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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

フリーメーソンをどう見るか-2

2023-12-17 03:06:05 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-05

◎ユダヤ人の七不思議

 

出口王仁三郎は、ユダヤ人は善良で神に従う心が深いとポジティブに評価して、ユダヤ人の七不思議として以下のものを挙げる。

1.万世一系の皇統を戴きつつ自ら、その国を亡ぼした事、

2.亡国以来二千六百年なるにも拘らず、今日も尚依然として、吾等は神の選民也と自認している事、

3.二千六百年来の亡国を復興して、たとえ小なりと雖もパレスチナに国家を建設した事、

4.ユダヤの言語を忘却し、国語を語るものを大学者と呼びなす迄になつて居つても、ユダヤを忘れず、信仰をまげない事、

5.如何なる場合にも決して他の国民と同化しない事、

6.亡国人の身を持ちながら、不断的に世界の統一を計画している事、

7.今日の世界全体は、政治上、経済上、学術上、ユダヤ人の意のままに自由自在に展開しつつある事

 

これに対して日本の七不思議として次のものを挙げる(戦前に書かれた文章なので、今から見ると違うところもあります。)

1.万世一系の皇統を戴き、終始一貫義を以て立ち、一度も他の侵略を受けず、国家益々隆昌に赴きつつある事、

2.自ら神洲と唱えながら、自ら神の選民又は神民と称えるものの少ない事、

3.王政復古の経歴を有するも、未だ一度も国を再興したる事なき事、

4.国語を進化せしめたるも、これを死語とせし事もなく、従つて国語を復活せしめた事のなき事、

5.同化し難い国民のやうに見えるけれども、その実、何れの国の風俗にも同化し易く、且つ何れの思想も宗教も抱擁帰一し、ややもすれば我が生国を忘れようとする国民が出る事、

6.一方アメリカは、世界統一の為には手段を選ばないが、日本は常に正義公道、即ち惟神(かむながら)によつて雄飛せむとする事、

7.世界は寄つてかかつて、日本を孤立せしめむと計画しつつあれども、日本は、未だ世界的の計画を持たず、ユダヤとは趣を異にしている事

(霊界物語64巻上より)

 

とユダヤと日本の神秘的コントラストを述べた後に、天消地滅という実質的な最終章を設け、「父母の愛にも勝る無我の声」などと、無我という人間の中にはないものを打ち出して、無我つまり天が消え地が滅するという、「自分もなくあらゆる現象もない」という境地が目的とする境地であることを暗喩している。

父母の愛にも勝るという言い回しは大時代的であるが、情に勝った当時の世相にマッチしていた言い方だったかと思う。

この世の立替立直し(アセンション)は、戦いの果てに刀折れ、矢尽きたところで、人間だけの力ではどうにもならないところまで追い込まれた時に発動するという。そこでこうした日本とユダヤの特徴とは、そのどうにもならないところまで追い込むための、神のグレート・ゲームのメカニズムであるかのように見える。

すなわち出口王仁三郎は、日本とならんで、フリーメーソンも同じグレート・ゲーム=大神業を遂行する重要な組織と見ているのである。したがってユダヤの評価を自ずと前向きなものとしているように思う。

そして立替立直しは、無我(ニルヴァーナ、究極)とセットものなのである。

 

日本は神国だったはずが、今や最も神から離れてしまった国民性となってしまった。一方ユダヤも自ら神の選民と自負していたが、2600年をへて、果たして今も選民のままかどうか。さて両国民を待つ運命や如何に。

次の和歌は出口王仁三郎が大正時代に詠んだものだが、今はどうだろうか。

神職は神をさとらず僧侶また仏を知らずあさましの世や

宗教家の数のみ増えて神聖の宗教ことごとくかげ失せにけり

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フリーメーソンをどう見るか-1

2023-12-16 03:58:39 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-04

◎出口王仁三郎の石屋観

 

昔、麻生さんが外務大臣だった頃、日本をユダヤ人の金持ちが「住みたい」と思う国にしたいと発言して物議をかもしたことがあった。ことほど左様にユダヤ人の金持ちというとフリーメーソンと絡んで何かと話題にされるものである。

出口王仁三郎は、ユダヤ問題がわからないと駄目だ、私はユダヤのことを悪く書いたことはないと語っている。これは実に不思議なことである。

というのは昭和10年までに彼が詠んだ和歌には次のようなものがあり、とても好意的とは思えないからである。(マッソンとは石屋のことであり、フリーメイソンのこと)

マッソンは世界の隅々おちもなく 世を乱さむとたくらみており、

世の中の万事万端マッソンの計略のわなにおちいりており

 

地の上の国のことごとく占領し壊さむとするフリーメーソン

外になき是れの尊き神国を乱さんとするフリーメーソン

 

しかし他方では、非常にユダヤに同情的であり、エルサレムの嘆きの壁で慟哭するユダヤ人を見て、一種名状すべからざる悲哀の感じに襲われている。それは勿論宗教的なものでも無く、また憐愍や同情に由来するものでも無く、それは気味悪い程、根深いもので、たとえば執拗な運命に対する恐れとでも言つたら良さそうな本能的なものである。

 

その上、これも同情的である。

『是もキリストを十字架に付けた彼等(ユダヤ人)の祖先の罪業の報いとも言ふべきものだらうか。夫れにしては余り残酷過ぎると思ふ。

キリストを釘付けにしたのは彼等ばかりで無く、人類全体なのである。キリストを救世主と仰がなかつたものは彼ユダヤ人ばかりで無く、世界人類の大多数である。

聖書の予言にかなはせむが為とは云へ、余りに可哀相だ。彼等はキリストの懐に帰つて罪の赦しを乞ふこと無しに、何時までメシヤを待望して世界を放浪するのであらうか。』

(霊界物語64巻から引用)

 

このように、出口王仁三郎は、ユダヤ・フリーメーソンが日常生活の安寧、平和な市民生活を脅かすひとつの元凶であることも指摘しながら、他方で本音は同情的擁護的である理由はどこにあるのだろうか。

(続く)

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宇宙空間への一時疎開

2023-12-15 03:49:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-03

◎第三の選択

 

2011年7月21日:スペースシャトル「アトランティス」が21日、米フロリダ州に予定通り着陸して、30年間に及ぶ米国のスペースシャトル計画が終了した。

シャトル帰還後、米航空宇宙局(NASA)は地球低軌道飛行事業から撤退し、民間による、人や貨物を乗せた短期間の宇宙旅行を行うための宇宙船の開発を推進する予定だそうだ。月より遠い宇宙空間へのミッションに重点を置く一方で、宇宙船の開発もを進めるという。

スペースシャトルには、宇宙開発の側面とは別に、陰謀論者が語るような、「この世の終わり」になった時に、地球のエリート支配者層が、シャトルに乗り込んで宇宙空間に一時疎開するための乗り物という側面もあったとされる。これは第三の選択とされる。

第一の選択は、ジム・キースによれば、核爆弾を大気圏で爆発させ、大気汚染と熱を宇宙に逃がすというものだったが、大気も放射能で汚染されるので、この計画は没になった。

第二の選択は巨大な地下居住域を建設し、危険な状況になった時にエリートがそこに逃げ込む計画だった。実際に1950年代、60年代にアメリカではそうした地下建造物が建設されてきたが、今ではあまりメンテナンスもされていないという報道に触れることがある。

第三の選択は、選ばれた人間を月の秘密基地経由で火星居留地へ移住させるというもので、アメリカと旧ソ連の協力関係まであったという。

(出典:宇宙人UFO大辞典/ジム・マース/徳間書店P238)

月の秘密基地やら火星の植民エリアへの移住など眉唾にしか思えないが、実はこれは当時の支配者層の意図するところの核心をついていたふしがある。

こうした発想の延長に地震兵器やらポスト核兵器があるのだと思う。

 

『「クラブ・オブ・アース」が一九八八年に出した声明では、「世界規模の人口増加を食い止めることは、核戦争を人類の日程に上げないことに次ぐ、重要な課題」としている。

富と権力や権威をもつ人々が、一般人並みにこうした状況をつい忘れてしまうことなど考えられない。状況に無知、無関心であっては富と権力の備わった地位を得ることはできないからだ。したがって、過剰人口で死にゆく地球に代わるものをどうするかといった議論が、当局最上層部では、間違いなく交わされてきているとするのが妥当な結論だろう。

この惑星間疎開計画がはじめて一般に知られるようになったのは一九七七年六月二〇日のことで、この日イギリスで『Alternative 3(第三の選択)』というタイトルのドキュメンタリードラマが放映された。制作はアングリアTVで、デイヴィッド・アンブローズとクリストファー・マイルズが脚本を書いている。

番組はインタビューと地球の状況が悪化している状況を描写したニュースシーンで構成されていた。地球を脱出し、新たな社会の構築につくすため、優れた能力をもつ多くの人間が選抜され、同時に洗脳された多くの「労働人間」を「一括積送品」として合わせて送り出し、月と火星にドーム型の基地を建設するという計画を描き出している。

この番組はイギリス国内では非人道的だとして怒りを買うことになり、すぐさまドキユメンタリー仕立のフィクションにすぎないとのテロップが流されるようになった。

また、この番組がまともに受け止められなかったそれなりの理由も、確かに数多く存在した。主なインタビュー相手は、ボブ・グローディンと称するアメリカの元宇宙飛行士となっていたが、実在する人物ではなく、アメリカ人でもなかった。そのことがばれたのは、グローディンが「We’re right out of beer!」や「Have a proper drink」といったイギリス俗語を口にしたからだった。さらに、番組内の他の登場人物もみな俳優だったのである。

イギリスの作家レスリー・ワトキンスは一九七八年に『第3の選択』(たま山版、一九八一年、梶野修平訳)と題する書籍を発表し、このTV番組のさらに先を行った。

キースが公表した手紙の中で、ワトキンスは非常に率直にこう述べている。「この作品のオリジナルであるTV版は―――本書では大々的に増補してあるが―――実際は作り話で、本来エイプリル・フールに放送する予定だった。ところがネットワークの書組編成上、放送が遅れてしまった」

しかし、UFO研究家の多くがそうしてきたように『第三の選択』を研究の価値なしとして完全に切り捨ててしまうのは早計にすぎるだろう。

ワトキンスの手紙の続きにはこうあった。「最初は基本的な前提があまりに突拍子もないので、・・・・・誰もこれをノンフィクションとは思わないだろうと考えていた。出版直後にその考えがまったくの間違いだったことがわかった。

実質的に世界中のあらゆる地域から山のような手紙が届き、権威筋の非常に知的な人物からも膨大な数の手紙をちょうだいした。

それではっきりしたことは、私は知らぬまに機密扱いの領域に足を踏み込んでしまっていたということだった・・・・・つまり簡単に言えば、この本は事実にもとづいたフィクションだったのである。しかし、今では極秘の真相にうっかり近づきすぎたと思っている」

』:(出典:宇宙人UFO大辞典/ジム・マース/徳間書店P239-241から引用)

 

文明の発展の尺度は、その文明で何人の悟った人間を出したかということである。この尺度でもって、ロトの時代やノアの時代は町や世界が破滅する一方で、ロトやノアは生き延びた。つまり、ロトやノアはこの話に出てくるような少数の富も権力も有するエリートだった。エリートだったところは同じだが、ロトもノアも「正しき人」つまり悟った人だったのに対し、現代のここでいうパワーエリートは全員悟った人なのだろうか。

少数エリート+多数の労働人間の宇宙疎開シナリオは、スペース・シャトル稼働時には、スペース・シャトルをベースにしたシナリオだったのだろう。しかしその背景にはその他大勢の人が地上で見殺しということになり、この点が非人道的という批判の的になったのだと思う。

偏見なく考えてみれば、ロトのエピソードもノアのエピソードも、その他大勢の悟っていない人を見殺しにしたという点では、非人道的ではある。だからこの宇宙疎開シナリオについては、そのシナリオはひょっとしたら神もオーソライズしているものである可能性も否定できない。ただ、その計画の遂行メンバーや受益者が、全部が全部悟っているわけではないだろうから、プラン全体として、当初神が想定していたとおりに運ぶとは限らないのだろうと思う。

また宇宙疎開した人が生身の人間かどうかについても、私は強い関心を持っている。生身でない“亡くなった”またはアストラルな人間を、文明が掃討された後の地球に転生させんがために疎開するというシナリオもあり、なのではないか。

つまり宇宙疎開した人の地上への帰還が肉体でもって宇宙船により行われるのか、それとも死後に別の肉体を乗り物として行われるのかは、このシナリオに隠された大きな疑問点の一つだと思っている。この疑問を解くカギがスペース・シャトル計画の終了だったりするのだろうか。

また神の描くシナリオもこれだけではないのではないか。

 

こういった惑星間疎開の発想は、多数の人類の死を前提にしたものであるがために、水平の道の発想ではなく、
垂直の道の発想である。
垂直の道は、霊界や超能力や天使や悪魔から入って行くが故に、現実とはかけ離れた冥想修行の技法と考えられる場合もあるかもしれないが、日常の環境政策、温暖化対策、LGBT、パンデミック対策などの背後には、表面の美名とは裏腹に、人類人口の大幅な削減という非人間的、非人道的発想が、見え隠れすることがあるものだ。
垂直の道とは、一面超能力者の道、霊能力者の道だが、意外にも様々に我々一般人の日常を苦しめ、生きづらくする様々な習慣、規制の背後に隠されていることがある場合がある。

惑星間疎開のように、こうした少数のパワーエリートだけの生き延びを目標としたシナリオの他に、現存の多くの地球人が、神を知ることによって、多くの人が肉体のまま地上天国を実現していくという方向性もある。
これは水平の道であって、生の側の道。

このように人類の未来に立ちはだかっている側面もある垂直の道だが、それは古来人類に開かれた正統な神仏に至る道である。

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イザヤの召命

2023-12-10 15:46:05 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-02

◎木の切り株だけ残っても

 

イザヤ書の第六章は、イザヤが神に召命されて、神のために働くことになった段。

神が誰か地上に行ってくれるかという問いを発し、これに対してイザヤが「私が行きます」と応じたところ、神から指示が出た。

その指示の内容は、「民を悟らせないで鈍いままで、愚民化しなさい。」というもの。

イザヤが、妙なことを言うものだと怪訝に思って、神に対して、いつまでですかと問うと、

国の荒れ果て、国民の9割がいなくなっても更に残った1割をも焼き滅ぼす(つまり全滅させてしまう)まで、と神は答えた。

神はすべての人々が亡くなって、木が切られて残った切り株のような状態から、聖なる種族を創造すると説明している、と読める。

イザヤ書は、ユダヤ教の聖典の一つでもある。このように、一旦人類を皆殺しして、あの世から人類復興、人間の再構築を図る考えが古来よりあるのは、日常生活を営む我々にとっては恐ろしい発想である。神から見れば当然の発想かもしれないが、人間に対する愛、悟ってないその他大勢への憐憫はないのだろうか。

 

『主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、

『あなたがたはくりかえし聞くがよい、

しかし悟ってはならない。

あなたがたはくりかえし見るがよい、

しかしわかってはならない』と。

 

あなたはこの民の心を鈍くし、

その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。

これは彼らがその目で見、その耳で聞き、

その心で悟り、

悔い改めていやされることのないためである」。

 

そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。

主は言われた、

「町々は荒れすたれて、住む者もなく、

家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、

 

人々は主によって遠くへ移され、

荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、

こうなっている。

 

その中に十分の一の残る者があっても、

これもまた焼き滅ぼされる。

テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、

その切り株が残るように」。

聖なる種族はその切り株である。』

(イザヤ書第六章から)

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イエス・キリストができたこと、できなかったこと

2023-12-10 06:41:05 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-01

◎薔薇十字団、薔薇色の血の意味

 

薔薇十字団の標語に「十字架を経て薔薇へ」というのがあるという。これは、イエス・キリストは、十字架の上で犠牲の死を遂げたが、それによって、世界をその堕落の罪から救った。しかし、イエス・キリストは、世界全体を悪から解放できたわけではない。このことこそが、イエス・キリストがなし遂げられなかった事蹟である。

要するに 「十字架を経て薔薇へ」とは、イエス・キリストは、世界全体を救済する端緒を造ったのであり、そのチャレンジの完成は、薔薇という言葉で表現されている。

イエス・キリストは、神の子、アヴァターラである。神は黄金、人間は銀。神の子ならば、半分は金の混じった銀である。神の子の流す血は、エロティックな薔薇色ではないだろう。

錬金術的な言い方をすれば、神の愛はエロスではなくアガペーだから、イエスの流す血は、普通の人間の流す血よりもっと白に近いもののはずである。だから薔薇色の血とは、人間の血のことである。

また薔薇色の血は人類共通に肉体に流れるものであって、その霊、個生命の実体をも指し示す。そして個生命間で共通であることを以って、薔薇色の血は、エリクサー、万能薬のシンボルであり、万人の結合というアクエリアン・エイジ(水瓶座の時代)のテーマであることも表す。

つまり世界全体を悪から解放するためには、薔薇の血を流す必要があるとは、神の子のような一握りのエリートだけが開悟するのではなく、普通の人々が悟りを開くことが必要であることをいう。

薔薇とは、このように悪のない嘆きのない千年王国、地上天国の実現の暗喩であるが、今その前夜にあたり、何人の人がその実現を現実の可能性として見ているのだろうか。そんな大それたこと、あるいは奇想天外なことが現実のものとなると、何人の知識人、有力者が感じているのだろうか。

ほとんど感じられていないから、かくもひどい混乱の巷になっているのだろうか。

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丿貫の利休評など

2023-11-16 06:41:51 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-09

◎風雅は身とともに終わる

 

丿貫(へちかん)は、武野紹鷗の高弟であって、茶器を馬に負わせて諸国を徘徊した。

もともと丿貫と利休はライバルであって、丿貫は利休が世におもねり、世間の人にへつらうことの多いことをいつも憤り、また利休が権力者にかわいがられることをひどく嘆いていうには、

「利休は幼少の頃は純粋で篤実な奴だったが、今は若い頃とは違って志が薄くなって昔と人物が変わってしまった。人は20年毎に志が変わるものだろうか。

私も四十歳から自分を棄てる気分となってきた。利休は、人生の右上がりの上昇時期だけしか知らないのだが、惜しいことに、人生の衰えていくパートを知らない者である。

世の中の移り変わることを飛鳥川の淵瀬に例えたものだが、人の変わることはそれよりも早い。

そういうわけで、わかっている人は、世界を実体がないと見て軽く世を渡っていくものだ。云々。」

 

丿貫は、その没年に自分の短冊を買い戻して焼き捨てて、

「風雅は身とともに終わる」と語って没したという。

 

世界も身とともに終わる。

財産も身とともに終わる。

地位も身とともに終わる。

名誉も身とともに終わる。

 

丿貫は、自分の短冊がよほど恥ずかしかったのだろうか。自分の宇宙が終わるということで、別れを告げるやり方がたまたま短冊買い戻しだったのだろうか。

丿貫は、およそわびてなどいない戦国武将たちにわび茶を説く利休に嫉妬があったのだろうか。私は利休は未悟だと考えているが、未悟の一求道者としての利休が、武将たちにわび茶でニルヴァーナの薫香を香らせてみせることには、それなりに意義があったように思う。

世の人の99%は、仏性を具しているとはいえども悟ってはいないからである。

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千利休の一碗の茶の真の味

2023-11-16 06:20:41 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-08

◎わび茶の濁り

 

わび・さびと言うのは、千利休のよく称揚した考え方である。利休は、南方録にて、わびについて次のように説明している。

「さて、わびの本意は、清浄無垢の仏世界を表わして、この露地・草庵に到着してからは、塵埃を払却し、主客ともに直心の交わりなので、規矩寸法、作法など、なおざりに言うことはできないし、火を起こし、湯を沸かし、茶を喫するまでのことであり、他のことはあるべきではない。

これ即ち、仏心の露出するところである。作法・挨拶にこだわるばかりに、種々の世間の決まり事に堕して、あるいは客は主の過ちをうかがいそしり、主は客の過ちを嘲(そし)る類になってしまう。

この子細をよく了悟する人を待つのに時間はない。趙州(中国唐末の禅僧)を亭主とし、達磨大師を客にして、利休と南坊(利休の弟子)が、露地の塵を拾うほどであるならば、一会は整うべきか、呵々大笑。」

 

このロジックでは、露地・草庵の外では、清浄無垢の仏心がないとしているので、これは内と外が違いがあるということであるから、およそ仏心からはおよそほど遠い人心のことであろう。好意的に見れば、露地・草庵を一つのサンクチュアリ(聖域)と見立てて、茶の湯を仏心という聖なる雰囲気を味わう機会として提供したというものと見ることができようが、一刻一瞬を真剣勝負で暮らしている禅者にとっては、生ぬるいことこの上ない。

この問答に続いて、南坊宗啓が利休の悟境を問うたところ、利休は、「一碗の茶に真味あることが、だんだんほのかに、わかって参りましたが、時に水の濁りを為すことは、利休が誤るところである。また客たる人が得道していないので、主もまた(客たる人に)ひかれて迷うことあり。」とあり、窮極には至っていないことを述べている。

金に任せて贅沢をするのを良しとする桃山時代の人々に対して、彼らが思いもかけなかった、茶の湯一碗に窮極の香りを薫ぜしめることに意義があったとは認められるが、利休の茶の湯は更に一歩、思い切って踏み込むための手法ではなかったようだ。

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コリアンダー、パクチー、香菜(シアンツァイ)から天の露

2023-11-14 21:11:35 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-07

◎天の露-07

◎クンダリーニ上昇と薬物刺激と暴走、暴発

 

天の露コアンドロとは、香味野菜。英語ならコリアンダー、タイ語ならパクチー、中国語なら香菜(シアンツァイ)、胡荽(こすい)。

オレンジの香り高いリキュール=コアントロー(仏: Cointreau)は、コアンドロとは関係なく、コアントロー兄弟が製造したからコアントロー。

だがベネディクティンなど古来修道院などで醸造されたという伝統的なリキュールを口にするときに、北欧神話の“蜜酒”を思い起こすのは私だけだろうか。

さて道教では、辛く臭気の強い次の野菜の食用を禁じていた。にんにく、にら、らっきょう、油菜(あぶらな)、胡荽(コリアンダー)がそれ。道教には、クンダリーニを上げる行法もあるので、こうした性欲を刺激する薬草摂取は修行の成果を無にしかねない。

西洋錬金術では、重要な局面で性欲が亢進しがちなことを戒める。挿絵は、“太陽の光輝”第六図だが、修行者が禁断の木の実(非時の香久の木の実)を採りに樹に登ったが、沐浴中の全裸女性たちに目線がくぎ付けになっていることを示す。クンダリーニは上がりかけたが、これで落ちる危険も大。※挿絵はwikipediaから。

樹の上からは無数の鳥が立つ。

“太陽の光輝”の次の第七図では年老いた王が海で溺れて、年老いた赤子として再生する。現代の時代全体のレベルである。

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天の露、コエンドロの実

2023-11-14 20:55:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-06

◎天の露-06

◎気なるマナ

 

中世錬金術者は天の露を集めようとした。

旧約聖書の出エジプト記16章で、モーセに率いられた放浪の民が、天の露を食べ物マナとして食した記載がある。

これは、砂漠を旅していたら幕屋の周囲に薄い霜のようなうろこのようなものが降っていた。それは、実の小さなコエンドロの木の実のように白く、蜜入りせんべいのように甘かった。それは食べられるもので、マナと呼ばれ、放浪の民は40年間もそれを食べ続けた。

ただし、翌朝までとっておくと腐り、毎週六日目には二日分が降り、七日目には安息日なので降らなかった。

食べ物と書いているので、食べ物と読む人もいる。だが、40年間も継続してゲットし続けたということであれば、食べ物とは考えず、大気中に充満する気だと考えたのが錬金術師である。

気を受け気を周回・操作するのは、気功導引、周天である。身体生命を維持するだけでなく、その死に至る運命の超克をも展望したのだ。

 

西洋錬金術は、どのような冥想法で至ったのかは定かでないが、クンダリーニ・ヨーガ系であることはわかる。

物理的食物を食さない不食の道もあるが、それでは文明生活は送れないのではないか。

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月の露

2023-11-14 20:51:16 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-05

◎天の露-05

◎露命、天の露

 

天の露とは、西洋の錬金術師たちも大いに求めたもの。例の大きな幕を広げて天の露を集めようという図柄のそれである。

出口王仁三郎が座談で、それは月の露だと明かす。

 

『富田 『お月様の光を手でくんで頭にかけると長生きすると言いますが、よく子供の時おばあさんにして上げましたっけ』

 

出口氏 『それは月の露の事だ。月の露は非常にええものである。雨の露はいかん。月の露を盃に受けておいてそれをのませれば大抵の病人は癒る。それで露の命なのだハヽヽヽ』

 ── 一同笑声 ──』

(出口王仁三郎と青年座談会/愛善苑編/みいず舎P98から引用)

 

更に出口王仁三郎の和歌。

『日の光月の露にて育みし

  秋の田の面に黄金の波立つ』

(霊界物語 第62巻第13章 神祈)

 

『月の露吾身魂をば霑して

  甦りたる心地せしかな』

(霊界物語 第67巻13章 山中の火光)

 

『月の露あみて太りし無花果は

  わが身体を生かす御饌なり』

(霊界物語 第73巻 無花果)

 

日の光ばかりでは足らず、月の露も必要なのですね。

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天の露とオルゴン

2023-11-14 20:37:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-04

◎天の露-04

◎生命が誕生する前、宇宙にはオルゴン・エネルギーが流れていた

 

焚書された現代アメリカの心理学者にして科学者のウィルヘルム・ライヒ。彼のいうオルゴンとは、中世錬金術者のいうところの天の露ではなかったか。彼の著書「宇宙との合体の一節」を引用しながらのコリン・ウィルソンの説明。

『「生命が誕生する前、宇宙的オルゴン・エネルギーが流れていた。地球上の気象条件が整ったとき、原始的な原形質の薄片という形で生命が誕生した。・・・・・・この薄片は、十億年以上かかって、単細胞生物へと進化した。

ここにいたって宇宙エネルギーは広大な銀河系宇宙のなかだけでなく、どんな小さな膜状物質のなかにも流れることになった」。そして地球上に生まれた生命は、長いゆっくりとした苦闘を開始した。そしてついに人間が誕生した。

「人間は少しずつ、オルゴン・エネルギーとの密接な繋がりや自然との調和を超えて思考しはじめた」。だが、やがて人間は自分自身を思考の対象とするようになった。自意識がうまれたのだ。

そこから堕落がはじまった。「・・・・・自分自身を、そして自分のエネルギーの流れを理解しようとして、人間はその流れを邪魔することになった。そして、そうすることによって、鎧を身につけ、自然から逸脱した。自分自身の核からの疎外がはじまり、生存の機械的秩序が、圧倒的な力で、有機的・無意識的・生体エネルギー的な自己調整に取って代った」』

(ライヒの悲劇/コリン・ウィルソン/筑摩書房P403から引用)

 

オルゴンとは、晴れた日の日中空を見上げ、眼の力を抜いて空中を眺めると、ぐるぐる回りながら乱舞している無数の光のきらめきが見えるが、それのことだと言われる。

オルゴンとは、気、プラーナのことかと最初のうちは考えていたが、むしろ人間を貫くクンダリーニのエネルギー・コードの原質みたいなものではないかと思われる。

というのは、上記引用文ではオルゴン・エネルギーとは自意識を成立させている原因であり、また自分自身の核からの阻害とは、コーザル体レベルでの自意識からの離脱のことを言っているように思えるからである。

つまりオルゴン・エネルギーとは、気・プラーナで成るエーテル体レベルのものに止まらず、それ以上の微細なレベルで活動するものであると、ライヒが見ていたと思われるからである。

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タロットの宇宙

2023-11-14 20:25:35 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-03

◎天の露-03

 

『タロットの宇宙/アレハンドロ・ホドロフスキー/国書刊行会』は、タロット好きによるタロットとともに生きる人たちのための本である。アレハンドロ・ホドロフスキーは、タロットの奥義を極めているように見える。

アレハンドロ・ホドロフスキーは、スラブ系のチリ人であって、チリに移民してきた際に近親者が火で亡くなったが、遺骸の上に一枚のタロットカード『戦車』だけが焼け残っていて、それが形見の品になった。

また彼が幼少期を過ごしたチリの漁港には、リトアニアのユダヤ人『狂ったアブラハム』が経営するビリヤード場があって、アブラハムは、いつもその奥のテーブルで、カードで大きな城を作っては、それを壊し、俺は神を真似て創造と破壊を繰り返しているなどと、宣まわっていた。

などなど心の深奥を打つようなタロットカードにまつわる印象的なエピソードで始まる本である。

 

アレハンドロ・ホドロフスキーはタロットの絵柄にはうるさく、後年真正カモワンタロットの復刻みたいなことをやるが、タロットの向き合い方は心得ていて、タロットを媒介に自分が鏡になることであるときちんとわきまえている。(この本には『いかにして鏡になるか』という一章も設けてある)

そういう点では、彼はすでにタロットカードのくびきは脱していて、またリーディングでは金をとったことはないみたいな雰囲気ではあるので、ちゃんと占断における正統的な作法は心得ている。

こうした点からすると、彼は求道者の用いる神占としてタロットを使っている。

私はタロットの下手の横好きだが、22枚ある大アルカナの16番以降に連続して大気中の天の露(エーテルか)が描かれていることは、この本で初めて知った。22枚全部順序に並べて眺めてみないとそんなことには気がつかない。

C.G.ユングの「個性化とマンダラ」という本の中に、古代人は、意志が弱く、現代人のように意志を固めて能動的に行動するのはなかなかできないというようなことが書いてあった。古代人は意志が弱いので、魂があくがれ歩きやすいということ。

古代人は意志を固めるためにこの「天の露」を集める必要があったのか、それとも離遊の運魂を身体の中府に鎮めるためには、意志を固める必要があったのか。

その意志とは定力なのか。

天の露は、17番目のカード『星』では星の図柄になっているが、星の運行を待ってやる技術もあるので、この星も天の露みたいなものだろうか。

それにしてもタロットの真価は、吊るされ人と愚者にあるので、時を俟(ま)つ技術にことさらにこだわるのは、クンダリーニ・ヨーガ系の技術であることを示している。

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天の露あるいは天の精気-2

2023-11-14 20:20:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-02

◎天の露-02

◎旧約聖書の創世記


旧約聖書の創世記で、老いて盲いたイサクが、長男のエサウに財産と家督を譲るため、鹿の肉をとってきて食べさせてくれと命じた。
これを横で盗み聞きしていたエサウの弟ヤコブは、母と語らって鹿の代わりに山羊の肉を調理して、エサウになりすまして父イサクに食べさせ、まんまとイサクから財産と家督を譲る祝福を得た。

その祝福の言葉に天の露が登場する。
『「ああ、わが子のかおりは、
主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。
もろもろの民はあなたに仕え、
もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章27~29節)

弟に出し抜かれたエサウは、祝福をやり直して、改めて家督をエサウに与えるように父イサクに懇願するが、イサクは応じず、エサウに対し以下の冷たい予言を行う。
『「あなたのすみかは地の肥えた所から離れ、
また上なる天の露から離れるであろう。
あなたはつるぎをもって世を渡り、
あなたの弟に仕えるであろう。
しかし、あなたが勇み立つ時、
首から、そのくびきを振り落すであろう」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章39~40節)

天の露もて覚醒に至る必要のあったのは、イサクの部族ではイサク一人で良かった当時のこと。今みたいに全員が覚醒すべしという時代のことではない。当時は覚者こそが部族リーダーであり、大祭司だったわけだ。これにより、部族で天の露を受けるべきは一人で良しという発想があるのだと思う。
ただし、ヤコブが父イサクを欺いた咎めは将来に起こるだろう。このような綾あるいは傷は、古伝承にはありがちな伏線である。

もし天の露が物質的なもののシンボルであれば、それは「地の露」と表現されただろう。
ここは、精神であり、聖と俗の聖の方であるから、天の露である。ゆめゆめ世俗の願望を実現するネタが天の露だなんて考えてはいけない。

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天の露あるいは天の精気-1

2023-11-14 20:07:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-01

◎天の露-01

◎沈黙の書

 

錬金術書「沈黙の書」では、天の露あるいは天の精気とは、天の精気を集めて、何かを為そうとするための原材料=第一質料=プリマ・マテリアである。

天の精気は、春分・秋分の水とも呼ばれ、「沈黙の書」第四図では、大地にソーラー・パネルよろしく大型の布を何枚か水平に張り、天から落ちるかそけき天の精気を布に染み込ませ、この布を男女一対の錬金術者が搾って鍋に集めようとしている。

シレジアの説教師ザムエル・リヒターは、「未分化の「宇宙の種子」を得てこれを塩のうちに固定せねばならない。」とし、その粘質の精気(露)の中心に事物の種子たる集中的核心がひそかに存在しているのだが、この種子を塩として得るならすべてが達成されると述べた。

リヒターはこの塩から至上にして不可思議なものが生じるがこれぞ再生と不死の像であるとも言っている。

これに似た言い方は古神道にもある。離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮むるってやつである。魂が一つであると何となく思いがちなのだが、天の精気を無数の離遊の運魂と見れば、沈黙の書における天の精気と同じようなことイメージしているのではないかと思い当る。

天の精気あるいは天の露については、聖書にも言及がある。

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科挙不合格組、不登校組-4-ダンテス・ダイジ

2023-10-23 07:29:48 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-04

◎日の国の純粋なきらめき

 

ノストラダムスの見た日の国の純粋なきらめきとは、ダンテス・ダイジのことであるとも言われる。

 

ダンテス・ダイジの意義は、ちゃんと理解されているとは言い難い。彼の講話を今読んでも彼独特の言葉の定義や概念はふんだんに散りばめられており、なかなか彼の宗教観、人間観の全容をつかむことは容易でない。

そうした中で、ダンテス・ダイジの事績をいくつか挙げてみると、

 

第一の事績は、クンダリーニ・ヨーガの窮極とそのプロセスの概要をイラスト入りで世に伝えたこと。(著書:ニルヴァーナのプロセスとテクニック)

これは巻頭に、クリシュナムルティがちゃんと世に聞き入れられれば、この本を出す必要がなかったとあるが、要するに20世紀後半にもっと悟る人が続々と出現すれば、出版する必要はなかったということ。

 

第二の事績は、只管打坐の身心脱落とクンダリーニ・ヨーガの中心太陽への合一を両方達成した釈迦以来の人物であり、人類救済の冥想の方向性として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ両方を推したこと。

これは冥想十字マップ的宗教観、冥想観に連動している見方。

禅では大悟小悟、見性などというが、ダンテス・ダイジ自身一生のうちに二回大悟するのは大変だみたいなことを言っている。二回も大悟する必要があるのかという疑問がまずあり、たとえば一回身心脱落(大悟)した道元が二回目にチャレンジしたかった風だったのはどうなのかという疑問すらある。クンダリーニ・ヨーガ系の真言密教の覚鑁は、9回も虚空蔵求聞持法にチャレンジしたというが、毎回大日如来(ニルヴァーナ)に合一したのかという疑問もある。また古神道家の出口王仁三郎は6回死んだが毎回神人合一できたのかという疑問もある。なお、神人合一時には、呼吸停止脈拍停止の肉体死が起こるとされる。

そうした困難さがある中で、ダンテス・ダイジは、只管打坐の悟りである身心脱落という体験とは言えない体験を経て、当時の愛人に「ちょっと、醤油を買いに行く」と言い残してインドに渡り、大聖ババジに道端で出会いクンダリーニ・ヨーガの窮極を伝授された、というのが二回目の大悟。

一人生において只管打坐とクンダリーニ・ヨーガの大悟を別々に体験せねばならなかったのは、トースとダンテスの合体をわが身で具現せざるを得なかったのだろうか。

 

第三の事績は、冥想の全体俯瞰図として冥想十字マップを残したこと。これは水平の悟りと垂直の悟り両方の道がわかって初めて理解できる。組織宗教・大衆宗教がトース系であり、個人あるいは少数グループの宗教がダンテス系とされるが、トース系が禅を含む只管打坐系かといえば必ずしもそうではなく、垂直の道である密教系(クンダリーニ・ヨーガ系)にも組織宗教・大衆宗教がある。またダンテス系にも、只管打坐系も密教系もある。

冥想十字マップを見れば、水平の道の最終段階である無相三昧と垂直の道の最終段階ニルヴァーナは同じなのだろうと思うが、それを交点としないで、「愛」を交点としたのが、人間への愛優先の教えが窺える。釈迦が四禅から涅槃に入ったのも同じ消息。

 

第四の事績は、霊がかりを排していこうという動きを始めたこと。これは戦後の大本系の新興宗教(生長の家、世界救世教など)隆盛の時代にあってはエポック・メイキングなことであった。

世の中には、ともすれば、霊能力者個人やカリスマを備えた個人を崇拝することで事足れりとする宗教信者、カルト信者が多いのだが、それを婉曲に否定している。

ダンテス・ダイジの基本姿勢は、誰か有名宗教家や他人の修行法について、まず否定はせず肯定するのが常だった。『それでも、いつかは窮極に至ることはできる』などと云って・・・・。真言立川流とか、宗教ではないが国家を邪境化する共産主義には否定的だったが、それは例外的である。

つまり彼は、その修行法が間違っていようが、彼の目からは誤った修行法に打ち込んでいる人も既に神であり、またそんな修行者も何生か後には大悟するという遠大なサイクルの下にそう言っているのだろうと想像される。

 

第五の事績は、出口王仁三郎と縁があり、鎮魂も修していたこと。その他「ご神業」みたいな凡俗には知りえないことも多々あったに相違ないが、知る由もない。

 

ダンテス・ダイジは、高校に入学したが学校に行くのがいやになって中退した。猛烈な読書や冥想の日々の中、さる古代ローマ時代のキリスト教の映画を見ていたら、あるキリスト者の殉教のところで、「それでも私は神を愛する」という言葉を契機に絶対愛に目覚めた。漫然と不登校だったわけではない。

 

生涯に二度大悟するということは二度死んだということで、もう文字通り生死出入自在だったということ。大悟すれば再度人間として転生することはないのだが、ダンテス・ダイジは、生前から残った寿命の半数を残して、残りをフロリダのビミニ沖に浮上するネオ・アトランティスにおける人生で使うと言っていた。

果たしてそのとおりに、ダンテス・ダイジは、37歳で坐脱。残り37歳をネオ・アトランティスで生きるのだろう。ダンテス・ダイジは自殺したわけではないことは、以上のような人生航路を知ればわかるのではないか。

 

ダンテス・ダイジは、現代日本を駆け足で走り抜けた超弩級の聖者であって、見る目のある人が見れば、日の国の純粋なきらめきだったのだ。

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