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米国商船部隊と「メレディス・ヴィクトリー」号の難民救出〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

去年の夏はこれまで何年間も連続して必ず一年に一度は滞在していた
サンフランシスコなど西海岸に初めて行けずじまいでした。

そして何の因果か、いまだにこの博物館のあるピッツバーグにいて、
毎日前を車で通っていますが、最後に見学したのは2019年の夏です。

まだピッツバーグにいるうちにシリーズを終わらせてしまいましょう。

 

■ アメリカ合衆国商船部隊

例年ベイエリアに滞在することがあれば、必ず一度は歩きに行っていた
サンフランシスコ空港近くのコヨーテポイントレクリエーションエリア、
そののトレイルが繋がる緩やかな丘の斜面には、
かつてマーチャント・マリーンのアカデミーがありました。


その跡地を表す石碑を見つけたことから、ここでも一度
その教育組織についてお話ししたことがあります。

ここピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館には、
あまり他の軍事博物館には見られないマーチャント・マリーン、
アメリカ合衆国商船にかかわる展示がありましたので、
日本人があまり知らないこの組織についてもう一度お話ししておきます。

アメリカ合衆国商船(マーチャント・マリーン)とは、
アメリカの民間の船員、そして民間あるいは連邦が所有する商船の総称です。

民間の船員と商船は、いずれも政府と民間部門の組み合わせによって管理されており、
アメリカ合衆国が航行を可能とする海域を出入りする商品や
サービスなどの商取引、あるいは輸送を行っています。

商船は平時、物資や貨物と輸送を担うというのは当たり前のことですが、
アメリカの場合、国家が戦争に入った時には、商船が軍の補助任務、
軍事物資や兵力の輸送を行うことが法律で取り決められているのです。

このことは、

「商船隊は有事には第四の防衛軍となる」

という言い方で規定されているわけです。

日本の商船組織と大きく違うのは、指揮官に将校のランクが与えられていることで、
この将校はしばしば国防総省から軍の将校に任命されることもあります。

以前ここで取り上げたドイツ潜水艦対アメリカ駆逐艦映画、
「眼下の敵」(The Enemy Below)で、主人公の駆逐艦の艦長
(ロバート・ミッチャム)が
民間のキャプテン出身だったという設定を覚えておられるでしょうか。

あれもこのシステムをわかっていない人が見ると、なぜいきなり民間人が
駆逐艦の艦長に任命されるのかと不思議に思うでしょう。

実はマーチャント・マリーンの将校であった主人公(ミッチャム)が
そのまま駆逐艦長にスライドしてくるという設定はあり得ないことではないのです。

映画ではそのことが当初部下の漠然とした艦長への不信感につながっていたわけですが、
それが払拭されたのは戦争が始まったからでした。

開戦当初は誰しもが実戦など経験したことはないので、いざそのときになって
この艦長が「できるやつ」であるのを目の当たりにした、というわけです。


おそらくあの主人公が非常時に駆逐艦の配置に回されたということイコール、
それだけ民間船での実力が評価されていたという設定であったのでしょう。

ただし、やはりそれはあくまでも映画としての創作で、実際は商船将校が
戦闘艦中の戦闘艦である駆逐艦長になることはありえません。

民間商船将校が軍艦艦長に任命されることがあったとしても、その任務は主に
戦略的運輸であり、将校の資格は無制限のトン数の船の船長でなくてはならなかったのです。

 

アメリカ合衆国マーチャント・マリーンが最初に戦闘に参加した最初の記録は
1775年、イギリスのスクーナーを相手に行った戦いとされています。

南北戦争でも民間船による通商破壊行動が戦略的に行われましたし、
第二次世界大戦では各種作戦行動中に310万トンの商船が失われ、民間船員は
26名に一人の割合で戦死しており、これは他の民間人の組織と比べて
最も高い死傷者率ということになっています。

これは我が国で徴用船の船員が多数失われたのと全く同じ構図です。

アメリカでは733隻の貨物船そして21万5千隻のうち8,651隻の民間船が失われましたが、
日本ではもっと多数にのぼります。

汽船主体;第二次世界大戦で喪失した日本の民間船

 

■「メレディス・ヴィクトリー」とラ・ルー大尉

SSMeredithVictory.jpg

これはアメリカの商船隊の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」です。

第二次世界大戦に投入するために建造されましたが、完成したのが
1945年7月24日であったこともあって、実際に配備されたのは
朝鮮戦争でした。

「メレディス・ヴィクトリー(Meredith Victory)」

はなぜかノースカロライナにある小さな女子大学、メレディスカレッジに因んでいます。

1950年、朝鮮戦争が始まったため、彼女はまず、
国防予備船隊としてワシントン州への配備を経て戦地に配備されました。

国防予備船隊(NDRF・National Dfence Reserve Fleet)

は、有事の際、軍事非軍事の如何を問わずアメリカ合衆国の求める
任務に就くために20〜120日以内に起動することができる商船で構成され、
軍艦ばかりから成る「米国海軍予備艦隊」とは全く別物です。

現在国内に三箇所(バージニア、テキサス、カリフォルニア)
非活性化された補助艦船ばかりを停泊する予備船隊の港が存在します。

こんな感じで浮かんでいます。
この予備船隊港のあるのはジェームズ川なので、水の色がこんななんですね。

さて、「メレディス・ヴィクトリー」が朝鮮戦争に投入されたとき、
艦長だったのは

レオナルド・ラ・ルー大尉(Cauptain Leonard LaRue )1914 – 2001

というペンシルバニア海事学校出身の士官でした。

アメリカでは軍人でなくても軍的階級を特例として与えられる場合が多々あります。
カーネル・サンダースはケンタッキー州から送られた称号のみの「名誉大佐」でしたし、
なんならうちのMKも州の資格試験を受けて救急隊員の資格を持っており、
もう少しやればルテナントの階級がもらえると言っていたような気がします。

余談ですが、ピッツバーグ近辺の大学は2月1日に学期が開始されました。
春休みは1日だけ(週末か月曜日にくっつけて三連休にはなる)になるそうです。

学期明けと同時に大学の組織である救急隊の待機任務も始まるようで、
2月第一週の1日はスタンバイルームに泊まり込みだということでした。

ほとんどがオンラインなので、先生の都合なのか、
夜の7時半から始まる授業もあるそうです。

 

ラ・ルー大尉の話に戻ります。

海の男のキャリアを商船から始めたラ・ルーですが、

第二次世界大戦が始まった時、「ムルマン・スクラン」という
連合軍の護送船団に乗って、ノルウェーとソ連のムルマンスクを往復していました。

危険な北極海、頻繁な悪天候、そして通商破壊活動を行うドイツ潜水艦。
これらはすべての航海を神経と忍耐力を要する恐ろしい試練に変えました。

1950年、朝鮮戦争が始まると、ラルー大尉は再び危険な海域で奉仕することになります。

戦略物資を供給するために何百もの商船が動員され、
食料や弾丸からバズーカやブルドーザー、地球半周離れた場所に必要なものを届けるため、
商船の乗組員は24時間体制のサポートを行いました。

 

朝鮮戦争中の韓国の港(パブリックドメイン)で軍隊への郵便物を持った商船。 朝鮮戦争中、韓国の港での商船

仁川上陸作戦始め朝鮮半島東海岸における多数の任務に参加した後、
ラルー大尉は北朝鮮の興南での勤務を命じられました。

この任務で彼の船「ヴィクトリー」級の貨物船、SS「メレディス・ヴィクトリー」は、
歴史の流れを変える軍事的および人道的作戦に参加することになります。

当時興南港では、朝鮮戦争の最大の水陸両用撤退およ米国史上最大級の戦闘条件下で
民間人の軍事的避難が行われていました。

これを受けて12月9日から24日までの5日間で、100隻近くの船に、
10万5千人以上の軍隊と装備、車両、物資を釜山に向けて輸送する任務が始まりました。

さらに、港に閉じ込められ、迫りくる中国軍の殺害の危険にさらされていた
10万人の北朝鮮の民間人も救助されることになりました。

■ 神の手

当時国連は朝鮮半島を放棄しようとしていました。
(まあ今も国連なんてなんの役にも立っていませんが、その話はともかく)

このとき、ラルー大尉は興南で、人員を載せることを全く想定せずに造られた
「メレディス・ヴィクトリー」に、船長判断で1万4千人の難民を積み込みました。

メレディスビクトリー1950に乗った難民

「メレディス・ヴィクトリー」外甲板上の難民、1950年12月。

このときの興南から釜山の南の島、巨済島への「メレディス・ヴィクトリー」航海は、
「人類史上最大(人数)の救助活動」として記憶する関係者もいます。

このとき「メレディス」に乗り込んだ難民は3日間腰を下ろすこともできず、
食料はもちろんのこと水、トイレもないという状態でしたが、
12月25日のクリスマスにラルー船長が巨済に船を着岸させ投錨を命じたとき、
1万4千人全員が全員が生きていただけでなく、船上で5件の出産があり、
しかも赤子は全員無事で生まれたのでした。

ラ・ルーは後にこのときのことを

「神の手がわたしの船の舵を取っていた」

と語っています。

 第二次世界大戦の海軍のベテランで「メレディス・ヴィクトリー」のオフィサーだった
ボブ・ラニーという人物はのちにこの時のことに絡めてこう言いました。

「戦争は爆弾とか悪人どもという面だけを持つのではありません。
しばしばそれは国家の完全性と国民の尊厳を維持することと同義です。
わたしたち乗組員はあのときそれをやったと思っています」

 

■ベトナム戦争から現在まで

ベトナム戦争においては、その継戦期間を通じて95%の戦争物資が
アメリカ商船部隊のサポートによって輸送されることになりました。

1966年には商船がアメリカ史上最も長距離となる
ボストンーサイゴン間、1万2千マイルの物資船団輸送を行いました。


時代は降り、湾岸戦争における「砂漠の嵐作戦」においては、
予備商船部隊の4分の3がアクティブとなりました。

戦争と戦争の間、「ビルドアップ」準備の期間には、何千もの民間船員が
かつてのノルマンジー上陸作戦のときの4倍に相当する、
歴史上最大の軍事海上輸送のひとつを達成しています。

こんにち、7,000名ものライセンスを持った米海兵隊が、
軍事海上輸送司令部(MSC)に取り組んでおり、国防予備船隊として、
防衛任務をいつでも遂行できるように次の活性化の準備を行っているのです。

ここSSMMには商船部隊のオフィサーになった人のセーラー服が寄贈されています。

 

ラ・ルー大尉のその後についてもお話ししておきましょう。

「メレディス・ヴィクトリー」の救出劇から3年後の1954年、

レオナルド・ラ・ルーはベネディクト会の僧侶に帰依し、
「ブラザー・マリヌス」という洗礼名を受け、残りの人生を聖職者として過ごしました。

米国商船アカデミーの卒業式に出席した当時の国防長官のジェームズ・マティス()は、
スピーチでラ・ルー大尉を取り上げています。

「1950年の極寒の12月。
敵の兵士が炎の中で都市に迫り、港が採掘され、何千人もの難民が
逃げようと必死になって港に群がりました。
ラ・ルー大尉は戦争の嵐の中でSSメ「レディス・ヴィクトリー」を着岸し、
乗組員とともに14,000人の難民を救出し、彼らを乗船させました。

船が安全な停泊地に入る前に、5人の赤ちゃんが生まれ、
14,000人以上の難民のうちたった1人の命も失われることはありませんでした。

彼こそは最善のために全てを賭けることを躊躇わないリーダーだったのです。

Semper fidelis!」

 

 

続く。