◎中有と夢
(2007-06-09)
前世と今生の間に中有(バルド)がある。前の肉体を失って、次の肉体をまだ得ていないという肉体のない状態を中有(バルド)と呼ぶ。そうした肉体の感覚がない中で、いろいろ体験するのだから、中有は夢に似ている。
中有の人と生きている人のコンタクトがとれて証言がとれないと、死後の世界の科学は進展しないので、中有の研究は、キュブラー・ロス以後の死の研究における大きなテーマである。
というわけで、OSHOの中有の見方。
まず中有の現実は、生の現実よりもありありと現実的であること。
『夢を見ているとき、私たちはそれが現実であることを疑わない。これは非常に面白いことだ。いくらか時間が経った後では、私たちはその現実性を疑うようになるが、夢を見ている間は決してそれを疑わない。夢は現実のように見える。
時には、現実であるものが、目に見えるものが、本物であるかどうかについて疑わしくなることがある。だが夢の中ではそのような疑いは決して起こらない。どうしてだろう。?それは夢がほんの少しの疑いも許さないからだ。さもなければ夢はたちまち破れてしまう。』
(神秘の次元/OSHO/日本ヴォーグ社P213-214から引用)
そして中有は夢のようなものであること。肉体そのものがないのに体験していることだから、再び肉体を得た時の中有体験の現実感はそれを肉体の感覚で感じられるかどうかにかかっている。だから肉体の感覚に感じられないから夢のようなものなのである。
OSHOは、誕生直後の6カ月と死の直前の6カ月は非常に暗示にかかりやすい時期であると指摘する。今は一つの文明の最後の6カ月に間違いなく居るから、この時代の人々は間違いなく暗示にかかりやすいと言える。それを利用してテレビを中心に役に立たない暗示を送り続ける人もいれば、その滅びゆく文明の危機感をばねにして正しいやり方で冥想する人もいる。
ここで正しいやり方で冥想をすることができれば、次の中有の準備を的確にすませて、次の誕生に備えることができる。
ただしこのように次の誕生に価値があるとする考え方はクンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐にはそのような漸進的な発想の余地はない。「いまここ」しかないからである。