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P-3Cエンジン部品換装作業を見る〜海上自衛隊八戸航空基地

2018-06-25 | 自衛隊

 

日本国自衛隊は、陸海空そのいずれもが航空機を持っています。

航空自衛隊はもちろん固定翼機、回転翼機のいずれもを、そして
陸自は陸上で展開するための回転翼機のみを所有しています。

これに対し回転翼機、飛行艇、そして固定翼機を保有するのが海自です。

飛行艇US-2は洋上着水して救難を行う固定翼機ですが、旧海軍時代の
二式大艇の流れを受け継ぐものなので、海自が運用するのはある意味当然でしょう。
回転翼機は艦(ふね)に乗せるのですから海自が所有するのが当たり前。

なぜ海自が運用しているのか素人にはわかりにくいのがP3-Cです。
もちろん、「対潜哨戒機」という本来の用途を知ればその意味は明白ですが、
近年海自では「対潜」の文字をを取って「哨戒機」としているとか何とか。

つまり、

「ASW:Anti Submarine Warfare aircraft 」

ではなく、

「MPA:Maritime patrol aircraft」

です。
これは決して反戦派への忖度などではなく、昔の潜水艦だけ相手にしてた頃に比べ、
高性能なレーダーや赤外線監視装置の導入で水上艦にも対応できるようになったこと、
洋上監視、捜索救難支援、軽貨物輸送、映像・電波情報収集、通信中継など、
任務の多目的化が進んだからだそうです。

 

八戸基地は海上自衛隊の基地でありながらポートはポートでも
エアポートなので、
艦艇を持ちません。

「うちは、そのため気質的には空自に近いかもしれません」

この日訪問し、施設見学をした八戸基地で司令はこのように言いました。


海自と空自の気質の違いというのが具体的にはどんなものなのか、
わたしはここで説明できるほど内部に詳しくないのですが、
一般的に三自衛隊の傾向は

「用意周到 動脈硬化(頑迷固陋)」陸自

「伝統墨守 唯我独尊」海自

「勇猛果敢 支離滅裂」空自

とされており、このブログの読者の方々であれば、おそらく
海自についてはその所以について説明する必要もないでしょう。


旧陸軍を頑ななまでに否定して生まれたのが陸自、
航路啓開の任務をきっかけに旧海軍の組織とやり方を継承した海自。

陸海には旧軍に対する正反対の向き合い方があるわけですが、
そういったしがらみが全くなく、戦後ゼロからの出発となったのが
航空自衛隊です。

ただし、黎明期の空自には旧陸海軍の搭乗員が集まってきたため、
特に元士官同士で、それはそれは根の深い対立が起こりました。

ただでさえ戦時中反目し合っていたのが呉越同舟となったのですから、
その確執は想像に余りあります。

しかし、不幸中の幸いというのか、国内の旧軍飛行場は終戦後、全て
アメリカ軍はじめ連合軍に接収されていたこともあり、その流れで空自は
陸海どちらでもなく、アメリカ軍のやり方が主流になったと言えるかもしれません。

ただし、アメリカのエアフォースというのは戦後(47年)生まれ。
こちらは陸軍航空隊が主流になっていましたが、いかんせん歴史が浅く、
よく言えば因習にとらわれないリベラルな自由闊達さが、悪く言えば
言葉通り支離滅裂というかアナーキーな体質が醸成されたのでしょう。

かたや海自P-3C部隊のルーツをたどれば、航空偵察部隊の「彩雲」でしょうか。
しかし対潜哨戒機部隊となると、海軍には

東海(九州飛行機製作)

という幻の飛行機にその片鱗が見られるだけで、厳密な意味での
P-3C部隊のルーツは存在しないと言ってもいいのかもしれません。

つまり同じ海自でも水上艦と違い航空隊に「伝統墨守」は微妙に当てはまらないのです。


新生海上自衛隊の固定翼機部隊は、アメリカからの引退寸前の
お古飛行機をもらって
運用することから始まりました。

最初に導入した対潜哨戒機は、「おおわし」と名付けられたアメリカのP2V-7で、
(現在鹿屋に機体が展示されて見ることができる)
特筆すべきは、
この時最初の搭乗員となった海自隊員は、渡米して操縦
訓練を行い、
向こうで機体を受け取ってきたということでしょう。

この時点で、海自固定翼部隊からは旧海軍のしがらみというのが
ほぼ払拭され体質的に生まれ変わった、とわたしは考えます。

つまり、群司令がおっしゃった「空自に近い空気」というのは、
単に「フネを扱わない」ということのみならず、アメリカの血
(しかもそのアメリカ空軍も新生で根無し草的体質だったりする)

を初期に導入したということにあるのではないかと洞察するものです。

その意味では、やはり最初の艦をアメリカで受け取ってきた潜水艦も、
例えば魚雷発射の時に「テー」ではなく「ファイアー」と号令するなど、
微妙に海軍とは別組織のかほりを身につけて今日に至るのではないか、
とわたしは思ったりしますが、正直どちらも推測の域を出ません。



現群司令が前職だったとき、進水式や引き渡し式でお会いすると、

「私、飛行機なので、こういう式典って本当に珍しいんですよ」

と式典に出た地本の陸自隊員と全く同じことをおっしゃっていたのを思い出します。
司令の同期だという航空整備出身の海将補も、

「この配置(艦艇装備関係)になって生まれて初めて進水式を見た」

といっておられましたっけ。

ともあれ艦(ふな)乗りと飛行機乗りが存在する唯一の自衛隊が海自です。
そしてこれは素人にもわかりますが、両者は文化が違えば気質も違ってくるわけで、
もちろん彼我に対する基本的な知識の欠如といった問題も起こります。

そしてその話を裏付けるような、こんな笑い話?を司令ご自身から聞きました。

かつてトルコ駐在武官であったときのこと、おそらくですが、
艦艇の入港に関する連絡を電話で受けていたところ、相手が言った
「Pontoon」という単語がわからず、その意味を聞き返したのだそうです。

すると相手は大いに驚き、

「貴官ハ海軍士官ニアラザルヤ」

と(もちろん英語で)聞いてくるので、

「我航空士官ナリ」

と(もちろん英語で)答えたというお話。

 

 

さて、八戸航空基地見学に戻ります。

P-3Cの内部を見学し、操縦席に座らせてもらって、中の説明を受け、
搭載武器についても実物(ダミーかもしれませんが)を見せてもらい、
車で移動して別の格納庫にやって来ました。

そこには、翼のところに作業台を置いたP-3Cがいました。

「今からエンジンの部品交換をします。
部品を外して整備済みのものと交換する作業です」

脚立の上には合計三人の整備員が乗って折しも作業中。
これはもしかして、ものすごく貴重なシーンを見せてもらえるのでは・・・。

「しゃ、写真撮ってよろしいんでしょうか」

「大丈夫です」

そこで、大胆にも作業をしている台の真下まで近づいてみました。
3番エンジンです。

座っている二人が、ちょうど部品を外す作業を済ませ、取り外し中。
後ろの人は手を滑らせても部品が落下しないように牽引して支えているようです。

外した部品は右の人の脚の向こう側にあります。

左の人が外した部品を置く場所に手早く毛布を敷きました。
手前の人の体に遮られて見えませんが、二人で部品を毛布の上に移しています。

向こうの人の名札には「整備 検査」と書かれています。

そしてこちらには調整検査済み部品がスタンバイしています。
どこかで調整してから、台車でここまで運んで来た模様。

毛布に乗せた部品は、作業員二人を乗せたまま電動でウィーンと下げられました。
それを、同じ高さにあげられた台車の上に乗せて、こちらも電動で下に降ろします。

とにかく、手渡しで上から下に、という危険なことは絶対に行いません。

部品はこのような大きさなので、一人で持てないこともないと思うのですが、
黄色い木製の専用台の上に乗せて慎重の上にも慎重を期しています。

 

ところで、すごく基本的な疑問なのですが、
この部品って、なんなんでしょうか(爆)

そこで大胆にも外した後のエンジンマウントのなかをのぞいてみました。

毛布が敷いてある上の空間が、部品のあったところです。
前部は右側の中央にノズルのあるところにはめ、後部は
比較的太めの黒いチューブにつながるのだと思われます。

ということで、わからんなりにコンプレッサーでは?と推察してみました。

違ってたら大恥ですが、ここで恥をかくのはもう慣れっこなので平気です。
みなさん、ぜひ正解を教えていただきたく存じます。

わたしがエンジンルームの中を覗き込んでいる間に、無事
取り外した部品はこれから取り付けるもののところにたどり着きました。

奥が今取り外したもの、これから取り付ける部品は台の上です。

ところでですね。

わたしは、ちょうどわたしたちが車でここに到着したその時に、
換装作業が「ヤマ場」、つまりちょうど部品を外すところであったのが
あまりにもタイミングが良すぎる、と不審に思ったわけです。

こういうときの自衛隊がそれこそミリミリで物事を進めることを
今までの経験から知っていたので、もしかしたら、ここの整備の人たちが、
私たちの到着予定時間に合わせて準備をして、ちょうどここに来る時間に
ぴったり部品の取り外しを見せてくれたのでは?と考えました。

その後、高松での掃海隊殉職者追悼式に出席したわたしは、式前日の
「うらが」艦上でのレセプションで、固定翼操縦出身の呉地方総監に
このことを伺ってみました。

「あの作業って、わたしたちの到着に合わせて行われたんでしょうか」

「そうでしょうね」

「つまり、ちょうど外すところを見せるために?」

「そうです」

言下に肯定されて、またしても、

「わたしたち二人のために、そこまで・・・」

と恐縮するとともに、海上自衛隊おそるべし、と舌を巻きました。

このツールデスクにもびっくりさせられましたよ。

このデスクは蓋がそのまま天板になる仕組みで、特別に制作されたらしい、
ぴったり工具の形をした窪みにツールが整然と収まっています。

全ての工具が一覧でき、一つでも回収できていなければすぐにわかる仕組み。
作業が終わってデスクを片付けるときには、工具に不足がないか、
必ず点検を行うのだそうです。

「工具の置き忘れなどを防ぐための工夫です」

なるほど、あわてんぼうの外科医が患者のお腹に器具を置き忘れる如く、
エンジンルームの中に工具を置き忘れるというようなことがないようにですね。

また、航空機の場合、プロペラから異物を吸い込むことが重大なインシデントとなります。

コンコルドの事故のように、他の飛行機の破片をタイヤが踏んで破裂したことが
原因で墜落することだってあるので、アメリカ空母の甲板では、

「フォッド・ウォーク・ダウン」(FOD Walk Down)

といって、乗員が総出で端から端まで歩いて異物やゴミなどを拾う、
という作業がこの手の事故を避けるために行われたりしています。

Foreign Object Debris Walk-down On Supercarrier USS George H.W. Bush

小さなネジ一本もきっちり使用後は元に戻し、それを点検することで
この基地ではインシデントの原因を取り除いているのです。

デスクの下は棚になっていて、まず右端は先ほどの部品を
乗せて上げ下ろしするための木の台を収納する場所です。

作業で出たゴミは、可燃不燃、銅線、安全線に分別して
きっちりと缶に捨てることになっています。

これも格納庫内に異物を残さないための小さな工夫です。

 わたしたちが促されて次の見学のために歩き出したときには、
調整済みの部品を換装する作業に入っていました。

同じ格納庫の隅のショップでは、白い防護服を身につけた人たちが、
室内で行われている作業を外から見ている様子です。

彼らの作業姿と、室内が全てビニールで覆われているところを見ると、
中では塗装作業が行われていたものと思われます。

 

この写真に写っている柱に、安全標語があります。

「安全は心で流すな 鼻で守れ」

で・・・いかにも現場ならではの経験から出たらしい言葉ですね。

 

続く。

 

 

 

 



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5 Comments

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陸軍航空部隊 (Unknown)
2018-06-26 20:35:23
なぜ太平洋戦争で陸軍航空部隊が活躍出来なかったかというと、陸軍航空部隊は地形を見て飛ぶので、海の上を飛ぶのは苦手だからです。

これは今でもそうで、一昨年公開の映画シン・ゴジラで多摩川を越えさせないように自衛隊が防衛線を引いて、ゴジラを迎え撃つ場面で登場する陸上自衛隊の戦闘ヘリコプターに対して「アパッチは武蔵小杉駅上空で待機」と司令部が指示します。

映画だから、わかりやすいように武蔵小杉駅上空と言っているのかと思って陸自の人に聞いたら、地形を見て飛ぶので、実際でもああなるとのことでした。
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901航空隊 (お節介船屋)
2018-06-26 13:48:18
海軍護衛総隊901航空隊が対潜航空部隊、これを育てていればと悔やまれる組織です。96式陸攻、97式大艇
「東海」は九州飛行機に担当させ試作、試験中から量産を開始したため、故障が多く戦争末期になったので当部隊にも昭和20年配備されました。
Wikiにもあるとおり、対潜航空機部隊のルーツであるが、性能が余り良くないレーダーでも装備、艦船攻撃にも使用され、消耗も激しく、思うような成果は上げられませんでした。使い方が?
海軍対潜航空部隊の基幹部隊でありルーツであったでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E3%80%87%E4%B8%80%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%9A%8A
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航空部隊 (お節介船屋)
2018-06-26 10:08:14
風土、生まれ、成長で違ってくる事が致しない事なのかな?
帝國海軍、陸軍各々航空隊を持っていましたが航空戦はほぼ海軍航空隊で戦っていたと言っても過言ではないのでしょうか。
日華事変から渡洋爆撃が出来たのは海軍航空隊、多大な損害を出しながら陸軍作戦を支援しましたが、太平洋戦も陸軍航空隊は海軍が誘導しても島伝いの移動も困難でした。本土防空も?であったのに、陸軍は政治的に強く、機材の融通も利きませんでした。
数少ない空軍が独立していたドイツ、イタリアの戦いもバトルオブブリテンで、戦闘機の航続距離が短く、爆撃機の護衛がなく、敗れ、海軍艦艇の沿岸航行の防空も実施出来ませんでした。
合理的なアメリカなのに対日戦は陸海軍2正面作戦で攻めてきましたが、航空部隊は両軍とも多大な活躍をしました。陸軍航空隊も重爆撃機や航続力、戦闘力の高い戦闘機が島伝いに侵攻し広大な太平洋でも存分に活躍しました。

戦後カナダ軍は統合軍で服装も一緒でしたが軋轢が多く、10年も経たない期間で実質分かれ、正式には2011年各々独立しました。
イタリアも戦後長く、航空機を空軍に集約しており、海軍には空母「カブール」「ジョゼペ・ガルバルディ」2隻がありますが、ハリアーの除籍後は空母らしく有りません。

戦う場所、戦い方、運用、訓練、育て方が違っていて、考え方も各々違う事は致し方ないと思われます。要は各々を良く理解して色んな戦いに統合力で柔軟に上手く適合させる努力でしょう。
「いずも」「かが」へのF-35B搭載も空海自衛隊がどう考えて運用するのか搭載可能の判断だけでなく、育て方、整備面、運用面等大きな課題を良く捉えて十分にすり合わせが必要でしょう。JMUの会社の検討では不十分と思います。香田元自衛艦隊司令官が対潜戦を考え反対されていますが、少ない艦艇を如何に使用するかは各国の現代の悩みであり、有効利用の必要があると思います。

エリス中尉の勘違いを一つ訂正
陸自も固定翼機は少ないですが長く保持しています。連絡偵察機(現在はLR-2)
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一蓮托生 (Unknown)
2018-06-26 05:33:36
海上自衛隊航空部隊は海軍の伝統を継いでいるところもあります。海軍の航空部隊は今の言い方(米軍の言い方)で言う「クリュー」制です。

戦闘機のように単座の機体はなく、ヘリコプターで3人。固定翼哨戒機なら10人搭乗しますが、その際のチームメンバー(クリュー)は固定です。これは船の乗組員と同じ考え方で一蓮托生が根底にあります。海軍では機長の名前を取って、その機体に搭乗するクリュー一同を「近藤家」とか言っていたようです。

これに対して、航空自衛隊や米空軍、恐らく民間のエアラインもそうですが、フライト毎にチームの編成が変わります。機長と一蓮托生という意識はないんじゃないかと思います。

ヘリコプター搭載護衛艦が登場してから海上自衛隊の航空部隊は変わりました。以前は固定翼も回転翼も「航空部隊」で船とは別の軍隊?のように、船の人間は感じていましたが、今ではヘリコプターの人達は同じように船に乗って来て、遠洋航海や海外派遣でも行動を共にするので、固定翼と船+ヘリコプターに分かれて来たように感じます。

固定翼と回転翼部隊の間でパイロットや整備員の人事交流があまりないのもそれに拍車を掛けていると思います。なぜだか、固定翼機出身の将官は毎年で登場しますが、回転翼機出身の将官は数年に一度しか出ません。
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もしかして? (うろうろする人)
2018-06-25 23:01:55
取り外されたエンジンの不明部品ですが、「エンジン内を覗いた画像」のエンジン表面パネルに記されているステンシル文字の注意書きが答えでは無いでしょうか?燃料ストレーナーと有りますが??
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