ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

空挺館~パレンバン降下作戦

2014-02-14 | 陸軍

ところで、大東亜戦争中日本軍が行なった空挺作戦のうちでも
落下傘を使用した急襲作戦は何回行われたかご存知ですか?

メナド、クーパン、パレンバン、レイテ

陸海軍ともに二回ずつ合計4回です。

ここ空挺館は陸軍の空挺隊が前身となっている陸自が管理しているため、
海軍落下傘部隊については誠に残念ながら申し訳程度にしか触れられていません。
戦前戦中ならともかく今は陸海の垣根を越えて、同じ落下傘部隊の
海軍の二つの降下作戦に付いても展示するべきだと思うのですが・・・。

それはともかくここでは、陸軍の降下作戦、ひいては空挺作戦についてが、
作戦に携わった将兵の遺品も含めて展示説明されています。


それではここの展示写真とともに、陸軍の落下傘降下作戦である
パレンバン降下作戦からお話ししましょう。
今日2月14日は、この降下作戦が実地された日でもあります。



そもそもどうして陸海軍ともに降下作戦を選択するに至ったのか。

パレンバン作戦は、陸軍参謀本部が、まだ落下傘部隊が出来る前から
ここにある大規模な精油所を確保することを目標に計画されていました。

川をさかのぼる方法でオランダ軍に侵攻を察知されれば
精油所は破壊されてしまう怖れがあったため、ここで落下傘を使った
降下作戦が模索されたのでした。

前回、藤倉航空工業という会社が24時間態勢で女子挺身隊による作業を行い、
空挺作戦に間に合わせるために落下傘を製作した、という話をしましたが、
参謀本部にとっての第一の懸念は、作戦発動までにいかに早く準備が整うか、
ということだったということが、この件からも窺えます。

映画「空の神兵」は、1941年の12月に撮影されたものであることが分かっていますが、
驚くことに、陸軍が第一挺進団を動員したのが12月1日付け。
12月19日には、第一挺進団から挺進第一連隊が輸送船で日本を発っているのです。

つまり第一連隊はわずか18日の訓練後、実戦に投入されようとしていたことになります。

しかし、彼らの乗った船は航行中火災を起こし、沈没してしまいます。
このとき、護衛には海軍の駆逐艦が就いており、全員を救出したのですが、
肝心の落下傘、そして武器などの必要品は全て失われてしまいました。
そこで、まだ編成作業中であった第二連隊をすぐさま派遣することが決められます。

陸軍はこれらの作戦準備の段階から後の宣伝のことまでちゃんと計画していたらしく、
映画「空の神兵」は第一連隊の開隊の訓示から始まっています。

わたしはこの映画について書いたエントリの最後を

”このとき初降下を果たし、喜びに顔を輝かせた兵たちが、
その後過酷な訓練に耐え、
1943年2月14日のパレンバンの空を
「純白の花負いて」舞い降りたのでしょうか。”

とかっこよくキメてみたのですが、どうやら違ったみたいですね~。

残念ながら降下作戦参加の栄誉を第2連隊に譲ったかれらは、
パレンバン降下作戦が戦果をあげたのち、彼らに湧きおこった国民の賞賛の声を、
もしかしたら悔し涙で枕を濡らしながら聴いたのかもしれません。

第一部隊の無念についてはいかなる関係資料も触れてはいませんが、
こういうことに拘る当ブログとしては、彼らに測隠の情を覚えずにはいられません。


 





さて、1942年1月15日、挺進第二連隊は門司港を出航しました。
このとき降下作戦に参加した飛行隊は飛行九十八戦隊、第12輸送飛行中隊。
空挺作戦の成功は、落下傘降下した人員に、いかにタイミングよく
武器を航空機が投下し、使用させることができるかにかかっています。

降下部隊だけでなく、飛行部隊に取っても任務は重大でした。

プノンペン到着から作戦発動までの日々、彼らは落下傘の折りたたみ、
そして投下する装備品の梱包に明け暮れ、
明日はマレー半島に移動になるという日には、全員に
「最後の晩餐」
として、寿司と酒が振る舞われました。



100式輸送機に乗り込む空挺隊員たち。
背負っているのは一式という最初の型の落下傘であることから、
パレンバン作戦のときの写真ではないかといわれています。 


このときの攻撃計画は、飛行場とムシ河ほとりにある精油所の二カ所。
もともと南方作戦の目標は石油資源にあったので、
ここでも精油所の奪取が最重要目標とされました。



「もろともに死なんといさむつわものは
どくろの朽つまでつとめつくすと」

これはこのときパレンバンの精油所を攻撃することを命じられた
長谷部少尉の詠んだ辞世の句です。
「どくろ」は冒頭写真の空挺隊に与えられた旗の意匠で、
「髑髏旗」は、もともと陸軍近衛兵第5連隊、第3大隊、第12中隊に対し、
連隊長より授与されたものです。

彼らの目標である精油所はオランダの民間会社による経営でした。
しかし飛行場にも精油所にも、 オランダ軍、イギリス軍砲兵隊。
そしてオーストラリア空軍が常駐しています。

日本軍は飛行場と精油所、二回に分けて5カ所に降下し、

飛行場、240名(第二次部隊90名)
精油所、99名

による降下作戦が実地されました。

上の句を書いた長谷部少尉は、冒頭の旗に髑髏の絵を描き、
全員に寄せ書きをさせました。
この絵を見る限り、長谷部少尉はかなり絵が得意だったようです。
義烈空挺隊の同姓の飛行隊長、長谷部大尉も大変達者な絵を残していますが、
日本人というのは一定数いれば必ずそのなかに一芸に秀でた人物がいますね。

アメリカの航空機のノーズアートの殆どが落書きレベルなのをみると、
もしかしたら民衆の平均レベルは日本人って高い?
とつい自画自賛してしまいます。
それはともかく、長谷部少尉は部下にこう言いました。

「よいか。降下したらこの旗の下に集まれ。
死んでも戦うぞ!」

パレンバンの石油の生成量は、当時の日本が年間必要量の60%です。
ここを奪取することは日本に取って命綱を得ることともなりましたが、
そこを長谷部少尉以下たった39名で奪取しようというのですから、
長谷部少尉がこのように奮い立ったのも当然のことでしょう。

長谷部少尉は作戦にあたって、当番兵の山下一等兵にこう言いました。

「この旗のように髑髏をムシ河畔に晒す覚悟だ。
もしお前が生きていたら、片腕を切り落とし、郷里別府の墓に納めてくれ。
郷里に帰るのは片腕だけで良い」

長谷部小隊が降下したのは精油所の南側で、深い沼地でした。
しかも彼らのうち2名は、いきなり敵の防御陣地の前面に降下してしまいます。
彼らは銃撃を受けながらも2人で敵8人を倒し精油所を目指しますが、
その後一人が銃撃を受け負傷したので引き返しました。


長谷部少尉の降下した地点は直線道路で遮蔽物もなく、
彼らは道路沿いに進撃するしかありません。
何とかして小隊が精油所100メートル手前のところまで進み、
長谷部少尉が突入の機会をうかがおうと身を乗り出したところ、銃弾が彼の頭を貫きました。

「小隊長どのお~!」

走り寄った山下一等兵も銃弾を受け、その場に倒れました。

精油所奪取がなった後、戦死者を荼毘に付すことになりましたが、
山下一等兵は同僚に体を支えられながらやってきて、

「長谷部少尉殿の腕を切って自分にいただきたくあります! 
少尉殿は自分に言われました。
腕を故郷に持って帰ってくれと・・・・!
この山下に!突入前にお頼みになったのであります!」

「うーん・・・しかし、今から荼毘に付すわけだから」

「お願いします中隊長どの!
少尉殿は・・・少尉殿は
故郷の墓に腕を葬ってくれと自分に仰ったのであります!」
自分はなんとしてでも少尉殿とのお約束を果たさねばなりません!」

「腕を切ってそれをどうやって持って帰るつもりなのか」

「しかし少尉殿は故郷に帰るのは腕だけで良いと・・・!」

「腕一本だけより、全身の骨を持って帰る方がいいのではないか」

「あっ・・・」(納得)


(たぶん)こんな具合に、山下一等兵を説得するのは大変だったそうです。
なんだか少しシュールな話なんですけど、健気な部下の一途さに打たれますね。
中隊長に説得された山下一等兵は、涙を流しながら病院に運ばれていったのでした。



ここには、飛行場に降下した蒲生中尉の遺品もあります。
蒲生中尉の小隊は草原地帯に降下すると聞かされていましたが、
実際にはそこは草丈が2メートル近い葦の密生地で、見通しが効かず、
降下後の兵の集結も、物料箱の回収も不可能となり、
拳銃と手榴弾のみで進撃をするしかなくなってしまいました。

蒲生中尉は16人の部下を集め進むうちに敵の対空砲陣地に行き当たります。

「突撃!」

号令と同時に手榴弾を手に走り出した蒲生中尉は、機関銃の銃撃を多数受け、
戦死を遂げました。



ここにある遺品は、蒲生中尉が最後に身につけていた軍服、時計、拳銃ホルスター、
そして、家族に当てて自分の死を嘆かぬよう慰めるハガキです。

この後飛行場に侵攻した空挺隊を驚かせたのは、
午後2時にはまだ350人のオランダ兵がいたはずなのに、その3時間後、
もう一度偵察に行ったら今度はもぬけの殻になっていたことです。

よほど慌てて逃げたと見え、料理用のストーブには鍋がかかっている状態で、
これまで最低限の圧搾口糧(爆弾アラレと呼ぶ膨張玄米を主食とし、副食として 
乾燥した鰹節
 乾燥梅干 、砂糖を別々に圧搾して缶詰にしたもの。昭和13年に制定)
しか口にしてこなかった挺進兵たちは驚喜したということです。

これは「陸軍落下傘の神兵」と題された子供向けの絵本です。
漢字が少なく送り仮名がついているのでおそらく小学生用でしょう。

精油所を急襲した第一中隊と精油所の敵とは、50メートルの距離を挟んで
接近戦となり、銃弾がパイプに開けた孔から出た石油に引火、
戦闘は夜通し続きました。

このとき最後尾で降下した鴨志田軍曹は道に迷って戦友と合流することが出来なかったので
精油所社宅区域にたどり着き、拳銃で敵を倒しながらたった一人で事務所に突入しました。
機銃弾を受けながらなおも戦い続け、最後の手榴弾を敵に投げた後、
拳銃で自分の頭を撃って自決します。

この挿絵はその鴨志田軍曹の最後の姿です。

作戦終了後、中隊は行方不明の鴨志田軍曹を捜索していましたが、
軍曹が死闘を繰り広げた事務所で働いていた華僑が日本兵を埋葬した、
という情報を聞きつけ、新しい盛り土を見つけて掘り起こしたところ、
鴨志田軍曹が体に18発の銃弾を受けながら戦っていたことがわかりました。


それにしてもこの華僑は、急襲された精油所の人間でありながら、
散乱するオランダ兵の遺体を差し置いて、どうしてこの日本人の亡骸だけを埋葬したのでしょうか。



その少し前、降下してから1時間40分後の1310時、
徳永小隊の徳永中尉が敵を引きつけている間、徳永中尉の指示で
10名の兵隊が施設内に侵入して、常圧蒸留設備(トッピング)を確保し、
中央のトッピング塔に日章旗を掲げることに成功しました。

このときに旗を立てたのは、この絵本によると(笑)
小川軍曹勝俣伍長の2人であったようです。

オランダ軍は退却に際して遅延信管つきの爆薬を仕掛けていき、それが
翌朝0600時に爆発し、続く火災によって、精油所施設の約8割が消失しましたが、
より大規模なもう一方の精油所は無傷で残り、この作戦は成功裡に終わりました。




じつはこの後、パレンバンを制圧した挺進第二連隊は、船の火災によって
装備を失い涙をのんだ第一連隊と合流し、ビルマのラシオにおいて
合同で空挺作戦を展開しようとしていたそうです。

しかし、4月29日の決行日、付近上空の天候が悪化したため、
これは「幻の空挺作戦」のままで終わってしまいました。


開戦前、防諜上の理由から彼ら空挺隊の存在は秘匿され、彼ら自身、
自分の所属を家族にも言うことを禁じられていました。
しかし、作戦に成功し、南方資源地域を獲得した彼ら挺進隊は、
「空の神兵」としてマスコミにもてはやされ、国民は熱狂しました。


それにしても、皆さん、こんな疑問を感じたことはありませんか?
どうしてこんな成功を収めた空挺作戦が、戦争中たった4回しか行なわれなかったのか。

事実「空の神兵」以降、挺進部隊はその成功を受けて増設されるはずだったのですが、
この年の末あたりから日本は防戦一方になったため、
落下傘部隊を投入する機会すらない状態に追い込まれた、というのがその理由です。

もっとも1944年、昭和19年のレイテにおいて、日本軍は米軍を排除するために
多大な犠牲を払って高千穂空挺隊の投入による侵攻作戦を行ないますが、
これも敵勢力を脅かすには至りませんでした。

つまり簡単に言えば、オランダ軍と違ってアメリカ軍は手強かったと、そういうことでしょうか。
(簡単すぎ?)


パレンバン空挺作戦において、連合軍側の犠牲は飛行場530名、精油所550名。
対して挺進部隊の損害は、戦死29名、重傷37名。
これは作戦に投入された全隊員の12%にあたります。

29名の死者のうち2人は、落下傘の不開傘による墜落死でした。

 

次回は陸軍が行なった降下作戦、レイテ空挺作戦についてお送りします。