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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

現代人は想像力が弱くなっている

2022-11-12 22:13:05 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎観想法の原動力

思考、思念はいつかは実現してくるものだ、現実化の時期がその人の今生であるかどうかは別にして。またその思考、思念は時を経て変わっていくことがある。

 

身近なもので、思考、思念の現実化を応用しているものには珠算がある。頭の中に算盤を思念でもって構築し、そのそろばん珠を思念でもって超高速で動かしているからである。

 

ゴルフもフォームが固まらないうちは思念、念力は問題にならないが、フォームが固まってきたらスウィングとパットは思念の現実化の勝負だろうと思う。コース・マネジメントができていて、スウィングとパットが純粋に筋肉パワーとテクニック(グリーンの読みを含む)によるものであれば、技術の積み重ねの多い中高年ゴルファーほど上位になるべきだが、そうはなっていないところが、思念、想像力の現実化の勝負という側面が強いように思う。

 

同じようなことは野球の投手にも言えるのではないか。球速はフォームと筋肉によるが、コントロールの半分は、イマジネーション、想像力の現実化力によるのだろうと思う。

 

さて身近な想像力だが、どんな人でも願望実現に際しては、「実現させよう」と思念し実行に移るものだ。

 

ところが、この想像力が、現代人は、古代人、中世人に比較してどんどん弱体化してきている。古代においては、PCもデータベースとしてのハードディスクのような外部記憶媒体がないものだから、記憶としてあらゆる情報を心内に保持し、思念を原動力として記憶内の心像を動かして、願望実現のサポートとしていた。

 

例えば東大寺の金剛力士像は3000ものピースに分解されたというが、この金剛力士像全体の3D設計図面はある人物の心像にあるのであって、ハードディスクにあるのではなかった。

 

よって古代人は現代人に比して心像そのものを明確に心の中に保持し他人に伝える能力が高かったと想像されるが、現代人はそういう能力が退化した。現代が同様の心的テクニックを必要とされる時代であれば、古代ローマばりの記憶術の重要さがかまびすしく言われているはずだが、そうはなっていないからである。

 

どうして退化したか。それは、言葉や文字などの言語が発達し知覚像を言葉に抽象化し人に伝えることに慣れてきたためだと考えられる。こういう人類の時代にマスコミが様々な動機により、マスで大衆の心をコントロールしようと動き続けるのは、まさに想像力退化を踏まえた当然の動きと言える。

 

更に想像力を退化させようと、スマホやPCにより言葉や文字に加えyoutubeなどの映像が強化されたのは、いわば思念力、想像力退化の総仕上げである。

 

思念力、想像力が著しく弱体化された人間は、マスコミにより、その思考、発想、感受性すらも想定の範囲内にコントロールされているという自覚すら持てないままにコントロールされがちである。

それが証拠に世のブログ記事のかなりの話題がマスコミの提供するニュースとなっている。無自覚に自分とほとんど現実の係り合いの薄いニュースを日常の主要関心事にさせてしまうということこそ、肝心なことに関心を向けさせないという意図があるのではないかと疑うべきなのだが。今日も誰かの不幸なニュースをおかずの食事をする日常って、不幸の拡大再生産みたいに感じないのだろうか。

 

昔は、神を観想し、神に近づこうという発想が想像力の用い方としては主流だった。

いつのまにか社会には神のカの字もなく、それへの想像力も蜘蛛の糸の如くかそけきものに細ってしまった。

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