ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

久里浜駐屯地見学〜通信歴史館

2016-06-18 | 自衛隊

老舗百貨店のツァーで行く自衛隊基地見学、久里浜駐屯地の
海軍時代からある建物にある貴賓室の見学が済みました。

移動の間にも広報の女性自衛官に質問する人もいて、
雰囲気がツァーらしくなってきました。
久里浜駐屯地の見学の写真を検索してみたところ、ほかの写真にも
まさにこの陸曹長が写っていましたから、彼女は団体見学の際
広報として必ず案内を任されているようでした。

説明の合間に聞かれるがまま、自分の経歴などに話は及んだとき、

「わたしは通信ではトンツー出身なので」

とおっしゃったので、ふと

「今でもトンツーって”ノギトーゴー”で覚えるんですか」

と聞いてみたところ、

「そうですよ!ご存知ですか」

「ええ、知識だけですが」



陸曹長が次に案内してくれたのは構内にある歴史館。
当基地の海軍時代からの歴史的資料が展示されています。



記念館はかなりの広さで、こんな感じ。
手作り感漂う展示内容となっております。



説明がないのでいつのことかわかりませんが、制服から見て
昭和30年代といったところでしょうか。
最初にこの資料館は「通信参考館」としてオープンしたようです。
整備披露式の看板に付けられたティッシュのお花が時代を感じます。
このころは箱詰めティッシュなどというものもなく、「ちり紙」でしたが。




おそらく最初の「参考館」時代からあったであろう写真の数々。
でもこれどうみても陸軍の写真ですよね?
ここ久里浜は海軍基地として発足したのになぜ陸軍の写真が?

ちなみに右下の「サガレン派出員」というのは、
シベリア出兵時に、北部樺太占領及び軍政実施のため派遣された部隊で、
1920年(大正9年)7月に編成されて1925年(大正14年)5月に復員しています。
大東亜戦争時のシベリア派遣と違うとはいえ、5年もシベリアとはご苦労様です。



これもどう見ても陸軍さんですね。
一目で海軍とは違うとわかってしまう今日この頃。



「靴工場」「木工場」「電気工場」「縫工場」

学生の作業所を「工場」と称したようです。



「12階段前跳下り」の何がすごいといって、この運動のために
わざわざ12階段の跳び降り台を作ってしまったということでしょう。
下にはマットが敷いてあったことを祈りたい。


で、これらの写真ですが、どうも当時の神奈川県高座郡大野村、現在の
神奈川県相模原市南区にあった陸軍通信学校のものらしいです。
同じ通信学校つながりでここに資料が集められたのでしょう。



電動式電話器(電動式でない電話器って・・・糸電話?)による送受信、
受付を行い?自転車で配達させる、という一連の動きが開設されています。



これは野外での架線作業などでしょうか。
アンテナとなる柱を立てて脚立でその上に架線するというレトロなものです。
架線作業をしている人はまるで脚立の上で出初式をやっているようです。
帽子と軍服の感じから見て明治終わりから大正時代くらいでしょうか。




お食事中。
兵学校では狭いところで食事をするのに慣れるため、左手を下に置いて
右手だけで食事をした、と76期の生徒さんから聞きました。
陸軍ではそんな訓練すらする必要がないので普通に皆茶碗を持って食べています。

ところで、海軍式に皆が右手だけで食べるということになると、左利きの人は
自分だけ逆に箸を持つわけにいかないので、否が応でも右に矯正したんでしょうか。
昔は左利きは「いけないこと」となっていて、一般的にも矯正させられたそうですが。

アメリカ人は見る限り左利きが大変多いですし、日本でも最近左利きが多いなと感じます。



健康診断中。
内科医と歯医者が同じところで診察を行っています。
医師二人は白衣の下に陸軍軍服を着ていますね。



ここでやっと海軍の通信関係の写真になりました。
昭和20年6月に少尉候補生を拝命した兵科予備生徒、とあります。
「兵科予備生徒」とは海軍予備員のひとつで、
旧制高校在校・高等商船学校の生徒がこれに採用されました。

東京及び神戸の高等商船学校の生徒は、入学と同時に海軍予備生徒になり、
全員を兵籍に編入するということになっていましたが、戦争の拡大に伴い、
他の旧制高等学校の生徒に対しても選抜を実施し、合格者を予備生徒として
その学資は海軍が支給しました。



これらの写真の撮られた昭和20年6月という時期を考えると、
彼らは一般高等学校の予備生徒である可能性が高くなります。

彼らが予備少尉候補生となるのは卒業と同時で、予定では
1年6ヶ月の教育期間を経て予備少尉に任用されるはずでした。
ですからこの全員は少尉任官前に終戦になってしまったということになります。

それにしても、一般高校生徒であるせいか眼鏡着用率が高いですね。
先日の練習艦隊壮行会の写真をあげたところ

「眼鏡が多い」

という感想を数箇所からいただきました。
中には「ジパングの菊池に憧れた人が多いとか?」という人もいましたが(笑)
昔は視力の悪いものは兵科に行けなかったというだけのことでしょう。
この予備生徒もそうですが、機関学校の写真なども眼鏡着用率が高く、
特に最近目が悪い人が増えたということはないと思いますが、どうでしょう。



やっと見慣れた海軍の写真が出てきました。
これは夜の「温習時間」、つまり自習時間です。
実はこのツァー後半では防大見学というのが組まれていたのですが、
そのとき改めて彼らの1日の学生生活を聞いたところによると、
今でも兵学校などで行われていたこの夜の自習時間があるそうですね。

学校単位で見ると、防衛大学校の学生というのは日本で最もよく
勉強している若者ではないかととわたしは思いましたよ。 



これもセーラー服がいるので海軍通信学校の実習風景でしょう。



左がわの糸巻きみたいなもの一式は

海軍36式無線電信機(明治35年)

旗艦「三笠」を始め戦艦、巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、
仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備されました。

日本海海戦では仮装巡洋艦「信濃丸」が「アリョール」を発見、
更に接近し敵大艦隊の存在を確認、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて
敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報が発せられました。


昔も書きましたが、この三六式無線を開発した安立電気、現在のアンリツも、
島津源蔵の島津製作所も、日本海海戦での勝利にその技術が大いに寄与しています。

そしてその右側は冒頭軍艦旗を昭和18年から形容していた旗竿です。
約7mあるヒバの一本木を使用したこの旗竿は、反り返ったりしないように、
背割り(芯を持っている木材の化粧面以外の一面に、

直径の約1/2程度の深さの切り込みを入れること。
乾燥前に行うことで乾燥による材の縮小で起こる「干割れ」を防ぐ)
を入れてあるそうです。

老朽化のため昭和40年に取り外されましたが、風雪にさらされた
野外の木材が22年保つというのは結構たいしたことです。




 
展示室にはこのように海軍と陸軍で使用された当時の通信機が展示されています。


続く。 



最新の画像もっと見る

6 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
眼鏡 ()
2016-06-18 12:31:20
ご無沙汰いたしております。

>一般高校生徒であるせいか眼鏡着用率が高い

との一文に反応してしまいました。
私が幹部候補生学校入校中、「勤務一般」という座学の中で、教官として来られた女性自衛官(確か、陸自から転換した方だったと記憶しています。)が、私たち飛行幹部候補生を前にして、「このクラスには眼鏡をかけた学生が一人も居ないのですね!」と言って、我々学生一同シラケてしまったことがありました。

当時の航空身体検査における視力の基準は「裸眼視力1.0以上」でしたので、眼鏡をかけている学生が居る訳もなく、「オイオイ!教官として来るなら、対象となるクラスの状況くらい把握しておけよ!」ということです。

当時は海自が女性自衛官(当時の呼称は「婦人自衛官」)を採用してから間がなく、海上自衛隊の諸々の制度・風習に慣れておられない陸自からの転換組の女性幹部が時々見られたものでした。

たしか10年程前から、航空身体検査基準も「矯正視力1.0以上」と変更され、現在では眼鏡をかけたパイロットも珍しくはなくなり、私たちの頃とは隔世の感があります。
返信する
ノギトーゴー (佳太郎)
2016-06-18 19:19:08
この覚え方はあまりよくないという話を本で読みました。きちんと音で覚えた方がいいそうです。今はCD、パソコンがあるので音で覚えるやり方もやりやすくなってるようです。
通信関係は興味を持っております。初めに買った光人社のNF文庫は海軍の通信兵の話でした。そして免許も持っていないのにアマチュア無線関係の本も立ち読みで読んでおります。
そういえばGoogleのサイトでモールスで検索できるのがあったと思いますがなかなか難しいです。きちんと認識してくれない…

今は左利きでも矯正しないようです。ストレスがたまるとか、吃音の原因になったりもするそうです。ジョージ6世の吃音の原因も利き腕の矯正も原因の一つのように思えます。
返信する
鷲さん (エリス中尉)
2016-06-18 19:46:30
そうそう、鷲さんは飛行幹部候補生出身ですよね。
昔、彼らの制服が予科練と同じ七つボタンであることを教えていただき、
防大の制服が海兵のと同じであることに続き感激したことを思い出します。
最近は女子飛行幹部候補生の制服にも「わたしたちも着たい」という現場の声を
取り入れて女子の「七つボタン」制服が採用されたとお伝えしました。
当時「女子」であった方が「とにかくかっこよかった!憧れたわー」
と数十年を経てため息まじりに言っているのを聞いたことがあります。

入間の航空祭で「視力が良い必要はありません(だからあなたもパイロットになれる)
とアナウンスされた時には会場が軽くどよめいたような気がします。

その女性自衛官についてですが、黎明期?にはそんな人事もあったってことですね。
返信する
佳太郎さん (エリス中尉)
2016-06-18 21:58:31
わたしもその説をどこかで読んだので「今でもノギトーゴーで覚える」と聞いて
この時へえと思いました。
CDやPCで聞いて覚えるのは良さそうですね。

ジョージ6世って「キングス・スピーヂ」のあの王様ですよね。
そうそう、どもりを克服するのに大変な思いをした王様のお話、ここで一度
映画を紹介する形で話したことがあります。
左利きの矯正とナニー(王室なので母親が育てない)の虐待?のせいで
どもりになった、と言われていました。
返信する
防大生の勉強 (ハーロック三世)
2016-06-19 02:46:50
>学校単位で見ると、防衛大学校の学生というのは日本で最もよく勉強している若者ではないかととわたしは思いましたよ。

確かに最もか否かは別として、よく「勉強させられている」と思います。

防大では同じ事由での留年は直ちに退学させられます。
また単位を落とすだけでもかなり厳しく、進級できても再履修だけではありません。
履修制限というペナルティを課せられて、少ない履修数で進級単位を満たさなくてはならないので常に崖っぷちです。

息子は1、2年生時には「高校の同級生が学生生活謳歌しているときに、僕は勉強と訓練に明け暮れている。人並みに遊びたい!」と言っていました。

しかし3年生になると、今や3年生から就職活動前しょう戦が始まるのを横目に見て、「防大で良かった。今年の夏は海外に行くぞ〜」と言っています。(苦笑)
返信する
新鮮なご意見! (エリス中尉)
2016-06-19 15:43:47
人生糾える縄のごとし、という言葉を思い出しますね。
確かに、防大生に就職活動は必要ない!
なんか目から鱗というかコロンブスの卵というか・・・な発見です。

自衛官が向いていないとして別の人生を模索している一部の学生以外は
3年になると「籠を担ぐ人」4年は「籠に乗る人」(1年は路傍の石)
というくらい上に行くほど楽になってくると聞いたことがありますし、
海軍でも「海軍で一番楽しいのは艦長と兵学校1号」というのを
元兵学校の「永遠の2号生徒」から聞いたことがあります。

水戸黄門ではありませんが、人生楽ありゃ苦もあるさ。
真っ当な人生を送ろうと思ったら、楽なばかりではないけど、
救いもあってその反対もないってことですね。

返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。