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「ゴルフ場の潜望鏡」ペリスコープ今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

一応「シルバーサイズ」本体の紹介が終わったので、
あとは博物館の潜水艦に関する展示を取り上げていくことにします。

今回のお題はペリスコープ=「潜望鏡」

海面下を航行する潜水艦の全てのステルス性、そしてその圧倒的強さ。
人類が武器として潜水艦を求めたのも当然でしょう。

しかし当初、そこには、明らかな問題が一つありました。
それは、潜水艦は一旦水の中に入ると、ほとんどの視界を失うことです。

それに対して発明された潜望鏡という解決策は、
おそらく最もよく知られた潜水艦を潜水艦たらしめるものですが、
初期の単純なチューブと鏡の組み合わせから、
今日の複雑な複合的機器に至るまで、
そこには長く険しい道のりがありました。

今日ご紹介するのは、潜望鏡という機器を生むため
人類が知恵を絞り格闘してきたその歴史(の一部)です。

■ グーテンバーグの潜望鏡



潜望鏡が初めてその形を記録に残したのは、

ヨハネス・グーテンベルグ
(Johannes Gutenberg)1397年頃 - 1468年

によって「売り出された」時でした。
彼は1430年代、印刷機を発明した人物として知られています。

金細工師であった彼は、印刷機械のみならず多数の発明をしているのですが、
その中の一つにペリスコープがありました。
これは宗教祭において群衆を見渡すことができるようにする筒で、
宗教巡礼者のために発明したものでした。

彼はこの発明を売ろうとお金を借りてたくさん商品を作りましたが、
この機械の利便性が伝わるには当時はちょっと時代が早かったようで、
機械は売れず、これが彼を破産させることになってしまいました。


■ マリー-ダヴィの潜望鏡



博物館の潜望鏡の歴史、いきなり話は1800年代に飛びます。
フランス人科学者であり、発明家だった、

エドム・イポリット・マリエ・ダヴィ
Edme Hippolyte Marie-Davy1820-1893


は、潜水艦に搭載する、鏡を45°に傾けた光学チューブを発明しました。
それは二つの鏡を使って作られた世界初の海軍潜望鏡でした。

子供でも思いつきそうな、と言って終えばおしまいですが、
まあこれもコロンブスの卵ってやつです。




この潜望鏡は1880年代に実験的なフランスの潜水艦、
「ジムノート」Gymnote に搭載されてデビューしています。

意外と近未来的なシェイプの「ジムノート」

彼は電磁モーターを発明しており、それをもとに
電気駆動プロペラを持つ潜水艦の提案も行っています。

■ サイモン・レイクの発明


潜水艦に少し詳しい方なら、ホランド型潜水艦に名前を残す、

ジョン・ホランド John Phillip Holland

の存在を知っていると思います。
しかし、この写真はホランドではありません。
彼のライバルであった、

サイモン・レイク Simon Lake 1866-1945

なのですが、残念ながら歴史的には無名と言ってもいいかもしれません。
その理由は、単に海軍が最初に採用した潜水艦がホランドのだったからです。

サイモン・レイクはクェーカー教徒のエンジニア、海軍建築家で、
アメリカ海軍の最初の潜水艦を作るために、
ジョン・フィリップ・ホランドとガチンコで競い合っていました。

そして1893年にアメリカ海軍から潜水魚雷艇の要請を受けています。

しかし、その後海軍は彼との契約を打ち切ってしまいました。
何があったのかはわからないのですが、レイクは発明を続け、
1894年に最初の潜水艦であるアーゴノート・ジュニアを建造しています。


Argonaut Jonior

これを潜水艦と呼ぶとは誰も思いますまい。
しかしこれが彼の開発した最初の「サクセスフル」な潜水艦でした。

アーゴノート、アルゴノートの語尾がアストロノーと同じ
"naut"であることから想像できるように、この言葉には、
ギリシャ神話に登場する巨大な船「アルゴー船」の乗員の意味があります。

三角形で木製、船底の車輪は「船の底が海底に付かないためのもの」。
これは船というより「海底探査車」に近いものだったようです。

ゴム長靴を履いて乗り、船体を中から押しながら海底を歩いて移動し、
なんなら海底に落ちているものを拾い上げることも可能でした。

空気はどうするかというと、密閉された船内の上部に溜まった空気を
極限まで吸うというデンジャラスな仕組みとなっていました。

大きな洗面器をかぶって中の空気を吸う的な。



流石にここで終わるはずもなく、レイクは1900年になると、
今度はアーゴノーという実に潜水艦らしい形のものを開発しました。

このアルゴノートも、その次の「プロジェクト」という潜水艦も、
レイクの潜水艦は、なぜか海軍に採用されることはありませんでしたが、
彼が潜水艦のために発明したものの多くは、
その後の潜水艦が標準的に備える装備となっていきました。

ダイバーが潜水艦を離れる時に必要なロックアウトチャンバーの設置。
司令塔の前方と後方に合計4つ搭載された潜舵、フラットなキール。
これでバラストタンクのレベルを変えることなく深度を維持できます。
バラストタンク搭載の二重構造による船殻。

そして、潜望鏡です。
このアルゴノートの図には「U」として潜望鏡が描かれています。

ところでこれだけの発明をしていたのに、
なぜ海軍はレイクの案を採用しなかったのでしょうね。

特に、「アーゴノート」の後継型、「プロテクター」潜水艦の導入を、
海軍と議会から拒否されてしまったレイクは、
腹立ちまぎれに設計図ごとそれをロシアに売却し、
腹立ちまぎれにロシア海軍にメインテナンスのやり方を兼ねて
手取り足取り乗組員の訓練もしてやったそうです。

レイクはロシア以外に日本にも売り込みをかけていたといいますが、
日本海軍も結局ホランド型を購入しています。
この時「プロテクター」を買っていたら、レイクが日本に来て
あれやこれやを指導していた可能性もありますね。


ところで、海軍がなぜレイクの潜水艦をなぜ買わなかったかというと、
潜水艦そのものに対する安全性への懸念だったのではないでしょうか。

結局導入を決めた「ホランド」型の開発についても、
何度も計画が変更してうまくいかなかったという事実が示す通り、
潜水艦という兵器はいかに発想が魅力的でも慎重にならざるを得ず、
従って、消去法で懸念材料が多かったレイク案が消えた、
ということにすぎなかったのかもしれません。

結局海軍が完成した「ホランド」号を購入したのは3年後でした。
ただし、肝心の潜望鏡という観点で言うと、

USS「ホランド」には潜望鏡は搭載していませんでした。

ホランドが潜望鏡を開発しなかったからです。
「ホランド」で当初どうやって外を見ていたかというと、

「ポーポイズ運動」

を行うという方法でした。


具体的にこんな感じで

失敗した魚雷が、海面に浮いたり沈んだりしながら進むことを
ポーポイズ(ネズミイルカ)と呼ぶことはご存じでしょうか。

「ホランド」の見張りは、数フィートごとに水面に浮上して、
強化ガラスを貼り付けたタワーの覗き窓から外を見ていたのです。

絶賛ポーポイズ運動中

これだとどうしても艦体が波間に見え隠れしますし、
写真でもわかるように大きく白波が立ってしまい、
潜水艦のステルス性は全く意味をなさなかったといえます。

何のための潜水艦か、って感じですね。

■ 潜水艦 USS「アッダー」Adder SS-3



まるでひっくりがえったボートに乗っているようですが、
これはよく見ると潜水艦なのです。

「アダー」は「ホランド」SS-1に続くアメリカ海軍の潜水艦であり、
歴史的にはこれが最初に潜望鏡を搭載した潜水艦と言われます。

ちなみに「Adder」というのはクサリヘビのことで、
「プランジャー」級の2番艦です。
「プランジャー」というのは「潜水夫」を表す言葉ですが、
潜水艦に水棲生物の名前をつける慣習は「プランジャー」級3番艦の
USS「グランパス」(シャチの種類)から始まっていたようですね。


しかし、潜望鏡。



これを見る限り、「アーゴノート」のように
はっきりと潜望鏡とわかる装備らしきものは見当たりません。

写真で、右から2人目と3人目の間に立っているのがそれかもしれません。

ちなみに写真の左端に見切れている大きなパイプは吸気用です。


■ 潜水艦以外に利用された”潜望鏡”


日本語だと潜望鏡は字面から見て水中使用専門のイメージですが、
英語の「ペリスコープ」は、必ずしも水中での使用を意味しません。

第一次世界大戦でペリスコープの必要性は激増しました。
塹壕戦が主流となり、身体を出さずに敵の様子を窺うためです。


この写真で使われているのと全く同じタイプの
「トレンチペリスコープ」はamazonで買えないこともないようです。



また、ペリスコープは第一次世界大戦の戦車にも大いに活用されました。

ガンドラッハ・ロータリー潜望鏡
(Gundlach Rotary Periscope)

はポーランドの軍人ルドルフ・ガンドラッハが1936年開発し、
360°の視界を可能にした回転式潜望鏡で、
戦車の中から戦車隊長などの観察者が座席を移動することなく、
前方(写真上)や後方(写真下)を見ることを可能にした。


後方を見る


この採用は観察者の快適性を大きく向上させ、視野も広くなるため、
1940年以降に製造されたほぼすべての戦車に採用されています。

戦前のポーランドとイギリスの軍事協力の一環として、
この特許はヴィッカース・アームストロング社に売却され、
すべてのイギリス戦車(クルセイダー、チャーチル、バレンタイン、
クロムウェル
など)に搭載されることになりました。

日本の戦車にも同じ機構が採用されていますし、アメリカに伝わり、
M6ペリスコープとしてすべてのアメリカ戦車
M3/M5スチュアート、M4シャーマンなど)に搭載され、
第二次世界大戦後、全世界で採用される技術となりました。


■ゴルフコースにペリスコープ

カナダのオンタリオにあるゴルフコースのペリスコープ

『ジョークではありません』

1933年に発行されたポピュラーサイエンスマガジンには、
ペリスコープがあなたのゴルフボールをグリーンに運ぶのに役立つだろう、
と、まるで冗談のようなことが書いてあります。

ゴルフコースのペリスコープ。
低い場所を見渡せます。

おそらく世界でも最も珍しいゴルフ場の設備の一つが、
カナダのブリティッシュコロンビア州ビクトリアのコースにあります。

このコースの9番ホールと10番ホールの間には小さな丘があって、
プレーヤーはどこにボールを打つかを肉眼で確かめることができません。

この問題を解決するために、この写真に見られる
高さ12フィートのペリスコープが9番ホールに設置されたのです。

見えない10番ホールに向かってショットを打つ前に、
プレーヤーは潜望鏡を通して丘を見渡すことによって、
自分のボールを打つ方向を確認できるというわけです。

また、実際の潜水艦の潜望鏡を使っているゴルフコースもあります。

The Golf House Club, Elie

スコットランドにあるというこのクラブのスターターハウスには、
1966 年に HMS 「エクスカリバー」から引き揚げられた潜望鏡があります。

これはまさしく・・・

こうしてみると潜水艦の潜望鏡の実際の長さが実感できますね。

この潜望鏡のおかげで、スターターは1番ホールの丘を見渡すことで
前の組が順調に進んでいるかどうかを確認することができますし、
賢明なゴルファーは、これからプレイする2番グリーンのホールが
どこに切られているかをばっちり見ることもできるというわけです。

HMS「エクスカリバー」とその姉妹船HMS「エクスプローラー」は、
英国海軍が建造した高濃度過酸化水素(HTP)を動力源とする潜水艦でした。

1950年代半ばに進水しましたが、潜水艦の動力源に使うには、
HTPは不安定であることがわかり、1968年末には両艦とも退役しています。


HMS「エクスカリバー」


HMS「エクスプローラー」

高濃度過酸化水素は閉鎖系エンジン(非大気依存推進)の酸素源として
利用が検討され、ヴァルター機関などにも検討されました。

大戦後、戦勝国がその成果を持ち帰った技術で、イギリスではこの
「エクスプローラー」級潜水艦が試作されたのですが、先ほど述べた理由で
潜水艦の水中動力源としては実用化されませんでした。

ただし、ロケット飛行機であるメッサーシュミット Me163のエンジンや、
日本の「秋水」の特呂二号原動機ベル ロケット ベルト、X-1、X-15、
ブラック・アローの推進剤
としては使用されています。

ロケットエンジンとしてもV2ロケット、ヴァイキング、レッドストーン、
ソユーズロケット
でターボポンプの駆動ガスの発生にも使用されました。


ロシア海軍は魚雷の推進剤に過酸化水素を使っていたのですが、
2000年、潜水艦「クルスク」で過酸化水素が不完全な溶接箇所から漏れ、
爆発し、魚雷の弾頭が誘爆したことが不幸な沈没事故を引き起こしています。


続く。


海上自衛隊横須賀音楽隊第57回定期演奏会@横浜みなとみらいホール

2023-03-05 | 音楽

先日海上自衛隊第4航空群のニューイヤーコンサートで
大和市芸術文化ホールにおける横須賀音楽隊の演奏を聴いたばかりですが、
あまり間をおかず、今度は定期演奏会にお誘いいただきました。

今回は「関東地方の音楽隊の追っかけ」をするほどの熱烈なファンから
チケットを分けてもらったという方からの、さらにお裾分けです。

会場は横浜のみなとみらいホール。

気がついたら、コロナ騒ぎになってからここにくるのは初めてです。
クィーンズスクエアの様子もすっかり様変わりし、
特に昔は長蛇の列ができていたタピオカドリンク店が潰れていたり、
みなとみらい駅のコンコースにランドセル屋さんができていたり、
何より驚いたのがみなとみらいホールそのものがリニューアルしていたこと。

どこがどう変わったかも記憶にないくらいですが、
とにかく変わったことだけは入った瞬間に気がつきました。

催し物がキャンセルになって会場がただの空間になっていた時期、
このめったにない機会を奇貨として、大々的に
リノベーションを決行した施設は多かったのかもしれません。

プログラムによると、この改修には1年半以上をかけたということでした。

お誘いくださった方と会場前で待ち合わせ、席に着きましたが、
今まで体験したことがない2階からの観覧です。



演奏会に先立ち、横須賀地方総監乾悦久海将の挨拶が行われました。

改めて気がついたのですが、先日のニューイヤーコンサートは主催者、
そして今回も、『主催者』として、直轄部隊の指揮官が挨拶するのが
地方隊の慣例となっています。

東京音楽隊の場合はそれはありませんが、その理由は、
同隊だけが防衛大臣直轄部隊であるからであり、
地方隊は地方総監の指揮監督下にあるという違いによるものです。

地方隊は東京音楽隊とは異なり、防衛事務官は置かれません。

この日の観客はみなとみらいホールの大ホールが大きいせいか、
特に2階席は空席が目立ったように感じました。

■ 第一部 吹奏楽オペラの世界

♪ 喜歌劇「軽騎兵」序曲 フランツ・フォン・スッペ

喜歌劇「軽騎兵」序曲

けいきへい、という言葉をわたしはこの序曲でしか知らないわけですが、
基本的に重装甲を帯びる重騎兵の反対で、(そらそうだ)
最小限の装備で後方撹乱や奇襲を主とした攻撃を行う兵のことです。

しかし、オペラ(オペレッタですが)と言いながら、
この「軽騎兵」という劇が上映されることはまずありません。

なぜかというと、台本が現存していないからです(笑)

というか、もしかしたら序曲の出来の割に、
あまり本編は評判がよくなかったのかもしれません。

さて、この、おそらくは誰もが一度は耳にしたことのある
軽快な序曲で軽やかに幕を開けた第一部。
指揮は前回のニューイヤーコンサートと同じく、
副隊長(自衛隊なのでもしかしたら副長?)の岩田知明一尉が行いました。

この日の司会は音楽隊員ではなく、フリーアナウンサーの石川亜美氏
(自衛隊での講習講師であるとか)が受け持ちました。

残念ながらわたしの座っているところからは
司会者はまったく死角になっていてお姿は見えませんでしたが、
元々軍楽隊に端を発した日本の吹奏楽シーンでは、当時から
オペラ音楽の再現がよく行われた、という前回と同じ解説がありました。

前半はそのオペラを中心としたプログラムです。

♪ 歌劇「椿姫」セレクション
ジュゼッペ・ヴェルディ 

歌劇「椿姫」セレクション  Giuseppe Verdi’s  “La traviata“Serlection

東京音楽隊では、アンコールに「乾杯の歌」を二人の歌手が歌いましたが、
それを含む「椿姫」の有名な曲をメドレーにした吹奏楽アレンジです。

アレンジは、オペラ開始の前奏曲で始まり、
第1幕の幕開けの豪華な夜会のシーンに続き、
続いて第2幕の「闘牛士の合唱」、ヴィオレッタのアリアと
第2幕2場のキャスト、合唱大勢で歌われる音楽を合体させており、
最後は第1幕1場の合唱音楽で盛大なフィナーレを迎えます。

♪ 歌劇「蝶々夫人」より「ある晴れた日に」

やまと芸術文化ホールでのニューイヤーコンサートで、
歌手の中川麻梨子三等海曹が歌ったのと同じプログラムでした。

全く同じ演奏者によるパフォーマンスでしたが、
今回は正直なところ、聴いていた場所の関係で、とくにボーカルは、
上に音が飛んで来ず、ニューイヤーコンサートのときよりも
何か「他人事」感がある、聴いていてもどかしい響きに感じました。

これは横須賀音楽隊にも中川三曹にも全く責任はなく、ただ、
会場の音響の調整があまりうまくできていない結果という気がしました。

気軽に楽しむ自衛隊コンサートなので、小難しいことを言う気もないし、
最終的に受けた満足感からいうと何の文句もありませんが、
せっかく良い演奏なので、どうせならもうすこしいい音響で聞きたかったな。


♪ 歌劇「サムソンとデリラ」より「バッカナール」
カミーユ・サン=サーンス
吹奏楽 歌劇サムソンとデリラ より バッカナール

これを聴くと、MKが高校のオーケストラで演奏していたことを思い出し、
当時の学校のオーディトリウムの独特の匂いまでが蘇ってくるのですが、
そんな個人的すぎる話はともかく。

歌劇の音楽ですが、吹奏楽のレパートリーとしては
それこそ中学生から取り上げるくらいポピュラーな曲です。

アラブ風の旋律と打楽器の奏でるエキゾチシズムが癖になる名曲といえます。



■ 第二部 吹奏楽による「日本の調べ」

この日の構成は第一部オペラ、第二部日本人作曲家による吹奏楽作品、
とはっきりと二分されていました。

そして第二部の多くが、全日本吹奏楽コンクールの課題曲です。

ここで少し司会者がこのコンクールについて説明しましたが、
わたしも驚いたことは、この第一回コンクールは、
朝日新聞社と一般社団法人全日本吹奏楽連盟の主催で、

第1回全日本吹奏楽競演会
紀元二千六百年奉祝 集団音楽大行進並大競演会


というのが正式名称であった由。
しかもこれ、朝日新聞が大阪にあった関係で、奉納演奏は橿原神宮、
大行進は中之島公園から御堂筋を経て道頓堀、千日前、
最後に生國魂神社参拝という流れでした。

後援は陸軍・海軍省、文部省、厚生省。

課題曲は大行進曲「大日本」斎藤丑松。
審査員には海軍軍楽隊長内藤清五、堀内敬三がいたという・・。

大行進曲「大日本」/斉藤丑松(Grand March "Great Japan" : Ushimatsu Saito)

まあ、こんな感じで続いていたわけですが、
3回やったところで戦争のため中断。
戦後再開されたのは1956年、昭和31年のことでした。

そして2020年に新型コロナウィルス感染症の収束が予測できないため、
中止されるまで毎年何らかの規定変更を加えながら継続し、
その間課題曲として吹奏楽の重要なレパートリーが生まれてきました。

ただ、一般公募の課題曲については、専門家から

「間違った音が多すぎる」

「和声的な誤りが多い」

「オーケストレーションに明らかな問題がある」

「旋律から作曲して無理やりリズムと和音を当てはめるので
戦慄との兼ね合いで音が濁る」

「構成がない作品に(参加者が)触れていると、
形式美や様式美という観点の存在すら失せてしまう危険がある」

などの苦言が呈されている模様。
ノリとか雰囲気で選ばれがちな一般曲を、
正規の音楽理論から論じると、こういう意見も出てきがちです。

ただ、音楽の場合は、「理論に外れる」ことは、
一分の例外もなくむしろ「聞いて変」という結果にしかならないので、
わたしは検証するまでもなく赤字の意見を後押しするかな。

聴いていて自然と思われる音楽は必ず音楽理論に則っています。(断言)


♪ 吹奏楽のための「風之舞」福田洋介

第二部からは横須賀音楽隊隊長北村義弘一等海尉がタクトを取りました。

2004年度課題曲(Ⅰ) 吹奏楽のための「風之舞」

聴いたことがあるなあと思ったら、かつてどこかの
(東音か横須賀か呉音楽隊)が取り上げたはずです。

それくらい、レパートリーとして重用されている曲なのでしょう。

第14回朝日作曲賞受賞作品であり、
2003年度全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅰとなった
この作品の作者、福田洋介氏は、作編曲を独学という人で、
海上自衛隊東京音楽隊のためにその名も

海の歌 The song of the sea

を作曲しています。
The song of the sea / Yosuke Fukuda 海の歌/福田洋介

♪ 土蜘蛛伝説〜能「土蜘蛛」の物語による狂詩曲
松下倫士

自衛隊音楽隊の演奏会で、木管八重奏を聴いたのは初めてです。
木管八重奏はピッコロ&フルート、クラリネット、それから
アルト、テナー、バリトンのサキソフォーンという構成でした。

[WW8] 土蜘蛛伝説 ~能「土蜘蛛」の物語による狂詩曲/松下倫士/ Tsuchigumo Legend by Tomohito Matsushita

作曲者自身の内容解説は以下の通り。

病気で臥せる源頼光のもとへ、召使いの胡蝶が、
処方してもらった薬を携えて参上します。
ところが頼光の病は益々重くなっている様子です。
胡蝶が退出し夜も更けた頃、突然雲霧が沸き起こり、
頼光の病室に見知らぬ法師が現れ、病状はどうかと尋ねます。

不審に思った頼光が法師に名を聞くと
「わが背子(せこ)が来(く)べき宵なりささがにの」
と『古今集』の歌を口ずさみつつ近付いてくるのです。
よく見るとその姿は蜘蛛の化け物で、
あっという間もなく千筋の糸を繰り出し、
頼光をがんじがらめにしようとしますが、
頼光は枕元にあった源家相伝の名刀、膝丸を抜き払い、
斬りつけると、法師はたちまち姿を消してしまいました。

騒ぎを聞きつけた頼光の侍臣 独武者は 、大勢の部下を従えて駆けつけます。

頼光は日頃の病もすっかり忘れた様子で、
名刀膝丸を「蜘蛛切」に改めると告げ、斬りつけはしたものの、
一命をとるに至らなかった蜘蛛の化け物を成敗するよう、独武者に命じます。

独武者が土蜘蛛の血をたどっていくと、
化け物の巣とおぼしき古塚が現れます。
これを突き崩すとその中から土蜘蛛の精が現れ、
土蜘蛛は千筋の糸を投げかけて独武者たちをてこずらせますが、
大勢で取り囲み、ついに土蜘蛛を退治します。

これだけの話を5分間の音楽にまとめるのですから大変ですね。

土蜘蛛の不気味さはバリトンサックスのくぐもった低音や、
フルートのブルブル震えるフラッターなどで遺憾無く発揮されています。

♪ 火の伝説 櫛田胅之扶

火の伝説(2018年・平成決定版)/櫛田てつ之扶 Ritual Fire by Tetsunosuke Kushida COMS-85133

この曲はコンクール課題曲ではありませんが、櫛田氏本人は
1981年、1994年の課題曲を作曲しておられ、さらに
陸上自衛隊中部方面音楽隊のために、

「万葉讃歌 〜ソプラノと吹奏楽のための」

を委嘱作品として作曲しておられます。
また、京都の八坂神社、大文字などの四季を通じた
京都における火の神事、祭事を描いたこの曲は、
吹奏楽コンクールでも自由曲としてよく選ばれるようです。

♪ 日本の四季
21世紀に歌い継ぎたい日本の歌メドレー


ここでまた中川麻梨子三等海曹が歌を披露しました。

「朧月夜」〜菜の花畑に入り日薄れ

「夏は来ぬ」〜卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて

「我は海の子」〜我は海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に

「里の秋」〜静かな静かな里の秋 

「冬景色」〜さ霧消ゆる湊江の 船にしろし朝の霜

「故郷」〜うさぎ追いしあの山 小鮒釣りしかの川

これらの曲がメドレーで一気に聴けました。

最初の歌詞を書いておいたのは、わたし自身、
「朧月夜」「冬景色」の題名がすぐに出てこなかったからです。



♪ 三つの音詩〜暁の海〜白の海〜蒼の海 
樽屋雅徳

【参考演奏】 吹奏楽 自由曲

海上自衛隊横須賀音楽隊委嘱作品。

作曲者のライナーノーツより。

眺める場所、時、季節により全く違う表情を持つ、
時には恵みをもたらし、時には猛威をふるう海。
この曲では、そんな海の表情を大きく三つの場面に分けて表現しています。

夜明けの静かな海辺に、打ち寄せては引いて行く波を歌った冒頭、暁の海。
時には波がしぶきをあげて荒れる様子を描いた白の海。
そして日が沈み、海は何事もなかったかのように落ち着きを取り戻す。

ピアノから木管楽器そしてクライマックスへ受け継がれていくメロディーが、
すべてを包み込むほど深く壮大な、美しい蒼の海を表現しています。

私達のすむ日本は海に囲まれた国であり、たくさんの人々が、
毎日水平線から昇る朝日や大きな海に希望を感じてきたのではないでしょうか。
そんな想いから、海の表情を和の音色を用いながら詩っています。
(樽屋雅徳)

この平成23年委嘱作品をラストに持ってくるために、
後半は日本人作曲家の「日本の風景」を集めたのかもしれません。


♪ 花 滝廉太郎

この日のアンコールは、中川三曹による滝廉太郎の「花」独唱でした。

アンコールに歌手とピアノだけで楽団員が全員そちらを見ているの図。
これもわたしのこれまでの音楽隊鑑賞歴でも初めてです。

しかしまたしても残念なことに、独唱が響いてこないうえ、
わたしの席からはピアノを誰が弾いているのか全く見えませんでした。

このウィングからは、最前列の人も身を乗り出して
下を覗き込まないとピアノすら目に入らなかったのです。

この日は三月三日、雛の節句だったのですが、
少し早めに「花」が選ばれたのかなと思いました。


最後は海上自衛隊音楽隊恒例の「軍艦」でお開きになりましたが、
同行していた方が、退出しながら

「陸自は『抜刀隊』最後にやらないんですか」

と聴いてこられたので、
先日中央音楽隊行きましたがやらないみたいですねー、というと、

「空自も『空の精鋭』やらないんですか。あれいい曲なのに」

陸空がやらないというより、海自音楽隊は海軍軍楽隊直系で
ヒューマンリソースと伝統がそのままそっくり継承されてきたので、
軍楽隊の慣習も途切ず受け継がれたんじゃないかと思います。

「軍艦」然り、自衛隊旗もある意味然りですよね。

というわけで、春の予感を感じさせるこの宵、横須賀音楽隊の
日頃の研鑽の成果である良質な音を堪能させていただきました。

最後になりましたがチケットの手配をいただきました方々に
心よりお礼を申し上げる次第です。









アメリカ海軍の大西洋発横断飛行(史上初)〜スミソニアン航空博物館

2023-03-04 | 飛行家列伝

「大西洋横断飛行」

大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。

少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。

大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。

太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、
20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。


さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。

ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)
上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。

が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。

なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。



■ 大西洋初横断

リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。

その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、
今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。


アルコックとブラウンの像

ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。

命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。

ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。

しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、
大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。


という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。

1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)

この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られた
カーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。




大西洋横断メンバー

当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。

NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:

操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊

機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes


機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton

副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd

通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,

司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read

アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores

アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。

先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。

超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。

この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。



このときのリード隊のコースが図になっています。

ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、
ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)


(赤字は予定外の緊急着陸地)

水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。

おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。


1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。

参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。

3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。

カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。

USS「アルーストック」

支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。

「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。

「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。

NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。

海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。


5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。

しかし、ご安心ください。

先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。

この過保護っぷりよ

この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。

配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。

乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。


NC-4の乗員

が、

ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。

NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。

飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。

しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。

このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。

NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、
「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。


当ブログではおなじみ、ミッチャー

若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー

「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。

もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)

さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。

グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ

さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。


NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。

スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。

そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。
アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。

当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。


その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!

この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。

また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」
というタイトルを得ることにもなりました。

かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。

ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。

結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。

やっぱり暇(略)

ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4


NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。



しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまで
ヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。

所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。

せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。


この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、

「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」

をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。


アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた

しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。
1929年2月9日、議会は公法を可決し、

「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」

ジョン・H・タワーズ中佐と、

「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」


を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。

これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。


本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。

1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。

「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」


現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。

「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」

と。

NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。

アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。

彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。

History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720 

前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。



NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。

しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。

というわけでNC-4の小型模型は、
国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。

模型ですが。



1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。

このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。


続く。



映画「間諜未だ死せず」後編

2023-03-02 | 映画


1942年制作の国策防諜啓蒙映画「間諜未だ死せず」続きです。



おそらくこれは当時の証券取引所だと思われます。
場面転換の捨てゴマなので、一瞬映るだけ。
画質が悪くて何が写っているかも判然としません。



ここはノーランが経営している日米文化雑誌社。
彼は日本に暗躍する諜報組織のメンバーで、この雑誌を隠れ蓑に
なにかと諜報活動を行なっていたのです。

フィリピン人のラウルは彼の手下となって工作活動をしていました。
諜報活動の他、市場をかき回し日本経済を混乱させるのが彼の任務です。
彼にはアメリカ政府からノーランを通じて莫大なお金が流れていました。


憲兵隊の武田少佐は、ノーランをずっとマークしているのですが、
なかなか尻尾を掴めずにいました。

ノーランの雑誌の写真から、彼が日本経済の不安を煽って
それを海外にも喧伝していることははっきりしているのですが。

憲兵隊では上海からの情報と、部下の調査から
ラウルと興亜学館を洗うことを決定しました。


その固い決意と狙った獲物は逃がさない的な演出として、
ここで武田憲兵隊長の「できる男」アピールが挿入されます。



憲兵隊の地下室にある銃撃訓練場を訪れ、
部下の成績表を一瞥して、

「おい、当たっとらんじゃないか。
お前たちは手の先で撃つからいかんのだ」




「腹で撃つんだ。腹で!」



ここはアメリカ大使館。

アメリカ陸軍のロバートソン少佐が、ホルスタイン君(右)に、
日米が開戦した際、東京空襲で狙いをつけるべき要所について
情報を集めるスピードをアップしろとハッパをかけています。

「近頃は日本も防諜が厳しくなりまして・・・」

弱音を吐くホルスタイン君は、当時のアメリカの流行であった
肩幅広く胴を絞ったスーツを着て、アイシャドウを塗りたくっております。



貯水池などが事故を起こせば、新聞に詳細な地図が載りますから、
彼らは自分達の手で火事を起こすことを企んだというわけです。

そうなれば後は、ノーランの会社が取材を装って
現地の様子をスパイする口実ができます。



ノーランの部下、王は、地道にスパイ活動に励んでいました。

津村の父親が日本と中国提携の布石として設立した興亜学館に入り込み、
中国人学生をオルグしたり、抗日新聞をばらまいたり。

しかしその動きを真っ先に怪しんだのは、
同じ中国からの留学生たちでした。

留学生の陳が王の工作のせいで警察に聴取を受けたのです。



王の処分を決める職員会議で、教諭の一人、津村文子は、
彼を学校に引き入れた責任を取って、
まず彼が本当にそんな活動をしていたのか尋ねてみるので
任せてほしいと言い出しました。

万が一皆の言う通りのことをしていたら、
自分の責任でやめさせ、場合によっては中国に帰ってもらうと。



しかしその頃、中国人学生有志は、すでに王を詰問していました。

抗日新聞をばら撒いたことを問い詰められても、
タバコを吸いながら薄笑いを浮かべてはぐらかす王の態度に、
一人の学生が怒りを抑えきれず、彼を殴りつけてしまいます。


そんな王をかばう文子。
学生たちは先生はだまされているんだ、と言いますが、彼女は、
騙されていたとしても信じたいという心を踏みつけにしないで、
王さんを信じてあげてほしい、と真摯に訴えます。

そんな文子の誠意にいたたまれなくなった王。
任務を続ける自信はもうなくなっていました。



おりしも、稼業から足を洗い故郷のフィリピンに帰る決心をしたラウルから
王に会いたいという電話がかかってきます。

ラウルが帰国したいというと、ノーランは、
貯水場近くの工場に放火するという仕事を、
足を洗う最後の条件として押し付けてきたのでした。

彼は、今夜仕事をやり終えたら、そのままフィリピンに逃げるので、
ユリを後から来させてほしい、と王に頼みます。



そこにノーランが現れて、横柄な口調でラウルを仕事に追いやりました。

王はそんなノーランの態度にムカムカしながら、
自分も帰国させてもらう、と言い切ります。

「What did you say?」

取ってつけたように下手な英語で返すノーラン(笑)
べらべら日本語を喋るので忘れがちですが、ノーランはアメリカ人なのです。
王は強い口調でアメリカの仕事はもうしない、と断りました。

「中国支那はアメリカの傀儡じゃありませんからね」

「へえ?君の重慶だって・・アメリカあっての蒋介石じゃないの」

「そんなら尚更アメリカ人の下でこんなことをしているわけにいかない」

「ヒュ〜ッ(口笛)Is that so?」


ノーランはしかし君を日本から守れるのは我々だよ、と嘯くのでした。



おりしも雨が降り出しました。

工場の倉庫に放火しようと潜入したラウルですが、
「変な外人」(ノーラン)が内部を聞き出そうとする取材を怪しんで
工場側が警戒を強め、人員を予定外に配置していたため、
放火の道具を置いたまま、逃走する羽目になってしまいます。



さっそくそのことを工場の人間は憲兵隊に通報し、
放置された機材と、残された血液のついた紙からラウルを特定、
憲兵隊はラウルとノーランの確保に乗り出しました。

ちなみに黒マスクしているのはラウルを追う憲兵。
当時の黒マスクは珍しかったのではないでしょうか。



任務に失敗したラウルは、憲兵隊から逃れる立場です。
彼は本牧の妻の元に戻ってきました。

「スープはポタージュよ。牡蠣入れたの」

などというセリフも、当時の日本人には馴染みのないものだったでしょう。



彼は今からアメリカ領事館で旅券をもらったらマニラに立つから、
後からこちらに来てほしい、とユリに訴えます。

ユリは最初は冗談だと相手にせず、そのうち
ただ自分に飽きたから捨てるのだろう、とゴネ始めました。

説得を諦めた彼が、自分がアメリカのスパイであり、
この暮らしも全てそのお金で賄っていたことを打ち明けても、
ユリさんたら、そんな嘘までついて卑怯者、と呼ばわる始末。



しかし、今にわかるよ、とだけ言って額の裏やらベッドの下から
なにやら書類を出して荷造りをしている男の様子から、
どうやらこれは本当のことらしいとわかり、号泣し始めます。



ラウルが背を向けていると、後ろからジーコジーコと音が聞こえてきました。
振り返ると、ユリが警察に通報しようとしているではありませんか。



「こちら本牧の小湊30番地、ラウル・ゼマローサ・・。はい。
加賀町警察ですね?」



「バカッ!貴様、亭主を売るつもりか!」

「だってあんたスパイでしょ!スパイじゃないの!」

「ち、ち、違う!」

「じゃ今のみんな嘘?嘘なの?」



「ユリ、僕はいつまでも君を・・」

「出てって!」

その剣幕に話し合いは無駄と悟り、一旦階段を降りかけたラウルですが、
急に静かになったので引き返してみると、
彼女は鏡台に向かって口紅をひいているではありませんか。

それを見た彼は、薄く笑って、階下の玄関に向かいました。


ところがびっくり、玄関を開けたらそこにユリが倒れていたのです。



「ユリ!」


バルコニーのドアの前には、ユリのパンプスが脱ぎ捨ててありました。
男が官警に追われるスパイであったことと、
もはやこれまでの生活はできなくなると絶望した末の自殺です。

ラウルが部屋に運び入れた彼女の顔から血を拭っていると、
いきなりバルコニーのドアが風で激しく開きました。



追手の存在を確認した彼は逃走しようとしますが、時すでに遅し。


「ユリ・・僕は何処にも行かないよ」


その頃、ノーランとその一味は、ラウルの失敗は
おそらく王の密告によるものだろう、と検討をつけていました。

たった今起こったラウルの自死も既に知っており、
彼らの情報網の凄さが窺えます。(棒)

彼らは帰国のための旅券を餌にここにおびきよせ、
復讐する気満々で王を待ち構えていました。

ここに集まっているのはほとんど日本人ですが、
柱にもたれている一人だけは、何人かわかりませんが西洋人風です。



そして、中国に帰る旅券を取りにきた王を拘束してしまいました。



ラウルを密告したのはお前だろう、と王を縛り上げて、
焼け火箸を当てるなどの拷問三昧。

それって、戦後言われているところの憲兵隊の・・・いやなんでもない。

王は激しい怒りを顕にしながら、ノーランに言い放ちます。

「長い間我々中国の血を吸って貴様たちは腹を肥やしてきた。
俺は今ここで貴様たちの悪魔のようなその姿を見て、
初めて中国の行く道がはっきりわかったんだ!」

「俺の肉体は滅びても、魂は中国に呼びかけて
アジアの解放を叫んでやるぞ!!!」

ちょうどその頃、憲兵隊が関係者の家宅捜索に入り、
その知らせがこのアジトにも伝わってきました。

ノーランらは慌てて部屋から出てゆき、ここの関係者が
書類を燃やして処分しようとしていました。

ストーブの横には拷問を受けた王がボロ切れのように横たわっています。


と思ったら、文字通り火事場の馬鹿力?で王復活。
自分が拷問された焼け火箸でアメリカ人を倒し、



書類が延焼して火事を起こすのを狂気の目で凝視するのでした。



そして最後の力を振り絞り、文子の家に電話をかけます。

「もしもし・・・文子さんですか・・僕はあなたにしたことを」

「王さん?」

「ぼくは・・・あなたのおかげで・・生まれ変わりました。
ぼくは・・あなたを・・・あなたを」

「何をおっしゃってますの?
いけませんわ。夜遊びなんかしてらして」


いや、王さん、酔っ払ってるんじゃないですから。

「もしもし?王さん?もしもし?」



翌朝、憲兵隊の車が向かうのは、アメリカ領事館でした。



車から降り立ったのは武田憲兵少佐。



それを上から見ていたノーランは、突入しようとする憲兵隊に向かって
あろうことか抵抗(発砲)を試みますが、
拳銃の達人(であることはもうすでに紹介済み)の武田少佐に
手元を狙われてあっけなく御用に。

武田少佐は楽しげに、

「お互いにまだ命は大事にしたほうがいいぞ。
俺の方にも都合があるからな」

ノーランは乱暴な怪我の手当てをする憲兵に、

「You have to mean.」
(たぶんYou have so mean.の間違い。『意地悪だなあ』)

その時部下が内部からトランクに隠した短波ラジオを見つけてきました。

「Have you ever seen such a fine one?」
(こんないいもの見たことないでしょ?)

そして、ここからが後世ツッコミどころ満載のラストシーンです。

「いいものを聞かせてやろう」

武田少佐が帽子を脱いでからつけたラジオからは、

「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。
帝國陸海軍は本日8日未明西太平洋においてアメリカ軍と戦闘状態に入れり」

「What?
(悔しそうに)That so....happened at last.」
(ってことは・・起っちまったか)




「どうだい、ノーラン。とうとうきたぞ。
俺たち一億の日本人が待ちに待った時が」

「ふふふ」


「12月8日。
この日我が日本は煌然立って米英膺懲(ようちょう)の火蓋を切る。
この日記は一億同胞にとっていい家宝だ」

「しかしね、少佐」


ノーランは楽しげにこんなことを嘯くのでした。

「私だってこの国に来てからもう20年。
相当の根はおろしてありますからね・・。

ねえ少佐、こういうのをごぞんじですか?

『一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてありなん。
もし死なば、多くの実を結ぶべし』」

「なんだいそれは」

「いやあ、キリストが言ったんですけどね。
わたしが死んでも、スパイの種は残っているっていう意味ですよ」

「ふっ、石川五右衛門のセリフだな」
(引かれ者の小唄=負け惜しみの意)

「ジャック・ノーラン死すとも間諜は未だ死せずですよ」

「ははは、いや、ありがとう。
負け惜しみの啖呵にしてはいいことを言ってくれたな。
我々も今後の長期戦に備えて、大いに警戒しよう」


ということで映画は終焉します。

この4年後、日本がどうなったかを知る全ての人にとって、
このエンディングからは、何とも言えない気恥ずかしさ、
あるいはきまり悪さのようなものを禁じ得ないでしょう。

このラストシーンゆえ(他にも理由はあるでしょうけど)
この映画は映画界の「黒歴史」になってしまい、出演者のほとんどが
その履歴から出演歴を削除することになったのです。
(原保美だけは堂々と書いているようですが)

ところで、領事館にいた町のご隠居、じゃない
ロバートソン少佐はどうなったのか。
スパイ組織に関与していたような気がしたけど、軍人だから
やっぱり不逮捕特権で開戦と同時に本国に帰ったのかな。


終わり。


映画「間諜未だ死せず」前編

2023-02-28 | 映画


昭和17年、日米開戦直後に、防諜を啓蒙する目的で制作された国策映画です。

また例によって教条主義まるだしの異世界的綺麗事映画か、
とあまり期待もせずにたまたま目についた作品を取り上げたのですが、
なかなかエンターテイメント性が盛り込まれていて、
映画としてそれなりに見応えがあったのは認めます。

しかし、日米戦争真っ只中に作られた映画であるため、
アメリカ人役の俳優が調達できず、濃い化粧した日本人俳優が、
時々怪しげな英語を挟みながら日本語のセリフをペラペラ喋る設定には、
いくらなんでも斬新すぎて度肝を抜かれました。

加えて、スポンサーをお上として制作したという国策映画であること、
日米開戦を礼賛する痛いラストシーンにしてしまったことから、
本作は映画作品としてまともに認められていないようで、
監督の吉村公三郎、脚本を手がけた木下恵介(後監督)、
主演の佐分利信の出演歴にはそのタイトルはなかったことにされています。



松竹映画は大船撮影所にエキストラを含め述べ二万人を動員したそうです。
親方日の丸の強みってやつですか。



指導が憲兵司令部、陸軍憲兵少佐の白濱宏、
後援防諜協会という文字が真っ先に出てきます。

憲兵司令部とは 陸軍で全国の憲兵に関する事務を総轄する官庁でした。
おそらくこの白濱少佐はその中の宣伝担当だったのでしょう。



昭和16年7月、重慶。
映画はなんと日本軍による重慶爆撃のシーンから始まります。

日中戦争の最中、当時中華民国の首都であった重慶に行われた
都市爆撃を含む戦略爆撃で、16年7月の爆撃は、
もうその作戦が開始されてから3年目となり、
実質上無差別爆撃となっていた頃という設定ですね。

それを全く隠さず、むしろ事実として最初のシーンに持ってくるあたり、
国策映画といいながらなかなかのバランス感覚に思えます。

ちなみに昭和14年からは海軍航空隊も参加しますが、
この攻撃を主導したのは、当時支那方面艦隊参謀長だった井上成美でした。



割れた窓ガラス越しに爆発の猛火から逃げ惑う重慶の人々が描かれますが、
これが「二万人を動員した」モブシーンだと思われます。



そんな街角に佇む中国軍の軍人がいました。
彼の名は王友邦少尉。
演じるのはこのころの戦争映画の常連俳優原保美です。



路傍に置き去りにされて泣いている子供を抱き上げ、
安全な場所に押し込んで、王はどこかへと向かいました。



彼は地下室にある中国陸軍の司令部に到着しました。

そこで司令部の軍人との話が始まるのですが、案の定会話は全て日本語です。
アメリカ人ですら日本人に演じさせるしかないこの状況で、
中国人役を日本人俳優で固めるのは当然とは思いますが、
言い回しや動作が日本人ぽすぎるのはちょっと問題かも。



上官から「香港のFBIからの要求」として彼に言い渡された任務とは、
日本滞在経験のある彼にスパイとして東京に行かせ、情報収集を行い、
日米交渉に向けて市場を撹乱するというものでした。

「日本人は口が軽い。
特に日本の女は外国人に対して不思議な憧れを持っている。
君は、君の若さを持ってその弱点を突くのも一興だよ」


などと、いきなり日本人を馬鹿にするのも忘れていません。

それにしても思うのは、日中戦争が始まって相当年数が経っているのに、
中国人の入国は全く制限されていなかったらしいということです。



さっそく民間人に身をやつした王少尉、香港から上海に飛び、
そこで手筈を整えて待つ関係者から指示を受けることになりました。



「マドロスパイプをくわえた男から指示を受けよ」

ふむ、こいつだね。

どこかで見た男だと思ったら、映画「水兵さん」で
主人公の少年の父親だった人じゃないですか。

原保美も「水兵さん」の海軍士官役だったし。



ところがそのとき、偶然王は東京時代の友人であり、
恩師の息子である津村とばったり遭遇してしまいます。

仕方がないので、連絡役に後をつけさせたまま、
二人は食堂に入り旧交を温めることになりました。


「もう7年になりますね」

「僕が高等学校の頃だからな」

「よく銀座を散歩しましたね」

話の流れで、津村は日本に行ったら自分の家に滞在すればいいと勧めました。
父親のいない彼の家には、老母と妹の文子が住んでいます。



「ついでに僕の写真なんかも持っていってやってくれないか」

うーん、これはどう見てもプロマイド。



津村と別れたあと、連絡係の男は不気味なことを言い出します。

「今彼と会わなければもう一生会えなかったでしょうな。
彼は中華日報の新入り記者です。
どうも邪魔になっていけない」

どうも、津村と出会ったのは偶然ではなかったようなのです。
記者がなぜ邪魔になるのかわかりませんが。



「僕の親友です。彼だけはやらないでください」

驚いていう王に、

「君は日本に行けばよろしい」

平然と言いながら書類や拳銃を彼に渡す連絡係。



ここは上海憲兵隊司令部。

真ん中のパリッとしたのは上原謙
上海憲兵隊長(なぜ私服なのかわかりませんが)だそうです。



この下っ端憲兵ですが、忘れもしないこの間伸びした顔、
「水兵さん」で主人公の同期山鳥くんを演じていた子じゃないですか。

もしかしたら「水兵さん」俳優総出演か。



上原謙は、王と連絡係が会っていたお店のウェイトレスから、
密告情報を受けていました。(多分お金が出てる)



「確かにこの男だったか?」

憲兵隊は、連絡係の男を張っていたのでした。

そして、王が近々東京に潜入すると判断し、内地の憲兵隊に通信します。

ところで、上原謙は出演者に大々的に名前を連ねてはいますが、
出演はこのシーンだけで、ほんの一瞬です。
おそらく女性客ホイホイ的キャスティングでしょう。



上原謙憲兵隊長が情報を送信した東京の憲兵隊長武田少佐(佐分利信)が、
ちょうどNHKで啓蒙放送を行なっています。

「この防諜は老若男女誰でも参加しなければならぬ、
国防上の義務であります。
この目に見えざる敵との戦いを我々は秘密戦と申します」


そして、宣伝と謀略に気をつけよ、と。
防諜協会がこの映画で宣伝したかったことなので、
くどくどと映画の長尺をを使って演説は行われます。

おそらく、実在の白濱宏憲兵隊少佐とやらにヨイショ、
いや敬意を表して、主演格の佐分利信に演じさせていると思われます。


さて、ここからが問題のシーンです。
場面は変わり、ここはアメリカ大使館。

「メイジャー・ロバートソン」

と呼ばれたアメリカ軍将校を演じている純度100%の日本人。

小津安二郎作品にも出た斉藤達雄という俳優ですが、
この人の「水兵さん」での役は「町のご隠居」でした。

もちろん彼のバイオグラフィにもこの作品に出たことは書かれていません。



そこに「グッドアフタヌーン・サー」と入ってきたのもご覧の通り日本人。

映画の情報がなさすぎて、演じている人の名前もはっきりしませんが、
消去法で三枡万豊という俳優だと見当をつけました。

挨拶の後は普通に日本語での会話が始まりますが、
その会話の合間に口笛をヒュー!と吹いたり(下手)、
手振りをつけたり、それらしく見せる努力は惜しみません。

後から来た男、ノーランは情報屋というか、日本の国内事情をあれこれ探って
米軍の諜報に報告し、株の操作などを含めた工作で憲兵少佐いうところの
「人心を不安にする情報戦」を仕掛けようとしているようです。

アメリカ側にすれば、日本の民心に厭戦気分を蔓延させることで、
こちらが有利な条件を安易に飲ませることができれば勝ちというわけです。



場面は変わってここはレッドリーというバー。
マグカップで酒を飲んでいるのは、もしかしたらさっきの憲兵隊少佐?


そこにノーランがふらりと現れます。

するとバーのマダム、ユリ(小暮美千代)はいきなりノーランに向かって、
今聞いたばかりの「信じられない話」をペラペラ喋り出すのでした。

「武田さんに散々揶揄われてんの。
ゆうべね、重慶で蒋介石が死んだんですって」



ノーランはそれを聞いて一瞬表情をこわばらせ、
それを盗み見る武田少佐の目は全く笑っていません。



そしてそのバーの片隅で泥酔したふりをしているのは、
おや、王さんではありませんか。

実は王さん、ノーランの指示を受けに、
つまり諜報活動の真っ最中なのです。

ノーランは王が帰った後も、

「徴用令が無理やり出されている」

「米は内地で足りないのに中国で捕虜に食べさせている」


などとデマを吹聴するのに余念がありません。



王は上海で会った旧友津村の家に下宿していました。

妹の文子を演じるのは水戸光子。
この組み合わせも見覚えありませんか?

これも「水兵さん」で、出征する海軍士官とその妻でしたよね。

歯並びのせいで見ていると不安になる容貌、などと
前回失礼な評価をしてしまいましたが、基本的に今回も感想は同じ。

しかしこれはわたしが知らなかっただけで、実は当時の女優、
桑野通子、高峰三枝子、原節子らと同格くらい人気があったそうです。

特にあの小野田寛郎元少尉が、ルバング島から帰国後、
「好きな女性のタイプ」としたことで話題になったとか。



確かに写真ではすごい美人。
国策映画ということで、女優を綺麗に見せるなどという撮影のこだわりが
「水兵さん」同様あまりなかったせいかもしれません。



さて、二人が何をしているかというと、兄が王に託した上海土産の
「中国の花嫁行列人形」を飾っているわけです。



なんだかよくわからない人形ですが、婚礼の行列を再現したもので、
王がその人形の並べ方を説明をしてやっているうちに、
すっかり二人はいいムードに。

「賑やかな音楽に送られて、行列がいくんです。
その頃はちょうど杏の花の真っ盛りで・・一面春の風に烟ってるんです」

「今度お帰りになったらあなたも早速おもらいになるのね」

「来てくれる人がいるかな」

「あら、いくらでもいますわ」


「いや、あなたのような方でないと」


うーん、王さんやるね。
これもスパイ活動の一環ですか。



ところがそのとき、王のために帯を出そうとしてタンスが揺れ、
上に飾ってあった文子兄の写真が落ち、割れてしまいます。



それとほとんど同時に、不吉な電話の音が鳴り響きました。


兄が上海で暗殺されたという知らせでした。
彼を撃ったのは上海で王の連絡役になった男です。




兄の運命をあらかじめ知っていたとは口が裂けても言えない王でした。



文子は興亜学館という国際学校で箏を教えていました。



授業を始めようとすると、中国人の生徒たちは、兄が中国で殺されたのに、
それでも中国人を恨まないのか、とダイレクトに聞いてきます。

文子は、兄を殺した中国人とあなたがたは関係がないし、
中国で親兄弟を失った日本人もそんなことは考えていないと答えます。

「わたしたちの敵は蒋政権です」



しかし、そんな文子と生徒たちの様子を覗き見しながら、
王は中国人留学生に工作を試みようとします。

つまり、日本政府の中国政策に(新政府への支援)に疑問を抱かせ、
反感を持たせるための扇動を行うのです。



戦地に米を送っているので国内に米が足りない、あるいは
無理やり徴用に引っ張り出されて皆が迷惑している、
こんな噂を電車の乗客がしているのを聞き、
自分達の工作がうまくいっているとほくそ笑む王でした。



さて、こちらは横浜の本牧にあるユリの豪華な部屋。



これがこの頃の日本人が考えるところのお金のかかったモダンな家?
この豪勢な家は、金持ちのパトロン(兼夫)に買ってもらったものです。

彼女は外から呼ぶパトロン兼夫の声に反応して
バルコニーに駆け出しますが、家の中なのにパンプスを履いています。

これも当時の日本人の考える「夢のようなゴージャスな家」の証です。



彼女のパトロンになっている男は、これも日本人にしか見えませんが、
ラウル・ゼナローサというフィリピン人スパイでした。
(ちなみに住所は中区本牧小湊30番地)

帰ってくるなり日本の株式市況をラジオで聴き始めます。

「東洋汽船」「日産汽船」「石川島」

などという実在の会社名が聞こえています。



王とラウルは、いわば「スパイ仲間」。

徒然に交わす会話で、なぜこんな因果な商売をしているのかという問いに、
王は自分の国を愛しているから、と答えますが、
フィリピン人と広東人のハーフであるラウルは、
故郷のダバオはもはやアメリカのものであって我々の祖国ではない、
と根無草の自分の運命を自嘲するのでした。



そして、フィリピン独立運動の英雄であり、スペインに処刑された
ホセ・リサール(1861ー1896)の話をしながら、激しく咳き込みます。

どうやら胸の病でおそらくもう長くないのでしょう。

本牧から見える夜の海を見ながら、ラウルは王に忠告します。

「アメリカやイギリスに操られちゃいけませんよ。
わたしは自分の仕事をビジネスと割り切ってやっているが」


若い王は、それは不誠実ではないかとなじりますが、
ラウルはそれでも自分は仕事をやり遂げるだけだと宣言するのでした。


続く。



海上自衛隊東京音楽隊 第62回定期演奏会@すみだトリフォニーホール

2023-02-26 | 音楽


陸自中央音楽隊の定期演奏会からちょうど一週間後の2月24日、
海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会を聴いて参りました。


前回の三階中央からはるか眼下を見下ろす席から一転して、
こんな近くに・・・・と言いたいところですが、
これはわたしの席ではなく、Kさんからいただいた写真となります。

一度でいいからこんなかぶりつきで聴いてみたい。

ちなみにこの日の開場は、混雑を避けるためにチケットに同封された紙に、
18時00から20分の間にご入場ください、とありまして、
わたしはそれをきっちり守り、20分ごろホールに入ったのですが、
その頃にはほとんど全てが着席していたので驚きました。

それもそのはず、わたしはその指定時間からてっきり1900開演と
思い込んでいたのですが、18時30分のだったのです。



新隊長、植田哲生二等海佐のステージは、
横須賀音楽隊長の時期に何度か聞かせていただきましたが、
東京音楽隊長に就任されてからは初めてとなります。

昨年、何度か東京音楽隊の演奏会のお誘いをいただいたにもかかわらず、
不運にも日本にいない時期と重なり、欠席を余儀なくされたためでした。

経歴を見たところ、ご就任は昨年9月ということで、もうすでに5ヶ月近く
「指揮官」として任務に当たっておられることになります。

植田隊長デビューに立ち会えなかったのも残念ですが、
わたしとしては、樋口好雄前隊長の最後の演奏会を
同じ事情で聴けなかったのは痛恨の極みでした。

ちなみに、


今HPを見ていたら、東音のキャラ紹介ページに
樋口前隊長が出演しておられました。

ところで、トオンちゃんの音符のハタは八分音符だからいいとして、
(女の子だからポニーテールという見方もできるし)
カイくんは全音符なんで、ハタ無しでよかったんじゃないか?
(とわかるひとにしかわからないつっこみ)

■ 前半〜東京音楽隊 ソリストの競演!

♪ 歌劇「絹のはしご」序曲 ジョアキーノ・ロッシーニ

有名なオペラの序曲でよく知っている曲ですが、
さすがに吹奏楽で聴いたのは生まれて初めてです。
一応探してみましたが、吹奏楽での演奏例はありませんでした。

ロッシーニ「絹のはしご」序曲(イェジー・マクシミウク)

1:10秒からが有名なフレーズです。
最初にオペラの序曲がくるというのは普通のオケでもよくある構成ですが、
自衛隊の演奏会ではどちらかというと珍しいかもしれません。

これは、前半のプログラム、東京音楽隊の誇るソリストたちの競演の
始まりを予感させる、アペタイザーといった意味合いで選ばれた、
じつに心憎い選曲だと思われました。

この軽やかな調べを最初に聴けば心が自ずと弾み、
これから起こる響宴に期待しない人はまずいないでしょう。

♪ 女心の歌〜リゴレット・ファンタジー ジュゼッペ・ヴェルディ

女心の歌 〜リゴレット・ファンタジー(伊藤康英 編曲)

「女心の歌」というと

風の中の鐘のように いつも変わる女心

という、堀内敬三の日本語の歌詞があり、これが
(何時ごろか知りませんが昭和初期とか?)
大衆に大変流行った時期があったそうです。

この曲を歌った最初のソリストは、男性ボーカル橋本晃作二等海曹。

1年前、東京音楽隊でのデビューを英語の曲で飾ったとき、
一緒に聴いていたMKが、デビューなら日本語で歌うべきじゃない?といい、
わたしも正直そう思ったものですが、今回オペラのアリアを聴いて、
やっぱりこれがこの方の本領だったのねと心から納得させられました。

「リゴレット・ファンタジー」は、動画を見ればわかりますが、
伊藤康英氏が『バンドジャーナル』2022年10月号別冊付録のために
書き下ろした編曲作品のようです。
(すごいなバンドジャーナルって)
東京音楽隊はその譜面を使って早速プログラムに取り入れたようですね。

アレンジは「リゴレット」の曲をミックスしたもので、
前半、橋本二曹は椅子に座って待っており、
動画の2分から「女心の歌」のイントロが始まると立ち上がり、
最後まで朗々とこの有名なアリアを歌い上げました。

♪ 早春賦 中田章

男性歌手が登場すれば、当然次は女性歌手でしょう。
ということで、三宅由佳莉二等海曹が、この
大正時代に作曲され「日本の歌百選」のひとつである曲を歌いました。

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず


橋本二曹が適材適所なら、三宅二曹の「早春賦」も
イメージと声の質、歌い方、全てがぴったりと耳に心地よく響きました。

ちなみに「日本の歌百選」ですが、さだまさしの「秋桜」「翼をください」
「涙そうそう」中島みゆきの「時代」なんかも入ってます。

これらはまあ納得ですが「世界でただ一つの花」これは正直どうかなあ。

♪ ラプソディ・イン・ブルー 
Rhapsody in Blue
ジョージ・ガーシュウィン


全国に自衛隊音楽隊数あれど、
ピアノ協奏曲でもあるこの曲を演奏できるソリストがいて、
この演奏が可能なのはおそらく東京音楽隊だけに違いありません。

コンサートピアニストでもある太田紗和子一等海曹が、
前半のトリとしてこの曲を演奏しました。

ラプソディー・イン・ブルー バーンスタイン 1976

名演は世にたくさんあれど、やはりこの曲はバーンスタイン、
そしてニューヨークフィルってことでこれを貼っておきます。


アメリカの航空会社ユナイテッドエアラインが、
昔からこの曲をテーマにしていますが、何度聞いても、
A●Aの葉〇〇太郎のあの曲と違い(あれもういい加減勘弁して)、
決して飽きないのは、ジャズの作曲家として
卓越したメロディメーカーだったガーシュインの力というものでしょう。

本作は「パリのアメリカ人」とともに、彼の代表作となった曲ですが、
ガーシュインはいろいろ事情があって、二週間で書き上げ、
さらにオーケストレーションが得意ではなかったため、
アメリカを代表する作曲家である
ファーディ・グローフェ(代表作『グランドキャニオン組曲』)
がその仕事を引き受けました。

ガーシュインという人は正統なクラシックの勉強をしておらず、
そのことに大変コンプレックスをもっていたそうですが、
思いあまってフランスでモーリス・ラヴェルに弟子入りを申し出たところ、
ラヴェルが、

「君はもうすでに一流のガーシュインなのに、
なんでわざわざ二流のラヴェルになりたがるんですか」


といってそれを断ったという話がわたしは大好きです。
(聞き覚えなので正確ではないかもしれません)

本作は、ヨーロッパのクラシック音楽とアメリカのジャズを融合させた
シンフォニックジャズとして高く評価されています。

初演が行なわれた「新しい音楽の試み(現代音楽の実験)」には、
ヤッシャ・ハイフェッツ、フリッツ・クライスラー(バイオリニスト)
セルゲイ・ラフマニノフ(作曲家)レオポルド・ストコフスキー(指揮者)
レオポルド・ゴドフスキー(ピアニスト、作曲家)、
そしてイーゴリ・ストラヴィンスキー(作曲家)
らが立ち会ったそうですが、
これらのクラシック界の巨人たちと同席したガーシュインが
このときすでにコンプレックスから脱していたかどうかは謎です。

ちなみに、この曲の「イン・ブルー」というのは、
「ブルーノート」という名前の有名なライブハウスに使われているように、
ブルーはジャズそのものを意味することからきています。

ついでに、ジャズミュージシャンのことを隠語で「キャッツ」といいます。
なぜかはわかりませんが、まあ確かにジャズ屋さんは猫っぽいかな。

伝説のジャズグループ「クレージーキャッツ」もそこから来ています。
彼らは在日米軍のキャンプ回りで実力をつけ、
ある日ステージのおふざけに、米軍兵士から飛んだ
「ユーアークレージー」とキャッツを合わせてこのグループ名になりました。

この日ピアノ協奏曲を大田一曹のためにセレクトすることになり、
東京音楽隊が同作を選んだ理由ですが、わたしは
「イン・ブルー」→海の色
というイメージからではなかったかと勝手に推察しています。

あまりにも有名なクラリネットの怪しげなグリッサンドから始まる
この「ジャズ・ピアノ協奏曲」を、この日の大田一曹は
吹奏楽の大音量サウンドに全く臆する様子もなく、驚くべき集中力で、
むしろバンドを力強く牽引しながら最後まで弾き切りました。

ところでわたしは、「ラプソディ・イン・ブルー」の中間部に現れる、
広大でロマンチックで最も美しいテーマにくると、いつも

「THE AMERICAN」

という言葉を思い浮かべます。
あまたのアメリカ人作曲家の手による有名な楽曲の中でも、
この部分ほどアメリカという国の美しい面を凝縮したような
「アメリカらしい」メロディをわたしは寡聞にして知りません。

わたしの近くには在日米軍の軍人らしき男性の二人連れが座っていましたが、
わたしは、もしアメリカ人の立場でこの曲を当夜の形で聴いたら、どれほど
自国への誇りと忠誠心を呼び覚まされることか、などと考えていました。

果たして曲が終わり、米人男性はほとんどスタンディングせんばかりに
両の手を大きく上に掲げて、この「ザ・アメリカン」を
見事に演奏した演奏家に拍手を惜しみなく送っていました。

余談ですが、前列でご覧になったKさんによると、
「ラプソディ」の演奏のためにピアノを中央に運ぶ隊員の中には
「女心の歌」の橋本二曹がいたそうです。

曲の順番も、橋本二曹、三宅二曹(先任)、大田一曹と
ちゃんと階級を考慮していて、自衛隊の音楽隊という組織は、
あるいみ順序を決定しやすいということに気づかされたものです。

■ 第二部 ザ・ブラスバンド!

第一部は序曲に続きソリストの競演でしたが、
第二部からは東京音楽隊の吹奏楽編成が主役です。

♪ 白鯨と旅路を共に Sailing with Whales ロッサーノ・ガランテ

【世界初演】Sailing with Whales / Rossano Galante 白鯨と旅路をともに /R.ガランテ 光ヶ丘女子高等学校吹奏楽部

光ヶ丘女子校吹奏楽部の委嘱作品で、2021年初演なので、
まだできて2年目ですが、これから吹奏楽シーンの
人気のレパートリーになっていきそうな予感を感じさせる名曲です。

題を知らずに聴いたとしても、その広がりからは

「旅」「海原」「冒険」「航海」

という言葉が自然と浮かんでくるでしょう。

特にわたしは

ソ〜ドラ〜 ソ〜ドシ〜 ソ〜レファ〜ミ〜
ソ〜ドラ〜 ソ〜ドシソ↑ソファミ〜


というメロディに心をぎゅっと掴まれました。
そしてクライマックスは、アメリカ人作家らしい(イタリア系ですが)
アメリカの荒野がよく似合う、西部劇調です。

作者のロッサノ・ガランテは1967年生まれのアメリカの作曲家で
映画やドラマなどの作曲を数多く手掛けた人です。

曲想からはわたしはどうしても2021年逝去された
すぎやまこういち氏のゲーム音楽を彷彿としてしまいました。

すぎやま氏が亡くなられてから横須賀音楽隊は追悼の演奏を
オンラインでアップしましたし、
東京音楽隊も2022年始めの定演でドラゴンクエストを捧げています。

♪ 詩的間奏曲 ジェイムズ・バーンズ

Poetic intermezzo : James Charles Barnes(詩的間奏曲/ジェイムズ・チャールズ・バーンズ)

以前も一度東京音楽隊はこの曲を取り上げた気がします。

もうとにかく最初のゼクエンツのテーマがあざといくらい美しい。
って前も同じことを書いたような気がしますがまあいいや。

バーンズはアメリカの作曲家ですが、大の親日・知日家で、
東京佼成ウィンドオーケストラなどのために作品を書いています。

知日だからこうなのか、こうだから知日になったのかはわかりませんが、
この曲でもおわかりいただけるように、彼のメロディは実に日本人好みです。

あと一つ気づいたのは、バーンズはもともとテューバ奏者で、
新隊長の植田二佐もテューバ奏者として自衛隊に配属されたという偶然です。


♪ エスカペイド Escapade ジョセフ・スパニョーラ

エスカペイド/ジョセフ・スパニョーラ Escapade/Joseph Spaniola MP-99018S



ヒスパニック系アメリカ人らしいスパニョーラは、1963年生まれ。
アメリカ空軍士官学校バンドの作曲&編曲班?チーフで、
この曲も空軍士官学校のバンドのために2001年作曲したものです。

ちょっと007を思わせるミステリアスでエッジの効いた作風で、
言われてみれば空軍的なスマートさも感じさせます。

Escapadeとは「冒険」という意味で、スパニョーラ自身が、
ライナーノーツでこう語っています。

作品のより明確なビジョンを模索していた際に、
「エスカペイド」という言葉に出会いました。
「エスカペイド」とは規範に反した冒険的な行動や旅を指します。
それはしばしば予期しない結果や目的地へ導きます。
「エスカペイド」という言葉が、私の心の中にあった
自由なアプローチの精神を捉え、創作へと駆り立てました。

4つの音から始め、最初の4つに続き、そのあとは導かれるまま綴りました。
その冒険の結果がESCAPADEなのです。



♪ ダンソン・ヌメロ・ドス(第2番)
 アルトゥーロ・マルケス

Gustavo Dudamel - Márquez: Danzón No. 2 (Orquesta Sinfónica Simón Bolívar, BBC Proms)

後半のプログラムはとにかくメロディが美しいだけでなく、
何度でも聴きたくなるような「常習性」のある曲ばかりでした。

ダンスという意味のあるダンソン2番は、一時癖になって
アメリカで散歩をしながら繰り返し聴いたくらいです。

この日の荒木美香さんの解説で、この曲がメキシコの名門大学、
メキシコ国立自治大学の依頼で作られたことを知り驚きました。

同大学はメキシコのトップ大学でかつ最古の創立でもあります。
実はわたくしごとですが、ここを卒業して
メキシコの会社から日本の自動車メーカーに出向していた知人がおり、
コロナの後連絡を取ったら家族皆無事にしているという返事に
胸を撫で下ろしたということがあったのです。

好きで聴いていた曲にそんな因縁があったこと、そして
1994年といいますから、まだ作曲されて30年くらいですが、
メキシコでは「第二の国歌」というくらい人気があることを知りました。

この曲を取り上げてくれたことに感謝です。


♪ 乾杯の歌 ジュゼッペ・ヴェルディ

アンコールは解説なしでいきなり三宅二曹、橋本二曹による
ヴェルディの「椿姫」より「乾杯の歌」でした。

金持ち息子アルフレードと高級娼婦ヴィオレッタの、
この世の美しいものは一瞬で終わるのだから、
せめて今宵は乾杯して楽しみましょう、という内容の
あまりに有名なこの曲を、二人の歌手が歌い上げました。


そして最後に行進曲「軍艦」が演奏され、演奏会は幕を閉じました。

こうしてみると、プログラムの構成に全く無駄がなく、
どんな音楽を提供したいかというビジョンがはっきりしていて、
しかもどの曲にも送り手のメッセージ性が感じられました。

新隊長による新生東京音楽隊のこれからにますます期待です。

最後になりますが、演奏会の参加をお手続きくださった
関係者の方々にも熱くお礼を申し上げます。


終わり







ジミー・ドーリトルとスマイリング・ジャック〜スミソニアン航空博物館

2023-02-23 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館のミリタリーエア、陸軍航空のコーナーには、
歴史的なカーティスの水上機R3 C-2が展示されています。

これは、かつてあのジェームズ”ジミー”・ドーリトル大尉が乗ったものです。



機体の下には当時のジミー・ドーリトルの飛行服姿が
パネルになってお出迎えしてくれます。

東京空襲=ドーリトル空襲で有名な彼ですが、若い時は
エアレース常連の航空パイロットとして名前を挙げました。

今日は、スミソニアン航空博物館の展示から、
若きドーリトル飛行士についてお話しします。

1925年、アメリカ陸軍航空隊のパイロット、ジミー・ドーリトルは、
このカーティスR 3C-2で、シュナイダー・トロフィー水上機レースに出場、
見事一位を獲得し、翌日には世界記録を打ち立てました。

パネルには、「ジミー・ドーリトルとは?」として、

1920年代、1930年代のアメリカ最高のレースパイロット

航空エンジニア

初めて「ブラインド」フライトを行った恐れ知らずのパイロット

第二次世界大戦の国際的英雄

とそのキャッチフレーズが書かれています。

■ シュナイダー・トロフィー・レース


ノーズがハシブトガラスそっくりな(笑)カーティスR -2C3。

1925年10月26日、アメリカ陸軍中尉ジェームス・H・ドーリトルが
このカーチスR3C-2で参加したシュナイダートロフィーレースの記録は、
平均時速374kmというものでした。

翌日に樹立した世界記録は、直線コースで時速395kmというものです。

R 3Cは純粋にスピードを追求するために設計されており、
水上飛行機から地上用に転換することが可能でした。

そのため、ドーリトルはのちに陸上機としてもレースで結果を出しています。

多くの革新的な機能を持った機体でしたが、
中でも翼に組み込まれたエンジン冷却のためのラジエーター、
そしてフロートに燃料タンクを組み込んだ点が特に先進でした。


これがコクピット。
まあよくぞこれで新幹線並みの速さに人体が耐えたなと。

ちなみにレースには他にも2機同じカーティスの機体が参加しましたが、
そのどちらもゴールラインに到達することもできなかったそうです。



レースの時のカーティスR 3C-2とドーリトル。
レースはメリーランド州のチェサピーク湾で行われました。

メリーランドの天候については詳しくありませんが、
11月のレースは気候的に上空は厳しかったのではないでしょうか。


大恐慌時代のアメリカ航空界のポピュリズムは、1930年代、
エアレースという目に見える形に集結されることになります。

資金さえあれば、容易に入手できる技術を利用し、エアレーサーを投入して、
それだけで名声と富を手に入れることができた時代でした。

国際レースはコンスタントにクリーブランドで行われましたが、
他の主要なアメリカの都市もこぞってレースをホストしています。




シュナイダー・トロフィーレースというのは、1913年から1931年まで
欧米各地を持ち回りで開催された水上機のスピードレースです。

主催者のフランスの富豪、シュナイダーの名前を取ったレースで、
彼自身が水上機の将来性を見込んで、航空技術を発達させるため
私費を投じてレースを始めることにしたようです。

第1回大会、第2会大会は1913年14年と連続して行われましたが、
第一次大戦が始まってしまい、その次は1919年と間が空いてしまいました。

この後の経過が、なんというか第一次世界大戦後の世界の航空界を
ある意味描写している部分もあると思うので書いておきます。

1919 開催地イギリス 優勝:イタリア
1920 開催地イタリア 優勝:イタリア
1921 開催地イタリア 優勝:イタリア

3回連続優勝すればトロフィーを永久獲得できるというルールだったが、
他の国の準備体制が不十分であったという事情を鑑み、
イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄

1923 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

アメリカ、陸軍の総力を挙げて参戦したため、他国から批判される
1924 開催地アメリカ(中止) 優勝:なし

アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場、
イギリス機も予選でクラッシュしてしまったため、
アメリカはスポーツマンシップに則って開催の延期を申し出る
1925 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

イタリア、イギリス両国、満を持して臨むも、
ジミー・ドーリトルのカーチス R3C-2が圧勝
アメリカのトロフィーの永久保持の権利3勝まであと1勝と迫る

1926 開催地アメリカ 優勝:イタリア

アメリカは軍が手を引いたところ、イタリアが国民の盛り上がりと
ファシスト党のムッソリーニ自らがこれを国家プロジェクトとして
「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」

と大号令をかけたのが後押しをして、その結果、

空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディの操縦するマッキ M.39が優勝

この大会を最後にアメリカは不貞腐れて参加を取りやめ
以降はイギリスとイタリアの一騎討ちとなる

1927 開催地イタリア 優勝国イギリス

イギリスがレジナルド・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝
これ以降
イタリアはイギリスに勝てなくなる

この間主催者であったシュナイダーは、戦争で資産を失い、
1928年、貧困のうちに死去していた


1929 開催国イギリス 優勝国:イギリス

1931 開催国イギリス 優勝国:イギリス

イギリスに勝てなくなったイタリア、
やる気をなくして
これ以降のシュナイダートロフィーは行われなくなる

っていうか、もうこの頃は水上機の時代は終わっていたのかもしれません。


1925年のシュナイダートロフィーレースで
カーチスR3C-2レーサーに乗るドーリトル



■ 戦間期


第一次世界大戦中、ドリトルは飛行教官として米国に留まり、
その後飛行隊に所属しましたが、大学で本格的に航空工学を学び始め、
1922年、カリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得します。

翌年、テストパイロットと航空技師を務めた後、
ドーリトルはMITに入学して航空機の加速試験で修士論文を書き、
MITから航空学の修士号を、続いて博士号を取得しました。

彼はこれでアメリカで初めて航空工学の博士号を取りました。

卒業後、ドーリトルはワシントンD.C.の海軍航空基地
アナコスティアで高速水上機の特別訓練を受け、また、
ニューヨーク州ロングアイランドの海軍試験委員会に所属し、
ニューヨーク地区の航空速度記録挑戦でおなじみの存在でした。

また、1922年、初期のナビ計器を搭載したデ・ハビランドDH-4で、
フロリダからカリフォルニア州サンディエゴまで一度の給油で
21時間19分という初めての横断飛行を成功
させました。

この功績によりアメリカ陸軍は彼に殊勲十字章を授与しています。

当時の国際レースで最も注目度の高かったのは、
トンプソン・トロフィー(クローズコースのレース)と、
彼の出場した大陸横断レース、ベンデックストロフィーでした。


トンプソン・トロフィーは2つのシリーズに分かれていて、この写真は
国際陸上機フリー・フォー・オール」(無制限クラス)の様子です。
スピードを競うレースですが、

ドーリトルは1931年に、

Granville Gee Bee Model R Super Sportster

という飛行機で優勝しています。


犬は飼い主に似るというけれど、この飛行機も
なんとなくドーリトルに雰囲気がそっくりな気がします。



「ベンデックス・トロフィー」は実業家、
ヴィンセント・ベンデックスの名前を冠したレースで、
その第一回大会となる1931年のバーバンクークリーブランド間を、
少佐だったドーリトルはスーパーソリューションに乗って出場し、
優勝して賞金7500ドルを獲得しています。



ちなみにベンデックス・トロフィーは、その後、
何人かの有名な飛行家が出場しています。

それがここでも何度となく扱ったお馴染みのメンバー、
ルイーズ・セイデン、ジャクリーン・コクラン、
そしてアメリア・イヤハート

女性も男性と肩を並べて出場し、優勝できるレースだったんですね。


この後の1925年に行われたシュナイダーカップレース
ドーリトルは優勝することになります。


1926年、ドーリトルは陸軍から休暇をもらったので、
カーチス航空機のデモフライトを行うために南米に行ったところ、
チリでアクロバット飛行の実演中に両足首を骨折し、このことは
「ピスコ・サワーの夜」と呼ばれる事件にもなりました。

彼は両足首にギブスをつけてカーチスP-1ホークで空中飛行を披露し、
周りを驚かせましたが、帰国するなり入院を余儀なくされました。

アクロバットパイロットとしての彼の探究心は止まず、
その後1927年には、オハイオのライト・パターソン基地で
それまで不可能とされていたアウトサイドループを初めて成功させました。



この時の彼は、カーチス戦闘機を操縦し、高度1万フィートから
時速280マイルで急降下、逆さまに降下した後、上昇し、
ループを完成させています。

しかし、怖いもの知らずの無鉄砲ゆえ、

こんなこともありました。
ってかよく生きてたな。不死身か。

クリーブランドのナショナル・エアレースのデモで見事墜落。

パイロットとしての彼は、幾つものトロフィーを獲得し、
そして契機飛行を最初に行った「パスファインダー」というべき存在でした。

前列左から三番目、ドーリトル

1934年、ドーリトルはオハイオ州デイトンのマコックフィールドにあった
陸軍航空部のエンジニアリング部門に、テストパイロットとして加わります。

この写真は当時のテストパイロット仲間と撮った記念写真です。

彼らは実験用航空機で高高度、高速飛行を行い、
エンジンターボスーパーチャージャーや可変ピッチプロペラなど、
新しく生まれてくる技術を次々と評価しました。

彼らの前にあるアヒル🦢の正体は謎です。


■ スマイリング・ジャック



ドーリトルコーナーにあった、当時人気のカートゥーン、
「スマイリング・ジャックの冒険」をご覧ください。

「やあ、カート、レースで会えるとは嬉しいね」

「スマイリン・ジャック!ははは、君うちに帰れば?」

「僕の素晴らしい飛行テクとラッキーラビットにかかっちゃ
君のチャンスはないぜ?」

「それはどうかな?」

「最後のラップとダーツはリードしている・・
彼のラビットの足が役に立ってるな」

「彼は確実に勝つ・・いや、何か変だぞ。
彼は着陸しようとしている!」

Dart`s Dart号墜落「おおおっと」

「コントロールができなくなって・・・何が何だかわからない」

「なんだ?何かがポケットから滑り落ちて
コントロールジョイントを吹き飛ばしたぞ」

「君の『ウサギの足』だよ!」

「????」

はっきり言って何が面白いのかさっぱりわからんのですが、
40年間掲載され、最も長く続いた航空漫画と言われています。

この流れから、スマイリン・ジャックのモデルはドーリトルなのか?
と誰でも思うわけですが、そうではなく、モデルは
エアレースの有名スターだったロスコー・ターナーという人だそうです。


似てるかも

流石にドーリトルはバリバリの陸軍軍人だったので、
漫画のモデルにはしにくかった、に1ドーリトル。



なぜかこんな写真も残っています。
どれがドーリトルかわかりませんが。
左上の一番楽そうな人かな?



そして、若い頃はこんなにシュッとしていたドーリトル。
この後、第二次世界大戦初期に東京空襲を指揮し、


こんな貫禄たっぷりに・・・。

戦後彼はアメリカが宇宙開発時代に突入すると、
NACA (国家航空諮問委員会)の中の人というか委員長に就任し、
米国の宇宙計画への貢献の可能性と、NACAの人への教育を期待して、
陸軍弾道ミサイル局のヴェルナー・フォン・ブラウン博士、
ロケットダインのサム・ホフマン、海軍研究所のエイブラハット、
アメリカ空軍ミサイルプログラムのノーマン・アポルド大佐
など、
委員会メンバーの人選に携わっています。

そしてアメリカ軍の人種撤廃を提唱しました。
この時彼は、

「この状況の解決策は、彼らが有色人種であることを
忘れる
ことだと確信している 。
産業界は統合の過程にあり、それが軍にも押し寄せようとしているのだ。
あなた方は必然を先延ばしにしているだけに過ぎないのだから、
潔くそれを受け入れた方がいい」

と語っています。
ちなみに彼はフリーメイソンのメンバーでもありました。

彼の二人の息子はどちらも空軍パイロットになりましたが、
第524戦闘爆撃機飛行隊の司令官として、F-101ブードゥーを操縦していた
長男のジェームズJr.(少佐)は、わずか38歳で拳銃自殺しています。

調べてみましたが遺書などは見つかっておらず、
理由は明らかにされていません。


ジェームズ・H・"ジミー"・ドーリトルは1993年9月27日、
カリフォルニア州ペブルビーチで96歳で死去し、
アーリントン国立墓地に妻と共に眠っています。

ドーリトル将軍の葬儀では、彼の栄誉を讃え、
1機のB-25ミッチェルと、空軍の爆撃機がフライオーバーし、
墓前で死者に捧げる言葉が述べられると、ドーリトルの曾孫である
ポール・ディーン・クレーンJr.がタップスを演奏したそうです。


続く。



サブマリン レスキューチャンバー〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-02-21 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」が係留してある岸壁に展示された
二つの大きな展示物のうち、ヘッジホッグを前回紹介しましたが、
今日はレスキューチャンバーを取り上げたいと思います。



繰り返しになりますが、レスキューチャンバーとヘッジホッグは、
「シルバーサイズ」の艦内を見終わって、出口に向かうとき、
岸壁を見ると嫌でも目につくところに置かれています。



どちらも珍しいものだけに、来館者の興味を引いています。

さて、この左側のがレスキューチャンバーであるわけですが、
とりあえず現場にある説明をご紹介しながら進めましょう。

1900年に潜水艦が海軍に持ち込まれ、その一部となったとき、
そこにはいかなる種類の脱出装置も付いていませんでした。

立ち往生した、あるいは沈没した潜水艦には、水上艦が救助に来て、
被災した潜水艦を、水中から艦体ごと引き上げることしか、
乗員を助けられる方法はなかったのです。

助ける方法がそれしかないにも関わらず、
武器として導入し、人間を乗せて戦わせる、という決断をした
海軍も大概乱暴だと思いますが、そこはそれ、
水中に沈んで敵を攻撃できる船は、かなり早くから切望されていて、
それこそブッシュネルの亀に始まり、先人が苦労を重ねてきたものです。

水中に沈み、敵の目を逃れたところから攻撃できる船、
という画期的な武器は、その発明まで一直線でしたが、
その過程で「もし事故が起こったら」という懸念に関しては
ほぼ見て見ないふりがされてきたと言っていいでしょう。

そんなとき、USS S-4の沈没事故が起こりました。

■ USS S-4(SS-109)の悲劇




1927年12月17日。

マサチューセッツ州プロヴィンスタウン付近のケープコッド沖で、
潜水艦S-4が、測線上の潜航から浮上中、
沿岸警備隊の警備艇「ポーリング」に誤って突っ込まれ沈没しました。

「ポーリング」はすぐさま停船して海面に救命ボートを下ろしましたが、
ぶつかった相手は潜水艦です。
海面に浮かぶ人はなく、少量の油と気泡を発見しただけでした。

救助と引き揚げ作業は厳しい天候に阻まれ、難航しました。

前方の魚雷室には6名の生存者が閉じ込められており、
必死に続けられた救出作業中、彼らは艦体を叩いて
ダイバーと何度も合図を交わしていたといいます。

しかし、コンパートメント内の酸素は減り続け、
作業をしていた潜水士が艦体に耳を当て、

"Is... there... any... hope?" 
(望みはあるか?)

というモールス信号のメッセージを受け取ったのを最後に、
6人全員は息絶えた思われています。

この時の6名の乗員は以下の通り。

閉じ込められた6人のうちの唯一の士官だった
グラハム・N・フィッチ中尉。享年24。


魚雷室航海士ラッセル・A・クラッブ、26歳。


水兵ジョセフ・L・スティーブンス
(年齢不詳)

水兵 ジョージ・ペルナール、21歳。


魚雷室航海士 ロジャー・L・ショート、34歳。


魚雷室航海士 フランク・スニゼック、24歳。

救助隊の懸命の努力にもかかわらず、乗員全員が行方不明でした。


サルベージされた後、ボストン海軍工廠に曳航されるS-4、1928年

S-4は1928年3月17日、アーネスト・J・キング艦長(どこかで聞いた名前)
が指揮する引き揚げ作業によって、ようやく引き上げられました。

事故から丸々3ヶ月経っていたことにご注目ください。
同種の事故が起こる可能性は十分予測されていたのに、
しかも沈没した瞬間もはっきりわかっていたのに、
艦隊の引き上げに3ヶ月もかかったというのが何を意味するのか。

この悲劇がきっかけとなって、潜水艦の救助方法が
真剣に、そして迅速に開発されるようになりました。

■ 潜水艦救助の父、スウェーデン・モムセン

潜水艦が沈没した時に救助する方法は、まず大きく分けて、

一、潜水艦ごと引き揚げる

一、潜水艦から乗員だけを引き揚げる

のふた通りしかありません。

潜水艦ごと釣り上げるのは、初期の排水量の小さい艦体で、
潜航深度も浅い時にはまだしも可能でしたが、
潜水艦が大型化し、潜航深度が深くなってくると、
時間的にも物理的にも艦体の引き揚げは困難となってきます。

このとき、アメリカ海軍が選択したのは二つの手段で、
いずれもが海軍軍人、



チャールズ ”スウェーデン人” モムセン
Charles Bowers Momsen 
(June 21, 1896 – May 25, 1967),
nicknamed "Swede"

によって開発された方法です。

余談ですが、このモンセン(モムセン)という人、
海軍兵学校に入った最初の年に
チーティング(カンニング)がバレて退学
しかし諦めきれずになんとか復学させてもらい、最下位をぶっちぎって
なんとか卒業したくせに、結局は少将になってしまったという豪快さんです。

最下位だったことと関係あるのかどうか分かりませんが、
モムセン、卒業するなり潜水艦という、おそらくは当時
エリートコースとは言い難い職種を歩むことになりました。

しかし、このことが彼の名を潜水艦史に残すことになり、
潜水艦業界にとってもその功績は計り知れない恩恵だったわけですから、
まったく、何が幸いするか分かりません。

人生これ塞翁が馬、福禍は糾える縄の如し。

S-1という、当時海軍が導入したばかりの潜水艦の艦長になった彼は、
S-4と同様、貨物船との衝突で沈没した
S-51潜水艦S S-162
の事故遭難者の救助に当たったのをきっかけに、
潜水艦の事故救難法を考え始めます。

まずその一つの思いつきが、モムセンの肺ことモムセン・ラングでした。



何度も使っているので、この水兵さんの名前が

V-5 crewman A. L. Rosenkotter(ローゼンコッター)

であることも今回ついにわかってしまいました。
こんな顔で・・とはいえ、歴史に名前を残したからよしとしよう。


さて、モムセン・ラングの仕組みですが、
簡単にいうとソーダ石灰の入った容器であり、
これが呼気から有毒な二酸化炭素を取り除き、酸素を補充します。

袋からマウスピースに2本のチューブがつながっており、
空気を吸い込むためのものと、使用済みの空気を吐き出すためのものです。

首から下げたり、腰に巻いたりして使用し、その役割としては
酸素を供給するほか、ゆっくり浮上することで塞栓も防げます。

1929〜1932年にかけて、中尉時代のモムセンは
乗員の砲手長や民間人とチームを組んでこの開発を行い、
水深61mの潜水艦から脱出するテストを自分で行い成功しました。

海軍兵学校が、一度のカンニングでこの男を切り捨てていたら、
って、まあ一度は切り捨てたんですが、その後チャンスを与えなかったら、
モムセンのような人物はそうそう現れるものでもないでしょうから、
この種の発明にはもう少し時間がかかったかもしれません。

その後、実際に使用される機会はしばらくありませんでしたが、
1944年10月、東シナ海で「タング」(SS-306)
水深55m海底に沈んだ後、8人の潜水艦乗員がこれを使用して
海面に到達し、初めて人命を救うことになりました。

モムセンの肺はその後改良されて「スタンキーフード」となります。


そして、もう一つのアイデアが、

「潜水鐘を潜水艦に取り付けて、脱出ハッチを開き、
閉じ込められた潜水士が中に入れるようにする」

というものだったのです。

■レスキューチャンバー

最初に彼が思いついたのは、「ダイビング・ベル」という名前でした。

「潜水鐘の底にゴム製のガスケット(金属をシールするもの)を敷き、
潜水鐘が脱出ハッチの上に来たところで気圧を下げれば、
潜水艦との水密が保たれる。
そして、ハッチを開けて、閉じ込められた人を移譲させる」

というアイデアを、図に示し、指揮系統に送り込んだのです。
しかし、1年以上待っても何の返事も得られませんでした。

おそらく技術的に何か問題があると判断され却下されたのでしょう。

その後も何度となく彼は持論をプッシュしてみましたが、
彼の図面は上には非現実的だとして却下されるばかり。

モムセン・ラングを成功させてから、1930年になって
彼は諦めず、ダイビングベルの試作品を作ってS-1で試験を行いました。

Charles Momsen and Submarine Escape 3: The Trunk, The Bell, The Lung

このビデオですが、驚いたことに、当博物館が作成したものです。

ビデオの3:00〜からみていただくと分かりますが、
モムセンはワシントン海軍工廠で深海潜水実験装置を使って実験を行い、
高圧下における人間の肺の混合ガスに関する
生理学上の大きなブレークスルーを達成しています。

水中で空気を吸うと、窒素が血液に入り、次に組織に入りますが
30m以下では、一般に「窒素ナルコーシス」(窒素酔い)と呼ばれる
多幸感(!)を伴う昏睡状態を引き起こすことがあります。

また、急浮上すると血液中の窒素が気泡となり、
減圧症、通称 "潜水病 "を引き起こすのですが、この気泡が血流を妨げ、
激痛を引き起こし、死に至ることもあります。

モムセン自身による実験では、窒素を無毒のヘリウムに置き換え、
深度に応じてさまざまなレベルの酸素と混合させて調整しました。

今日のダイバーは、この知識を利用して、
91mより深い場所でも安全に活動できるようになったのです。

モムセンは自身が体を張って実験を行い、
(ラインに体が絡まってあと30秒で空気が無くなるところで浮上した
・・・らしい)この偉大な成果を得たのでした。



モムセンの発明が貴重な人命を救った例が、
あのUSS「スクアラス」の遭難です。

Charles Momsen and Submarine Escape 4: The Loss and Escape of the USS Tang

「スクアラス」にチャンバーを下ろすシーンは0:34。
見ていただくと、モムセンのチャンバーの仕組みがよく分かります。



この時助けられた生存者の中に、のちに「シルバーサイズ」の艦長になった
ジョン・ニコルスがいたことを、当ブログでは取り上げたわけですが、



初めてちゃんとした写真でニコルス艦長のご尊顔を拝見しました。
いや眼福眼福。

このイケメンニキが二つの潜水艦を秒でクビになった理由がさらに知りたい。

ビデオ後半では「タング」が東シナ海で沈没した時の
(1:27でリチャード・オケインの写真、1:58に絵あり)
「自分で自分を撃った」状況が図解で示されていて勉強になります。


つまりこういうことですね。今更ですが

この時、オケイン艦長始め、何人かが助かったのが
モムセンラングのおかげであったという話です。

ビデオの最後に「スペシャルサンクス」として
名前が書かれているヘレン・ハート・モムセンは、
モムセン提督ご本人のお孫さんであるようですね。

2021年に他界されたようです。

Helen Hart Momsen




続く。




陸上自衛隊中央音楽隊第168回定期演奏会@すみだトリフォニーホール〜或る陸曹長の退官

2023-02-19 | 自衛隊

偶然、人からチケットをいただきまして、
陸自中央音楽隊の定期演奏会を初めて聞かせていただきました。
場所はすみだトリフォニーホールです。



席は三階の通路後ろで、まるですり鉢の底を覗き込むような状態。

指揮者を見ようと思ったら、思いっきり背中を伸ばさないといけませんが、
ブラスバンドなので音楽を楽しむのには何の問題もありません。
むしろ、音響的には前方より良かったのではなかったかと思います。

オペラグラスを忘れてしまったのだけは残念でしたが。

ところで、冒頭に貼ったこの日のプログラムですが、
かわいくないですか〜〜〜〜?
何でうさぎさんなんだろう?と思ったら、プログラム1ページ目に
音楽隊長樋口孝博一等陸佐直々の説明がありました。

「私が常に隊員たちに要求している
『三兎を追え!』
をモチーフした『兎のバンド』です」


おお、それではもしかしたらこれを描いたのは樋口一佐なんですね。


Chase Three Rabbits

「これらの兎は別の方向に進むのではなく、全て
『人のため、国のため、世界のため』
というゴールにつながっている。
演奏家として(ステージコスチューム)、
防衛のプロとして(迷彩服)、
人作り、人付き合いのプロとして(背広)、
という三色を常に描き、前向きに進んでもらいたい。

そしてそれらの兎を追い続けることが、自衛隊、
ひいては国民に対する貢献へとつながるのである」

そんな想いからこのデザインも描かせていただきました。
音楽職種の隊旗色である「ソメイヨシノの桜色」
共々お楽しみください。」



■第1部「華麗なるミリタリーバンドの世界」

すり鉢の底に椅子が全くないので開演前不思議に思っていたら、
中央音楽隊、ドラムメジャーに率いられてまさかの行進入場してきました。
トリフォニーホールで軍隊式号令を聞こうとは。

隊列が一斉に鳴らす踵音、予想外のコンサートの始まりです。
おおお、とテンションが爆上がりするのを感じました。

そして、スタンディングでの第1部の演奏が始まりました。

ステージの上で足を60度?にきっちりと開いたまま、
もちろん誰一人微動だにせず直立して前半全曲を演奏したわけですが、
もうそれだけで、凡人には全員同じ人間だとは思えませんでした。

何しろ陸自の定演は初めてであるわたし、
さすが陸上自衛隊、これが恒例となっているのかと思っていたのですが、
その日チケットをいただいた方からのメールで
ホールでスタンディング演奏は初めてだった、と聞きました。

実はこの演出、このときドラムメジャーを務めた自衛官が
退官することから企画された特別バージョンだったことを、
演奏会の一番最後に観客は知ることになります。

♪ 国歌「君が代」

国歌演奏に起立が要請されましたが、まだマスク着用が義務付けられており、
斉唱はしないでください、と注意がありました。



国歌独唱は中央音楽隊歌手である鶫真衣三等陸曹が行いました。

♪冬の光のファンファーレ 湯浅譲治

長野オリンピックのファンファーレとなったこの作品は、
25年前、中央音楽隊が陸自師団音楽隊などから結成したファンファーレ隊が
同じこのすみだトリフォニーホールで、オリンピックの音楽監督だった
小澤征爾指揮による録音をおこなったという縁から選ばれたようです。

湯浅譲二:冬の光のファンファーレ~長野オリンピックのための

思いっきり前衛風ファンファーレです。
湯浅譲治という作曲家を知っている方にはさもありなんという感じ。

♪ 大空 須磨洋朔〜ウルトラ警備隊の歌 冬木透

「大空」というのは、陸自の観閲式などでもお馴染みの行進曲ですが、
これにウルトラ警備隊の歌がピッタリと繋がりました。

なんたる違和感のなさ(笑)

ちなみに須磨洋朔(1907-2000)は陸軍戸山学校を卒業し、
トロンボーン奏者として陸軍軍楽隊で活動(フィリピンで戦傷を負う)
戦後、現N響の首席奏者を務めたあと、
警察予備隊音楽隊、保安隊音楽隊、そして
陸上自衛隊中央音楽隊の創設を手掛け初代隊長となった人物です。

車両行進などに用いられる「祝典ギャロップ」、
全自衛隊で巡閲の際用いられる「巡閲の譜」、
各種らっぱ譜面などもこの人の手によるものです。

"Theme of the Ultra Guard (ウルトラ警備隊のうた)" (English and Japanese Lyrics) Toru Fuyuki - Ultraseven 1967
イングリッシュバージョンってどんなのだろう?
とワクワクしながら聞いたのですが、それイングリッシュちゃうローマ字や。

♪ アメリカン・サリュート モートン・グールド

東京ドームがオープンしたとき、世界のミリタリーバンドなどが一堂に集う、
「マーチングページェント」記念に開催されたそうですが、
そのときに出演したアメリカ陸軍が、この曲を演奏して
日本のマーチングバンドシーンに大いに感動と刺激を与えたそうです。

American Salute
聞いていただければわかりますが、曲の主題は、
あの「When Johnny Comes Marching Home」です。
聞き覚えの或るメロディが形を変えて何度か出てきます。

♪ 祈り The Prayer

祈り/セリーヌ・ディオン/歌/(英語、イタリア語、日本語字幕)

アンドレア・ボッチェリと夏川りみ、あるいは
セリーヌ・ディオンとジョシュ・グローバンのバージョンで
わたしが聞き慣れているこの曲を、この日は鶫三曹と、
林克成一等陸曹がデュエットで聴かせてくれました。

YouTubeバージョンと同じく、英語とイタリア語による歌詞です。
鶫三曹はもちろん、林一曹の声がとにかく素敵でした。

「どうか私達の目になって 行く先々で私達をお守りください
そして迷った時に 賢い決断ができるように助けてください
道を見失ったとき この祈りを聞いてください
あなたのお慈悲で 私たちを 安全なところへとお導きください」


♪ 行進曲「威風堂々」第1番作品39 エドワード・エルガー

いろんなところで、いろんなバージョンで耳にする曲ですが、
こういう曲を前半ラストに持ってくるのが陸自らしい、と思いました。

そしてやはり生の吹奏楽で聴くこの曲は感動的です。
エルガー本人が「うまく書けた」と自賛していただけのことはあります。

そして、最後のコーラスになった時、オルガン前のステージに
両側から先ほどの鶫三曹と林一曹が歩み出て、
力強く英語の歌詞を歌い上げ、感動はいや増しました。

威風堂々のメロディに歌詞をつけたバージョンは、
イギリス愛国歌の一つ、

「希望と栄光の国 Land of Hope and Glory」

として知られています。

British Patriotic Song: Land of Hope and Glory

エリザベス女王多め、なぜかボリス・ジョンソンもいるという。

■ 第二部 交響曲第2番「江戸の情景」

これも異例なことに思われましたが、後半全部が一曲の交響曲です。



I. 増上寺塔赤羽根

II .市中繁栄七夕祭 



III. 日暮里寺院の林泉

IV. 玉川堤の花

V. 千住の大はし


これだけ見れば日本人の手による作曲と誰もが信じるでしょうが、
実はスイス生まれのイタリア人作曲家?
フランコ・チェザリーニ(1961〜)が作曲したものです。

上にあげたプログラムには、チェザリーニが着想を得たとされる
歌川広重の木版画が曲の紹介と共に掲載されています。

初めて聴く作品でしたが、特に第3楽章のメロディには
懐かしさと切なさが混在した日本的なロマンティシズムが溢れ、
個人的にすごく好きな曲だと思いました。

フランコ・チェザリーニ/交響曲第2番「江戸の情景」 Op.54 III 日暮里寺院の林泉

ちなみに、この定期演奏会は樋口1佐の退官前の
最後のステージとなったわけですが、奇しくも隊長就任後、
最初の定期演奏会では、同じチェザリーニの

交響曲第1番「アーク・エンジェルス」

を取り上げたそうです。
もちろん選曲は隊長ご自身によるものですが、これは偶然ではなく、
「洒落た演出」としての意図されたリフレインでしょう。

さて、というわけで、プログラムを終了したわけですが、
アンコールの前に、樋口隊長がマイクをとり、
アンコール曲の「凱旋」について説明を行いました。

行進曲「凱旋」 陸上自衛隊 第6音楽隊

皆様も陸自の観閲式やその他イベントで一度は耳にしたことがあるでしょう。
しかし、樋口隊長の説明は我々を驚かせるものでした。

作曲者の堀滝比呂陸曹長は、長年ステージマネージャーであり、
ドラムメジャーとして音楽まつりにも出演した経験があり、
本日オープニングのドラムメジャーを務めた人物ですが、
この日が堀陸曹長の自衛官人生を締めくくる退官日でした。

そこで、この日のスペシャルバージョン「凱旋」を、
その堀陸曹長の自衛官退官記念にアンコールとして演奏するというのです。

どういう天の配剤かは分かりかねますが、退官の日に何百人もの暖かい拍手と
ステージでの花束に送られる自衛官が果たしてどれくらいいるでしょうか。
この陸曹長、前世でよほど徳を積まれたに違いありません。

わたしにチケットを譲ってくださった方も、

「まさに陸曹長冥利。
羨ましい退官セレモニーでした」

とメールに書いてきましたが、その通りです。

退官といえば、堀陸曹長の退官を紹介した樋口隊長ご自身も、
退官間近であったはずですが、それについては
歴代音楽隊長の例に倣われたのか、何もコメントはありませんでした。



しかし、プログラムにはちゃんと樋口一佐の来歴と
自衛隊における活動歴が紹介されていました。
・・・なに?

ニコニコ超会議で「ムスカ大佐」になっている・・・だと?

NHKのど自慢チャンピオン大会に出た・・・だと?

プログラムのイラストといい、これらの活動から窺い知るに、
多彩な才能を溢れるほどお持ちの方だったんですね。


というわけで、初めての陸自中央音楽隊の定期演奏会、
感動的な退官イベントと相まって、忘れられない印象を残した一夜でした。





ヘッジホッグ〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク
 
さて、前回をもって潜水艦「シルバーサイズ」を
全て見学し終わったのですが、実はもう少し続きます。



前部から入艦し、中を通って、後部魚雷室から出るのですが、
この階段を上がるとそこから出口に誘導されます。




甲板に上がるとそこはちょうど艦首部分。
向こう側に見えているのは、前に紹介したことがある
コーストガード、沿岸警備隊のカッター、「マクレーン」です。



ちょうど人が出てきました。



雨や雪の日には内部に水が入らないように閉める蓋があるようです。
本来のハッチではなく後から設置したものでしょう。



「シルバーサイズ」の甲板を降りるとき岸壁を見ると、
そこにはこのような大型の展示物があります。

今日はこのうち一つの展示をご紹介します。

■ ヘッジホッグ



昔第一術科学校で見たことのあるヘッジホッグ、
アメリカの駆逐艦で何度か見たヘッジホッグより大きい気がします。

hedgehogとは見ての通りこれがハリネズミのようだからですが、
とりあえずここにある解説をもとに紹介してみましょう。

世界で数台しか展示されていないこの装置は対潜水艦用の兵器です。

道理で今まで見たことがないと思った。
ここを含め、世界に数台しか現存していない希少なもののようですね。

多くの人々が、潜水艦の主な敵である深度爆雷とは、
一定の深さで爆発するように設定された小さな爆弾、

と認識しているように、太平洋ではそれが主流となっていました。

典型的な爆雷攻撃が行われるとき、潜水艦がソナーによって検出されると、
水上艦はターゲットゾーン上で艦尾 (または艦の後部) を操作し、
潜水艦の深度を推測、または導き出す必要があります。

ターゲットにダメージを与えるには、50フィート、約15m以内、
致命傷を与えるには25ft以内(わずか7m)につけている必要があります。

しかし、
水上艦の真下で爆発が発生すると、
攻撃してから15分間はソナーの使用が中断されてしまうので、
ターゲット発見から最初の攻撃の間には、数分のギャップが生じます。

つまり攻撃後のブラインド・タイムは逃げる側には十分な時間で、
ほとんどの潜水艦がコースを変更してこの間にどこかに行ってしまいました。


この問題を解消したのがヘッジホッグの発明だったのです。


兵器開発局、通称『悪知恵&責任逃れ集団』

ヘッジホッグを開発したのは、第二次世界大戦時のイギリス軍で
様々な非通常兵器の開発を担当したイギリス提督の部局、

The Department of Miscellaneous Weapons Development
兵器開発局 (DMWD) 


でした。
正式名称に「雑」と入れるなんて、なんと雑な命名でしょうか。
しかしながら、彼らに与えられた通称は、

”Wheezers and Dodgers

ウィーザーズはイギリス英語で「名案」。
ドジャーズは何かを逃れる人。

なんかわかりませんが、悪知恵が働いてうまいことかわす的な?

いずれにしてもこの集団、イギリス版DARPAみたいな位置付けで、
いろんな発想で秘密の兵器発明を行うために集められた、
工学や科学のバックグラウンドを持つ、科学者と将校たちのグループでした。



当時、ウィンストン・チャーチル首相は、連合国対ドイツの戦いを、
奇しくも「魔法使い戦争」(The Wizard War)と呼びました。

つまりチャーチルの世代にとっては、当時の科学的発明を駆使した武器は
ほとんど魔法のように思われていたということでもあります。

そして、ドイツ相手の科学的優位の争いに勝利するために、
魔法使いのような、自由な発想の奇人変人を集めたのがこの団体でした。

事実、彼らの想像力豊かでエキセントリックな発想は、次々と
常人には思い付かないような科学兵器を生み出しています。

蒸気駆動のホールマン投射機のような初期の応急処置的な兵器から、
敵の海岸を襲撃するための巨大爆発キャサリンホイール、
磁気機雷から艦艇を守るための船体消磁システム
目を見張るほど危険な陸上地雷パンジャンドラムなどの未来的実験。

魚雷網を避けるために海を渡って目標にバウンドするように特別に設計された
海上バウンド爆弾、対潜ミサイルAMUCK
ホーミング魚雷を混乱させるために設計された消耗型音響エミッター

これらの発明の中の大成功例が、ヘッジホッグ対潜迫撃砲でした。


余談ですが、この「変人集団」の出身者の一人に、
オーストラリアに移住した小説家、ネビル・シュートがいます。

この名前、聞き覚えがありませんか?



このブログでもご紹介したことがあるSF終末映画、
「渚にて」(On the Beach)
の作者ですね。

ネビル・シュートは、オックスフォード大学を卒業後、
デハビランド航空会社に航空工学者兼パイロットとして入社し、
その後、ヴィッカースで開発をしていました。

その頃第二次世界大戦が始まったので海軍予備員に志願したシュート、
面接で経歴書を見た係官がいきなり彼を中尉に昇進させ、
気がついたらDMWDの責任者として秘密兵器を作らされていたそうです。

Mark15 Headgehogs

■ イギリス海軍でヘッジホッグが不評だったわけ

ヘッジホッグ登場以前、イギリス海軍は、

「フェアリー迫撃砲」(Fairlie Mortar)

といって、小型の対潜爆弾を艦首甲板の両側から
同時に十発ずつ発射するタイプの対潜爆弾を設計して失敗しています。

フェアリー迫撃砲の計画は、元々の深度爆雷の欠点である、
「潜水艦を追跡できなくなるゾーン」が生まれる問題を
解決することを目的に起こってきました。

それまで横に投げていた迫撃砲を前方に発射し、
弾丸にはより小さく、流線形で早く沈むものにすれば、
目標の潜水艦に逃げられることはなく破壊できると期待したのです。

しかし、装填は手動で時間を要したため、
潜水艦は2回目の攻撃の前に悠々と逃げ出してしまっていました。

ヘッジホッグはこの失敗を改善・発展させたもので、
複数の「蛇口型迫撃砲」という形態です。

イギリス海軍によって設計された直後の成績はイマイチで、
1942年の11月まで潜水艦撃沈の記録は一つもありません。
初期の成功率は5%にすぎず、深爆よりちょっとマシ程度でした。

イギリス海軍が運用していた北大西洋ではしばしば海が荒れ、
うねりと水飛沫が発射台を頻繁に襲うという状況で、
びしょ濡れの発射台から撃とうとしても、発射回路の問題で妨げられ、
不完全な発射に終わることがよくあったのです。

深度爆雷の場合は完全に失敗してもとりあえず爆発は起こります。

水上艦の乗員たちは、爆音を聞くと、これでもしかしたら敵は損傷したかも、
とか、敵の士気を奪ったかも、などと希望的に考えることができましたが、
ヘッジホッグは失敗すると何も起こらないため、
シーンとなってしまって兵の士気はダダ下がりだったそうです。

しかもそのころ、HMS「エスカペード」でヘッジホッグが誤射して、
16名もの乗員が死亡するという大事故が起こってしまい、
現場のヘッジホッグ忌避感はマックスとなってしまいました。

これはひどい

これは対潜戦でヘッジホッグを使ったところ、
そのうち一つが艦上で早々に爆発してしまったという事故でした。

このおかげで「エスカベード」の艦橋と操舵室は損傷を受け、
対潜水艦戦どころではなくなりました。

他にも政治的なゴタゴタもあったり、そんなこんなで
イギリス海軍の皆さんには不評だったヘッジホッグ。

現場がこの兵器を嫌って滅多に使わなくなったため、
イギリス海軍は、1943年初頭に、

「海上における交戦時にどうしてヘッジホッグを使用しなかったか、
800字詰め原稿用紙3枚以内で理由を述べよ」


という通達を現場に出したくらいです。(一部嘘)

その結果、乗員の経験不足と理解が足りないせいと判断され、
DMWDの将校を派遣して講演を行い、運用に努めました。
その後キル数は格段に上がり、大戦末期には、
5回に1回は成功するようになったということです。

ただし、ドイツ海軍もただやられっぱなしではなく、
1943年には「ファルケ」(アメリカが鹵獲したあのG7eの愛称)
をはじめとする音響魚雷の設計を進めました。

ホーミング魚雷で、潜望鏡を使わず効果的に使用することができ、
艦体を発見されずに反撃を回避するチャンスを得ることができる仕組みです。

チャーチルがドイツとの戦いを「魔法使い同士の戦争」と呼んだのは
彼の世代(当時の爺さんたち)にとっては言い得て妙だったと言えましょう。

■ アメリカ海軍の運用

ヘッジホッグは米国によってさらに開発が進みました。

「フェアリー迫撃砲」の名残で、艦首(艦の前部) に 取り付けられ、
潜水艦を最初に検出すると発砲されるのですが、
恐ろしいのは24基の迫撃砲すべてが一斉に撃ち上げられ、
直径約100フィートの円 、または楕円形を描いて、
発砲をおこなった水上艦 の前方750フィートに落ちることです。

12発ずつ、左右に二つの丸

これらの迫撃砲はスリムですぐに海中に沈み、
事前に設定された深さではなく、何かに接触すると爆発するため、
敵の潜水艦がこれを察知することはできません。

接触型爆発は、通常、潜水艦を破壊するのに、
一発か二発のヒットがあれば十分です。

しかもこれまでのように、艦の前方で爆発が発生しても、
その後ソナーが機能しなくなることもありませんし、乗組員は、
迫撃 砲が目標に命中したかどうかを知るのに3分あれば十分で、
その3分でヘッジホッグは再装填ができるのでした。

というこの武器が大成功と言われたのは当然で、
対潜損傷率、または沈没率は、爆雷の7%に対し、
ヘッジホッグは25%であったということです。

■ 運用


ヘッジホッグの「針」が一つなくなっているのに今気がつきました

発射装置には4つの「クレイドル」があります。

この写真だと、一つのクレイドルに6本が並んでいるわけですね。
砲はクレイドルの発射口にセットされ、いっぺんに全部が飛ぶのではなく、
発射するタイミングが絶妙にずらされており、
海面には同時に着弾するように計算されていました。

一変に全部が発射されないので、艦体のうけるショックも少なく、
甲板を補強せずに設置することができるという利点もありました。

大きな利点は、

1、攻撃が失敗してもソナーが中断しない

2、深度を設定する必要がない

3、爆発音があればそれは命中を表す

4、時間的に潜水艦が逃げる隙を与えない

5、1〜2発直撃させれば十分

3については、爆雷の場合、爆発音がしたとしても、
往々にして潜水艦と爆発の間の水がクッションとなって
ダメージとなっていない、ということがありましたが、
ヘッジホッグの爆発音はイコールヒットを意味していたのです。

攻撃側には分かりやすくていいかもしれません。
まあ、一つも音がしなかった時のガッカリ感は半端ないですが。

潜水艦の方にすれば、天井を見上げて脂汗を垂らしながら
爆雷の爆発を待ち、振動に耐えるということもなくなるのですが、
逆に、いきなり何の前触れもなく衝撃が襲ってきたが最後、
その時はヘッジホッグの餌食になっているのですから、
明らかに爆雷よりも心理的な恐怖を与えられたに違いありません。


しかし、ヘッジホッグにも欠点もあって、相手の深度が120m以上だと、
艦体に命中する確率は限りなく低くなったそうです。

■ ヘッジホッグの派生型


Squid

1943年、イギリス海軍が導入した「イカ」(スクィッド)
一つでの運用は破壊力の点でうまくいかなかったので、
二つ並べて「ダブルイカ」として運用していました。


アメリカが開発したのは「マウストラップ」

最初に変人集団がつけた変な名前のせいで、後発の名前までもが
ことごとくウケを狙って居るように思えるのはわたしだけでしょうか。

このヘッジホッグ的な武器は戦後すぐに姿を消しました。
全てホーミング魚雷に取って代わったからです。


続く。




エクスプローラーIIの挑戦、グレイ大尉の悲劇〜スミソニアン航空博物館

2023-02-15 | 飛行家列伝

スミソニアン航空博物館の「気球で高度の限界に挑戦コーナー」から
前回、高度の限界に挑戦した一般、海軍、陸軍代表の
三組のアメリカ人バルーマー(気球飛行士)を紹介したわけですが、
そのコーナーの近くの窓際には、こんなものがございます。



スミソニアンを訪問してすぐご紹介したことがありますが、
この気球のレプリカの元ネタ?が見つかりました。

1783年、ジャン・フランソワ・ピラトル・ド・ロジエと
アルランド侯爵
の操縦によって人類史上初の有人気球飛行を行なった、

熱気球「ラ・フレッセル」( La Flesselles)

です。


気球は、航空黎明期にはモンゴルフィエと呼ばれていました。
「ラ・フレッセル」と名付けた熱気球を開発した
ジョセフ・モンゴルフィエという人の名前です、

モンゴルフィエは1784年、リヨンで「ラ・フレッセル」を打ち上げます。
幅22フィートの籐製のかごに7人を乗せて
3,000フィート以上上昇させ、乗客は皆、大喜びだったとか。

しかし初期の熱気球は、空気が温かいうちしか飛ばせませんでした。
空気を再加熱するための火が気球の布に引火し、危険だったのです。

熱気球用のプロパンバーナーが発明されるのは、
なんと第二次世界大戦以降のことになります。

モンゴルフィエが熱気球を開発したほとんど同じ時期に、
「シャルルの法則」(覚えてますか?気体を熱した時の膨張の法則です)
で有名なフランスの物理学者、
ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルルが、
無人の水素気球を打ち上げています。

この時、ちょっとした面白い事件が起こっています。
当事者は決して面白くなかったと思いますが。

シャルルが4日間かけて十分な水素を作り、打ち上げた気球は
高度3000フィートまで上昇し、1時間以上浮遊していましたが、
やがて風に流されてパリから24kmの地点に落下。

空からいきなり降ってきた「恐怖の大王」に恐れ慄いた農民たちが、
一斉に手に手に武器を持って襲い掛かり、気球は切り刻まれました。


犬も巻き込んで気球をやっつける人々(笑)

これを嘆いた国王ルイ16世は、風船とは何か、どのようなものかを啓蒙させ、
二度と襲撃しないように、と民衆におふれを出したということです。

おふれ出すの遅すぎ。


ところで、基本的なところに立ち返りますが、なぜ人々は
飛行機が発明されていた頃になっても、高度を目指す、
つまり宇宙の端を探索するための手段に気球を選んだのでしょうか。

■ 放射線研究と気球の関係

まず、なぜ人類が近代になって宇宙を目指したかを考えてみます。
その意図は、まず放射線にありました。


福島第一原発の事故の後、ベクレルという言葉は
我々日本人の誰もが知ることとなりましたが、
皆さんは放射線を発見し、放射能の単位にその名を残している
フランスの物理学者、アンリ・ベクレルをご存知でしょうか。
(マリ・キュリーは放射線元素の発見、X線の発見者はレントゲンです)


アンリ・ベクレルが1896年遭遇した偶然。

それは、さっくりというと、
数十年後に人類が月面に降り立つ
という出来事にまで帰結するという、人類史上における大事件でした。

長年放射線の存在を突き止めるための研究を重ねていた彼は、
ウラン塩が太陽光に照らされるとX線に似た放射線を出す
という仮定を立てており、その説を学会でも発表しようとしていました。

1896年2月の終わりのその週、パリは陽が射さない曇天が続いたため、
この天候では十分な実験結果が得られないと思い、ベクレルは
実験を中止して、ウランと写真板を引き出しの中にしまい込みました。

そして運命の1896年3月1日、翌日に会議を控えていたベクレルは、
サンプルに光は当たっていないが何となく見てみよう、と思い(多分)、
引き出しから写真乾板を取り出し、これもなんとなく現像してみると、
なんと、プレート上にはウランベースの結晶画像が確認されたのです。

翌日の会議でベクレルはX線とは違うこの放射線の存在を発表し、
ウランが放射線を出したと結論づけ、その2年後、
マリ・キュリー夫人が "放射能 "という造語を作り、名づけました。

そこから、世界の科学者の間で放射線の解明競争が始まったのです。

今日の話と関係なくね?って?
ここからなんですよ。
これこそが、高みを目指した理由です。

1920年代になると、アメリカの科学者たちは、
宇宙線を研究し、原子の秘密を解き明かすためには、
宇宙の境界を突き破ればいい
と考えたのでした。

気球はそのための理想的な道具と考えられるようになったのです。

1920年代には無人の気球が5万フィートの高さまで飛ばされ、
1931年にはスイスのオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)
によって、有人飛行で高度9.81マイルの高度まで到達しました。

その数ヵ月後、初めて密閉式ゴンドラで飛行し、10マイルの壁を破り、
より高い飛行が可能であることを証明したという流れです。

その方法がなぜ飛行機ではなく気球だったか。

それはよく考えると当たり前のことのようですが、熱気球、
または空気より軽いガスが満たされた気球は、空気よりも軽いため、
飛行機よりも純粋に高く飛ぶことが可能と考えられたためです。

現に、本日トップの写真、エクスプローラーIIは、1930年代当時、
飛行機で達することができる高さをはるかに凌ぐ上昇が可能でした。

その高さまで人間が乗っていくわけですから、
当然ながら、特別なゴンドラというか、キャビンが必要となるのですが、
それすらも知識の及ばなかった初期には殉職者も出ました。


■グレイ少佐の悲劇

エクスプローラーIIについて話す前に、第一次世界大戦後の
気球乗り、ホーソーン・グレイ陸軍少佐の事故についてお話しします。

創設されたばかりの陸軍航空局で気球飛行士になったグレイは、
1927年に3回気球で高度記録に挑戦しています。

これは、高度4万フィート(12km)以上で飛行隊が生存し、
各種機器が機能するための条件を探る実験として行われました。


この研究実験に抜擢されたグレイ少佐は、第一回目、
高度8.69kmの非公式高度記録を達成しましたが、
すでにこの時空気が薄く低酸素症で気を失っています。

このときは、自然落下していく気球の速度を
バラストで落とすことのできるギリギリに意識を取り戻し、
なんとか生還することができました。

二ヶ月後の第二回目飛行では、さらに12.94kmの記録を出しますが、
この時も気球が急降下してパラシュートで脱出しています。

2回ともこんな状況だったのに、
なぜか陸軍は同じグレイ少佐を使って3回目の実験を行います。

3回目実験の実行日は、11月4日でした。



スミソニアンには、グレイ少佐が乗ったゴンドラ実物が残されています。

アメリカ北部の11月、高度12キロに上昇しようという気球に、
よくまあ生身の人間をこんなバスケットに乗せただけで打ち上げたものだ、
とその無謀さに、心胆震撼とせしむるを禁じ得ません。

その日グレイ少佐は、午後2時23分、イリノイ州のスコット基地を離陸して
彼の生涯最後の飛行に飛び立ちました。

午後3時13分、気球はどんよりとした曇天の中を上昇し、視界から消え、
翌日、テネシー州付近の木の上に引っ掛かっているのが発見されましたが、
グレイ少佐はバスケットの中ですでに死亡していました。


発見されたときのグレイ少佐(カゴの右側下向き)

グレイ少佐に何が起こったのでしょうか。

高度4万フィートで、グレイ少佐は報告書に
”shaky”「震えている」と書きこみましたが(でしょうね)
不思議なことに、記録用気圧計によると、
書き込みを行ってから気球はさらに上昇を続け、
前回のフライトと同じ42,740フィートの高さにまで到達し、
それから降下を始めていたことがわかりました。

彼は混乱したのでしょうか。
それともさらに記録を伸ばそうとしたのでしょうか。

有力な説は、彼は公式記録を作ろうとして、高度9kmから10.4kmの間で、
バラスト用の空の酸素ボンベを空中に廃棄した際、
ボンベ缶が無線アンテナを折ってしまったというものです。

さらに、高度が高く気温が低すぎて彼は凍え、疲労困憊して、
酸素タンクのバルブを開けなくなったところで地上との通信が断たれ、
非常事態を全く通信できないまま意識を失ったともされます。

「凍えている」の直前のレポートには、

「空は深く青く、太陽は非常に明るく、砂(バラスト)はすべてなくなった」

と書かれていました。

解剖による科学的な原因追求がなぜ行われなかったのかも不思議ですが、
グレイの死を調査した委員会は、彼の死因は時計が停止してしまい、
酸素摂取時間が分からなくなって、供給量を使い切ってしまったことによる、
窒息死と状況証拠から結論づけています。


この悲劇的なフライト以降、剥き出しのバスケットによる
気球の高高度飛行は行われることは2度とありませんでした。

ってか当たり前だろ!(激怒)

グレイは少佐に昇進し、死後に授与された殊勲十字章には、
このように記されているそうです。

「彼の勇気は酸素の供給量よりも大きかった」

うーん・・・・・・微妙。


スミソニアンの「ミリタリーエア」のコーナーには、
航空界に貢献したレジェンドがパネルにされて並んでいますが、
ここにグレイ少佐(下段左から二番目)の写真もあります。


■ エクスプローラーII


前回、陸軍のアルバート・スティーブンス大尉と、ケプナー少佐、
アンダーソン大尉
が命からがら帰還した「エクスプローラー」の後、
陸軍とナショジオは早速次の気球打ち上げを計画し始めたけど、
今度は一体誰を乗せるつもりなの?というところで終わりました。

ここからは、翌年となる1935年打ち上げられた気球、
「エクスプローラーII」についてです。

エクスプローラーIIは、1935年11月11日に打ち上げられた
米国の有人高高度気球で、高度22,066mの記録を達成しました。

サウスダコタ州のストラトボウルから打ち上げられたこのヘリウム気球には、
アメリカ陸軍航空隊のアルバート・W・スティーブンス大尉と、
オーヴィル・A・アンダーソン
の2名(最初のコンビですね)が、
密閉した球形のキャビンに搭乗していました。

乗員は午後4時13分にサウスダコタ州ホワイトレイク付近に無事着陸し、
2人は国家的英雄として賞賛されることになります。

そして、ゴンドラに搭載された科学機器からは、
成層圏に関する有益な情報がもたらされることになりました。

【ソ連の気球事故】

1934年に打ち上げられたエクスプローラー(1号)は、
ほぼ記録的な高度18,475kmを達成しましたが、
ほぼ墜落状態で、乗員は命からがら脱出したことは前回お話ししました。

カプセルは衝撃でほぼ完全に破壊されてしまったわけですが、
スティーブンスはこれで恐れ慄くどころか、リベンジを誓いました。

この墜落事故は国家的な恥として語られたので、乗員としても
このままで終わるわけにはいかん!とファイトを燃やしたわけです。

そして改良型気球での再挑戦を働きかけたのですが、その時ちょうど、
1934年にロシアが成層圏飛行に挑戦し、事故で死者が出ました。

このニュースを受け、関係者はその危険性に身構えて、
事故原因の究明をまず待つことにしました。

事故の検証では、上昇中に気球が対称に開かなかったため、
応力(外力を受けた部材内部に発生する内力)
で布が裂けたことが明らかにされました。

つまり打ち上げが予定より1カ月遅れたため、ゴム引きの綿がくっつき、
気球の膨らみが不均等になってしまい、
袋の中のガスが大気中の酸素と混ざり合い、水素の爆発が起こったのです。

【準備】

しかし、1935年、陸軍航空隊は再挑戦することを決定します。

ソ連の事故に鑑み、水素の危険性を排除するため、
米国が独占しているヘリウムを使用することになったのですが、
ヘリウムガスは揚力が弱いため、より大きな気球が必要となりました。

そこで、グッドイヤー・ツェッペリン社は気球の容積を増やし、
ダウ・ケミカル社は、マグネシウムとアルミニウムの合金である
「ダウメタル」でできたより大きくて軽いゴンドラを組み立て、
科学機器の量を減らし、2人の乗組員を乗せることにしました。


キャビンは直径2.7m、質量290kgで、680kgのペイロードを輸送できます。
球体は一枚の大きな金属板を裁断して、溶接して成形されました。

キャビンはこれで密閉されることになりましたが、
非常時の乗員の脱出を容易にするため、
舷窓はエクスプローラーIよりも広く、大きく設計されました。

カプセル内部の雰囲気は、火災の危険を減らすため、
液体酸素の代わりに液体空気から供給されることにします。

改造気球は1935年の春までに準備が整い、1935年7月10日に、
最初の打ち上げが行われたのですが、残念ながら、
これも打ち上げ時に気球が破裂してしまい、失敗に終わりました。



その後、NBSの調査結果を受けて、グッドイヤーが気球の材質を強化し、
再挑戦するべく準備が整いました。

ここでようやく重視され始めたのが、実験を行う季節です。

過去15年間に収集されたストラトボール付近の気象データを調べたところ、
10月は例年、気球を飛ばすのに最適な好天が続くということがわかりました。

そこで9月上旬に気象学者チームがストラトボールに集められ、
臨時の気象観測所の設置から準備が始まりました。

もうアメリカの科学技術陣総力戦の様相を呈しています。
しかし、この実験は、結果としてそれだけの労力に値する結果を
アメリカという科学技術後進国(当時)にもたらすことになります。


打ち上げに必要な気象条件は、飛行期間中、降水量のない晴天が続くことと、
地表風速が23km/h(14mph)を超えないこと、とされます。

寒冷前線の接近に伴い、1935年11月10日の夜、
気球はいよいよ打ち上げの準備に入ります。
一晩で-14℃まで気温が下がったため、気球の布地をストーブを使って暖め、
しなやかな状態が保たれたままにしておく注意が払われます。

ヘリウムは1,685本のスチール製シリンダーから注入されましたが、
それが完了するまで8時間かかってしまい、しかもその間、
布地に5.2mの破れができてそれを修復するなど、次々と問題が起こります。

膨らんだ後の気球の高さは96m。
ゴンドラは、100人以上の陸軍兵士で構成されたチームが
ケーブルを抑え、まず地表に固定しました。

翌朝7時1分に準備が完了、打ち上げに適した状態に漕ぎ着けました。

準備完了!

【エクスプローラーIIの打ち上げと飛行】

指揮官、アルバート・W・スティーブンス大尉と最初にバディを組んだ
オーヴィル・アンダーソン大尉が、いよいよ気球に乗り込みました。
(オーヴィルって名前、絶対ライト兄弟から取ったよね)

午前8時ちょうど、34kgの細かい鉛の弾丸でできたバラストが放出され、
離陸が始まりました。

離陸後しばらくして、風の影響で気球は渓谷に突き刺さり、
見ている者をヒヤッとさせますが、その後は正常に上昇していきました。

エクスプローラーIIは午後12時30分に
高度22,066mに達し80分間もの間そこに留まっていました。

これは人類が達成した高高度では世界新記録であり、
この記録はその後20年近く破られることはありませんでした。

この快挙によって、スティーブンスとアンダーソン大尉は、
地球の湾曲を目撃した最初の人類となります。

ゴンドラは自転するためにファンを搭載していたのですが、
その高度では全く意味がないことも、初めてそこに達してわかりました。

しかしこのため乗員はゴンドラを回転させることができず、
直射日光をまともに受けることになってしまい、そのため、
カプセルの片側からの観測はほとんど不可能となってしまったのです。
これは予想外でした。

それでもスティーブンス大尉は、上空から、
数百マイルに及ぶ地表の細部を見ることができたと報告しています。

彼らの到達した高度は地上で起こっていることを見るには高すぎましたが、
撮影した写真は、その後の高高度偵察気球の可能性を予感させました。


エクスプローラーIIには通信機器が搭載されており、
飛行中交信された無線信号は、米全土とヨーロッパで放送されました。

また、気球に搭載された機器で、宇宙線、
異なる高度でのオゾン分布と大気の電気伝導率、成層圏の大気組成、
太陽・月・地球の光度に関するデータを収集することができました。

また、成層圏での微生物の採取や、宇宙線被曝の影響を調べるため、
カビのサンプルを携行するなどもしています。

また、スティーブンスは映画用カメラも持っていって、
成層圏から撮影した初の動画も公開しています。

そして、彼らが収集したデータによって、高層大気のオゾンが
太陽からの紫外線の大部分を遮断する効果がある
ことが突き止められました。

また、最高高度での酸素の割合が海面とほぼ同じであることも、
この時取得したデータからわかってきたことです。


さて、いよいよ降下が開始され、正常に気球は高度を下げていきます。

高度300mに達したとき、クルーは科学機器を梱包し、
パラシュートをつけて投下する作業を始めました。
これは、たとえゴンドラが不時着してもデータを保護するための準備です。

しかし、気球は午後4時13分、サウスダコタ州の野原に静かに着陸したため、
これらの予防措置は必要なかったことがわかりました。

【ミッション成功!】

このミッションの成功はマスコミで大きく取り上げられ、
飛行士たちはフランクリン・D・ルーズベルト大統領の謁見を受けました。

「国家の恥」とまで自嘲していた前回の失敗から捲土重来、汚名返上すべく、
チーム一丸となって目標に邁進して得られた栄光です。

二人の気球飛行士は、その年の最も功績のあった飛行に対して与えられる
マッケイ・トロフィーを授与されました。

また、軍人として、エクスプローラーII、そして失敗したエクスプローラーの
各飛行に対する殊勲十字章を授与されました。

IIが成功しなかったら、失敗した1号への功労章も当然なかったでしょう。

エクスプローラー号での科学観測は大成功を収め、
多くのデータを収集し、その成果は科学雑誌に掲載されました。

データと乗組員の経験は、この後起こる第二次世界大戦で、
高高度戦闘作戦の飛行隊員の装備や方法に用いられることになります。

エクスプローラー号に用いた気球は、100万ものピースに切り刻まれ、
記念の栞としてミッションを支援したNGS会員に配られました。

100万人もが所持していたのなら、もしかしたら今日も
ebayあたりで売買されているのかもしれません。

そして、その時のゴンドラは、ここ、
スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館に展示されています。

勇敢な挑戦者だった悲劇のヒーロー、
ホーソーン・グレイ少佐の籐のバスケットと共に。


続く。



成層圏への挑戦〜スミソニアン航空博物館

2023-02-13 | 飛行家列伝

スミソニアンの一角に、
「The Race to the Stratosphere」(成層圏へのレース)

というコーナーがあります。
今日は、この展示をご紹介していこうと思います。

■高みを目指すレース

高みだけを目指した場合、その方法は「気球」一択です。

1931年から1939年まで、ベルギー、ソ連、ポーランド、スペイン、
そしてアメリカは、当時の技術で絶対高度記録を獲得し、
保持するため、熾烈な戦いを繰り広げていました。

「熾烈な」というのは決して大袈裟でも盛ってもいません。

この戦いによって、二つの高高度気球に挑戦したソ連の飛行士が、
なんと7名もその命を失っているのです。

アメリカでは3人のアメリカ人がこれに挑戦しました。

【ジャネット・ピカール夫妻】



そのうちの一人がジャネット・R・ピカール(Jeanette Ridlon Piccard)

ちなみに自衛隊で磨きに使われるピカールという商品名は、
このフランス名から来て・・・おりません。
あれは「ピカっと光る」から来ているそうです。

彼女はアメリカ初の女性気球パイロットとして、1934年、
夫のジャンと共に高度57,500フィート、
つまり成層圏に達した最初の女性にもなりました。

そのタイトルは、1963年にソ連の宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワ
宇宙飛行する瞬間まで破られることはありませんでした。

大学時代に知り合った夫と共にスポンサーを募って気球を作り、
その「センチュリー・オブ・プログレス号」で高高度挑戦を公言し、
彼らは4万5千人の観客に見送られてミシガン州を出発。

彼らはペットの亀「フルール・ド・リ」(百合の花)も載せたそうです。

小さなバンドの演奏するアメリカ国歌の後、飛び立った彼らは、
エリー湖を横断しながら高度を上げていきました。

なんでも、新聞連合は、彼らが無事高高度記録を達成したら、
1000ドルの賞金を出すと約束したので、
家財を売り払ってでも?ひたすら高度を目指したのです。

ゴンドラは17.5kmまで上昇し、最終的にオハイオ州に着地しましたが、
楡の林の中だったので、気球はゴンドラから離れ、裂けてしまい、
ジャンは肋骨と左足首を軽く骨折してしまいました。

彼女はこのことについてこうインタビューに答えたと言います。

「なんてことなの!ホワイトハウスの芝生に降りたかったのに」


ところで「宇宙飛行士」と呼ばれる人になるのには、
定義があるというのをご存知でしょうか。

0−12km Troposphere 対流圏
12-50km  Stratosphere 成層圏
50-80km Mesosphere 中間圏
80+km Thermosphere 熱圏


この図の、80km、サーモスフィア、熱圏より上に行けた場合、
その人は「宇宙飛行士」アストロノーまたはコスモノーとなるわけです。

ジャネットたちはその時代人類最高となる
成層圏まで達することができましたが、そこから上は
気球というようなものでは限界でした。

【トーマス”テックス”セトル海軍中将】


三番目の気球チーム、セトルとフォードニー

トーマス・グリーンハウ・ウィリアムズ・セトル中将
Vice Admiral Thomas Greenhow Williams "Tex" Settle

は、1920年代から30年代にかけての飛行黄金時代に、
気球、飛行船、グライダー、飛行機を操縦し、
飛行船を指揮した最初の人物として世界的に有名になった海軍軍人です。

セトル中将は、多くの航空レースで優勝し、
耐久性と高度に関する数々の航空記録を持ち、
成層圏に与圧キャビンで飛び立った、最初のアメリカ人でした。

海軍兵学校を次席で卒業後、駆逐艦で海軍軍人のキャリアを積み、
「あの」飛行船USS「シェナンドー」に通信士として配置されました。

「シェナンドー」についてはここでも説明しましたね。
墜落し、海軍乗員13名全員が犠牲になるという事故を起こしています。

しかし、「シェナンドー」がオハイオに墜落したとき、セトルは
捕獲用のカイトバルーンで単独訓練を行なっており、
たまたま勤務から外されていて命拾いをしたのでした。

「シェナンドー」の悲劇を知っても彼は怯むことなく、
飛行船の操縦訓練を志願し、操縦士のウィングマークを獲得しました。

当時の飛行船がいかに危険な装備であったかは後世の知るところですが、
彼は軍人としてそれに立ち向かおうとしたのです。

しかし、そんな彼に運命は過酷でした。
USS「ロスアンゼルス」に乗り組んだ彼は、
この飛行船でも事故を経験するのです。

これですよ

この時、セトルは最先任として「ロスアンゼルス」に乗っていました。

突然の寒冷前線が襲い、その結果、日光によって温められた飛行船の
浮力が増加し、機体は上方に押し上げられてしまいます。

セトルはその時地上にいた船長に「総員退船」許可を求めますが、
船長、これを却下。
いくら自分が乗っていないからって、これあまりに酷すぎないか。

退去を禁止された彼は、浮き上がる船尾の錘にするため、
部下を後方に移動させようとしますが、時すでに遅し。

このとき船体はほぼ直立しようという勢いでした。

セトルは船尾から部下を呼び戻し、ゆっくりと船体を回転させながら
尾部が地面に激突することのないよう、地上に下ろしていきました。

彼の冷静な判断と操作が功を奏し、後尾はゆっくりと高度を下げ、
最終的には一人の怪我人も出すことなく事態は収集しました。

この後1932年まで彼は飛行船の乗務を続けますが、
この事故を含め、彼はその任務で一度も事故も死者も出さず、
331回にわたる飛行任務を全て成功させています。

その後、USS「アクロン」USS「メイコン」の建造に携わり、
テストパイロットとして飛行教官も行いました。
なんでも、生徒には心底恐れられるほど厳しい指導だったそうです。


気球で名を上げた彼は、その後、軍に所属した状態で
気球の高度挑戦レースなどに次々と挑戦していきます。

ナビはその都度軍から目ぼしい人材が選ばれ、タッグを組みました。
セトルが参加した気球レースの結果は。

【気球レース】

1927年、セトルはジョージ・N・スティーブンスとともに
初めて気球レースに出場し、この時は天候不良で着陸し、敗退


これ以来、セトルは海軍の気象機関に協力を求めるようになりました。

1928年のピッツバーグでの国内レースでは落雷により3機の気球が落下し、
パイロット2名が死亡、4名が負傷したため、セトル早々に棄権

1929年、ウィルフレッド・ブシュネル少尉と国際レースに出場し、
1532kmの記録で優勝し、3つの気球カテゴリーで世界記録を樹立、
世界大会への出場権を獲得

1931年、セトルとブッシュネル中尉2度目の国際大会優勝

1932年、1,550kmの記録で国際大会に優勝、ハーモントロフィーを獲得

1933年、セトル-ブッシュネル、耐久レースで世界耐久記録を達成

フォードニー(左)セトル(左から二番目)

海兵隊のチェスター・フォードニー少佐をナビに指名、
オハイオのレースに出場するも沼地に軟着陸


この着陸地点は、恐るべき偶然で、ジャネット・ピカールの家から
ほんの数キロのところだったということです。

世界記録18,665km、
エクスプローラーIIが1935年に飛行するまで公式記録の保持者であった

海軍人生のほとんどを気球に捧げたセトルですが、
こんな写真が残されています。


巡洋艦「ポートランド」上でのセトル艦長(双眼鏡を持つ人物)

ちなみにセトルはその後海上勤務へと戻りました。

その理由は簡単、海軍が気球を運用するのをやめたからですが、
海軍士官として海の上に戻った彼は、
USS「パロス」「ポートランド」の指揮を執ります。

第二次世界大戦では「ポートランド」でコレヒドールの空挺部隊を支援し、
その後沖縄攻略の支援を行なっています。

沖縄では潜水艦からの魚雷を11回回避することに成功しましたが、
攻撃には失敗したという記録が残されています。



■ 陸軍トリオ
スティーブンス少佐、ケプナー少佐、アンダーソン少尉

さて、次なる気球挑戦者は、陸軍軍人三人のチームです。

1934年、ナショナルジオグラフィック協会と陸軍航空隊の共催で、
成層圏を調査するための気球飛行が行われました。

水素を充填した巨大な気球の下には「エクスプローラー1号」と名付けられた
3人乗りの密閉型ゴンドラが吊り下げられていました。


1933年、アメリカ陸軍航空隊のスティーブンス大尉は、
気球による成層圏探検を上層部に働きかけました。

陸軍はこの計画に賛成したものの、
「人員と施設は協力するが、資金の提供まではちょっと」
という態度だったので、スティーブンス、
このような事業を支援する意思と手段を兼ね備えた組織、
ナショナルジオグラフィック協会に目をつけたのです。

スティーブンスは、この飛行を、高高度撮影技術、高層大気の特性、
宇宙線などを研究する機会として提案し、また、
75,000フィートという高度の新記録に挑戦するという目標を立てました。

ナショジオの他、ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社、
(現在のユナイテッド)イーストマン・コダック研究所、
フェアチャイルド・アビエーション社、スペリー・ジャイロスコープ社
など
スポンサーが集まり、(スティーブンス、凄腕?)
また、スティーブンス自身も私財を数千ドル投じています。

そこで動き出した陸軍航空隊は、3人の乗組員を任命しました。

パイロットはウィリアム・E・ケプナー少佐、
代理パイロットはオーヴィル・A・アンダーソン少尉

そして科学観察官としてスティーブンス大尉の3人です。


気球とゴンドラを作り、3人の人間と実物大の実験室相当の機器を
宇宙の果てに送り込むための作業がすぐに始められました。

ゴンドラはダウ・ケミカル社「ダウメタル」を使って作り、
気球はグッドイヤー・ツェッペリン社が綿布で制作する手筈も整えました。

彼らの搭乗した気球ゴンドラの正式名称は

「The National Geographic -
 Army Air Corps Stratosphere Expedition」

ですが、長いので一般には「Explorer」の名で知られており、
さらにのちにエクスプローラー2が登場することになったので、
こちらを遡及的にエクスプローラー1と呼ぶこともあります。


スティーブンス(左)とアンダーソン大尉

機材の組み立てと同時に、打ち上げに適した場所を確保する必要があります。

気球を保護するためのシェルターと、戻ってきて着陸が可能な
比較的平坦で見通しの良い場所でなくてはいけません。

そこで選ばれたのがブラックヒルズという国有林でした。

近隣住民の、土地の賃貸、道路の整備、整備の敷設などへの
資金協力も漕ぎ着け、準備は着々と進んで行きました。

ケプナー少佐とスティーブンス大佐、気球研究中

1934年7月27日、ようやくエクスプローラーI打ち上げの準備が整います。

第4騎兵隊の部隊がマンモス気球を梱包箱から取り出し、
気球を保護するために地面に敷かれたおがくずの上に並べました。

夕暮れが近づくと、夜から早朝にかけて作業が行われるため、
発射場の周囲にスポットライトの輪が点灯されました。

6時間かけて1,500本の水素ボンベを気球に充填し、
午前2時頃に完全に膨らませた後、ゴンドラを車輪で運び出し、
3時間かけて気球に取り付けていきます。



午前5時45分、いよいよ「エクスプローラー号」が打ち上げられました。

パイロットのケプナー少佐、副パイロットのアンダーソン大尉、
科学観測員のアルバート・W・スティーブンス大尉の3人のクルーは、
最終高度11.5マイルまで上昇を開始する予定でした。

午後1時頃、約7時間の飛行の後、気球は60,613フィートに到達。
それまで活発にデータを収集し、地上に送信していましたが、
しかし、それもピタリと止んでしまいます。

ゴンドラの上でカタカタという音がして、3人が外を見ると、
気球の底に裂け目ができていたのです。

それでもスティーブンスとアンダーソンは計測を続け、
ケプナーは、緊急パラシュートのレバーに手をかけて待機していました。

エクスプローラー気球はいったん下降を始めると、
あっという間に下降を始め、45分で2万フィートまで落ちました。

ゴンドラの中にいても気球の生地が破れ続ける音が聞こえ、
さらに30分後、さらに2万フィート降下。

さすがの彼らも、そろそろパラシュートを装着しようと考え、
ゴンドラのハッチを開けると、バッグの底が全部抜け落ちました。

なんのことはない、気球がパラシュート代わりになり、
地上への落下速度がわずかに遅くなっていただけだったのです。

しかし、転んでもただでは起きないというのか、この間も、
クルーは地上と無線で連絡を取り合い、
世界中の観客とドラマを共有し続けました。

自分の危険も顧みず実況をやめないユーチューバーみたいなもんですかね。

高度5,000フィート付近で、3人のクルーはゴンドラから脱出を開始。
最初に飛び降りたのはアンダーソンでしたが、
飛び降りた瞬間に気球が爆発し、ゴンドラは地上に落下しました。

次にスティーブンスが脱出を試みますが、しかし、
2度も強風にあおられ、ゴンドラの中に戻ってしまいます。

そこでケプナーがスティーブンスを押し出し、その後に続こうとしますが、
ケプナーは、パラシュートを開くのがやっとでした。
その時ゴンドラがゴツンと音を立てて地面に突き刺さりました。

もし外に飛び出していたら、ケプナーは高度が足りずに
地面に激突していたと思われます。

というわけで、奇跡的に3人とも無事着陸することができたのですが、
すぐに気球の後を車で追ってきた人たちが、3人に群がってきました。

当初は全損かと心配されるほどの事故でしたが、
データこそ失われたものの、救出できるものがたくさんあり、
幸運なことに、気球とゴンドラ、そして観測機器に
多額の保険がかけられていたのです。

このため、陸軍とナショナルジオグラフィック協会は、
すぐに再飛行の計画を立て始めたということですが・・。

うーん・・・・次に誰を乗せようというのか。




続く。




宇宙開発競争と世界初の弾道ミサイルV2〜スミソニアン航空宇宙博物館

2023-02-11 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙開発競争コーナーは、コーナーというには大規模な
ワンフロア全てを占めるその資料によってその歴史が語られています。

■ スペースレースとは

第二次世界大戦後、最強国となったアメリカとソビエト連邦は、
軍事力の均衡を保ちつつ相手を牽制し合う冷戦に突入します。

半世紀にわたり、二つの超大国は、その思想御社会構造の違いから、
方や民主主義国、方や全体主義的共産主義国として、
世界一の覇権を手にするべく、互いにその優位性を競い合ったのです。

そして宇宙は、このライバル関係の重要な舞台となりました。

宇宙空間を舞台としたロケット工学や宇宙飛行の分野で互いが鎬を削りあい、
世界の注目を浴びながらその優位性を示そうとしたのが、
いわゆる米ソ宇宙開発競争です。

宇宙開発の分野は、また、敵を監視するためのツール(秘密衛星)
として、発展していきました。

そして、これから述べていく様々な研究とその実行において、
あるときは成功し、あるときは失敗で貴重な人命を失い、
互いの国の総力を上げて宇宙を目指すための技術を積み重ねていきます。

しかし、冷戦の間、宇宙という一つの方向を見続けたことは、
いざ冷戦が終わってしまうと、そのわだかまりも消えることになりました。
一発の砲火も交えなかったことは、雪解け後の和解もスムーズだったのです。

冷戦終結後、アメリカとロシアは宇宙ステーションの建設など、
宇宙での共同事業に合意することになりました。

恐怖と敵意から始まった競争は、冷戦終結後はパートナーシップに変わった
・・・・・と果たして言えるかどうかは断言できませんが。

アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニクを打ち上げた、
いわゆる「スプートニック・ショック」の一年後、このように述べました。

「ソ連の脅威が歴史上ユニークなのは、その包括的なものであることだ。

人間のあらゆる活動は、拡大のための武器として利用される。
貿易、経済発展、軍事力、芸術、科学、教育、思想の世界全体・・・。

全てがこの拡大のための戦車に繋がれているのだ。

つまり、ソビエトは完全な冷戦を展開しているのである。

全面的な冷戦を展開する体制に対する唯一の答えは、
全面的な平和を実現することである。

それは、私たちの個人的、国民的生活のあらゆる財産を、
安全と平和が育つ条件を構築する仕事に投入することを意味する。

我々は、ほんの少し前までは、長距離弾道ミサイルに
年間100万ドルしか使っていなかった。
1957年には、アリアス、タイタン、トール、ジュピター、
ポラリス計画だけで10億ドル以上を費やした。

このような進歩は喜ばしいことではあるが、
だかしかし、まだもっとやらなければならない。

つまり、私たちの真の問題は、今日の強さではなく、
明日の強さを確保するために今日行動することの必要性なのである」

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領、1958年

アイクの言う「強さを確保するための行動」とは
具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。

アイゼンハワーのこの演説の年、アメリカでは
初の衛星、ヴァンガード1の打ち上げを行なっていました。



ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星です。
当初はソ連にえらく遅れをとっているとされていたアメリカの宇宙開発ですが、
ちな、このヴァンガード1は、地味にまだ軌道を回っており現役です。

当初の見積でも軽く2000年間は保つと見込まれていましたが、
いろいろ訂正があって結局寿命240年というところで落ち着いています。

ヴァンガード1は、打ち上げ当時と抵抗特性は基本的に変わっておらず、
今日もせっせと大気のデータを地球に送り続けており、
「最も長い間宇宙に存在している人工物」
の輝かしいタイトルを持っています。

とはいえ、この頃総力を上げて宇宙開発に取り組むソ連に対し、
アメリカは周回遅れというくらい後塵を拝する屈辱的な状態が続き、
1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは演説を行うのです。



「最後に、もし私たちが今世界中で起こっている、
自由と専制政治の間の戦いに勝つためには、
1957年のスプートニクのように、
ここ数週間に起こった宇宙での劇的な成果、この冒険
世界中の人々の心に与える影響を私たちが知らなければならない」

ジョン・F・ケネディ大統領、1961年5月25日

1961年初頭にアメリカはチンパンジーを打ち上げる実験を成功させ、
演説の少し前になる5月5日には、ついにアメリカ人宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に打ち上げることに成功しました。

しかし、ソ連がボストーク1号でガガーリンを打ち上げたのは
そのわずか1ヶ月前でした。

しかもガガーリンの軌道上打ち上げに対し、シェパードはただの打ち上げ、
と見かけこそ大きく差がついていたということになりますが、
さすがと言うのか、この時のケネディの演説は
シェパードの「遅れをとった成功」をさらに国民の希望へと押し上げます。

我々は、月に行くべきです。
しかし、この国のすべての市民と議会のメンバーは、
私たちが何週間も何ヶ月もかけて注目してきたこの問題を、
慎重に検討して判断すべきだと思います。

なぜなら、この事業はあまりに負担が多いので、

それを成功させるために働き、負担をする覚悟がなければ、
米国が宇宙での立場を得ることに同意したり、
望んだりする意味はないからです。

しかしもしその覚悟があるなら、今日、今年中に決断しなければなりません」

そしてさらに翌年、1962年、同じくケネディ大統領はこう言いました。

「宇宙開発競争において、私たちは長い道のりを歩んでいます。
私たちは遅ればせながらスタートしたのです。
これは新しい海であるが、アメリカ合衆国はこの海を航海し、
どこにも負けない地位を築かなければならないと私は信じています」


ジョン・F・ケネディ大統領、1962年

■ 宇宙戦争の「軍事起源」

アメリカの「航空の父」、ハップ・アーノルド将軍はかつてこう言いました。

「次の戦争は、海戦で始まるのでもなく、
ましてや、人間が操縦する飛行機の攻撃で始まるのでもない。
一国の首都、例えばワシントンに
ミサイルを落とすことから始まるかもしれない」


彼がこの「未来」を予言したのは、1945年のことでした。

その予言が当たったのかについては諸説あるかと思います。
なぜなら、戦争の始まりというものは、作為的にせよそうでないにせよ、
小さなきっかけから、というのが今のところ定石となっているからです。

しかし、始まりはともかく、攻撃はミサイル発射とイコールであることは
今現在の世界において全ての人々が周知のことでありましょう。


その後冷戦が始まると、米ソの戦略家は同じ課題に直面することになります。

戦争になった時、いかにして敵の心臓部を素早く攻撃するか。

第二次世界大戦後から出現し始めたロケットは、
次世代の新しい戦争のスタイルを予感させました。

それは、核爆弾を世界中のどこからでも敵国土に届けることができること。

それゆえ戦争は前触れもなく、突然、決定的に始まり、
そして戦う前に終わるかもしれない、ということを意味します。

そして地球を横断する爆弾を搭載できるロケットは、
当然ながら機械や人間を軌道に乗せることもできます。

宇宙開発競争は、とどのつまり長距離兵器の開発競争でした。
この両大国アメリカとソ連にとって、宇宙開発用も戦争用も技術は同じ。

宇宙開発競争の名の下に、アメリカとソ連は「長距離兵器としての」
ロケットを製造するようになったということになります。

ところで宇宙開発戦争において、どうしてソ連が当初リードできたかですが、
当時のアメリカはまだ武器の主流が爆撃機であったのに対し、
ソビエトは最初からミサイルを念頭に置いて、
国家単位で戦略的に開発を行ったからでした。


■V-1ミサイル〜巡航ミサイルの元祖



第二次世界大戦後、ソ連とアメリカが目の色を変えて獲得しようとしたのは
ドイツのロケット技術と技術者でした。

ドイツは第二次世界大戦中にミサイル兵器の開発を行っており、
ミサイルに核を積むと言う戦略の未来予想図を思い描く両国にとって
これらはとりあえず喉から手が出るほど欲しいものだったのです。

1944年6月に実戦投入されたドイツのV-1は、世界で初めて実用化された
「巡航ミサイルの元祖」で、スミソニアンに本体が展示されています。

(が、わたしはこの”小さな飛行機”がV-1だと夢にも思わなかったため、
ちゃんと写真を撮っていませんでした。
わたしが撮った写真は巡航ミサイルの後ろにかろうじて写っていたもので、
どこかしらが欠けてしまっています)

V-1のVはビクトリーと言う英語の意味ではもちろんなく、
(どうでもいいけど日本の女子って写真撮る時なんでVサインするんだろう)
ズバリ「報復兵器」Vergeltungswaffeを意味し、
宣伝省大臣、ゲッベルスの命名でした。



パルスジェットで発射されるV-1は、ヨーロッパの都市に向けて
何千発も発射されましたが、(1日平均102発、全部で2万1千770発くらい)
案外低速で精度が低い上、迎撃され、撃墜されやすいものでした。

とはいえ、イギリスに到達した時の死傷者は2万4千165人もおり、
ロンドン市民にとっては大変な脅威となっていたのも事実です。


V-1着弾後、瓦礫の下の生存者を探す民間防衛部隊と消防隊員

連合国ではこれを「バズボムbuzz-bomb」(ブンブン爆弾)とか、
「フライングボム」などと呼んでいました。

ブンブン爆弾って可愛いんですけど。



前にもこの「報復兵器」についてお話ししたとき、
ヒトラーの最終目的はイギリス国民の戦意の喪失だったのが、
彼らのモラル(戦意)はこんなことでは失われなかった、
と言うことを書いたのを思い出しました。

国民全体の戦意を喪失させるまでの爆撃はこの爆弾には不可能で、
せいぜいロンドン市民を恐怖に陥れるくらいが関の山だったともいえます。

つまり、住宅地を狙って国民の戦意を喪失させるより、
戦略地域や軍事施設を狙えばそれなりの効果はあったはずなのですが、
巡航ミサイルの元祖として記されるべき存在と言いながら、
如何せん当時の制御技術ではV-1の誘導着弾は不可能でした。

■ 世界初の弾道ミサイルV-2


というわけで、スミソニアンには本来V-2ミサイルが展示されています。
この写真では手前に見えている白黒市松柄のロケットがV-2です。

が、わたしが訪れた時、V-2の展示は(断じて)ありませんでした。
どこかに貸し出されていたのかもしれません。



もしこんな実物を目にしたら目の色変えて写真撮っちゃうはずだしね。
ちなみにこのV-2の左上にチラッと見えているのがV-1です。

見るからに凸凹ですが、長年乱暴に扱われた結果でしょう。

V-2(Vergeltungswaffe zwei)は、
遠隔地攻撃のために使われた最初の弾道ミサイルでした。

現代における最初の長距離弾道ミサイルであり、これこそが
今日の大型液体燃料ロケットや発射体の祖先と言ってもいいでしょう。

ドイツ陸軍兵器局は、1930年代から長距離ミサイルの開発を目指し、
ロケットエンジンを搭載した航空機の開発を模索していました。

そして1942年10月、バルト海に面したドイツのペーネミュンデから
液体燃料のV-2ミサイルを初めて発射し、成功させたのです。

先代のV-1はイギリス、ベルギー、フランスに多大な物理的、
かつ精神的損害を与えることに成功し、これに続くV-2は、
さらに決定的なテロ兵器となるはずでしたが、ここでも問題が。

このロケットは精度も信頼性もコスト効率も良くありませんでした。

とはいえイギリスに対して発射されたロケット弾は週平均60発ほど。

戦争の残りの期間には3,200〜600発が連合国側に向かって発射され、
このうち、1,115発がイギリスに到達し、1,775発が大陸の目標に命中、
ほとんどはベルギーに向けて発射され、パリにも19発が命中しています。

V-2による死者数は約5,500人、重傷者数は6,500人、
V-1、V-2両兵器によって破壊された家屋や建物の総数は約33,700棟。

それなりに兵器としては成功したといえますが。

戦後、アメリカと他の連合国は、
この革命的な新技術のノウハウを獲得するために、
V-2本体、文書、V-2技術者をできる限り多く捕獲しようと奔走しました。

その中には、イギリス、フランス、そしてソ連が含まれていました。

イギリスは、「バックファイア作戦」「クリッターハウス作戦」
V-2を打ち上げる実験を行なっています。

フランスはヴォルフガング・ピルツをはじめとするV-2研究者の協力を得て、
初の液体燃料ミサイルを完成させました。
この技術はのちにV-2と外観が似ている
ヴェロニク型観測ロケットに生かされることになります。

ヴェロニク


V-2とソ連の研究

そしてソ連です。

1945年5月5日、ペーネミュンデを占領したにもかかわらず、
避難してきたドイツ軍が大部分を破壊し、有用な資材も奪われました。

しかし、ソ連はその後占領したノルトハウゼンから貴重な資料を押収し、
この地域にロケット研究所を設立し、多くのV-2を再建しました。

数千人のドイツ人技術者、科学者、技能者とその家族がソ連に送られ、
その結果、ソ連は復元V-2を発射することに成功しています。

ソ連はV-2の基本技術を大幅に改良しいくつかの派生エンジンを製造。
1948年初めて打ち上げに成功したR-1は、ロシアでは初の
「国家的ロケット」とされていますが、外観はV-2とほぼ同じでした。


つくづく思うV-2の完成度の高さ

R-2は上層大気の研究や、生物学的研究のためにウサギや犬など
動物が打ち上げられ、最終的には
宇宙飛行を視野に入れた研究へと移行していきます。

V-2とアメリカの研究

アメリカもまた、V-2技術が出現するとほぼ同時に入手計画を始めています。

1944年、最初のV-2がパリとロンドンに向けて発射されてから2ヶ月余り後、
米陸軍兵器部隊はゼネラル・エレクトリック社に、捕獲したV-2を研究させ、
ドイツの設計に基づくミサイルを開発する契約を結んでいるのです。

これはプロジェクト・ヘルメスと名付けられました。

1945年5月、ソ連軍が進駐する前に米軍はミッテルヴェルクに入り、
100機のV-2の部品が米国に輸送されました。
そのうちの2機はスミソニアンに引き渡されたと推定されています。

この間、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその主要メンバーが
降伏してきて、アメリカはいえーい!と喜びました。

ペーパークリップ作戦(当初はオーバーキャスト作戦)のもと、
最終的に118名が弾道ミサイルや後の宇宙開発用ロケットの開発に関わります。

1946年、アメリカでV-2の静止発射が行われ、1947年には、
パラシュートによるV-2ノーズコーンの陸上回収に初めて成功。

ケープカナベラルのロングレンジ実験場(後のケネディ宇宙センター)では、
合計で67回のV-2の飛行が行われています。


戦後、アメリカやソ連は鹵獲したV-2をもとに、ロケット開発を行いました。
それは次第に変遷を遂げ、究極の兵器を得るという大国の欲望は
ICBM、巡航ミサイル、大陸間弾道ミサイルに結実していくのです。


続く。




アフター トルピード ルームと”キューティ”魚雷〜潜水艦「シルバーサイズ」

2023-02-09 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」艦内探訪も、今日で最後となりました。

前から順番に見学してきて、最初に見たのと同じ、
後部魚雷室までやっとのことで辿り着いたわけです。



後部魚雷室は前部魚雷室と基本的に全く同じです。

しかし、全ての潜水艦がボートの両端に魚雷発射管を備えるように
設計されているわけではないことも、ちょっと覚えておいてください。

魚雷の発射について説明した時の繰り返しになりますが、
魚雷の誘導は本体に搭載されたジャイロスコープによって行われます。

その設定は魚雷発射管の外側から行うわけですが、その数字を決定するのは
司令塔に搭載された魚雷データコンピュータ、「TDC」です。

魚雷は発射管から発射されると、90度まで回転して、
事前に設定されたジャイロスコープの方位を指してから、
直線上を走っていくわけです。

ボートの前後両端に魚雷発射管を備えることで、
潜水艦はより多くの魚雷を運ぶことができ、さまざまな方向の、
しかも複数のターゲットに同時に魚雷を撃つことができるようになりました。

しかし、その中で最も理想的、というか美味しい状況はというと、

敵の護送船団の内側に潜水艦を垂直に付けた時

であったと思われます。

後ろにも魚雷発射管がついているので、潜水艦は攻撃後、
逃げながら追跡者に向かって魚雷で攻撃することができるわけです。

ヒットアンドランアンドアタックですね。

■ ハイドロリック・ラダー・ラム(油圧舵ポンプ)


この写真で、トルピードチューブのサイドから伸びている
グレーのポンプっぽいバーを確認してください。



ボケてますがこちらの方がわかりやすいかな。


こういう形のものです。

このコンパートメントに特別に設置された機械装置で、
魚雷発射管の両側に備わっている、

油圧舵ピストン(hydraulic rudder ram)

という長いスティールのロッドです。

これは潜水艦後部の舵(スターンプレーン、ラダーとも)を操作するもので、
対の一方が引いているあいだ、残りの一方が押されて舵が切られます。

実際のラダーとの接続は、トリム・バラストタンクの後方、
コンパートメントの後壁で行われています。

後尾のラダー、艦体のバウプレーンといった舵を稼働させるのは油圧です。

前方の潜舵とは異なり、水面から見えない後方のスターン・プレーンは、
制御室(司令塔)から遠隔操作されます。
ちなみに司令塔にも補助操舵輪があるので、どちらからも操縦可です。

魚雷発射室にありながら、魚雷とは全く関係のない設備ですが、
このラダーが潜水艦のすぐ後方にあるため、ここに設備が置かれています。


「ガトー」級のスターンプレーンは、近代の潜水艦と違って、
完全に水没した状態であることをご確認ください。

艦体両側についている潜舵、そしてスターンプレーンを動かすのは
ウォーターベリー社の油圧モーターからであり、さらにその動力は
この部屋の頭上にある大型の電気モーターから供給されます。


どれだけ検索しても自分の撮った写真の中には見つかりませんでしたが、
甲板の下の浅いビルジには、魚雷をチューブから押し出す
インパルス・エアが含まれた巨大なスキューバタンクみたいなのがあって、
(多分下の写真の”インパルスエアシリンダー”のこと)
それぞれのタンクは一つの魚雷発射管に空気を送ります。

多分下の写真の「インパルスエア」と書かれたものがそれです。
振ってある番号は、魚雷の番号と同じなのでしょう。



後部魚雷発射室の壁がわの説明付き写真です。

ラダーラムと交差するように伸びている、
「シグナル・イジェクター」というのが見えますが、
この先は左舷の外側から確認できるそうです。

艦体から突き出た小さな大砲に似たものらしいのですが、
どうしても写真で見つけることはできませんでした。
これは海面にフレアを発射するためのものだそうです。



■ Mk.18電気式魚雷

前方魚雷室にはMk.14の蒸気魚雷が展示されていましたが、
後部魚雷室には電気魚雷実物があります。



ここにあるのはMk.18ではないのですが、
行きがかり上、Mk.18について先に説明します。

前にも書いたように、これとMk.14の大きな違いは電気式か蒸気式かです。



きっかけは、1942年鹵獲されたドイツ海軍のG7e電気魚雷でした。
鉛蓄電池式電気推進方式でUボートに搭載されていたものです。

なんだかんだ技術先進国ドイツの権威に滅法弱かったアメリカとしては、
ここでピコーンと閃いたアーネスト・キング提督の提唱で、
自国海軍の潜水艦のために、電気魚雷を作ることを思いつきます。

海軍の仕事を発注したのはウェスティングハウス
すぐにG7eのコピーに取り掛かり、瞬く間の速さで生産を開始し、
作業を始めてから15週目で納入をやってのけ、
それまで主流だったMk.14が何かと不評だったこともあって、
1942年には潜水艦部隊はこれを運用することが決まりました。

しかし、この発明にはなかなかの問題が満載でした。

電池の性能が悪く、水素ガスを発生させがちでしたし(危険です)、
生産に当たっても、熟練の労働者もろくにいない現場で
高度な作業をおこなったせいで、品質に問題があったのに、
海軍試験サービスは全くのお役所仕事で、何の手助けもせず、
民間企業に丸投げして試験データも渡してこなかったそうです。

USS「スピアフィッシュ」と「ワフー」に最初に配備された
このMk.18ですが、「スピアフィッシュ」の艦長ユージン・サンズによると、
その運用にあたっては、

「常人を狂わせるに十分なほど魚雷問題を経験した」

しかしてその問題とは。

1本は沈没。
1本は暴走。
3本は発射時に外扉に当たって消滅。
7本は後部から外れる。


怒りのサンズ艦長

ちなみに、このユージーンの経歴を調べると、
彼が乗っていたのはUSS「スピアフィッシュ」ではなく
USS「ソウフィッシュ」Sawfish となっています。
Mk.18の記録か、彼の記録のどちらかが間違っているのですが、
確認のしようがありません。(まあ、よくある間違いです)

とにかくこちらもかなり残念兵器ということだったんでしょうか。

そもそも本家のドイツでも、海軍がこの兵器を導入するに当たって、
ろくに試験をしないまま実戦配備したので、不発や即発が多発していました。

それをまるコピーしたら同じ問題が起きてくるよね、って話なんですが。


ただ、実際に運用されてからは、Mk.14の問題点だった
深度維持の不確定や炸薬の問題は勿論ありませんでしたし、
こちらは電気なので航跡を残さない、という利点はありました。

結果、太平洋戦線でアメリカの潜水艦が発射した魚雷のうち、
実に全体の30パーセントがMK.18だったというデータもあります。

しかし戦争が終わって5年もすると、新しい型が採用され、
実際に運用された歴史はそう長くはありませんでした。



■Mark 27魚雷”キューティ”


たった今、電気式魚雷の利点は航跡が見えにくいこと、と書きました。

確かに比較すればMk.14の蒸気式よりは見えにくいのは確かですが、
日中ははっきりと航跡が確認できたそうですし、
肝心の速度は蒸気モデルより遅く、航続距離も劣りました。

ドイツの真似をしてみたけど、いまいちというか、
これでは一長一短、どんぐりの背比べってやつぢゃないのか?
わざわざ開発して配備する意味あるか?

と皆は思ったかもしれませんし思わなかったかもしれません。

少なくとも現場の人、特にサンズはそう思ったでしょう。

ただ、電気魚雷に舵を切ることで、その後の
音響魚雷への道筋となったという大きな意味がありました。

ここにある「特殊な魚雷」は、第二次世界大戦後期のモデルで、
音響誘導装置を搭載しており、正式名Mk.27torpedo
「キューティ」(Cutie)というあだ名がありました。

誰がつけたキューティ。

Mk.27魚雷は種別でいうと音響魚雷です。
1943年に防御魚雷として配備され、1960年代に廃止されました。

特記すべきは、戦後改装されたMk.27改4の設計者が
ペンシルバニア州立大学兵器研究所
となっていることです。

ペンシルバニア州立大学は通称「ペンステート」。
MKの歯科矯正の医師の出身校(オフィスに卒業証書が貼ってある)です。

それはともかく、アメリカの工学系大学は軍事産業と密接な関係を持ち、
兵器装備についての科学的研究をキャンパス内で行っています。

さて、このキューティMK.27ですが、この前にアメリカ海軍が
やはりドイツの音響魚雷(GNAT)に対抗して作った、有名な航空対潜魚雷

Mk.24 Fido(ファイド)

の潜水艦後継型となります。
キューティといいファイドといい、アメリカでは通常犬につける名前です。


ちな、リンカーン大統領の愛犬”ファイド”

やっぱり魚雷って犬っぽいと思われてたんですかね。

ファイドのホーミングシステムもハーバード大学で研究が行われており、
その後コロンビア大学も参加して完成に至りました。

このファイド、何が画期的だったかというと、
音響を利用して魚雷が標的を追尾するシステムだったことです。

あ、それで犬か。

画期的な兵器だったので、アメリカ海軍は完成後もしばらく、
ドイツ海軍に性能そのものを悟られて対策されないように、
標的とする潜水艦が潜航してから使用すること、としていました。

具体的には運用の指標は以下の通り。

まず、敵の潜水艦を航空爆撃する。
そして
強制的に相手を潜航させる。
潜航地点の
泡のところにファイドを投下する。
プロペラの音にホーミングして
ファイドが潜水艦を追尾する。
追尾したファイドが
潜水艦を無力化する。




このシステムの対であり、パッシブ型の潜水艦発射兵器が
ここに展示されている、マーク27、キューティでした。

理論的には、潜水艦は、海中に静かに静止したまま
キューティを発射することができます。

すると発射されたキューティは、頭上の敵水上艦の
スクリュー音を聴き分けて、自動的に追尾を始めるのです。

キューティも勿論、航空機から投下することができました。

しかしながら、実際には水中の潜水艦から発射され、
それが敵を撃沈したという実績は記録されていません

■ 「シルバーサイズ」旅の終わりに

ありがちなことですが、潜水艦の前部魚雷室と後部魚雷室は、
常に乗員同士で互いの撃沈数を激しく争っていたそうです。

小さな一つの潜水艦の中でも競争があったんですね。

その競争は、潜水艦同士にもあり、水上艦との間にもあり、
船と飛行機の間にもあり、海軍の中はもうそんな競争だらけで、
なんなら海軍と陸軍はもっと色々あったわけですが、
とにかく人の集まるところ、必ず競争が起こるものなのです。

という一般論はともかく、「シルバーサイズ」の中での競争ですが、
前方魚雷室と後方魚雷室はそもそもチューブの数が違いますよね?

前方は4つ、後方は6つと二つも違い、後方が元々有利なのに
一体今更何を張り合っていたのでしょうか。

全くしょうがねえ奴らだな。



さて、これで「シルバーサイズ」の中を前部見終わりました。
最後に、後部魚雷室に書かれていたこの言葉をあげておきます。

「これでボートの最後まで到達しました。
なんと素晴らしい天才的な機械工学の集大成でしょうか。

第二次世界大戦で潜水艦に乗務したことのないわたしたちには、
それがどんなものだったかをただ思い巡らすだけです。

75年前、『シルバーサイズ』がまだ生きて呼吸する機械の獣として
信じられないほど若く、信じられないほど勇敢な志願者たちによって
巧みに運転されていたのも今は昔。


博物館に残されたものたちは墓場のような静けさに包まれています」




シルバーサイズ艦内探訪シリーズ 終わり。



後部エンジンルームとマニューバリングルーム

2023-02-07 | 軍艦

前回の説明では分かりにくかったかもしれませんが、
潜水艦「シルバーサイズ」のエンジンルームは
前部と後部に分かれていて、後部エンジンルームは
前から数えて6つ目のコンパートメントとなります。



今日は後部コンパートメントを紹介していきますが、その前に
前部コンパートメントの最後にあった
二つのエンジン始動スイッチをご覧ください。



#2エンジンはこのスイッチで稼働させます。
赤いノズルは、矢印に

READY//
START /OFF /STOP
//CUT OUT

の書かれた部分を合わせるという単純な仕組みで、
OFFの状態になっています。

その上に並んでいるノズルは左上から

START AIR AT ENGINE(エンジンスタート空気)

LUB. OIL  TO FILTER(フィルターへの潤滑オイル)
LUB. OIL AT UPPER HEADER(上部ヘッダーへの潤滑オイル)
FUEL OIL IN(燃料入)
AT FILTER OUT(フィルター排出)
WATER FROM PUMP-FRESH(浄水ポンプ)



となっています。

そして紙には、またしても、この潜水艦のいろんなバルブやスイッチは
ほとんどが生きているので、勝手に触らないでください、
子供は必ず大人が監視?してください、と注意書きがあります。


1#、第1エンジンスイッチは第2エンジンの後部に位置します。
第1エンジンと違うのは、

 WATER FROM PUMP-FRESH(浄水からの水)

ではなく、

WATER FROM PUMP-SEA(海水からの水)

となっていることだけでしょうか。

いずれにしてもこの頃のエンジン始動は非常に機構が単純で、
動かすだけなら誰でもできるという感じです。


さて、それでは後部エンジンルームに移動しましょう。



前部と後部の間の水密ドアをくぐります。


こちらには#3と#4のエンジンがあります。
この写真は第4エンジンであり、前回も書いたように、
「シルバーサイズ」の可動するエンジンの一つです。


第4エンジンとその後ろの第3エンジンの間のスペースです。
引き出しがあり、人が一人立てるくらいの広さです。

前にも言ったように、この階は、巨大なディーゼルエンジン本体の
上半分が出ていて、下階とはハッチで行き来しますが、
この床にはレバー式で開閉できるハッチのようなものがあります。



後方には第3エンジンが配置されます。



エンジンには、内燃機関の構造図の額が架けられていました。


第3エンジンの上部には物入れの棚がありますが、
そこにもエンジンの構造図が貼ってあります。


これが滅法分かりやすいので上げておきます。

上下にクランクシャフト、そしてピストンがあります。
これらは一つのシリンダーを共有しています。

インテイクは吸気、エグゾーストは排気。
そして中央に燃料を噴射する燃料イジェクターがあります。

これで各部の名前がわかったところで、こちらをどぞー。



稼働が始まると、二つのピストンはイジェクターのある中央で合流します。

上のクランクシャフトは下部のクランクシャフトと連動して動きます。

□ 排気
潤滑オイル
新鮮な水
排気ガス

□スタートエア

この実際の動きについては、12:45から16:50までだけ見れば
十分お分かりいただけるかと思います。

SUBMARINE DIESEL ENGINES WWII U.S. NAVY TRAINING FILM FAIRBANKS MORSE 17984


後部エンジンルームオリジナル、シルバーサイズくん。

ほぼ潜水艦シェイプのワカサギのシルバーサイズが、
魚雷を小脇に抱え、葉巻をふかしています。

エンジンルームの内部の機材にあるということは、
絵心のある乗員の手によって描かれたものでしょう。

■ ソフトパッチ



「シルバーサイズ」紹介YouTubeで初めて知ったのですが、
エンジンルームの天井には、よく見ると明らかに後から穴を開け、
その後溶接で復元した「跡」を見ることができます。

この写真では、パイプの横とかハッチの横に
リベットの跡がたくさんついた不細工な補修後という感じで確認できます。

これを「ソフトパッチ」(soft Patch)といい、
ほとんどの潜水艦には、コンパートメントの天井にこの痕があるそうです。

ソフトパッチとは、大きすぎたりかさばったりして
ハッチから取り出せないものを取り出した跡のことで、
船倉を切断して、必要なものを出し入れした後は、
リベットでパッチを固定するか、ボルトで固定するか、溶接で固定します。

この機関室の上はリベットの穴だらけの強化板がありますが、これは
「シルバーサイズ」が生きてい他ある時点で 何か壊滅的なことが起こったか、
大きなものを取り除いたり入れたりする必要があったことを表します。

おそらく「シルバーサイズ」の場合、大きなものを
機関室に入れる必要があって、最初明らかにハッチから降ろそうとしました。

YouTubeの説明の人によると、ハッチの梯子は外れるし、
なんならデッキも完全に取り外すことができるのですが、
それ以上に大きなものを後から出し入れしたということのようです。

そこまでしないといけないものって、
エンジン以外には・・・バッテリー?




■マニューバリング・ルーム


アフタートルピードルームの次のコンパートメントに移ります。
ここはマニューバリングルーム、「操縦室」です。
操縦室は潜水艦の中で最も小さなコンパートメントです。



魚で言うと尻尾の手前のキュッと細くなった部分にあります。

「ここが操縦室?じゃコントロールルーム(制御室)は一体何?」

と思われるかもしれません。
確かに潜水艦をコントロールするのは名目上制御室ですが、
実は実際に全ての力を制御するのは操縦室なのです。

操縦室の位置付けは、

「ディーゼルとプロペラの間のインターフェース」

と考えていただければいいでしょう。


ここは歩くことのできる場所もこの通り。
大変細い通路になっていて、左側にはワイヤーのケージが現れます。

このコンパートメントは全てがステンレス鋼でできているのですが、
中でもこのケージが部屋の圧倒的な面積を占めます。

そしてそのまま左舷側を進んでいくと、
ブレーカースイッチが並ぶ、非常に狭い通路があります。

ケージの中には400Vのバッテリーと発電機があるのですが、
ケージは銅製の「バスダクト」を取り囲むことによって
人が感電しないように保護する仕様になっています。


ケージの内側

約8フィート四方のケージには巨大な電気スイッチがあり、
ブレード(つまりスクリュー)にコンタクトします。

ケージの中その2

ボートがフルパワーで動作している時、
このバスダクトを通じて400万ワットの電力を送ることができました。

ここでは二人の電気技師が任務に就き、実際にボートを動かしました。
少なくとも、推進力はこの二人が稼働していたと言って過言ではありません。



プロペラシャフトに接続されたゼネラルエレクトリックモーターは、
このコンパートメントの下にあります。

コントロールパネル(操縦室制御盤)

大人の男がグッと握るのにちょうどいいサイズのレバーがパネルに10個あり、
これらのレバーは発電機からの電力がバッテリーに出入りする時、
またプロペラシャフトを動かす電気モーターへの供給をコントロールします。



レバーの上を見てみましょう。
お好きな方にはたまらない、ゲージ、ノブがずらりと並びます。

ゲージは4つのメインディーゼル発電機、
そして2つのバッテリーバンクのアンペア数と電圧を示します。



真ん中には5つの大きなノブがあり、これらは
ディーゼルエンジンのリモコンスロットルです。
(なぜ5つかはわかりません)

ディーゼルエンジンはもちろんさっき見てきたばかりの
エンジンルームにあるわけですが、実際は
ここから制御されているというわけです。

ここが「操縦室」と呼ばれるわけがお分かりでしょうか。

さらに、ダッシュボードの上の方には、(電池から発生する)
水素ガスを排出するブロワーのモニターと、
バッテリーコンパートメントから爆発性ガスを除去するモニターがあります。


また、プロペラシャフト用の大きなタコメーターもあります。
実際のボートの速度のコントロールを行うのは、
プロペラシャフトモーターの可変抵抗器を制御する大きなハンドルです。

モーター自体は、これらのレバーを使用して徐々に加速し、
直列抵抗と並列抵抗を介して
その電力を順次ステップアップする必要があります。

パイプ、配管、パネルにハンドル、レバー、壁を覆うメーター。
とにかくいろんなメカメカしいものが満載のこの部屋、
ちょっと説明しましたが、これくらいはここで行われることの
氷山の一角に過ぎません。

そして、狭いコンパートメントは、人がすれ違うことができないのは勿論、
振り向いて体の向きを変えるだけでも大変です。



モーター・ジェネレーターのユニットは二つ、
右舷前方と左舷の角にあります。
これらのユニットはDC電圧を高圧し、DCをACに変換するためのものです。

また、右舷後方には操縦室から
必要な電力に応じたディーゼルの始動と停止を
エンジンルームに指示するための電信パネルがあります。

操縦室は、管制室からの指示を受けて捜査を行います。



コンパートメントの出口には配電図が。
スクリューを稼働させるための電力の配線が記されています。



上の図は、「ホルガー-ニエルソンメソッド」という
当時主流だった人工呼吸法を図解で示しています。

Demonstrations of the H. N. method of artificial respiration (194?)


続く。