アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天国と地獄両方を超えた悟りに追い込まれる

2024-02-28 03:13:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-01

◎地獄も越えて-01

◎焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も神に復ればこころ涼しき

 

ある意味で自分に対してナイーブな人は、楽しいこと嬉しいことばかりの天国は大歓迎で、つらいこと苦しいことばかりの地獄はとてもいやだと、思っているに違いない。

ところが世の中の結構な数の人は、苦しみですらまんざらでもないと思っている。つまり地獄あるいは地獄的なものをある程度容認する気分があるのだ。
そこで次の時代は、苦しみのないみろくの代、至福千年が来ると言われているわけだが、そのようになるには、内心で地獄を歓迎する「苦しみですらまんざらでもない」と思っている人が一人でも居てはいけないわけだ。
万人がそうなるための人心の特徴として、以前の時代より、楽しいことはより楽しく嬉しいことはより嬉しく感じ、苦しいことはより苦しくつらいことはよりつらく感じるという傾向が強まっているのは自然な流れ。

天国を乞い願う気分が高まれば、なぜだかそこに悪魔が登場するという機微はその辺にあるのだろう。

さてイエスの大悟直前の悪魔の誘惑は、石がパンになるように命じなさいと超能力を恣意的に使わせようとしたり、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせて、大丈夫だから下に身を投げなさいと勧めたり、悪魔にひれ伏し拝むならばこの世のすべての国々とその栄華をすべて上げるといったものであって、サスペンス映画のような派手な展開であった。

一方、釈迦の大悟直前の悪魔の誘惑は、悪魔が、修行は健康に悪いなどと言って婉曲に修行をやめさせようとするホーム・ドラマ風の展開ではあってイエスとは全く違う雰囲気だった。

雰囲気こそ違うが、いずれにしても、このように天国をあくまで守って行こうとする人には、なぜか悪魔が登場し、天国と地獄両方を超えた悟りに進むしかない処に追い込まれると考えられるが、そうしてみると、その段階は決して悟りではない。よって、天国の悟りなどというものは、存在しないように思う。

天国と地獄両方を超えた悟りだけが本物なのだろうと思う。

※「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。』
(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

出口王仁三郎は、霊として霊界巡りを行い、地獄も見て回った後の恐怖もさめやらぬ際の感慨の歌。

焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も
神に復ればこころ涼しき

(出口王仁三郎/霊界物語第一巻第十九章余白歌)

 

OSHOバグワンは、天国の楽な状態と天国も地獄も超えた言葉で語りえない実在・智慧・至福を比較すると、人は九分九厘天国の方を選んでしまうと言っている。

 

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