このブログを始めて以来、何度かこの言葉を必要上挙げてきました。
「スプートニク・ショック」
米ソが宇宙開発競争に入ったのは、宇宙ロケット開発に必要な技術が
イコール最終武器となるミサイルであり、戦後の東西2大国となった米ソが
互いの軍事バランスを保ちながら相手より少しでも先んじようとしたからでした。
それまでなんの根拠なく自国の優位性を信じて疑わなかったアメリカが
天狗の鼻をへし折られ、実は周回遅れというくらいこの方面において
ソ連に引き離されていると知った事件、それがスプートニク打ち上げだったのです。
イコール最終武器となるミサイルであり、戦後の東西2大国となった米ソが
互いの軍事バランスを保ちながら相手より少しでも先んじようとしたからでした。
それまでなんの根拠なく自国の優位性を信じて疑わなかったアメリカが
天狗の鼻をへし折られ、実は周回遅れというくらいこの方面において
ソ連に引き離されていると知った事件、それがスプートニク打ち上げだったのです。
今日はスミソニアンの展示から、スプートニク・ショックに始まる
アメリカの挫折と、ソ連への挑戦についてお話しします。
アメリカの挫折と、ソ連への挑戦についてお話しします。
まず、冒頭のパネルには、
SPUTNIK!
という!付きの一言がタイトルになった記事があります。
この一言だけで、アメリカ国民の当時のショックが如何なものか、
今の人たちにも十分に伝わるということなのでしょう。
その下の「First Satellite」は、もちろんスプートニクが人類初めての
人工衛星であったことを意味します。
ところで、皆様は、その後しばらくアメリカのトラウマともなった
スプートニクとは、どんなものだと考えておられましたか?
衝撃の大きさの割に、その実寸はあまりにも小さなものでした。
スプートニクとは、どんなものだと考えておられましたか?
衝撃の大きさの割に、その実寸はあまりにも小さなものでした。
「1957年10月4日。
ソビエト連邦は、スプートニク衛星の打ち上げで世界を驚かせました。
無線送信機を含む光沢のあるバスケットボールサイズの球体であるスプートニクは、
まさに宇宙時代の始まりを告げるものとなったのです」
ソビエト連邦は、スプートニク衛星の打ち上げで世界を驚かせました。
無線送信機を含む光沢のあるバスケットボールサイズの球体であるスプートニクは、
まさに宇宙時代の始まりを告げるものとなったのです」
「バスケットボールと同じ大きさ」ですよ。
わたしもこの事実を知ったとき、思わず嘘でしょ、と声に出してしまいました。
■スプートニク
わたしもこの事実を知ったとき、思わず嘘でしょ、と声に出してしまいました。
■スプートニク
スプートニク(Спутник、ロシア語で『衛星』の意)は、
ソ連の宇宙開発計画で打ち上げられた宇宙船です。
18世紀からあった言葉で、接頭辞s-は「共に」、「旅人」のputnikで
「仲間の旅人」を意味し、英語の「衛星」の起源である
ラテン語の語源satelles(「護衛、従者、仲間」)に対応する意味を持つので、
これ以降、『衛星』『人工衛星』という意味になりました。
それ以前は衛星という物体がなかったんですから、名前もなかったんですね。
スプートニク1号はソ連の宇宙計画の一環として、地球低軌道に打ち上げられ、
電池が切れるまで3週間ほど軌道を周回し、1958年1月4日、
大気圏に突入するまでの2ヶ月間、地球を静かに周回していました。
形状は直径58cmの磨き上げられた金属製の球体で、
4つの外部無線アンテナを持ち、無線パルスを発信します。
電波信号はアマチュア無線家に容易に探知され、傾斜角65°の軌道の長さにより、
飛行経路は人が住む地球全体をほぼカバーしていました。
この衛星の予期せぬ成功は、アメリカの「スプートニク危機」(クライシス)
を引き起こし、冷戦の一環である宇宙開発競争の引き金となります。
■スプートニク・クライシス(危機)
1957年10月13日、日曜日のニューヨークタイムズに掲載された戯画です。
窓の外を通過するスプートニクがけたたましく鳴らす警報に
眠りから叩き起こされた老人がこう言っています。
「起きたぞ。やっとな!」
窓の外を通過するスプートニクがけたたましく鳴らす警報に
眠りから叩き起こされた老人がこう言っています。
「起きたぞ。やっとな!」
さて、この爺さんは一体誰なのでしょうか。
どうもあの「君が必要だ」の「アンクル・サム」(U.Sでアメリカの擬人化)
みたいな気がするのですが、ベッドのヘッドボードを見るとこう書いてあります。
どうもあの「君が必要だ」の「アンクル・サム」(U.Sでアメリカの擬人化)
みたいな気がするのですが、ベッドのヘッドボードを見るとこう書いてあります。
「complacence」
コンプラセンスとは、自己満足とか独りよがり、そんな時に抱く気持ちのことです。
アンクル・サムがスプートニクに警鐘を鳴らされて飛び起きた寝床は、
アメリカ合衆国がこれまで甘んじてきた我こそ世界一の科学技術大国、
という「自己満足」に過ぎなかっただろう、とNYTは言っておるわけですな。
このパネルに、「マイルストーンコーナーにスプートニクのレプリカがある」
と書いてあったので、慌てて写真を全部調べて見たら、
なんとか小さく写っていたのが一つだけ見つかりました。
と書いてあったので、慌てて写真を全部調べて見たら、
なんとか小さく写っていたのが一つだけ見つかりました。
こりゃ普通に見ていたら気づかないわ・・・。
ロスアンジェルスタイムズ。
一面全部をスプートニクのニュースに上げています。
ヘッドラインは、
「ロシアが史上初の地球衛星を560マイルの空に打ち上げる」
カナダのデンバーポスト。
「ロシアの”月”(衛星のこと)560マイル上空を18,000MPHで周回」
560マイルは901キロくらいとなります。
さすがカナダ、対岸ならぬ北緯49度の向こうの火事とばかり、
ショックを受けるアメリカの象徴として、慌てる科学者の写真を
なぜか一面トップに持ってきたのがちょっと人ごとという感じです。
3人の科学者(字が潰れてしまい誰かわかりません)は、
コースタイムのチャートを作成しているところなのだとか。
カナダのデンバーポスト。
「ロシアの”月”(衛星のこと)560マイル上空を18,000MPHで周回」
560マイルは901キロくらいとなります。
さすがカナダ、対岸ならぬ北緯49度の向こうの火事とばかり、
ショックを受けるアメリカの象徴として、慌てる科学者の写真を
なぜか一面トップに持ってきたのがちょっと人ごとという感じです。
3人の科学者(字が潰れてしまい誰かわかりません)は、
コースタイムのチャートを作成しているところなのだとか。
ニューヨークタイムズも大体同じような感じですがちょっと長いですね。
一応3行でまとまっていますが、ヘッドラインとしてはいかがなものか。
「ソヴィエトは宇宙の衛星から地球を攻撃する;
地球を18,000MPHで周回;
184パウンドの球体からの信号を感知」
一応3行でまとまっていますが、ヘッドラインとしてはいかがなものか。
「ソヴィエトは宇宙の衛星から地球を攻撃する;
地球を18,000MPHで周回;
184パウンドの球体からの信号を感知」
83キロのドッジボールは地球を「攻撃」fireしたわけではありませんが、
これこそがアメリカ国民が一斉に考えたことでした。
かつて日本軍が空母から発進した飛行機で本土を撃したとき、
「その手があったか」と驚愕し、総パニックに陥ったのとほぼ同じ状態です。
このドッジボール地球周回の成功が、つまり空からの攻撃につながる、
という人心の不安をそのまま言葉に表したのが、このヘッドラインと言えます。
デンバーポストは、またこうも書いています。
Red Say ’Moon Next’ In Race Into Space
「次は月だ」赤は言う レースは宇宙へ
ソ連をわかりやすくレッドと一言で呼ばわっております。
各新聞が一斉に掲載したスプートニクの地球周回航路。
さすがにアメリカ上空は飛ばなかったんですね。当たり前か。
■ RACE BEGINS(レース開始)
と言うわけで米ソの宇宙開発競争が始まってしまうわけですが、
スプートニク・クライシス以降は、ずっとソ連のターンのままでした。
スプートニク・クライシス以降は、ずっとソ連のターンのままでした。
「スペースレース」の初期の頃、「成功」とはつまり「ファースト」=
最初のヘッドラインをマークすることを意味しました。
「最初の衛星」「月への最初の無人宇宙船」「最初の宇宙」、
「最初の宇宙に行った女性」「最初の船外活動」・・・・。
最初のヘッドラインをマークすることを意味しました。
「最初の衛星」「月への最初の無人宇宙船」「最初の宇宙」、
「最初の宇宙に行った女性」「最初の船外活動」・・・・。
これらの「ファースト」はことごとくソビエト連邦によって達成され、
アメリカはその度に失望を焦りを繰り返すことになるのです。
しかしながら、このことは、負けず嫌いのアメリカにとって、結果的に
ソ連に追いつき、ソ連を追い越すための強いモチベーションの起爆剤となりました。
アメリカはその度に失望を焦りを繰り返すことになるのです。
しかしながら、このことは、負けず嫌いのアメリカにとって、結果的に
ソ連に追いつき、ソ連を追い越すための強いモチベーションの起爆剤となりました。
【スプートニク2と宇宙犬ライカ】
ライカさん・・・(涙)
アメリカ国民の「オクトーバー・サプライズ」からわずか1ヶ月後のことです。
ソビエトは次の衛星を打ち上げました。
今度のスプートニク「2」は先のものより大型で、
しかも「ライカ」と言う名前の犬を乗せていました。
スプートニク2号は重いペイロードを打ち上げることによって
ソビエトの高い優位性を示し、これによってソ連が間も無く
人間を宇宙に投入する可能性があることを示唆したのです。
1958年〜1961年の間、さらに6機のスプートニクが打ち上げられました。
これらは全て最初のものよりも大型で、人類の飛行のために
再突入と回収のための技術が改善されていました。
余談ですが、このライカがどうなったかというと、死にました。
享年2歳か3歳でした(-人-)
これらは全て最初のものよりも大型で、人類の飛行のために
再突入と回収のための技術が改善されていました。
余談ですが、このライカがどうなったかというと、死にました。
享年2歳か3歳でした(-人-)
そもそもどうして矢継ぎ早に2号を打ち上げたかというと、
フルシチョフが重要とみなす、10月革命40周年記念に当たる日が、
1号の1ヶ月後だったからというだけの?理由だったのです。
フルシチョフが重要とみなす、10月革命40周年記念に当たる日が、
1号の1ヶ月後だったからというだけの?理由だったのです。
ソ連はそれまでにも12頭の犬を弾道飛行で打ち上げており、
初めての軌道上飛行に犬を乗せれば世界が驚くんでないかい?
とフルシチョフの側近が思いついたのがライカ嬢の不幸でした。
初めての軌道上飛行に犬を乗せれば世界が驚くんでないかい?
とフルシチョフの側近が思いついたのがライカ嬢の不幸でした。
そんな事情だったので2号の建造はほぼ突貫工事状態で、
最低限の「打ち上げた」と言う結果だけを求めたものでした。
ライカはモスクワの街角拾われた雑種の雌でした。
小さな檻に長期間閉じ込められるという「訓練」の後カプセルに乗せられましたが、
ミッション当時は、宇宙飛行が生物に与える影響についてほとんど知られておらず、
そもそもカプセルは軌道離脱の技術もまだ開発されていません。
ライカはとりあえず生命体を打ち上げると言う実験に使われただけで、
事実オーバーヒート(90℃以上)で打ち上げ数時間で死亡したと言われます。
最低限の「打ち上げた」と言う結果だけを求めたものでした。
ライカはモスクワの街角拾われた雑種の雌でした。
小さな檻に長期間閉じ込められるという「訓練」の後カプセルに乗せられましたが、
ミッション当時は、宇宙飛行が生物に与える影響についてほとんど知られておらず、
そもそもカプセルは軌道離脱の技術もまだ開発されていません。
ライカはとりあえず生命体を打ち上げると言う実験に使われただけで、
事実オーバーヒート(90℃以上)で打ち上げ数時間で死亡したと言われます。
その後スプートニク2号は死んだ犬を乗せて5ヶ月間軌道を回っていましたが、
ソ連政府は、ライカが数日は生きていたと微妙な嘘を広報しました。
ソ連政府は、ライカが数日は生きていたと微妙な嘘を広報しました。
ソ連の宇宙ミッションでは、通算で犬が71回打ち上げられ、
そのうち14匹が死亡しました。
バーズとリシチカは1960年7月28日にR-7ロケットが発射直後に爆発して死亡。
プチョルカとムシュカは1960年12月1日にスプートニク3が大気圏再突入後、
軌道を外れたため、カプセルに仕込まれた爆発物で破壊されました。
これは他国の手にカプセルが渡らないための策です。
そのうち14匹が死亡しました。
バーズとリシチカは1960年7月28日にR-7ロケットが発射直後に爆発して死亡。
プチョルカとムシュカは1960年12月1日にスプートニク3が大気圏再突入後、
軌道を外れたため、カプセルに仕込まれた爆発物で破壊されました。
これは他国の手にカプセルが渡らないための策です。
ロシアの宇宙飛行士訓練施設であるスターシティには、
耳を立てて宇宙飛行士の後ろに立つライカの銅像とプレートがあります。
1964年に建てられた「宇宙征服者記念碑」にもライカの名前が刻まれています。
また、2008年にも宇宙ロケットの上にライカを乗せた記念碑が除幕されており、
ライカを描いた切手や封筒、ブランド物のタバコやマッチが存在します。
■スプートニク5のリカバリー
スプートニク回収の指示カード
1960年8月、ソ連では最初にカプセル回収に成功したスプートニク5号。
これには、ベルカとストレルカと言う二匹の犬を乗せていました。
中に人入ってね?
これには、ベルカとストレルカと言う二匹の犬を乗せていました。
中に人入ってね?
ご安心ください。
今回のベルカとストレルカは、最初から「回収」が目的だったため、
訓練で最も優秀な成績を残したエリートとして彼らが選抜され、
同じく打ち上げられたうさぎ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、
そしてたくさんの植物や菌類と共に地球を17周して帰還したのです。
カプセルに内蔵された写真のカードには、回収ゾーンを外れた場合に備えて、
見つけた人は必ずすぐに地元の役人に連絡するようにと書いてありました。
カプセルは開けないこと、着陸した場所に置いておくこと、
とも書かれているようです。
今回のベルカとストレルカは、最初から「回収」が目的だったため、
訓練で最も優秀な成績を残したエリートとして彼らが選抜され、
同じく打ち上げられたうさぎ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、
そしてたくさんの植物や菌類と共に地球を17周して帰還したのです。
カプセルに内蔵された写真のカードには、回収ゾーンを外れた場合に備えて、
見つけた人は必ずすぐに地元の役人に連絡するようにと書いてありました。
カプセルは開けないこと、着陸した場所に置いておくこと、
とも書かれているようです。
ちなみに二匹の犬は無事に帰還後、ソ連の研究所で余生を送りました。
ストレルカが産んだ子犬プーシンカは、おそらくマウントを取るために、
その後ジョン・F・ケネディへの贈り物にされてアメリカに渡り、
そこでテリアのチャーリーとの間に子犬を産みました。
■ ルナLUNA3 の月周回
ストレルカが産んだ子犬プーシンカは、おそらくマウントを取るために、
その後ジョン・F・ケネディへの贈り物にされてアメリカに渡り、
そこでテリアのチャーリーとの間に子犬を産みました。
■ ルナLUNA3 の月周回
最初のスプートニク打ち上げからちょうど2年後の1959年10月4日、
ソビエト連邦は最初の宇宙船で月の周りを回りました。
ソビエト連邦は最初の宇宙船で月の周りを回りました。
ルナ3号は、月の裏側の画像を記録し、地球に放送したのです。
裏側画像
1ヶ月前、ソ連は合計5回のトライに失敗しており、
さらにルナ2号宇宙船が月に衝突するという失敗を乗り越えての快挙でした。
月の裏側の画像は、1959年に出版された、ソビエト宇宙計画のチーフである
セルゲイ・コロリョフが妻に送ったルナ3号の画像本からのコピーだそうです。
コロリョフ
コロリョフについてはまた別の日に、アメリカのカウンターパートである
フォン・ブラウン博士と共に語ることがあるかもしれません。
書かれた文字は彼の自筆で、
「ソビエト科学の素晴らしい業績の良き思い出と共に」
フォン・ブラウン博士と共に語ることがあるかもしれません。
書かれた文字は彼の自筆で、
「ソビエト科学の素晴らしい業績の良き思い出と共に」
とあるそうです。
■ ソビエトの「秘密」
ソビエト連邦は当時宇宙技術における世界のトップを走っていましたが、
その宇宙計画について、西側諸国ではほとんど知られていなかったのも事実です。
ミッション、プログラムマネージャー、エンジニアの身元に関する詳細な情報は、
厳重に守られた最高レベルの国家機密でした。
何十年にもわたってその存在が隠されていたエンジニアであり宇宙飛行士、
コンスタンチン・フェオクティストフのノートには、
1958年から1959年までの初期のソビエト宇宙計画に関する
舞台裏の洞察が記されているのだそうです。
その宇宙計画について、西側諸国ではほとんど知られていなかったのも事実です。
ミッション、プログラムマネージャー、エンジニアの身元に関する詳細な情報は、
厳重に守られた最高レベルの国家機密でした。
何十年にもわたってその存在が隠されていたエンジニアであり宇宙飛行士、
コンスタンチン・フェオクティストフのノートには、
1958年から1959年までの初期のソビエト宇宙計画に関する
舞台裏の洞察が記されているのだそうです。
フィオクチストフ(Konstantin Feoktistov)
ナチス占領下で彼はSSに捕まり、銃殺刑に処されるも、
弾丸が貫通したため死体置き場から這い出して命永らえたと言う人です。
弾丸が貫通したため死体置き場から這い出して命永らえたと言う人です。
「極秘」と記された検閲スタンプが押されたフィオクチトフのノート。
1989年に公開されました。
1989年に公開されました。
このメモは、各宇宙船コンポーネントを担当する研究機関と設計局のリストです。
これらの組織はソビエト科学アカデミー、国防省、その他の組織から集められ、
彼はその名称を全て略語で記しています。
有人宇宙船のスケッチが含まれており、これは
スプートニクの直後から宇宙飛行士の打ち上げが勘案されていたことを示します。
ちなみに1969年10月、フェオクティストフはNASAのゲストとして
アメリカ国内を旅行し、好きな都市を訪ねています。
この旅行には、ユージン・サーナン、ニール・アームストロングなど、
アメリカの宇宙飛行士たちもホストとして参加していました。
ハリウッドでは、カーク・ダグラスらがレセプションを開き、
ユージン・サーナンに連れられて行ったバーなどにバンドがあれば
必ず「Fly Me to the Moon」が彼のために演奏され、
カリフォルニアのディズニーランドでは「Trip To The Moon」と言う
月探検のアトラクションを楽しみ、アメリカの宇宙飛行士たちと
「月じゃなくて、ディズニーランドに行ったんだ♪」
と冗談を言い合うなどして大いに国際的な友情を育んだようです。
アメリカ国内を旅行し、好きな都市を訪ねています。
この旅行には、ユージン・サーナン、ニール・アームストロングなど、
アメリカの宇宙飛行士たちもホストとして参加していました。
ハリウッドでは、カーク・ダグラスらがレセプションを開き、
ユージン・サーナンに連れられて行ったバーなどにバンドがあれば
必ず「Fly Me to the Moon」が彼のために演奏され、
カリフォルニアのディズニーランドでは「Trip To The Moon」と言う
月探検のアトラクションを楽しみ、アメリカの宇宙飛行士たちと
「月じゃなくて、ディズニーランドに行ったんだ♪」
と冗談を言い合うなどして大いに国際的な友情を育んだようです。
国同士は冷戦中でも、同じ宇宙飛行士同士、
互いに尊敬し親密になるのはある意味当然と言ったところでしょう。
互いに尊敬し親密になるのはある意味当然と言ったところでしょう。
いやー、いい話だなあ。
続く。