聖者への本当のリスペクトがあるか
人は、縁起がよいものや善霊のものは手に入れ、集めたがるものだ。
紀元約1000年頃、隠者の誉れ高い聖ロムアルドゥスが、たまたまフランスから故郷イタリアに帰郷の途中に、イタリア中部のウンブリア山村に立ち寄り、村人はこのような高徳の人物がこの地を去ってはどんな災難がふりかかるかもしれないと恐惶を来たし、強引に引き止めにかかった。ところが、ロムアルドゥスは、翻意しなかったので、村人たちはロムアルドゥスを撲殺して、聖遺物として村に永久に留まってもらおうと考えた。
この計画を察知したロムアルドゥスは、剃髪した上に、にわかに暴飲暴食して、気ちがいになった振りをして難を逃れた。
1274年にトマス・アクィナスがフォッサ・ヌォヴァの僧院で没すると、そこの修道士たちは貴重な遺物が彼らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を、頭を切り離し、煮て、調理して、文字通り漬け込んでしまった。
テューリンゲンの聖エリザベートの遺体は、死後三日間公開されたが、人々は、彼女の顔に巻きつけてあった布片を切り取ったり引き裂いたりしてもち帰った。さらに彼女の髪や爪を切り取り、果ては耳や乳首までもちぎり去った者があった 。
生ける縁起物である、本物の聖人聖者の運命はそのようなものだ。出口王仁三郎は10年近く牢に入れられ、ダンテス・ダイジもほとんど真価を知られぬまま没した。
善霊悪霊、縁起がよい悪い、不安な未来、幸福な未来には、わりに関心が高いが、聖者への本当のリスペクトがあれば、彼らも上述のようなひどいことにはなっていないし、日本も地獄がそのまま現出したような、盛んに「他人をだまして金を取ろう」というような社会にはなっていないだろう。