◎霊に襲われるなど
出口王仁三郎の随筆から、
『山上の家
山の上に掘っ立て小屋などを建てた時には、その周囲に三尺の間隔をもって、縄をぐるりと一廻ししておかねばならない。そうしておかないと、霊に襲われる。また普通の人家でも、縁側などに寝てはならない、必ず家の礎から三尺内側に寝るべきものであって、そうしないとこれまた霊に襲われる。石は悪魔を防ぐものであるから、礎から三尺以内に寝れば大丈夫である。』
(出口王仁三郎の随筆集水鏡から引用)
これは、結界ですね。
さらに
『面会のこと
私はどういうものか昨年来から(昭和元年、すなわち大正十五年)人に面会することが嫌になってきた。近頃はそれが一層ひどくなって、未信者はもちろんのこと、役員信者といえども面会することが極端に嫌になったのだ、近侍といえどもあまり大勢が長く傍にいられることは苦痛なので、用事があって呼ぶ時来てくれればよいと言い渡してある。
私は肉体としてできるだけ辛抱しているのであるが、神様が嫌われるのだから仕方がない、特に朝早くから来られると、それっきり神様の御機嫌が悪くなって、その日一日の仕事が駄目になってしまうことがある。だから面会時間は午後の五時から六時の間に定めてあるので、その頃になると、為すべき仕事が一段落つき、夜の仕事との間にちょっと一服する間があるから、あまり邪魔にならない。
かく定めてあっても、今日は早く帰らねばならぬとか、綾部にお参りせねばならぬとか、特別をもってとか、自分の都合のために、朝から面会を強いられるのは苦痛でたまらない。私は神様に使われているのである。人間の都合のために神様の御用を左右させるのはあまりではないか、私はそのため命が縮まるような気がする。私に長生をさせようと思うなら、少し気をつけてもらいたい。
早くから信仰している人たちはこういうことがよく分かっていなければならぬはずであるのに、旧いゆえに特別の権利があるように思って、規定を無視して自分の知己を連れてずんずん押しかけられるのにも困る。遠方から来たのだから、十分や二十分時間を割いてくださってもよさそうなものだと思う人がいるかもしれないが、私の十分間は他人の十分間と違う。
十分間あれば約百五十枚の短冊を描くことができる。一時間も邪魔されると、九百枚も駄目になるのである。それにまだそれよりも困ることは、各自がいろんな霊を連れて来て、それを置いていくことである。非常に気分がよくて、これから大いに仕事をしようと思っている所へ、ちょっと人が来てその人が、悪霊でも背負って来ていたら、すぐ頭が痛くなり、気分が悪くて一日何もできぬことがある。のみならず甚だしい時はうんうんとうなって寝なければならぬことになる。私の体は人並にゆかないのであるから、それを察してもらいたい、用がある場合はこちらから呼ぶことにしたいのである。』
(出口王仁三郎の随筆集水鏡から引用)
これは来客が悪霊を連れて来て困るということ。
『他神の守護
私は常に「上帝一霊四魂をもって心を造り、これを活物に賦(あた)う。地主三元八力をもって体を造り、これを万有に与う。ゆえにその霊を守る者はその体、その体を守る者はその霊なり。他神あってこれを守るにあらず。すなわち天父の命永遠不易(ふえき)」と説いている。「他神あってこれを守るにあらず」ということは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかって守護するということはないというのである。
よく狐や狸が憑依(ひょうい)して守ると言うけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守ってくださるとか、あるいは産土の神が守られるとかいうのは、自分の精霊が祖霊あるいは産土の神と相感応してそう思うだけのことである。私の幼時、囲炉裏(いろり)に落ちたときに祖父が現れて私を助けてくださったというのは、私の霊が祖父と見せているので、私が祖父と感じて見ていただけでる。』
(出口王仁三郎の随筆集水鏡から引用)
他の神霊が守ってくれるというものではないということ。
さらに
『悪霊は人の空虚に入って害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、あるいは断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚ができるから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があっては正しい人ということはできない。四魂すなわち天賦の勇親愛智を完全に働かせることが大切である。産土の神が守るというのは、村長が村民の世話をするようなもので、決して人間に直接産土の神が来て守るということはない。』
(出口王仁三郎の随筆集玉鏡から引用)
他の善神は上述のとおりだが、悪霊は人の空虚に入って害悪を及ぼす。
以上霊がかりの話ばかりだが、古代中国の費長房は、悪鬼、悪霊を追うエクソシストもやっているが、ダンテス・ダイジは、そういうのを勧めない。
『心霊科学的能力によって、邪悪な霊的波動を感知して、それを追い払ったり支配したりするよりも、もともと邪悪な霊など実在しないという正覚の中で、あるがままの人間生活を生きる方が、より豊かな 霊的生活のあり方ではないだろうか。』(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
ネガティブ予言に右往左往するのもそういうのに似た部分がある。