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昭和天皇と或る少尉候補生

2012-05-29 | 日本のこと

昭和60年8月、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落しました。
このとき、御巣鷹山のある群馬県上野村の村長であった黒澤丈夫氏が、
かつて海軍士官搭乗員として零式艦上戦闘機に乗っていたということが、

いろんな媒体で報道されました。


この史上最悪の飛行機事故が、飛行機乗りであった黒澤氏に取って
どう捉えられているか、マスコミはその点に注目し、
インタビューをした媒体も多かったようです。

「飛行機を操縦していて、操縦不能、
あるいは操縦困難だったという経験はあるか?」

この質問に対しての黒澤氏の答えはこうです。

「パイロットがですよ、操縦不能に陥るなんという事は、
死ぬ時以外は殆ど体験しないと思いますよ」


一時的にエンジンが止まるとか、細部が少し傷んだ、
というようなことはあっても、上下左右、向きを変えることが出来ない
という経験はなかった、というのです。

だからね、パイロットはもう、本当に悩み苦しんで、
おそらく何処へ降りるように出来たらいいかなというような気持ちは
お持ちになったのでしょうが、
それも、
そっちに向けるわけには行かないんですからね。


それに、500人以上のお客様が乗っている。
この人たちの命を失う様な事があっては絶対にならない、
それなのに飛行機はいう事を利かない。


それは、もう本当にあれでしょうね、頭の中がカーッとしちゃって、

普通の人だったら支離滅裂になる状況だったと思いますが、しかし、
あのパイロットは冷静 にお考えになって、エンジンを使って、
それで多少なりとも飛行機の方向を思う方向に向けよう、
という努力をされてる様に
記録を読ませてもらって
そういう感じを持ちますよ。


(『ラジオ深夜便』に出演した黒澤氏の発言そのまま)



事故直後から、その対応に追われた上野村ですが、
遺体の収集がひと段落した段階から、今度は犠牲者の慰霊、納骨等々の
責任を果たす実際の行動が「法律上」義務付けられることになります。


つまり、村の一般会計に葬送の費用を計上せよ、というのが

村に課せられた「現場の義務」であったということなのですが、
ここで、黒澤村長が配慮したのが、上野村出身の戦没者の立場でした。

戦没者に対する慰霊に関しては公的には何も行えない、
行ってはいけない、という実情を鑑みると、それをさておいて
日航機犠牲者の葬祭の費用を年々計上するというのは、

「村民感情としても後あと問題となってくる」

このように黒澤村長は判断し、村とは違う別の法人を作り、

そこが慰霊を行っていく、という風に計らったそうです。



黒澤丈夫氏は、91歳まで日本の現役最高齢の市長としてその任を果たし、
2011年の12月、97歳で亡くなりました。

村長として村のためにその半生を捧げた黒澤氏は、
再選10期の長きに渡りその任にあって、銅像が建てられたほど
村民の信託を受け続けた「名村長」でしたが、
政治家としての黒澤氏については、ご本人が著書をいくつか遺されているので、
興味をお持ちになった方は、是非読んでみてください。

このように、非常な「傑物」であった黒澤氏ですが、
ご自身の偉業については少し置いて。
今日わたしがこの黒澤市長、いや、元海軍少佐黒澤丈夫について書いたのは、
ただただ次の印象深い逸話を皆さんに聞いていただきたかったからです。


ちょうど、この「ラジオ深夜便」出演の頃のことではないかと思われます。
天皇皇后両陛下が、事故処理にあたった上野村関係者をねぎらうために
当地にご行幸遊ばされました。

村長として陛下に事故の経緯、説明を申し上げていたところ、

陛下は黒澤氏の顔をじっとご覧になり、

「ひょっとしてあなたは海軍大演習のとき、
戦艦日向か長門(霧島説もあり)に乗っていなかったかね?」

黒澤村長は、驚愕します。

確かに黒澤氏が海軍兵学校卒業後すぐ、少尉候補生として
その海軍大演習のとき陛下の拝謁を受けているのです。

しかし、それは黒澤氏がせいぜい二十歳そこそこの頃。
ゆうに半世紀昔のことです。
しかも、何十人が居並ぶ士官の、さらに最もひよっこである
一士官候補生の顔を、なぜ陛下が覚えておいでになったのか。

仮に若き日の黒澤氏が非常に印象的な候補生だったので
陛下は目に留められたのだとしても、二十歳の若者の面影を、
当時七十歳を超えていた黒澤氏の上に認められたとは・・・。

この天皇陛下の神のような記憶力と、陛下がかつての自分を
記憶に留めておられたことに対する黒澤氏の感激は、
いかばかりであったでしょうか。









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