ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

特攻勇士の像〜京都護国神社を訪ねて

2016-06-14 | 日本のこと


前回の滞在から2週間しか経っていないというのに、
またまた京都に行ってきました。
定期的に仕事関係で京都に用事があるTOがこちらで着々と
ご縁を結んできた結果、顔なじみの料亭旅館がふえて、その関係で
一見さんお断り的なお店にも顔が効くようになってきたのですが、
今回泊まった町屋はそんな伝で紹介してもらったところです。



前に見えているのは産寧坂(三年坂ともいう)。
小路を入ったところにあって、元々はオーナー一家がこの二階に住み、
一階はうどん屋さんに貸していたのだそうです。



町屋ホテルを営業し始めてまだ間も無いということで、施設も前回に続き
ほぼ新築の状態。



若いオーナーなのでとてもおしゃれな感覚で設備が整っていました。
部屋にはiPhoneが供えてあり、フリーWiFiとともに持ち出し可能です。
最低宿泊単位が2日ということにしてあるので、これが奇しくも
「中国人よけ」になっているということでした。

やはり現地の観光業の人たちは彼らの恩恵を受ける受けないが二分され、
どちらかというと否定的・迷惑とする派が多いようでした。
彼らのマナーが悪く雰囲気を壊すので、それで欧米系観光客が減っているそうです。



町屋の一階はカフェ&レストランになっていて、朝7時半から4時までの営業。
早速お昼ご飯をいただきました。
ハンバーグがついて860円、ハンバーグなしだと600円台で食べられます。
オーナーはお料理上手で、これもすべて自分で作って供しています。



荷物を降ろして少し休憩してから外に出てみました。
景観条例で電柱の建て方にはやたら厳しい京都ですが、
こういう光景が見られることもあります。



前にも遠目に写真を撮って紹介したことがある油そば「ねこまた」。
今回こそはと思いましたがまたもや食べ損ないました。

よく見たら猫の尻尾が割れてますね。



これが現在の京都産寧坂の現状でございます。
アジア系の観光客と修学旅行の学生で芋洗い状態。
こんな京都、京都じゃないやい!ということで欧米系が減っているのかと。



着物を着ている人がやたら多いですが、このうちの8割が
実は日本人ではないということをわたしは現地で確信しました。
本来の商売でやっていけなくなった京都の着物屋が、軒並みレンタル着物の店に
鞍替えし、安物の着物を着付け・ヘアセット付きで提供しているのです。

それはいいのですが、町屋オーナーによると、競争によって価格破壊が起こり、
最初は5000円だったのがじわじわ下がって今や4千から3千円台になり、
必然的に着物の安物度がアップしていっているそうで、夏場は浴衣でまだましなものの、
冬になるともう眼を覆うような安物の着物をセーターやズボンの上に巻きつけて、
足元は運動靴やブーツという魑魅魍魎の手合いが徘徊しているのだとか。

そして自撮り好きの彼らは人のうちの玄関でもどこでも、植木や玄関戸に
持たれたり座ったりしてポーズをキメて写真を撮るので、民家の人は大迷惑。
ひどいのになると民家の玄関をガラッと開けて入って来るので、驚いて
出て行ってくれ、と追い出したりするのですが、彼らは全く悪びれず、

「見てみたかったから」「中の写真を撮らせろ」

などといった調子で、ほとほと観光地の住民は困り果てているのです。
清水坂近辺には、大きく「写真撮影禁止」と中国語で張り紙をしている家が
結構あるのにわたしは気がついていましたが、これは、そういう中国人に

「写真を撮られるのが嫌なら張り紙をしておけ」

などと実際に言い返された末の対策だということがわかりました。



人が通らない小路はまだ往年の京都の静けさを保っています。



なんとこの界隈にジブリショップが二つもありました。
そのうち一つは巨大トトロと写真を撮れるコーナーあり。
カップルで来ていたドイツ人がメイちゃんのぬいぐるみと写真に納まっています。



この後、二年坂を下って歩いていると、人力車のお兄さんに声をかけられ、
ふと出来心で乗ってみました。
大谷祖廟の前に来たとき、ふと、父が大谷本廟に分骨していたのを思い出し、
(ふと思い出すことではないですが)お参りに行っておこうと思いつきました。
(思いつくことでもないけど)



観光の人力車に乗ったのは初めてです。
車夫のお兄さんは、本業太秦の役者だけど売れないのでこのバイトしてるのでは、
というくらい整った顔立ちのイケメンくんでした。

人を乗っけてよくあんなに走り回れるなあといつも感心していたのですが、
さすがに長い坂道ではこうやって後ろを向いて解説を(するふりを)しつつ、
そうとわからないように休憩を取りながらやっていることがわかりました。



さすがに重労働をこなしているだけあって細身でもすごい筋肉です。
きっと腹筋なんかも板チョコみたいに割れてるに違いない。




人力車は長楽館の前まで来ました。
この時の車夫くんの説明で初めて知ったのですが、長楽館は明治時代
「煙草王」と呼ばれた実業家、村井吉兵衛の京都別邸だったそうです。

煙草の行商から財閥を築き上げ、煙草販売が専売公社になったことで
さらに巨万の富を得たそうですが、村井が死ぬと財閥は解体しました。
よほど傑出した人物だったようですが、一代限りの栄達だったんですね。



何度かお茶を飲んだこともあったのですが、今回裏手を回って、
初めてここがホテルになっていることを知りました。
よし、次の目標は長楽館宿泊だ!



大谷祖廟でのんびりしていた、気品を感じさせる猫さん。



猫といえば、二年坂で猫を散歩させていた人(というか散歩させられていた猫)
を見ました。
猫がおとなしく散歩の縄(ハーネスだった)に甘んじているのを見たのは
わたしは生まれて初めてかもしれません。

彼女?は観光客の注目の的となり、「キュート!」「アドアブル!」と
盛んに写真に撮られていました。



五重塔の正式名は法観寺・八坂の塔というのだそうです。
592年建立と言いますから、もう1500年近くもの間、
京都のランドマークタワーであり続けていたというのがすごい。



晩御飯は、二年坂を下りきったところの「おめん」でいただきました。



観光地だからとあまり期待せずに入ったのですが、京都の料理屋侮るべからず。
息子が単品で選んだこのローストビーフなど、絶品と言って良いかと。
ローストビーフの上にはベリー系のジャムが乗っています。



わたしの選んだセットの初鰹のたたきも薬味たっぷりで文句なし。
メインは冷たいつけうどんで、きんぴらとともに食するものでした。



どこから見ても良く見える上、いまは夜になるとライトアップまで・・。
ライトアップがこのたびLEDライトに変えられ、それによって

消費電力は約51%削減となったそうです。めでたい(適当)



さて、わたしは前日人力車に乗る前に、ここに護国神社があるのを
きっちり確認していたので、家族を誘って参拝することにしました。

石碑に書かれた正式名は「京都霊山(りょうぜん)護国神社」です。 

靖国神社の講座では靖国神社の創建にいたる歴史を学ぶのですが、それによると
靖国神社に先立ち、たとえばここ京都に、明治維新の志士たちの御霊を慰めるために
創建されたのが「招魂社」「護国神社」です。

元々は1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇によって

維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、
京都・東山の霊山の佳域社を創建せよ

との詔・御沙汰が発せられたのが始まりです。
それに感激した京都の公家はじめ、山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が
相計らってここ京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが
神社創建のはじまりであり、招魂社(国家のために殉難した英霊を奉祀した神社)
であるということです。



参道沿いにはかつて国家的賓客を何人も迎えたことのある有名な

「京大和」 

がございました。
日曜なのに人のいる気配がないので廃業したのか、と思いましたが、季節限定、
何日かだけ完全予約制で営業しているそうです。

それよりとなりの翠紅館という、志士たちの溜まり場であったところが
廃墟のようになっていたのが気がかりでした。



護国神社に登っていく参道には「京都国防婦人会」が奉納したという証が。
これらにはほとんど昭和14年の年号が記載されていました。

当神社の歴史によると、支那事変をきっかけに、祀る魂を「志士たち」
から広く解釈し

「国難に殉じた京都府出身者の英霊」

としようという運動が起きたのだそうです。
このため霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営し、
昭和14年4月1日、内務大臣布告によって

京都霊山護国神社

と社号が改称され、今日に至ります。



戦後、ここには京都府出身の大東亜戦争の英霊が祀られるようになりました。
GHQの占領下においては、わざわざ「京都神社」と名乗って、
アメリカの干渉を避けていましたが、独立と同時に名称を元に戻しています。



昭和14年に建立されたという神殿。
靖国神社と同じく、護国神社の御祭神は「国の英霊」です。

坂本龍馬を始め、中岡慎太郎、頼三樹三郎、高杉晋作ら幕末勤王の志士1,356柱、
明治以降の日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦死者を合わせ約73,000柱の
命(みこと)が、即ち神様としてここに祀られているのです。

靖国神社は戦後の自衛隊の殉職者を受け入れませんが、ここには京都府出身の
自衛隊の殉職者碑もあって、彼らの御霊もまた御祭神となっていました。



京都霊山護国神社の神紋は「桜に菊」。
菊の紋をいただいていること即ち、明治天皇のお計らいによって建立され、
戦前は社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきたという名残でもあります。



冒頭の「特攻勇士の像」は、平成24年と比較的最近のもので、
靖国神社の遊就館内に事務局を置く

公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会

によって制作されました。
彼の姿は陸海軍どちらでもなくどちらでもある軍服を身にまとい、
後ろは「零式艦上戦闘機の翼と翼に記された日の丸」だそうです。
(いでたちは飛行帽と飛行服の襟元などが陸軍のものです)

全国の護国神社に同じ像を建立していこうとの計画があり、現在は
16箇所ですが、将来的には全国52の護国神社全てに像を建立するのが
最終目的であるということです。


後半では、ここにどんな戦いの御霊が御祭神として祀られているのかを
見ていくことにしたいと思います。