◎深山幽谷での殺人事件
これは20世紀初頭にチベットに入ったデビッドニールおばさんが出くわしたストーリー。チベットでは入門早々の僧が、山深い峡谷に入り、木や岩にからだを縛りつけ、残忍な悪霊トゥオに向かって呼びかけるように命ぜられ、どんなに恐ろしくなっても自分の体を縄から解いて、逃げてはならないという修行をさせられることがある。
ある兄弟が、一人の師匠(ラマ)について修行をしていた。これはその兄の回顧談。
『師匠のラマは、サグヤンという魔物がとりついていることで知られる森の中に行き、首を木に縛りつけるよう、弟に命じた。サグヤンは虎の姿をとって現れ、この野獣の獰猛な性質もそこから来ていると言われている。
木に首を縛りつけたら、自分はサグヤンをなだめるためにつれて来られた牛であると想像することになっていた。その考えに一念集中し、さらに牛と同化するために泣き声をあげる。集中力が十分強まれば、こうしているうちに自我意識を失ってトランス状態になり、食われかけている牛の苦しみを体験できるというのだ。
この修行は、まる三日間続けられることになっていた。ところが、四日目になっても弟は戻って来ない。ついに五日目の朝になってラマは兄に言った。
「昨晩変な夢を見たので、行って弟を連れてきなさい。」
兄はこれに従ったが、森では恐ろしい光景が待っていた。弟の死体が半分食いちぎられた状態で木にぶら下がり、血だらけの肉片が付近の茂みのあちこちに飛び散っていた。
恐れおののいた兄は、大急ぎで弟の遺骸を集め、師匠のところに持ち帰った。
ところが帰って見ると、師匠の庵はもぬけの殻であった。師匠のラマは、経文に祭具、三叉鉾、それに身の周りのものを抱えて、どこかへ行ってしまったのだ。』
(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)
迷信を信じないデビッドニールおばさんは、この森では豹がよく徘徊するところを目撃しているので、その豹が襲ったのではないかと推理した。
もはや古老となったこの兄は、「師匠のラマは、人間の姿をとって獲物を引き寄せる、魔性の虎そのものだったに相違ない。人間の姿のままでは弟を殺すことはできない。わしが眠っている間に、きっと虎に変身し、森に走って、弟を食ったのだ」と主張している。
これでは、単なる幻想奇譚=迷信物語である。
学識経験者の見方はやや違っている。(続)