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徳川埋蔵金と小栗忠順〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-15 | つれづれなるままに

さて、博物館の展示物の写真を撮りまくり、さらには
お弁当を持ってこなかったため向かいの市民ホールのレストランで
昼食をとるという充実しすぎる昼食休みの時間を過ごしたわたしです。
決められた時間に集合場所にいくと、そこから午後のツァーが始まりました。



レストランの帰り、文化会館の催し物のポスターを撮ってきました。
地元のスナックがお客様のカラオケ大会(聞いたことない演歌歌手のステージあり)
に中ホールを借り切るというような催しも行われております。
横須賀市民には何かと思い出深いホールだそうで、ここで成人式を迎えた
という市民もたくさんいるのだとか。

ボランティアの案内係のおじさんは、この文化会館の説明をするのに

「コロッケとかね。浅丘ルリ子なんかもくるんですよ」

へー、と一同が聞いていると、しばらく話してからまた

「浅丘ルリ子もくるんですよ」

おじさん、浅丘ルリ子のファンだったみたいです。



現在文化会館のある土地は、昔昔海軍か陸軍の病院だったと
このときガイドさんが言っていたような気がしますが、
海軍病院は米軍基地のあそこにあったし、陸軍病院は
たしか上町の、幼稚園になっている教会のちかくにあったし・・・。

聞き違いかな?

ちなみにおじさんの後ろにあるものは、壊れた藤棚だと思っていましたが、
こうしてみると芸術作品のつもりのようです。


ここには小栗上野介忠順と栗本鋤雲の石像があります。(冒頭写真)

栗本鋤雲については以前「オグリンとペリリン」という(ような)題の
ログで触れたことがあります。
フランス語堪能だった、ということで、こんなおじさんが
「ジュ・マ・ペール・ジョウ〜ン」とか「セ・ブレ?オーララー」
などと言っていたとはとても想像できない、などとあほなことを書きました(笑)

こうしてオグリンとジョウンが並んでいるのはそれなりに訳があって、
勘定奉行と外国奉行という立場で知り合った二人は大変親しく、
小栗は栗本鋤雲を通じてフランス公使との繋がりを作り、製鉄所の建造計画に際し
具体的な提案を練り上げたという縁があるのです。

ちなみにこのとき「どうして技術協力をフランスに仰いだか」なんですが、

当時アメリカは南北戦争で国が疲弊しており、よその国に構う余裕がなかったからです。

この前でボランティアの解説員が、

「小栗忠順は”無実の罪で処刑された”なんて書いてあることがありますがね、
無実ってことはないんですよ。
徹底抗戦を唱えたというのは当時”罪”だったんですから」

というので、わたしはごもっとも、と頷いておりました(笑)
小栗は戊辰戦争の後、旧政府軍の側で徹底抗戦を訴えていました。
このとき小栗の提案した奪還作戦をすでに恭順に決心が傾いていた徳川慶喜は
退け、小栗を疎んじて罷免してしまいます。
ご存知のように江戸城は無血開城され、徳川慶喜も処刑されませんでしたが、
戊辰戦争後には大量の藩主や家老が切腹したり斬首されており、要するに小栗も
勘定奉行という要職だったことで同じような目にあったにすぎないのです。

戦争に負けた側が首を取られる、というのは昔の戦争では当たり前で、
無実だったとかそうでなかったかは全く関係ない話です。

ところで余談ですが、、買った側が負けた側を裁いた東京裁判は、
事後法だとか単なる政治ショーだとかいわれて後世の評価は高くありません。
要するに東京裁判も「責任者切腹」ということは最初から決まっているのに、
裁判はかたちだけっていうのが最初からバレバレだったわけです。

戊辰戦争までの日本のように、負けたから切腹ね、とばっさりやっていたほうが
「勝ったほうが負けたほうを裁く」なんていう欺瞞より、わたしに言わせると
なんぼかマシ、ってもんです。

それはともかく、オグリンが「無実だった」という意見ですが、

「何も悪いことをしていないのに・・」

という意味に限っていうと、決して間違っていないとは思います。
東京裁判で処刑された7名が「無実だった」のと同じです。
そして逆もまた真なりとするならば、東條英機以下7名は

「無実ではあったが戦争に負けたので処刑された」

ということになりますね。 


ちなみに新聞記者でもあった栗本鋤雲ですが、515事件で暗殺された
犬養毅が新聞記者時代は栗本の部下だったということです。



ところで、話がどんどんと膨らんでいくのですが、

小栗上野介忠順の死には、ある疑惑がまつわっていました。

徳川埋蔵金です。

1868年、戊辰戦争の結果、江戸城はついに無血開城をみました。
明治新政府は、徳川幕府が運用していた「幕府御用金」を
自分たちがそのまま使ったる!と意気込んでいました。
(何しろ彼らにはお金がなかったのです)

ところが蓋を開けてみれば城内の金蔵はからっぽ。
新政府は、御用金を幕府が隠匿したと判断し、埋蔵金探しが始まりました。

「埋蔵金」・・・・

あああ、なんか今すごく「民主党」という言葉が浮かんできたんですけど。

そういえば、民主党も政権交代(無血開城)したとき、
子ども手当の財源を「埋蔵金」で賄おうとしてましたよね。
今まで政権の座にながらくいた自民には隠し金があるはずだ!として
それをあてに政権公約したりしてました。

会計とか帳簿とかの実務経験のない連中が、マスコミに乗せられて
年90兆円も埋蔵金があるはず!と騒いでいたわけですが、彼らは野党時代

●利権が絡んだ控除関係を潰せば財源が出てくると思っていた

●毎年繰り越されている特別会計の余剰金が使えると思った


●実は政権を取るための空手形で本人たちもあてにしていなかった

のではないかといわれています。
単に政権をとれば、どこからかお金が現れると信じていたフシもありますが、
結局どこからも「埋蔵金」は出てこなかったので、2010年度の予算が組めず、
あの悪名高い事業仕分けを蓮舫と枝野にやらせることになりました。

もちろんそんなもので埋蔵金から予算に入れることにしてた4兆円強が
生み出せるはずもなく、この事業仕分けはいたずらに民主党に対する反感と
特に日本の文化破壊という観点から国民の嫌悪を買い、得られたものは
蓮舫が得意げに言い放った

「2位じゃダメなんですか」

というあの象徴的な名言だけだったというわけです。
民主党がわずか3年で国民から見放されたのは、結局この事業仕分けに象徴される
経済さえなんとかできれば国民は大人しくなるだろう、という低い成功目標であり、
そのために文化保護・体育振興予算を削ったり、勝手に国宝を韓国に「返還」したり、
あげくは外国人参政権を推進しようとしたりしたからに他なりません。
第一、政権公約を何一つ実行できませんでしたしね。

ところで、民主改め民進党は参院選のマニフェストを一般公募したりしていましたね。

党の政権公約までポピュリズムに走るんかい!と思っていたところ、
幹事長のツルの一声で一般公募はやっぱりなし、ということになりました。

マニフェストを決める方法も決められない党に何が決められるというのか(嘲笑)

というわけで、でてきた公約というのは

最低賃金(時給)を2020年までに全国平均で1000円に引き上げる
児童扶養手当の第2子以降への支給額を一律1万円に増やす
給付型奨学金の創設

・・・デジャブかな?

それとももう政権取るつもりない(だから守れない公約もしちゃう)
ってことなんでしょうか。 

結局、共産党と共闘してしまうことによって、実は政権を取っていた時以上に

彼らの成功目標は低い(というか目標は政権を取ることだけである)ことが知れ渡り、
争点を安保法案の廃止にしてしまったあたりで政治センスどころか
選挙に勝つ気すらないらしいということが露呈されてしまっているわけですけど。



さて、民進党の話はこれくらいにして、徳川埋蔵金です。
小栗上野介忠順は、徹底抗戦を唱え、それが慶喜の不興を買い
罷免されてのち故郷の上野国(あ、だから上野介か!) 、群馬県の
権田村に身を隠していました。

小栗が勘定奉行だったことから、彼が埋蔵金の行方を知っている、
もしかしたら彼自身が埋蔵金を持って逃げたのではないかと噂が流れ、
その噂には尾ひれがついて

「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」

とまことしやかに証言するものまで現れます。
江戸城が無血開城したのに、戊辰戦争の敗者と同じく小栗が斬首刑になった、
ということも、
その噂に信憑性を与えることになりました。
(もし追っ手がそれを疑っていたら小栗を殺してしまうのはおかしいんですが)


その埋蔵金については、

●幕府の将来を憂慮した大老、井伊直弼による計画だった

●埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両
(勝海舟が日記に軍用金360万両があることを記していた)

●小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた

と想像されていました。 
赤城山中からは実際に民家の井戸などから黄金の権現像とか、銅の皿とか、
直径20mの石灰でできた亀とか、同じ大きさの鶴とか、帳面とか、
とくにそんな大きさの鶴亀をどうやって小栗が運んできたのか、とか
なんの為に井戸に捨てたのか、とか真顔で問いただしたくなるような物証もあって、
当時、赤城山中で宝探しを試みる人々がたくさんいたという話です。 

なんか戦後の「M資金」という言葉も浮かんできますが、今日はやめます(笑)

しかし、それらの探索によっても埋蔵金らしいものは出てこないので、
今度は「赤城山中はダミー説」がでてきます。
実は赤城山は囮で、実は別の場所・・・・、

  • 日光山内(東照宮とか)
  • 奥日光の男体山や中禅寺湖
  • 赤城山の近く 榛名山 妙義山
  • 足尾銅山の坑道
  • 全国各地の東照宮

にあるという説。
もうこれだけ拡散したら探しようがないだろって思いますが。 
しかし、やっぱりどこからも埋蔵金らしきものは出てきませんでした。

しかしそもそも末期の徳川幕府に埋蔵するようなお金があったと思います?

江戸末期には「安政の大地震」といって、江戸を中心に大規模な地震が

頻発し、(そのうち宝永の地震は南海トラフが震源となったもの)
これが倒幕運動に加担したと後世の歴史家が言うくらい、
幕府の財政は当時枯渇しきっていたといわれているんですよね。

だいいち埋蔵金があるのなら、この時期に活用していたはずです。
というわけで民主党ではないですが「埋蔵金なかった」も根強いのだそうです。

しかしところで万が一、あなたがグンマーの人で、赤城山中で
埋蔵金を偶然見つけてしまったとしたら、どうなると思いますか?


発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、
直ちに文化庁長官宛に書面で報告しなければならない
その際発見者には現状維持がもとめられる

それが徳川埋蔵金だった場合、文化庁などにより発掘調査が施行される

この時点で、発見した人はその所有権を失うってことですかね。
そして調査の結果それが徳川幕府埋蔵金だということになった場合はどうなるのか。

大政奉還以降の取り決めによって徳川幕府の資産は
全て明治新政府に引き渡されることになっている
つまり所有権は現在の政府にあると認定される

遺失物法の規定により埋蔵金の5 - 20%に当たる報労金が支払われる
埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理される

遺失物扱いかい(笑)
それでは調査でもそれが埋蔵金であるという確証が得られなかった場合は?

文化財保護法第59条の規定により、遺失物として
所管の警察署長より公告が為される

やっぱり遺失物扱い(笑)

所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は
埋蔵金の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵金は国庫に帰属する

教育委員会が発掘した場合は埋蔵金の額に相当する額の報償金が支給され、
管轄する都道府県に帰属する

所有者の申し出は・・・多分ないんじゃないかな。しらんけど。

つまり、徳川埋蔵金であった場合は見つけても国に返さなければならない。
あてにするとしたら5〜20%の慰労金というやつだと思いますが、
この程度の報酬であればきっと費用は持ち出しになってしまうでしょう。


テレビの番組以外では、歴史のロマンを求める向きや、
学術的な研究のために私費を投じるような人しか、この宝探しに
真剣に参加しようという酔狂な人は今後も出てきそうにありません。



続く。