夏前に京都護国神社に参拝した時のご報告です。
この広い境内に建立されている顕彰・慰霊碑を紹介していきましょう。
馬に乗った兵士の帽子から、明治時代のものだとわかります。
騎兵第20聯隊
騎兵第120大隊
捜索第16聯隊
捜索第53聯隊
の慰霊碑。
騎兵第20連隊は姫路で結成されましたが、錬成の地が京都の深草だったことから
京都の護国神社に慰霊碑が建てられることになりました。
車での移動中偶然見つけた「陸軍用地」の石柱をきっかけに
伏見が「陸軍の街」であることを知ったのですが、そのせいか、
この護国神社にも陸軍の部隊の顕彰碑が多くあります。
捜索第16連隊は大東亜戦争においてはすでに騎兵ではなく、
軽装甲車2中隊、自動車2中隊としてルソンで方面本部と共に戦い、
そこで終戦を迎えています。
ブロンズ像は結成時の、まだ騎兵だった頃の兵士の姿です。
馬と言えば、ここには愛馬の碑という、軍馬慰霊碑がありました。
「めんこい仔馬」という歌を思い出しますね。
野砲兵第122聯隊の顕彰碑。
連隊は昭和13年伏見で編成され、直ちに大陸に渡り終戦をそこで迎え、
昭和21年復員してきました。
顕彰碑は生きて帰還を果たした元将兵たちの手によって建立されました。
ひときわ大きく人目を引いた「陸軍特別操縦見習士官之碑」。
揮毫したのは佐藤栄作首相(当時)です。(達筆!)
特別操縦見習士官とは大東亜戦争終盤、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を
予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指していいます。
特操と略し、学鷲(がくわし)と呼ばれることもあったようです。
4期生までが養成されましたが、そのうち特攻に動員されたのは1期生と2期生です。
あとは末期になって飛行機と燃料がなくなったため、大部分が生き残りました。
慰霊碑の横にある碑文には、
「二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として
祖国の危機に立ち上った。二期、三期、四期と続く。
ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、
ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。
悪条件のもと夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は
遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、
また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。」
とあります。
これも建立は「特操会」となっており、生存者らしいとわかります。
慰霊碑には「隼」「飛燕」など陸軍の飛行機が描かれ、軍刀を手に
立つ彼の座っていた椅子には、書が開かれたたまま伏せて置かれており、
学業半ばにして彼らが戦いに身を投じたことを表しています。
さらに、碑文の脇にはラバウルから採取してきた石が展示されています。
こちらは海軍飛行予備士官の霊を祀る「白鴎顕彰之碑」。
上の区域にありました。
舞鶴に海軍基地はありましたが、京都で編成された部隊がなかったらしく、
海軍学徒士官の慰霊碑は密やかなものでした。
後ろの階段から先は一人300円の拝観料を自動改札機に入れて入場します。
理由はわかりませんが、国からの補助がなくなったことと、上には特に
坂本龍馬の墓(慰霊碑ではなく本当の墓所)があるので、誰でも入れるようにすると
何かと面倒なことが起こるからに違いありません。
ゲート手前の境内には並べられたいくつもの慰霊碑が。
左から
◯歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
ビルマ方面軍の指揮下で戦い当地で終戦を迎える
第128連隊が転戦した戦地が地図で示されています。
その戦地をめぐり集めてきた現地の石と共に、現地に遺されていたらしい
鉄兜と銃が据えてあります。
息子がこれを見て、継ぎ目などが消滅し銃口も塞がっているため
「これ、本物じゃないよね」
と勘違いしたくらい、経年の錆びと腐食が層になって銃身を覆っていました。
◯御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納の地
◯歩兵第百九聯隊顕彰之碑
日中戦争から大陸にあり、最終地は湖南省
神社を抱く山の斜面には境内に慰霊碑のある部隊についての
編成から終戦に至るまでの戦歴を記したものがあり、
全員の名前が記されている巨大な石碑がありました。
戦死した者だけでなく、戦後亡くなった人も名を刻むことができるようです。
◯石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰霊碑
天津で編成され、北支から最終的には沖縄戦に参加
昭和十九年沖縄に転戦米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末
部隊は突撃を敢行全員玉砕す、と碑文にある
◯第二十三野戦防疫給水部 戦歿者慰霊碑
ニューギニアで戦死 野上軍医少佐以下138名
パラオで戦死 河原軍医中尉以下26名
内地帰還後戦没 高渕軍医少尉以下26名
防疫給水部とは陸軍にあった、疫病対策を目的とした医務、ならびに
浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊を指します。
軍医が隊長を務めていたことから、衛生部隊をも兼ねていたようです。
右から、
◯鎮魂 前述・歩兵128連隊の慰霊碑
◯ビルマ方面派遣安 工兵第五十三聯隊顕彰碑
足元にはビルマの石で作った狛犬のような像あり
「ビルマの各地に勇戦奮闘 工兵の本領を発揮して輝しい戦歴を残した
然しながら 雨季の泥濘と乾季の灼熱に加え悪疫瘴癘の戦場に於て
長期激戦の為620余名の戦友が護國の神と化した」とある
補給線を軽視した作戦のため多くの犠牲を出したインパール作戦に参加
◯嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六聯隊顕彰之碑
日中戦争後京都で編成された第116師団の輸送・需品科。
慰霊碑には
「もの言わぬ軍馬の献身に支えられて七年間の悲惨な戦いに耐えた
長江の流れ アラカンの山 はるか遠い異境の地で
血と泥の戦場に散ったわが友よ 再び帰らぬ愛馬よ」
とあります。
◯第百十六師団衛生隊顕彰碑
病兵の救出収容、警備、医療を任務とする衛生隊
終戦を迎えた中国・安慶の石とともに
第116師団衛生隊の生存者によって書かれた大陸での戦歴。
5年の間に収容した患者数は13,000以上であることや、戦後生存者が
編成地の滋賀県と安慶市の間に友好を結ぶべく、桜を寄贈するなど
活動と努力を続けてきたことが記されています。
ほとんどがで編成された師団・部隊の慰霊碑となりますが、滋賀も含まれるようです。
ここで有料ゲートから奥の墓所・慰霊碑のある区域に入ってみました。
周りも荘重に設えられたこの一角はおそらく昭和14年からあるものでしょう。
碑の正面、裏面、どこを見ても全く文字が解読できないわけですがorz
これは、墓所の頂上に木戸孝允の墓があることと関係していると見え、
「木戸公神道碑」
と名付けられています。
碑の両脇に左右対称に植えられた樹木には
「明治維新百年記念植樹」
とあります。
明治維新元年がいつかという定義は難しいと思うのですが、仮にこれを
大政奉還の行われた慶応3年(1867年)だとすると、この植樹が行われたのは
1967年(昭和42年)ということになります。
水が淀んでしまっていますが、できた当時は人工滝となる予定だった池。
ここは「昭和の杜」という広場で、大東亜戦争参加者の慰霊のために整備されました。
乃木大将の母の慰霊顕彰碑がありました。
明治29年、乃木将軍は台湾総督となり、母親の壽子と夫人静子を伴いました。
赴任地の台湾で母親は亡くなってしまったのですが、遺言によって亡骸は
台北の共同墓地に葬られ、最初に台湾の土となった日本人移住者となります。
明治天皇大葬の日、乃木将軍夫妻が殉死したのち、
夫妻の遺髪だけが台北に送られ、母堂の墓側に葬られることになりました。
昭和35年中華民国政府は、北投にある中和禅寺に日本人無縁公墓を創建し、
それ以来乃木家の遺骨遺髪を、霊位とともに祀ってくれていましたが、
昭和43年、明治百年記念事業として日本の団体が、乃木家遺骨遺髪及び霊位を
故国に奉還し、ここに合祀して碑を建てたという経緯です。
京都という地勢上、当護国神社には海軍、ことに軍艦の碑は
ないものと思っていたのですが、たった一つあったのが駆逐艦「長波」の碑。
昭和十九年十一月十二日
レイテ島オルモック湾に於いて
戦没乗組員二百四十七柱
最近供えられたらしいかすみ草の花束がありました。
長波は1942年6月30日、大阪藤永田造船所で竣工
同年8月北方キスカ島へ船団護衛
九月南方トラック島へ向う第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地として、
ガナルカナル島の陸軍部隊を支援10数回にわたる輸送を遂行
同年10月南太平洋海戦、11月にはルンガ沖夜戦にニ水戦旗艦として参加、
1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す
この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港
修理後九月に南下ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加
11月11日ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となり、
巡洋艦「夕張」及び「長良」の両艦に延々5,000海里を曳航され、呉軍港に入港修理後、
翌年七月連合艦隊と共にシンガポール港に入港
10月ブルネイ港を経由レイテ島沖海戦に参加
11月マニラとレイテ島間の物資輸送護「エ」作戦行動中、オルモック湾において
米空母艦載桟350余機と交戦 激烈な対空戦闘の末ついにオルモック湾に戦没する
戦没者 247柱
時刻12時45分
東経124度31分
北緯10度50分
長波の名とともに何人かの記名がありましたが、人数の少なさからみて
これは碑の創建に携わった生存者ではないかと推察されます。
どこかで見た名前だなあと思ったら、このかた自民党の議員ですよね。
林田悠紀夫氏は舞鶴出身で、京都府知事を務めたこともありました。
林田氏は東京帝國大学法学部卒業後、海軍短期現役士官となり、
第三一航空隊主計長としてマニラ、ジョグジャカルタで勤務
1945年4月、ボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられパンジェルマシンに転属
7月連合軍のバリクパパン上陸によりボルネオのジャングルで戦闘に当たった
敗戦後1年間の捕虜生活を送り復員
とWikipediaの経歴にはありますが、「大鯨」勤務だったという記録はどこにもありません。
可能性としては「大鯨」で南方に向かった経歴があるといったところでしょうか。
基準排水量2,077トン 全長119.03m 最大幅10.8m 深さ6.46m 喫水3.76m 主機蒸気タービン2基 軸数2 主缶 ロ号艦本式3基 出力52、000馬力 速力35kt 航続距離18ktで5,000浬
50口径3年式12.7センチ連装砲3基 61センチ4連装発射管2基 魚雷93式(酸素)16本 25ミリ連装機銃2基 爆雷18個 乗員225名
完成後機銃を増備、電探の装備
陽炎型19隻とともに大戦中の艦隊決戦型駆逐艦の主力 ただし雷撃が主任務で対空、対潜戦能力不足。
光人社「日本海軍艦艇写真集17巻」、海人社「世界の艦船」(第2次世界大戦の日本軍艦)参照
私個人としては大好きな艦ですが、最終艦「清霜」は完成が19年5月であり、建造の難しく、対空、対潜能力不足の艦を大戦末期まで建造するべきではなかったとも思います。
なお、戦死者と乗員の数が乖離していますが、機銃の増備等で増員された結果と思います。
日本海軍の軍艦は総員戦死が多いのですが、長波は艦長以下数十名が戦没時生存し、その後の戦いでも十名以上が終戦まで生存され当碑が建立されたとの事です。(史料によっては艦長は海上自衛隊に奉職されたとの記述もあります)
第1次世界大戦での軍馬を取り上げた「戦火の馬」と言う映画がありました。
傷ついても故郷に帰れたハッピーエンドですが、日本の軍馬はとても悲しい末路です。
大東亜戦争時でも日本陸軍は機械化が数個師団のみ、運搬用、将校用に約100万頭が出征し、戦死、餓死で1頭も帰る事はありませんでした。
輸送が上手くいかなくなると一番のシワ寄せは馬糧、餓死させただけではなく、兵士の食料にされた馬多く、輸送中溺死もさせています。
南方のジャングルでは使えない事の知識もなく、あたら無残に酷使した事は忘れてはいけんません。
合掌。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/a5b320cca04112bd076d062076c942b2
競走馬の生産においては、その加減が難しいらしく、牧場や厩舎に馴れ過ぎると、騎手を警戒したりレースで萎縮してしまうため、情を通わせすぎるのも良くないとのこと。
バロン西の愛馬ウラヌスは、久しく会っていなかったにも関わらず、硫黄島に渡る前のバロン西の足音を聞き、甘噛みするほど喜んだと言われていますし、大陸戦線の輜重隊では馬と担当兵が互いに寄り添って暖をとったり、支給品のキャラメルを分け合ったり、兄弟のように付き合っていたという話も聞きます。
当事者にとって、あの戦争を共にくぐり抜け、死んでいった馬達の事は、到底忘れ得ぬ物なのでしょうね。
馬という動物が本当に賢くて、性格が様々であることを知ったということでした。
それ以降、馬に関するそのようなエピソードについては強く共感を覚えます。
習志野にあった騎兵が廃止になった時に馬たちがどうなったか、
ということを調べていて思わず涙したことすら・・・。