって行った。
大山のぶ代、砂川啓介、十朱幸代、飯沢匡
「二十一世紀になるときは、生きて見ましょうよ」
色川さんがぽつりと
「僕は無理だな」
02月10日(金)
藤野健一(「オール讀物」編集長) 話の特集 色川さん
(打ち合わせ 対面か電話か不明)
なくなるちょうど二ヶ月前
一関に越したら大きな仕事にとりかかりたい
当分オールに書けそうにない
ひとつ面白いアイディアがあるんだが……
02中旬
岸田今日子 話の特集 色川さん
つかこうへいの芝居に出ていたら観に来てくださった。
楽屋の入口からちょっと離れた所に一人で立って、もじもじして
「とても面白かった」とおっしゃった。
二人だけで四谷のおすし屋さんに行った。
こんなことは初めてだった。
イカのハラワタをつまみながら戯曲を書くつもりだとおっしゃった。
出版社に近い宿屋で仕事をすることになっていたというのに、十二時すぎてしまって、
一台だけつかまったタクシーにわたしを乗せると、ニコニコしておすし屋さんののれんの前に立っていた。
岸田今日子 近代麻雀 先生
この2月に芝居を観に来て頂き二人で食事をしました。
二人きりでというのは、これまで一度もなかったことなのですが、最初で最後になってしまいました。
02月25日(土)
大山のぶ代 話の特集 色川さん
フランクシナトラを聴きに行ったのが最後
大山や毒蝮三太夫に
「あっちへ(岩手方面)行くことがあったら連絡してよ。電話番号はまだ覚えてないけど」
と住所を書く。
1989年03月-----------------------
03月
1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」
「あとがき」執筆
平成元年三月
03月01日(水)
山藤章二 話の特集 色川さん
立川談志主催の「超二流会」
フランキー堺の「フランキー講談」を楽しむ
大山のぶ代 話の特集 色川さん
×03月終わりに
(引用注:日付誤り)
立川談志主催の「超二流会」
フランキー堺の「フランキー講談」
03月07日(火)まで?
青柳賢治 近代麻雀 先生
フラリと行ったらちょうど送別会をやっていた。
青柳賢治(プロ雀士) 話の特集 先生
×01月終わり頃
(引用注:日付誤り)
成城のお宅へ来訪
引っ越し準備ほとんど完了
後藤、川上宗薫夫人、黒川、元秘書アン
鍋物、お酒、ビール
引っ越しの送別会のようであった。
「こんどの家は部屋がたくさんあるから、いつでも泊まりにいらっしゃい」
03月08日(水)? 上野駅前和風旅館泊
色川武大 好色つれづれ日記
上野駅前和風旅館 三畳の部屋
家賃支払先
一関の借家 トイレと風呂場修繕のため入居できず
東京の仕事場マンション 内装工事のため今月いっぱい入居できず
元の東京の借家 荷物がいくらか残存している
カミサンは大分前に小さな建て売り住宅を買いそこに一人住まい
(引用注:01月10日(火)脱稿
初出1989年02月号 小説新潮 色川武大「引越貧乏」に、二十坪の建売住宅の記載あり。
1989年07月10日初版 新潮社「引越貧乏」の見返しに、小さい文字の「引越貧乏」原稿写真あり。
大きな字で書いている余裕がなくなったのであろう。
また、二十坪の建売住宅とおもわれる建物が、
2008年03月「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で放映されたはずだ)
カミサンが和風旅館三畳間に下着持ってくる
二人で根岸の洋食”香味屋”に行く
カミサンはハンバーグを食べる
03月09日(木) 浅草ビューホテル泊
色川武大 好色つれづれ日記
浅草おかみさん会主催、常磐座のショー日替わりゲスト出演。
浅草ビューホテルに投宿
編集者Hと”藪蕎麦” 菊正冷酒でせいろ。
”梅むら”豆かん(一人前三百五十円)楽屋土産
金竜館横ハトヤで小憩
常磐座出演
松屋裏”香とり”カキフライ冷奴
樋口修吉 話の特集 色川さん
の聞いた03月のうわさ
高橋伸の店に訪ねてきた
「あっ、伸ちゃん、俺、色川。
今ビューホテルにいて暇だから、これから遊びに行こうと思うんだけど、いいかい?
たださ、あんたも知っているように、俺は人見知りするから、初対面の人がいるといやなんだけど……」
高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生
午前3時過ぎまで痛飲
「ビューホテルだから大丈夫! 近いからね!」
ビューホテルの部屋から眺めた浅草の街が
「ビルが変に墓石みたいにみえるよ、死んだ街だね!」
03月10日(金) 浅草ビューホテル泊
色川武大 好色つれづれ日記(其の弐)
ビューホテル15階から夜明けの東京東部を見る。
朝靄の中に立って居るビルが墓石のように冷めたく不吉に見える。
昼めし”天藤”天丼
常磐座昼夜二回公演
”香とり”
理性をすべて失い”さと”。
高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生
シミキン一座にいた、逗子とんぼと出版社の村尾とでにぎやかな話
03月
吉行和子 話の特集 色川さん
ちらっとお会いした。
「いかがですか」
「東京は墓場のようですね」
03月中頃
矢崎泰久 近代麻雀 阿佐田さん
電話で「メシでも喰おう」と誘われた。
樋口修吉 話の特集 色さん
矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び
03月11日(土)~?
東京→移動→一関
03月17日(金)までの間
一関→移動→東京
03月17日(金)の
小田島雄志「色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであること」による
03月17日(金) 不明ホテル泊
小田島雄志 話の特集 色川さん
誕生日恒例の「すしが食いほうだい」会
四谷のすし屋に入ると
せがれとそのフィアンセと女房と、もう一人いた。
色川さんだった。
色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであることを説明した。
いつもの四倍、五倍はしゃべった。
二時間ほどして
「じゃ、これから衣公子のところへ(銀座・まり花)へ」
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
夜に「まり花」
「仕事は終わったんですけどね。花月園がね」
(引用注:日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場)
「その間、ずっとホテル住まいですか」
「そのつもりです」
「ホテル代なんて不経済ですよ。その分も弾にして花月園に撃ち込んだらどうです」
拙宅を宿に使ってもらうように勧誘
03月19日(日) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
「お世話になります」と電話をもらった。
昼は競輪場通い、夜は二部屋に別れて仕事。
いやがる阿佐田さんをミ無理矢理にお風呂にいれたり
以後24日まで一週間の合宿生活。
樋口修吉 話の特集 色川さん
の聞いた03月のうわさ
黒鉄ヒロシの家に泊まって競輪に行った。
03月20日(月) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月21日(火) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月22日(水) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月23日(木) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月24日(金) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
三遊亭夢楽 話の特集 阿佐田さん
花月園競輪場特観席
黒鉄ヒロシも一緒
03月25日(土)
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
講談社に行く阿佐田さんと六本木で別れた。
03月25日(土)~26日(日)
東京→移動→一関
03月26日(日) 一関滞在
中村誠一 話の特集 色川さん
一関の「ベイシー」
菅原昭、美人、色川さん
色川さんの持薬を2錠頂いて飲んでしまった。
(引用注:リタリン?)
すし屋 フカヒレずし→ベイシー
→色川さんの家 アート・ブレイキーとセロニアス・モンクのビデオ
03月27日(月)~30日(木)
一関→移動→東京
03月30日(木) 帝国ホテル泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
夜
阿佐田さんは「まり花」のシートに座って居た。
「帰らなかったんですか」
「いろいろと……」
(引用注:03月25日~26日一関に行き、03月27日~30日また東京に戻った)
「だったら居てくれれば良かったのに。どこに泊まっているんです」
「帝国ホテル」
03月31日(金) 帝国ホテル泊
大沢アン(元秘書) 話の特集 師匠
帝国ホテル
その日は珍しく誰も来客がなく、ひしさしぶりに二人だけでのんびり雑談
(引用注:「誰も来客がなく」といっているので、部屋でだろう)
樋口修吉 話の特集 色さん
04月01日0230時頃
帝国ホテルロビー
「ねえ色さん。この前伸さんのところへ行ったでしょ。とんかつ屋の」
上目遣いに私を見る。
一関の住所と電話番号を書いた。
1989年04月-----------------------------
04月01日(土)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
「小説現代」新人賞選考会終え 一関へ
花柳幻舟 話の特集 色川さん
東京で食事
2日後に電話で入院を知る
悲報はその2日後(引用中:日付誤り)
朝堀正元 話の特集 色川
04月02日の夜、色川から架電
(引用注:04月02日には一関にいるから「明日(04月03日)の新幹線」はない、04月01日であろう)
明日の新幹線で一関に帰るが…
一度遊びにきてくれ
04月01日(土)~02日(日)
東京→移動→一関
04月02日(日)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
岩手放送テレビ水沢競馬中継ゲスト
夕刻ベイシーへ戻る。
色川のおごりで六名ほど造り酒屋の和風レストランで夕食会。
2300頃色川を自宅へ送る。
04月03日(月)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
2000近く
色川からベイシーに電話。具合が悪い。
村田はバイクで先行、医師を車に乗せ色川宅へ。
診察
心筋梗塞の疑い
救急車を呼ぶ
一関病院にも電話、帰宅していた医師を病院で待機。
2100頃救急車
一関病院搬送
2230頃 瀬峰病院に移送決定
東京の孝子夫人へ二度目の電話
2300 一関病院出発
2400 瀬峰病院到着
集中治療室
孝子に三度目の電話 明日0600新幹線→0900頃には到着の段取り
小原徹也(医師) 話の特集 色川さん
2000少し前ベイシーの菅原昭二から色川の具合が相当に悪いの報を受け菅原とともに往診
咽頭軽く発赤、不整脈、血圧180~190
胸部腹部所見に異常を認めず
心筋梗塞が最も疑われたのでポータブル心電計検査
典型的な新鮮な心筋梗塞を示す心電図
「心筋梗塞の疑いが最も強いので、絶対安静が必要であり、入院を要する」と告げる
救急車で一関市内の総合病院に入院
一時不整脈が消失したが、二時間後再び出現したので、宮城県瀬峰病院に転院
04月04日(火)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
0900 玄関に孝子迎え
医師の説明
今度が二度目の心筋梗塞、心臓の半分がやられた。次にやると非常にあぶない。
徹底的に治療する。油断しないよう。
絶対安静、面会謝絶
菅原、一関に戻る
04月05日(水)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
ベイシー定休日なので、翌06日昼頃まで病室にいた
04月06日(木)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
夜見舞い
すこし楽になった様子
「いや、昨日までに比べたら天国みたいなもんですよ」
04月07日(金)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
大雨
郵便物、FAX、見舞いの花など積んで瀬峰病院
04月08日(土)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
元気そう
シャーベットが食べたいというので、ジュースを凍らせたもの持参
食べて「仕合せ」と言う。
04月09日(日)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
前日に色川が
「大丈夫ですから、どうぞお店やってください」
と言うので、昼からベイシー開店
夜中に見舞う
「今日はね、とても気分が良くってね。お店どうでした?」
いろいろ会話
「それじゃあ、お休みなさい。また明日……」
と言い胸のあたりで手を振ると、手のひらをこちらに向けて軽く振った。
04月10日(月)
逝去
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
朝孝子から電話
04月11日(火)
山口瞳 話の特集 色川さん
色川さんの通夜は新宿矢来町の生家で行われることになった。
04月13日(木)
葬儀 新宿「千日堂会館」に800名以上参列
当時のテレビに写った参列者の方々(一部/順不同)
黒柳徹子、山田邦子、篠山紀信、貴花田(貴乃花)、阿木陽子、永六輔、
奥田瑛二、安部譲二、花柳幻舟、杉浦直樹、冨士真奈美、岸田今日子、
高品格、長門裕之
弔辞「別れの言葉」丸谷才一(「次郎長放浪記」阿佐田哲也 中公文庫1986年の解説は丸谷才一)
弔辞 長門裕之
-------------
エッセイ執筆をお願いできない方々とか、
そもそも「話の特集」編集長矢崎泰久が知らない方々もいるだろうから、
前掲が色川・阿佐田の行動のすべてではない。
特に1989年03月に激しく動いているように見えるけど、
逝去と各人エッセイ執筆時期が近いからよく記憶しているのであって、
おそらく平素からこの勢いで人に会っていたとおもわれる。
意外や色川さんと呼んでいる方が多い。
そのような方に追悼エッセイ依頼したのかもしれない。
阿佐田さんと呼んでいるのは、
嵐山光三郎 話の特集
矢崎泰久 近代麻雀
黒鉄ヒロシ 話の特集
の各氏である。
このうち矢崎泰久は、近代麻雀なので阿佐田さんと呼んでいるのであって、
樋口修吉 話の特集によると、
矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び
とのことである。
よって、阿佐田さんと呼ぶのは
嵐山光三郎 話の特集
黒鉄ヒロシ 話の特集
となる。
これらの記載からは、
最後の麻雀は、
01月01日(日)? 長門裕之宅で”元旦雀” ということになる。
最後の競輪は
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 黒鉄ヒロシ宅泊 だ。
おそらく最後の博打はこの競輪だろう。
「最後に色川・阿佐さんに会ったのは…」としている。
別冊・話の特集の発行が逝去の3ヶ月後なので、記憶は鮮明とおもわれる。
本項は、
以下のエッセイなどから日付,事柄を抽出し、
日付順に並べ替えたものである。
出典
1989年05月31日 竹書房
「近代麻雀オリジナル増刊号 阿佐田哲也 雀聖追悼特集号」定価880円(本体854円)
(3件しかない)
1989年07月10日 話の特集社
「別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の世界」定価1,030円(本体1,000円)
(ほとんどはここから)
1989年05月号初出 現代 講談社
「好色つれづれ日記(其の弐)」(絶筆) 色川武大
1989年12月15日第一刷 文藝春秋
「ばれてもともと」色川武大 に収録
(1989年03月08日~10日まで?)
日付不明(○月上旬など)は、推定で配置。
同一日のものは、月日略して直下に配置。
出典は、氏名の後に近代麻雀,話の特集,好色つれづれ日記などとする。
明らかな誤記は修正した。
前後関係から明らかな東京~一関の移動も入れた。
1989年03月17日~04月02日の間に、東京一関間を二往復半している。
2024_10_31_追記
追悼エッセイ著者が、色川武大をなんと呼んでいるかを、色川さん,阿佐田さんなどと出典の後に追加した。
また、黒鉄ヒロシの項に誤記あったので修正した。
1988年--------
1988年初夏
永六輔 話の特集 色川さん
一関の「ベイシー」で、色川邸という設計図を見た。
僕も、その時は一関に来ることになっていました。
そこにマルセ太郎を誘っておこう、それを黙っていて、色川さんを客席に案内しようか
1988年09月08日(木)
立松和平 話の特集 色川さん
海燕新人賞選考会
選考委員
色川武大、大庭みな子、田久保英夫、立松和平、古井由吉
新宿の酒場で夜明けを迎えた
色川、立松、編集部寺田、編集部田村
1988年12月29日(木)
嵐山光三郎 話の特集 阿佐田さん
×立川競輪場オールスター戦
(引用注:KEIRIN グランプリ)
黒鉄ヒロシと一緒
1988年12月
宮崎三枝子(ホワイト主人) 話の特集 色川さん
昨年暮れボディ&ソウルの京子さんと三人で中国料理をご一緒した
1989年01月---------------------
01月01日(日)?
二所ノ関正裕 話の特集 先生
長門裕之宅で”元旦雀”
01月01日~09日?
横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
「引越貧乏」脱稿直前
成城のお宅で深夜”豚しゃぶ”を御馳走になる
一関では約束の原稿のない、放浪しながら自律的な執筆活動に入りたい。
01月10日(火)
横山正治(「小説新潮」編集長) 話の特集 色川さん
「引越貧乏」完成
01月28日(土)
山口瞳 話の特集 色川さん
京王プラザホテル
第1回将棋ペンクラブ大賞授賞式
一関に引っ越すという話を聞いていたので、そのことを訪ねると
「資料だけですよ」と言う。
「あそこにはベイシーって店があるけれど……」
「そのベイシーの話で行くことになったんですよ」
六十歳(年男・還暦)になるので心機一転したいという意味のことを言っていた。
「みんな借家でしょう。『麻雀放浪記』の印税はどうしたの?」
「みんな使っちゃった」
「しょうがねえなあ」
どうも俺ナルコレプシーじゃないらしいんだ。
「単なる不眠症かもしれない」
1989年02月------------------------
02月
川村二郎 話の特集 色川武大氏
讀賣文学賞授賞式
02月
色川孝子 話の特集 あの男,彼
酔っ払って帰って来て、私の膝の上にデンと乗っかったかと思うと何時間も降りずにいろいろなことを喋っていました。
(引用注:成城の色川邸でのことなのか、二十坪の建売住宅でのことか不明)
02月
黒柳徹子 話の特集 色川さん
博品館で『ニノチカ』という芝居をやっていて、それを見に来て下さった。
(引用注:博品館劇場・劇団NLT提携公演ニノチカペレストロイカ万々歳 01月25日(水)~02月06日(月)
作:メルヒオール・レンゲル 演出:飯沢匡 黒柳徹子、立川三貴、賀原夏子)
「芝居のほうが映画よりさきで、こんなに面白いとは知らなかった!」
六本木で中国料理をたべようという事になって、私の運転する車でギッウズメになって行った。
大山のぶ代、砂川啓介、十朱幸代、飯沢匡
「二十一世紀になるときは、生きて見ましょうよ」
色川さんがぽつりと
「僕は無理だな」
02月10日(金)
藤野健一(「オール讀物」編集長) 話の特集 色川さん
(打ち合わせ 対面か電話か不明)
なくなるちょうど二ヶ月前
一関に越したら大きな仕事にとりかかりたい
当分オールに書けそうにない
ひとつ面白いアイディアがあるんだが……
02中旬
岸田今日子 話の特集 色川さん
つかこうへいの芝居に出ていたら観に来てくださった。
楽屋の入口からちょっと離れた所に一人で立って、もじもじして
「とても面白かった」とおっしゃった。
二人だけで四谷のおすし屋さんに行った。
こんなことは初めてだった。
イカのハラワタをつまみながら戯曲を書くつもりだとおっしゃった。
出版社に近い宿屋で仕事をすることになっていたというのに、十二時すぎてしまって、
一台だけつかまったタクシーにわたしを乗せると、ニコニコしておすし屋さんののれんの前に立っていた。
岸田今日子 近代麻雀 先生
この2月に芝居を観に来て頂き二人で食事をしました。
二人きりでというのは、これまで一度もなかったことなのですが、最初で最後になってしまいました。
02月25日(土)
大山のぶ代 話の特集 色川さん
フランクシナトラを聴きに行ったのが最後
大山や毒蝮三太夫に
「あっちへ(岩手方面)行くことがあったら連絡してよ。電話番号はまだ覚えてないけど」
と住所を書く。
1989年03月-----------------------
03月
1989年04月30日初版 徳間書店
「阿佐田哲也の競輪教科書(バイブル)」
「あとがき」執筆
平成元年三月
03月01日(水)
山藤章二 話の特集 色川さん
立川談志主催の「超二流会」
フランキー堺の「フランキー講談」を楽しむ
大山のぶ代 話の特集 色川さん
×03月終わりに
(引用注:日付誤り)
立川談志主催の「超二流会」
フランキー堺の「フランキー講談」
03月07日(火)まで?
青柳賢治 近代麻雀 先生
フラリと行ったらちょうど送別会をやっていた。
青柳賢治(プロ雀士) 話の特集 先生
×01月終わり頃
(引用注:日付誤り)
成城のお宅へ来訪
引っ越し準備ほとんど完了
後藤、川上宗薫夫人、黒川、元秘書アン
鍋物、お酒、ビール
引っ越しの送別会のようであった。
「こんどの家は部屋がたくさんあるから、いつでも泊まりにいらっしゃい」
03月08日(水)? 上野駅前和風旅館泊
色川武大 好色つれづれ日記
上野駅前和風旅館 三畳の部屋
家賃支払先
一関の借家 トイレと風呂場修繕のため入居できず
東京の仕事場マンション 内装工事のため今月いっぱい入居できず
元の東京の借家 荷物がいくらか残存している
カミサンは大分前に小さな建て売り住宅を買いそこに一人住まい
(引用注:01月10日(火)脱稿
初出1989年02月号 小説新潮 色川武大「引越貧乏」に、二十坪の建売住宅の記載あり。
1989年07月10日初版 新潮社「引越貧乏」の見返しに、小さい文字の「引越貧乏」原稿写真あり。
大きな字で書いている余裕がなくなったのであろう。
また、二十坪の建売住宅とおもわれる建物が、
2008年03月「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で放映されたはずだ)
カミサンが和風旅館三畳間に下着持ってくる
二人で根岸の洋食”香味屋”に行く
カミサンはハンバーグを食べる
03月09日(木) 浅草ビューホテル泊
色川武大 好色つれづれ日記
浅草おかみさん会主催、常磐座のショー日替わりゲスト出演。
浅草ビューホテルに投宿
編集者Hと”藪蕎麦” 菊正冷酒でせいろ。
”梅むら”豆かん(一人前三百五十円)楽屋土産
金竜館横ハトヤで小憩
常磐座出演
松屋裏”香とり”カキフライ冷奴
樋口修吉 話の特集 色川さん
の聞いた03月のうわさ
高橋伸の店に訪ねてきた
「あっ、伸ちゃん、俺、色川。
今ビューホテルにいて暇だから、これから遊びに行こうと思うんだけど、いいかい?
たださ、あんたも知っているように、俺は人見知りするから、初対面の人がいるといやなんだけど……」
高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生
午前3時過ぎまで痛飲
「ビューホテルだから大丈夫! 近いからね!」
ビューホテルの部屋から眺めた浅草の街が
「ビルが変に墓石みたいにみえるよ、死んだ街だね!」
03月10日(金) 浅草ビューホテル泊
色川武大 好色つれづれ日記(其の弐)
ビューホテル15階から夜明けの東京東部を見る。
朝靄の中に立って居るビルが墓石のように冷めたく不吉に見える。
昼めし”天藤”天丼
常磐座昼夜二回公演
”香とり”
理性をすべて失い”さと”。
高橋伸寿(浅草三ちゃん) 話の特集 先生
シミキン一座にいた、逗子とんぼと出版社の村尾とでにぎやかな話
03月
吉行和子 話の特集 色川さん
ちらっとお会いした。
「いかがですか」
「東京は墓場のようですね」
03月中頃
矢崎泰久 近代麻雀 阿佐田さん
電話で「メシでも喰おう」と誘われた。
樋口修吉 話の特集 色さん
矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び
03月11日(土)~?
東京→移動→一関
03月17日(金)までの間
一関→移動→東京
03月17日(金)の
小田島雄志「色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであること」による
03月17日(金) 不明ホテル泊
小田島雄志 話の特集 色川さん
誕生日恒例の「すしが食いほうだい」会
四谷のすし屋に入ると
せがれとそのフィアンセと女房と、もう一人いた。
色川さんだった。
色川さんは上機嫌で一関から出てきたばかりであることを説明した。
いつもの四倍、五倍はしゃべった。
二時間ほどして
「じゃ、これから衣公子のところへ(銀座・まり花)へ」
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
夜に「まり花」
「仕事は終わったんですけどね。花月園がね」
(引用注:日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場)
「その間、ずっとホテル住まいですか」
「そのつもりです」
「ホテル代なんて不経済ですよ。その分も弾にして花月園に撃ち込んだらどうです」
拙宅を宿に使ってもらうように勧誘
03月19日(日) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
「お世話になります」と電話をもらった。
昼は競輪場通い、夜は二部屋に別れて仕事。
いやがる阿佐田さんをミ無理矢理にお風呂にいれたり
以後24日まで一週間の合宿生活。
樋口修吉 話の特集 色川さん
の聞いた03月のうわさ
黒鉄ヒロシの家に泊まって競輪に行った。
03月20日(月) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月21日(火) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月22日(水) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月23日(木) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
03月24日(金) 黒鉄ヒロシ宅泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場
黒鉄ヒロシ邸に泊まる
三遊亭夢楽 話の特集 阿佐田さん
花月園競輪場特観席
黒鉄ヒロシも一緒
03月25日(土)
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
講談社に行く阿佐田さんと六本木で別れた。
03月25日(土)~26日(日)
東京→移動→一関
03月26日(日) 一関滞在
中村誠一 話の特集 色川さん
一関の「ベイシー」
菅原昭、美人、色川さん
色川さんの持薬を2錠頂いて飲んでしまった。
(引用注:リタリン?)
すし屋 フカヒレずし→ベイシー
→色川さんの家 アート・ブレイキーとセロニアス・モンクのビデオ
03月27日(月)~30日(木)
一関→移動→東京
03月30日(木) 帝国ホテル泊
黒鉄ヒロシ 話の特集 阿佐田さん
夜
阿佐田さんは「まり花」のシートに座って居た。
「帰らなかったんですか」
「いろいろと……」
(引用注:03月25日~26日一関に行き、03月27日~30日また東京に戻った)
「だったら居てくれれば良かったのに。どこに泊まっているんです」
「帝国ホテル」
03月31日(金) 帝国ホテル泊
大沢アン(元秘書) 話の特集 師匠
帝国ホテル
その日は珍しく誰も来客がなく、ひしさしぶりに二人だけでのんびり雑談
(引用注:「誰も来客がなく」といっているので、部屋でだろう)
樋口修吉 話の特集 色さん
04月01日0230時頃
帝国ホテルロビー
「ねえ色さん。この前伸さんのところへ行ったでしょ。とんかつ屋の」
上目遣いに私を見る。
一関の住所と電話番号を書いた。
1989年04月-----------------------------
04月01日(土)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
「小説現代」新人賞選考会終え 一関へ
花柳幻舟 話の特集 色川さん
東京で食事
2日後に電話で入院を知る
悲報はその2日後(引用中:日付誤り)
朝堀正元 話の特集 色川
04月02日の夜、色川から架電
(引用注:04月02日には一関にいるから「明日(04月03日)の新幹線」はない、04月01日であろう)
明日の新幹線で一関に帰るが…
一度遊びにきてくれ
04月01日(土)~02日(日)
東京→移動→一関
04月02日(日)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
岩手放送テレビ水沢競馬中継ゲスト
夕刻ベイシーへ戻る。
色川のおごりで六名ほど造り酒屋の和風レストランで夕食会。
2300頃色川を自宅へ送る。
04月03日(月)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
2000近く
色川からベイシーに電話。具合が悪い。
村田はバイクで先行、医師を車に乗せ色川宅へ。
診察
心筋梗塞の疑い
救急車を呼ぶ
一関病院にも電話、帰宅していた医師を病院で待機。
2100頃救急車
一関病院搬送
2230頃 瀬峰病院に移送決定
東京の孝子夫人へ二度目の電話
2300 一関病院出発
2400 瀬峰病院到着
集中治療室
孝子に三度目の電話 明日0600新幹線→0900頃には到着の段取り
小原徹也(医師) 話の特集 色川さん
2000少し前ベイシーの菅原昭二から色川の具合が相当に悪いの報を受け菅原とともに往診
咽頭軽く発赤、不整脈、血圧180~190
胸部腹部所見に異常を認めず
心筋梗塞が最も疑われたのでポータブル心電計検査
典型的な新鮮な心筋梗塞を示す心電図
「心筋梗塞の疑いが最も強いので、絶対安静が必要であり、入院を要する」と告げる
救急車で一関市内の総合病院に入院
一時不整脈が消失したが、二時間後再び出現したので、宮城県瀬峰病院に転院
04月04日(火)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
0900 玄関に孝子迎え
医師の説明
今度が二度目の心筋梗塞、心臓の半分がやられた。次にやると非常にあぶない。
徹底的に治療する。油断しないよう。
絶対安静、面会謝絶
菅原、一関に戻る
04月05日(水)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
ベイシー定休日なので、翌06日昼頃まで病室にいた
04月06日(木)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
夜見舞い
すこし楽になった様子
「いや、昨日までに比べたら天国みたいなもんですよ」
04月07日(金)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
大雨
郵便物、FAX、見舞いの花など積んで瀬峰病院
04月08日(土)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
元気そう
シャーベットが食べたいというので、ジュースを凍らせたもの持参
食べて「仕合せ」と言う。
04月09日(日)
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
前日に色川が
「大丈夫ですから、どうぞお店やってください」
と言うので、昼からベイシー開店
夜中に見舞う
「今日はね、とても気分が良くってね。お店どうでした?」
いろいろ会話
「それじゃあ、お休みなさい。また明日……」
と言い胸のあたりで手を振ると、手のひらをこちらに向けて軽く振った。
04月10日(月)
逝去
菅原昭二(一関「ベイシー」主人) 話の特集 色川先生
朝孝子から電話
04月11日(火)
山口瞳 話の特集 色川さん
色川さんの通夜は新宿矢来町の生家で行われることになった。
04月13日(木)
葬儀 新宿「千日堂会館」に800名以上参列
当時のテレビに写った参列者の方々(一部/順不同)
黒柳徹子、山田邦子、篠山紀信、貴花田(貴乃花)、阿木陽子、永六輔、
奥田瑛二、安部譲二、花柳幻舟、杉浦直樹、冨士真奈美、岸田今日子、
高品格、長門裕之
弔辞「別れの言葉」丸谷才一(「次郎長放浪記」阿佐田哲也 中公文庫1986年の解説は丸谷才一)
弔辞 長門裕之
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エッセイ執筆をお願いできない方々とか、
そもそも「話の特集」編集長矢崎泰久が知らない方々もいるだろうから、
前掲が色川・阿佐田の行動のすべてではない。
特に1989年03月に激しく動いているように見えるけど、
逝去と各人エッセイ執筆時期が近いからよく記憶しているのであって、
おそらく平素からこの勢いで人に会っていたとおもわれる。
意外や色川さんと呼んでいる方が多い。
そのような方に追悼エッセイ依頼したのかもしれない。
阿佐田さんと呼んでいるのは、
嵐山光三郎 話の特集
矢崎泰久 近代麻雀
黒鉄ヒロシ 話の特集
の各氏である。
このうち矢崎泰久は、近代麻雀なので阿佐田さんと呼んでいるのであって、
樋口修吉 話の特集によると、
矢崎泰久さんは色さんのことをタケちゃんと本名で呼び
とのことである。
よって、阿佐田さんと呼ぶのは
嵐山光三郎 話の特集
黒鉄ヒロシ 話の特集
となる。
これらの記載からは、
最後の麻雀は、
01月01日(日)? 長門裕之宅で”元旦雀” ということになる。
最後の競輪は
日本選手権競輪03月19日~24日 花月園競輪場 黒鉄ヒロシ宅泊 だ。
おそらく最後の博打はこの競輪だろう。