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また日本軍が攻めてきた!

2010-07-16 | 海軍
昭和42年、アメリカ、ロードアイランドでのニューポート・ジャズフェスティバル。
日本のビッグバンドとして初めてこの世界のひのき舞台で演奏をしたバンドがありました。その名は
「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」。

「さくらさくら」「越天楽」「箱根八里」をモダンにアレンジし、フューチャーされたのは山本邦山の尺八。
観衆は熱狂しスタンディングオベーションで彼らの演奏を讃えます。
ステージの袖で聴いていた出演者のひとり、トランぺッターのディジー・ガレスビ―がこう呟きました。

「また日本軍が攻めてきたぜ!」

バンドリーダーの塚原信夫氏は、知る人ぞ知る海軍軍楽隊の出身です。
昭和18志海兵団の軍楽兵として横須賀で訓練を受け、終戦時はアルトサックスと海軍毛布一枚持って復員しました。

「クラシックなんて飯食えねえよ。ズージャやれよズージャ。ルービも飲めるぜ」
オーケストラのオーディション会場を出たところで、こう声をかけた海軍仲間の誘いの一言が塚原青年のその後の人生を決定しました。
塚原青年はジャズミュージシャンとしての道を歩き出します。
オーケストラに合格していたかどうか、結果を確かめることもなかったそうです。

その後、仲間とともにかつての敵国、アメリカ進駐軍相手にジャズの腕を磨く毎日。
おりしもジャズブームが到来し、塚原氏は芸名を「原信夫」と変え、自らのビッグバンドを結成します。

ある程度の年代の方なら、紅白歌合戦の伴奏をする「原信夫とシャープスアンドフラッツ」という名前をお聞きになったことがあるのではないでしょうか。
しかし原氏は、1975年頃、テレビとケンカして歌手の伴奏をやめてしまいます。
理由は、アイドル歌手の伴奏をするのがほとほと嫌になったからだといいます。
それが金銭的に困窮する原因にもなるのですが、海軍仕込みの厳しい練習に耐え楽器を習得した原氏には、時間も守れないうえ歌手としての実力すら危ぶまれるアイドル歌手など、音楽家としてどうしても許せなかったのでしょう。

ブームこそあったものの、ジャズと言えば文化的にクラシック音楽より一段も二段も低いもの、という偏見に満ちていた当時の音楽界でひたすらジャズ音楽の普及に努め、ついに昭和63年、原氏は紫綬褒章を受賞します。
海軍毛布とサックス1本の復員から43年目のことでした。

元海軍軍楽兵だった原信夫の攻め込んだニューポートジャズフェスティバルを、地元の新聞は次の日このように報じました。

「ノブオ・ハラとシャープス・アンド・フラッツの演奏は、我々に真珠湾の攻撃を思い出させた」


参考:海軍軍楽隊「花も嵐も・・・」針尾玄三編著 より「ジャズのとりこになって」原信夫 近代消防社刊

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