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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想非体験(性愛冥想)を読んでみる-12

2025-04-28 03:44:50 | 性愛冥想
◎人間である限り、味わわねばならぬ人間のどうしようもなさ


冥想非体験(性愛冥想)の続き
『よろける肩を組んで浴場の方向に消えた女の顔には見覚えがあった
夕刻、フロントで遇然会った芸者の一人だ
四人いた中で一番美しいひとだった


部屋に帰るとこんどは真剣に蛾を追いつめた
襖にとまったところを叩き落として殺した
蛾は仰むけになり、僅かに足を痙攣させ
繊毛のある白い腹をむきだして終息した
こぼれた鱗粉が死骸のまわりで鈍く光った


客をよそおって泊った芸者は
男とともに風呂からあがった時刻だ


芸者はいい匂いがするのをぼくは知っている
汚れて錆臭い処があることも知っている
そこを洗って、
素性の知れない団体客の一人に
またどう汚されるのであろうか


そしてさっきぼくが殺した蛾のように
しどけなく夜の泥土にねむるのであろう




私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、
夢幻虚仮でないものは一つもなく、
あらゆる生々転変する夢幻虚仮が、
無数の人間ドラマを織りなす。


山岡鉄舟が、その長い色情修行について述べた言葉の中に「女に接すること無数、言語を絶する苦汁をなめた。」というのがある。
これも畢竟、山岡鉄舟の激しく深い情熱が情欲世界という虚構の人間ドラマの一つを
その限りない醜悪さと薄情と暖かさと素晴らしさを
味わい来たり味わい去ったということに他ならない。


この頃の眠狂四郎の無明漂泊も
どこか求道者じみた匂いがしてきている。
眠狂四郎は人を殺し、女を犯し、その感受性を無明の中に開いている。
無明という言葉が無効になるまで幾億光年でも狂四郎は無明の中にとどまることだろう。


眠狂四郎の円月殺法は邪剣だけれども
本当は邪剣以外に人間の剣法はありはしないのだ。
無明以外に世界はありはしない。
無明以外の世界へ超出しようとするのも無明である。
だから『夢幻空華』も『マーヤー』という言葉も本来無効なのだ。


時に眠狂四郎の無明の徹見が、
彼の円月殺法の邪剣を絶対的清明の境へ
超出せしめることがある。
しかし、もはや邪剣でなくなった円月殺法は、眠狂四郎という人間のものではない。
人間でない眠狂四郎にはもう、どのような物語も出て来ない。


さあ、再び物語に帰ろう。
無明長夜という氷却の中へ。


前出の詩人、仲村八鬼には、
人間である限り、味わわねばならぬ人間のどうしようもなさへの詩がある。


彼の『温泉宿』には人間の人生が歌われていて
一人の芸者の姿を通じて、男というものと女というものとの
醒めていて同時にもの狂おしい思いが漂っている。

人間にはどのような確かなものも与えられていない。
人間はこの世の旅人にすぎない。
異性の肢体への欲情は常に虚無 に裏打ちされている。
欲情が一場の夢にすぎぬことを、
人は誰でも知っている。
知っていながら欲情、執着は時にし烈に、時に密かに人々の内部に頭をもたげる。


だが、人間のありのままの姿は、すいも甘いもかみわけたわけ知り顔の冷徹な人間理解のみにあるのではない。
人間には欲望が欲望を見切ってしまう瞬間がある。
確かに欲望が人間と世界のすべてを仮作した。
しかしその仮作・根本無明をそれ自体としてあらしめている根源は、宇宙意識であり、人間は
だから、絶対なる愛そのものでもある。
虚無は欲望の結論であり、人間を越えた人間への出発点である。


思ってみるがいい。
あなたがどんなに甘美な欲情にとらわれていようと
内臓がはみ出したあなたの肉体、腐臭を漂わすあなたの肉体の死は、あなたの怒張したペニスを
いともたやすく萎縮させ、濡れて聞いたヴァギナを
冷たく乾かし閉ざすことだろう。


あるいは、死を直前に見たあなたは
かえって今までになく欲情の激しい忘我の淵に
狂って行くかもしれないが、あなたの肉体性をあらしめる
唯一の基盤である時間性は結局、あなたの一刹那の忘我を奪ってしまう。
そしてあなたは出発する。
あなたは死を見てしまった。


あなたはもうどこへも帰れない。
あなたは仁王禅の人、鈴木正三道 人のように「死の訓練」にむかって出発する。


小学生の頃の私は、男と女の関係は
肉の結合以外にないと考えていた。
それは、男のペニスを女のヴァギナに入れるという単純なことであり、この事実は私にとっては、楽しい考えであるよりは、虚しい気持ちの方がやや上まわるというような気分であった。


私はあのうっとおしい明瞭な自意識が
私に出現した小学校四年の新学期を憶えている。
そして、自意識は、すべてを、 絶対完全を、宇宙を、全智全能を欲しがる幼児性に支えられている。
すべてを欲しがるということは、すべてが決して手に入りはしないということだ。
それで私はすべてへの欲望から自由になることを願いだす。
あらゆるものに対する執着から解放されたいと思いだす。
小学校の頃の私が性愛の関係を、単なる肉体の結合と思ったのも、あらゆるものから解放されたいと願っている自我があみだした一つの考え方だと
言うこともできる。


しかし、考え方はあくまでも考え方にすぎず、人間は考え方によっては、手 一つ動かすことはできない。
考え方とはあくまで個人的無意識の本能的混乱に対立した表層的な防衛規制にすぎない。


禁煙とか不眠症は『考え方』によっては、決して解決することはできない。
そして打ち消し難い欲情も又、いかなる考えによっても解消することはない。
さらには、打ち消そうという考えに反比例して、その情念はつのっていくことにさえなる。


欲情離脱ということも又、他のあらゆる葛藤を越える時と同様に全身全霊の実体験が必要なのだ。
ポール・ヴァレリーは、その青年時代、ある娘に一目惚れした。
だが、幸か不幸かその娘の方はヴァレリーに対して何の思いもない。
そしてヴァレリーのような情熱的な
男にとって、その片愁いは極めて激しい。
片愁いは一つの病いである。


それは自我の空虚さを原動力にした一人ずもうという病いである。
彼は、自我の空虚さへ復讐しようとして、到底、自分を愛してくれそうもない彼女を無意識的に選択して苦しむ。


実存主義的なタイプの精神分析医なら、
不可能な恋に悩む彼の状態を、神経症的な強迫行為と判断することだろう。

新興宗教世界救世教の開祖、岡田茂吉の『恋愛は病気である』という言葉は
この虚無への自虐的復讐としての片愁いのことをさしている。
しかし、ヴァレリーの熱烈な片愁いが病気だろうと何であろうと関係ない。


現し、彼は、その迷いを迷いと知りながら苦しんだのだから。


そして彼は片愁いの苦しさゆえに眠れぬ夜々をすごす。
その苦悩は、ある嵐の夜に極限にまで達する。
それまでは、彼の自我が苦悩を見ていた、今、この嵐の夜、苦悩は彼自身と化した。
彼は、全身心で苦悩したのだ。


それが、どのような苦悩であっても、全身心と化した苦悩は必然的に自我脱落を生ぜしめる。
嵐の夜は去った。
そのすがすがしい朝、ヴァレリーは自分の中の片愁いの苦悩が跡方もないことに気づく。
彼の自己処罰としての恋愛は終わったのだ。
その後、彼がどのような恋愛をしたか、私は知らない。
しかし、このヴァレリーの片愁いの体験が、部分的な欲情離脱を成就したことに間違いはないだろう。


主に、白隠系の臨済禅宗に天地ことごとく疑団と化すという言葉がある。
また、大悟の前に大疑ありというのもある。
すなわち、自我が煩悩苦そのものに成り切った時、忽然として自己解放を成就する消息を語ったものである。
ヴァレリーの片愁いの体験も、それの小規模なものと考えていいだろう。


明治の曹洞宗の傑僧、原担山は、まだ仏門に入る以前の若き日、恋女房と暮らしながら野心に燃えて学問に励む青年であった。


ところがある日、学問所が予定より早く終了したので恋女房の待っている家へいそいそと帰ってみると、
どうも家の中の様子がおかしい。
玄関を開けて家の中に入ってみると、最愛の女房が、別の男と寝ていたではないか。
現代心理学の用語で言えば、この時、彼はゲシタルト崩壊を起こしたことであろう。
ただちに父祖伝来の刀をとりだして、女房を切り殺そうとした。
刀を抜いて、今にも女房を切ろうとした瞬間、彼は何を思ったか、刀をほうりだしてさっさと家を出て行ってしまった。
それから、そのまま、彼は曹洞宗の
修行増として出家する。


原担山は、女房の浮気の現場を直視した。
もし直視しないで、人間自我の愚かな情に流されていたら、
彼は、人間の虚しさに直面しないために、憎悪にかられて女房を切り殺していたであろう。
だが、担山の女房への愛着は、あまりにも深かった。
彼の情熱は、あまりにも大きかった。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)


『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、
夢幻虚仮でないものは一つもなく、
あらゆる生々転変する夢幻虚仮が、
無数の人間ドラマを織りなす。』
これは美しい表現である。色即是空。


『眠狂四郎の円月殺法は邪剣だけれども
本当は邪剣以外に人間の剣法はありはしないのだ。
無明以外に世界はありはしない。
無明以外の世界へ超出しようとするのも無明である。
だから『夢幻空華』も『マーヤー』という言葉も
本来無効なのだ。』
たしかに人間にとっては、『無明以外に世界はありはしない。』。


『人間には欲望が欲望を見切ってしまう瞬間がある。』
これは、隙間理論から宇宙意識を見切ることがあるということでもある。


『確かに欲望が人間と世界のすべてを仮作した。
しかしその仮作・根本無明をそれ自体としてあらしめている根源は、宇宙意識であり、人間は
だから、絶対なる愛そのものでもある。
虚無は欲望の結論であり、人間を越えた人間への出発点である。』
ここは、愛と無明と人間の関係性説明。


『すべてを欲しがるということは、すべてが決して手に入りはしないということだ。
それで私はすべてへの欲望から自由になることを願いだす。』
これを実感できれば、人間としての成熟は相当進んでいると思う。

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