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USS「ミッドウェイ」博物館〜ミッドウェイ海戦

2017-09-21 | 軍艦

今まで他のことばかりお話ししてきたため、一年経ってしまいましたが、
実は去年の夏、サンディエゴに行ったついでに「ミッドウェイ」の見学をしました。

TOが留学した大学の同窓会のツテで、来日時に観光案内をしてあげたのが縁で
知り合った
老年カップル、ジムとジョアンナ(仮名)から、
サンディエゴに来た時にはぜひ泊まりに来てくれと言われていたので、
お言葉に甘えて押しかけ、自慢の丘の上のプール付き豪邸に数泊したのです。

前もって彼らに、サンディエゴに行くならぜひミッドウェイを見たい、
と希望を言っておいたら、ジョアンナはチケットを予約して連れて言ってくれ、
三日目の朝食にはかつて横須賀に駐在武官として赴任していた元海軍軍人
(ちなみに潜水艦出身)を招待して話を聞かせてくれるという歓待ぶりでした。


「ミッドウェイ」にはジョアンナ(推定年齢68)が連れて行ってくれたのですが、
艦内の狭いところを歩いたり階段を上り下りするうち、彼女電池が切れてきました。

見るからにしんどそうなので、デッキ階とその下を見たところで

「今日はこのへんで終わりにしましょうか」

と気遣うと、ホッとした様子で

「本当?もうこの辺でいいかしら」

「大丈夫ですよ。またくればいいですから」

顔で笑って心の中で泣きながら途中で引き上げたのでした。

 

今年はロス近郊の大学をいくつか見学するという用事があったので、
中2日をサンディエゴ訪問に充て、いつでも見に行くことができるよう
「ミッドウェイ」のある岸壁から歩いて5分のホテルを予約し、

スケジュールの合間を縫って、一人で思いっきり見学をしてきました。

というわけで、去年見残したその残りと甲板の見学を果たしたわたしとしては
ここに満を持してミッドウェイシリーズを始めたいと思います。

それではぼちぼちと参りましょう。

「ミッドウェイ」は西海岸でもっとも人が集まる旧軍艦の展示でしょう。
同じ西海岸の「ホーネット」、ニューヨークの「イントレピッド」に続き、
わたしが見学するアメリカの三つめの(そして最後の)空母となります。

展示してある岸壁の前面は一応駐車場となっていますが、わたしたちは
前まで車で送ってもらいました。

チケットブースの手前には、かつてのミッドウェイの勇姿、
そして「親指立てる人」「甲板の管制員」のカラー&白黒今昔二態。

チケットはジョアンナがインターネットで予約してくれていました。
まず階段を昇り、ハンガーデッキの階から艦内に入って行きます。

赤いボートが宙づりになっていますが、何かの作業用らしく、
今年はもう左の工事現場もボートもなかったような気がします。

同じ場所からみた右側。

ハンガーデッキから甲板に航空機を上げ下げするエレベーターがありますが、
ほとんど下げっぱなしのままにしてあるようです。

夜になったら施錠するらしい入り口。

右側の海軍士官はわかるとして、左の水兵さんの人選が面白いですね。
敬礼しながらボースンパイプを咥え、乗艦するあなた(将官とか艦長という設定)
のためにホヒーホー♪と吹いてくれています。(敬礼がなぜか左手だけど)

・・・ということにここで気づく人は、乗艦者のうち何パーセントくらいかな?

ミッドウェイのフラッグは剣と空母から飛び立つ航空機(右下)からなります。
甲板から飛び立つ飛行機に動線が付いているのが漫画的。

艦載機エレベーターとそこにつながる回廊の部分は一般人は立ち入り禁止です。

入り口でまず独立戦争の英雄、ジョン・ポール・ジョーンズがお出迎えしてくれます。

「署名せよ、若者たち、そして共に航海に出かけよう。
我々の意思は自由の松明を絶やさず燃やし続けることにある。

この厳粛な目的のために我々は若者を、勇気のある者を、
強き者を、そして自由な者を呼びあつめる。

我が呼びかけに答えよ。海に来たれ。共に漕ぎ出そう

ここハンガーデッキから全てのツァーは始まります。
かつて管制員がデッキ内を監視していたガラスブースは今は使われていません。

ここからアイランドを見るか、居住区を見るか、それとも甲板に上がるか、
見学の順番を自由に選ぶことができます。

わたしたちはなんとなく航空機が展示してある方向から見学を始めることにしました。

それにしても、アメリカ人というのはTシャツとショートパンツ以外の服を持っていないのか。
と思われるほど写っている全員が同じ格好です。

チケット代には、案内の録音が聞けるセルフオーディオツァー代が含まれます。
いつもならなしで行くところですが、なんとサンディエゴに在住なのに
ミッドウェイに来るのは初めて、というジョアンナが欲しがったので
わたしもお付き合いして日本語のものを借りました。

躍動感を出すために飛行機が斜め吊りされています。

 偵察機SBD ドーントレス。

ちょっと待て、空母「ミッドウェイ」は建造が始まったのは1942年だが、
就役したのは1945年9月10日、日本との戦争が終わってからじゃなかったか、
と思われた方、あなたは正しい。

第二次世界大戦の戦地が名前になっていても、日本軍とはカスリもしてないのに、
なぜドーントレスがここにあるのか。

はい、それは「ミッドウェイ」という名前の空母に来た皆さん方に、
その名前のもととなったミッドウェイ海戦について説明しよう、
とこういうわけですね。

ちなみに、「ミッドウェイ」で地図を検索しても、
川崎のバイク買取業者とかの所在地しか出てこないんですが、
「ミッドウェイ島」検索で、初めてハワイの近くの環礁が見つかります。

ミッドウェイ海戦とは、ミッドウェイ島の攻略をめざす日本海軍を
アメリカ海軍がが迎え撃つ形で発生しました。

逆にいうと日本軍は、同島を攻撃することによってハワイから出て来る
アメリカ艦隊に戦いを挑む、という作戦を立てたのです。

 

にしてもこの地図は全くミッドウェイじゃなくね?ってことですが、
このプロジェクターではミッドウェイ海戦に至るまでの経過説明中。
”アメリカ軍は日本軍の盟友オーストラリアへの侵攻を妨害した”と書かれています。

ミ海戦の前の月、5月に行われた珊瑚海の海戦で、日米艦隊は初めて衝突しました。

この時に日本海軍は米空母「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」中破など
大戦果をあげていますが、「翔鶴」などを喪失してしまったのは痛手でした。

結局ミッドウェイ海戦の時に投入できた正規空母と熟練搭乗員の数が少なかったことが
日本の敗因であったと今日ではいわれています。 

ハンガーデッキから右側は、このような「ミッドウェイ海戦コーナー」でした。
見学者がわたしたちのようにたまたま右側を選択すると、自動的に見学は
ミッドウェイ海戦、つまりこの空母の命名元の説明から入ることになります。

ご存知のように、真珠湾攻撃による開戦後、防戦一方だったアメリカ海軍が
日本海軍に初勝利し他のがミッドウェイ海戦でした。
戦局を分水嶺として変えたその一点が
ミッドウェイ海戦であったとあらば、
アメリカ人がこのように
誇らしげに展示を行うのももっともかと思われます。

ミッドウェイ海戦の「主人公」は航空であった、といっても過言ではないでしょう。
アメリカ軍の空母艦載機部隊搭乗員のマネキンが入り口にありました。

よくミッドウェイではサッチウィーブで米軍航空隊圧勝!零戦破れたり!
ということばかりが言われますが、数字を見ると、実は米海軍の艦載機搭乗員の
戦死数は128名(陸上基地航空隊も合わせると172名)、
日本海軍は110名と米軍航空隊の被害の方が甚大なのです。

新戦術サッチウィーブで戦った「ヨークタウン」の航空隊は、
これでかろうじて零戦5機を撃墜しましたが、艦攻は全滅。
「ホーネット」艦攻隊は早々と15機全てが全滅、「エンタープライズ」艦攻隊は
14機のうち10機を失うも、その空戦における日本側の損失はゼロでした。

ミッドウェイ基地隊から出たドーントレスも
日本側に損害を与えぬまま16機のうち半分を失っています。

サッチウィーブは役に立たず、戦闘機が爆撃機や艦攻を全く守れなかった、
というのは当時からアメリカ海軍の中から出ていた非難の声でした。

 

もっともアメリカ海軍も多くの搭乗員の犠牲を想定し、
発艦が済んだ艦は攻撃に向かう(つまり帰艦を待たなかった)といった、
「非情な作戦」(byスプルーアンスの副官ブラウニング)で臨んだ、
ということも忘れてはならないでしょう。

勝つために非情であったのは日本軍の専売特許ではなかったのです。

F4F ワイルドキャット。

「ヨークタウン」「エンタープライズ」「ホーネット」の戦闘機隊使用機として、
各艦に25〜27機搭載されていました。

バランスをもたせているつもりか、帝国海軍の搭乗員もおりましたが・・
なんというか、なぜこの人をわざわざモデルに?というか・・。

ミッドウェイ海戦に至るまでの日米戦の流れをざっと説明してくれています。
左から:

1941年12月7日 真珠湾攻撃

12月8日 大統領FDRが議会の承認を得て開戦の承認を行う

1942年4月18日 ドーリトル少佐を指揮官とする攻撃隊が日本本土を急襲
   被害は甚大ではなかったが、日本側に大変な危機感を与える

1942年5月5日 日本軍、アメリカ本土攻撃の拠点としてミッドウェイ島を攻略

5月4〜8日 珊瑚海海戦 「レキシントン」沈没、「ヨークタウン」中破

 

右半分は写真を撮り損ねました(てへっ)が、おそらくはミッドウェイで
アメリカ軍を叩くための作戦を日本が立案することなどが表されていたのでしょう。

大変力のこもったミッドウェイコーナーの入り口を入っていくとそこはシアターで、
このために製作されたと思われるショートムービーが上映されていました。

左の参謀が

「閣下、すぐにミッドウェイ島の航空基地を攻撃するために戻る必要があります」

と進言しているので、右側は第二航戦司令官の山口多聞少将だと思われます。
山口少将は爆装を変えずに攻撃発進することを具申しますが、
南雲長官が攻撃隊に雷装への換装を下命したあとでした。

この時に換装せずすぐに第二次攻撃に向かっていたら日本は勝っていた可能性がある、
というのはしばしば語られる歴史の「IF」となっています。

勝っていたかどうかはわかりませんが、負けた原因であるのは確かでしょう。

さて、「ミッドウェイ海戦」はアメリカにとっては輝かしい勝利への
転換点となった、というのは歴史の示す通りです。

とあれば、ミッドウェイ海戦の2ヶ月後発注された米海軍の正規空母
(命名基準は戦場となった場所)が、「ミッドウェイ」の名前をつけられたのも当然です。

ただ、この映画は、世界中の人々が見るということもあって、アメリカ万歳風ではなく、
至極淡々と開戦の経過を説明することにつとめているように思われました。

 

続く