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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

雲ひとつない空のような意識

2023-04-03 06:13:35 | アヴァターラ神のまにまに

◎達磨とOSHOバグワンの説明

 

6世紀南朝の梁は地方王朝だったが、武帝は中国の王侯には珍しく仏教崇拝者だった。仏教的に見れば、敬虔な仏弟子だったが、本当のところはわかってはいなかっただろう。

 

さて梁の武帝が達磨に対して、「最上の仏法とはどういうものか?」と問うた。

達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう)(秋空のようにからっとして聖なんてものは無い)」と答えた。

 

この回答が出てくるということは、梁の武帝は今生で悟るかどうかはわからないが、近い将来の転生で悟るであろう雰囲気があったのだろう。

 

そして達磨は秋の青空で例えたが、OSHOバグワンも同じような大空で例えている。

 

『もっとも内奥の中心では、あなたはただの意識だ。想念は雲のようなものだ。想念はあなたにやってくる―――だがあなたのものではない。想念はすべて外側からやってくる。あなたの内側ではひとつの想念も生まれない。想念はすべて外からやってくる。内側で想念を創り出すのは不可能だ。想念とは、あなたにやってくる雲のようなものだ。だから考えているときには、あなたは 内にいない。思考というのは、外にいるということだ。たとえ、思考の対象が内的なものであろうと、魂についてであろうと、自己についてであろうと、あなたは内にいない。

 

このような「自己」や、内的なものや、内側についての想念は、すべて外からきたものだ。あなたのものではない。あなたのものであるのは、ただ単純な意識だ―――雲ひとつない空のような意識だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P174-175から引用)

 

本来の自分の意識が青空であって、そこに雲のような想念や思考が浮かぶ。神社に鎮座する鏡は本来の自分の意識のシンボルであるというのは、もっともなことである。鏡を青空にたとえている。

 

本来の自己とは、第六身体アートマンのことだが、アートマンは世界全体、宇宙全体であり、その相が雲ひとつない空のような意識であることを証明するには、自分自身が体験するしかないと思う。

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老子狂言の最終の詩

2023-01-13 06:49:49 | アヴァターラ神のまにまに

◎「タオしかないもんな」から藤井風

 

ネットで出回っているダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』は、最後の詩一篇が欠落している。

それは、これだ。

 

『この地上に

新しい言葉も

新しい象徴も

新しい論理も

あり得ない。

 

だが、

タオだけは、

日々に新しい。

 

それは、

私には果てしない成長成熟のように

思われる。

 

1981年4月26日

如意第慈拝』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは、時間のない世界から書かれたものだから、『果てしない成長成熟』という言い回しになる。

タオにはすべてのすべてがあるから、新しいものはない。

如意第慈は、ダンテス・ダイジの別号の一つ。

 

また、タオという言葉は使っていないが、タオがわかるのが次の詩。

『これしかないもんだ

 

 

人も浮世も猫もシャクシも 

そんなものありゃせん 

これしかないもんな・・・

 

これしかないもんな・・・ 

そうゆうわけで

一切万物は 

恐ろしく恐ろしく

甘美で至福なる——— 

これしかないもんだ

 

苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超えるというのは、もっといい

なにしろ

これしかないもんな・・・』

(上掲書から引用)

 

『これしか』とは、タオのこと。

『恐ろしく恐ろしく

甘美で至福』は、実際に体験しないとわからない部分。

 

『苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超える』とは、

天国と地獄の結婚を指すが、今この日本社会で、両性具有すなわち天国と地獄の結婚を表立って唱えても、ほとんど理解される環境にはない。

 

さて日本は、信仰、宗教は自由だが、2022年NHK紅白歌合戦をきっかけに藤井風は、週刊新潮で、サイババのモチーフを叩かれているという。

サイババはダメだが、日蓮法然親鸞空海最澄道元神道イエスならいいという理屈は立たないのではないか。

 

そういう世間の宗教理解の土壌で、特に「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を語ってもせいぜいLGBTを連想される程度に終わってしまうのではないか。

いうなれば、万教同根、宗派なき冥想、宗教の終わりの根幹は、「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」にある。

「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を超えてタオなのだ。

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オカルティズムと真正の覚醒の違い-3

2022-12-22 06:54:36 | アヴァターラ神のまにまに
◎霊能力と諸神霊

超能力の概要については述べたが、霊能力については説明不足なので、若干補足してみる。

八百万の神々のおわしますせいか、社会のどこでも階級論階層論あるいはブランドが幅を利かせているせいか、あるいは一神教多神教というあまり意味があるとも思えない区分が知られているせいか、私は若い頃、多数の諸神霊がおわしまして、そのトップに大神、主神が君臨するものと漠然と想像していた。
日本神話、ギリシア神話、北欧神話などを読んでもそうらしい主神が位置しているからでもある。

ところが、禅語録を読んでも、キリスト教の聖書を読んでも、そのような世界観には近づくものではなかった。

お恥ずかしいことだが、そのようなヒエラルキーの神人霊観から脱却できたのは20代後半だった。それまでは、クンダリニー、霊感、地獄天国、天使、聖霊、アストラル・トリップ、サマーディ、PTSDなど並列的に霊関係、深層心理関係の用語は聞き及ぶが全体としてどうなのかは想像すべくもない混乱のうちにあった。

それを解消する原因になったのは、七つの身体論だったが、OSHOバグワンによる「奇跡の探求」のような詳述書はまだ出ていなかったし、各ボディについてわずかな説明を読んで想像を巡らせる程度のことしかできなかった。

そのような怪しい霊的世界観から脱却できるきっかけになったのは、高級神霊がどのように悟りのプロセスにかかわるのかを聞いたからであった。高級神霊とは、天使であり、エンジェルであり、上位の天津神、上位の諸仏のことである。

私の理解では、おおまかに言って、悟りのプロセスにおいて高級神霊のサポートは2種あり、冥想修行の途中でアドバイスないし指導してくれる神霊と、今や大悟しようとする時に待ち構えてまさに手助けしてくれる神霊(二、三柱)の二種がある。どちらの役割が重いかと言えば、圧倒的に後者。人間にとって、積極的な意味での高級神霊のサポートは、これだけであって、それ以外は枝葉なのではないかとも思っている。

要するにそれを聞くまでの私は、冥想修行の途中に多数の高級神霊が入れ替わり立ち替わりコンタクトしてきて、最終的に主神がお出ましになり神人合一というような大悟までのプロセスを想像していたのだが、そういうルートを辿る人も勿論いるのかもしれないが、大方は高級神霊とのかかわりはもっと薄いものだと考えるようになった。

それが証拠にと言っては何だが、禅語録では、ほとんど高級神霊は出てこない。『仏法とは一体何だ?』と問われて、『庭の前の柏の木』、『くそかきべら』、耳元で大声で『かぁーつ』、30回棒叩きなどと回答してもらうのが普通だが、そこには高級神霊のコの字も出てこない。つまり高級神霊がほとんど介在しない悟りへの道があるのだ。

一方で出口王仁三郎の弟子であった合気道開祖植芝盛平の伝記を読むと、稽古の前に必ず神事を1時間半程度はやる。彼の言説には、高級神霊がよく出て、山中の稽古相手として登場してきたこともあった。それも古神道系だからなのだろうと思う。

またシャーマニズム、チャネリング、降霊では、神霊は欠かせない。こうしたものでは、神霊と審神者と神霊の依り代(媒体、medium、霊媒)が装置として必要となる。大正時代に大本教が信者を対象に大規模な降霊実験(帰神)を行ったが、降臨する神霊は霊媒の正邪に対応するの法則により、邪神霊が降臨しまくったので、やがて収拾がつかなくなり、教団としての降霊実験を中止したという先例があった。
降霊は三種ある神仏とのコンタクト方法の一だが、現代においても、そういう側面も無視できないと思う。

アストラル・トリップは、アストラル体での霊界ツアーだが、アストラル・トリップでは大悟覚醒に到達できない。メンタル体で肉体を離脱するのが大悟覚醒の絶対条件になっているからである。覚者がアストラル・トリップするのはよいが、未悟者がアストラル・トリップするのは、危険が多いのだろうと思う。

なお膝ジャンプについては、出口王仁三郎は、『ジャンプした際に浮き上がった空間を真剣で切れば血が出る。動物霊の仕業である』などと戒めている。膝ジャンプは古くから洋の東西を問わず分布しているが、悟りとは関係ないのだ。

霊現象とは、超常現象のことだが、七つの身体で言えば、エーテル体が半物質、アストラル体以上は物質ではない。見えるとか見えないとか写真に写るとか写らないとかは、せいぜいがエーテル体までのことであって、肉体・物質とエーテル体だけの現象をもって真実であるとか言っても進展はないのではないのだろうか。人間は七つの身体を生きるものであり、肉体・物質とエーテル体の二身体の現象だけとらえて真偽など議論しても仕方ないように思う。

よって、いわゆる霊は、エーテル体、アストラル体、メンタル体までと考えられるが、神仏なき霊への関心は、百害あって一利ないものだと思う。

霊能力者は内臓が弱いなどと一般に言われる。肉体と霊体は大体重なるが、弱った肉体の場合、霊体との間に重ならない部分があり、そこで霊能力霊感が起こるなどと説明する場合がある。覚者は別として、一般論として霊能力に期待してはいけないのだと思う。
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オカルティズムと真正の覚醒の違い-2

2022-12-21 06:33:32 | アヴァターラ神のまにまに
◎超能力、霊能力と悟り

思春期から青年期にかけては、受験や就活もあるので、超能力、霊能力に関心が向く人も多い。超能力、霊能力とは、オカルティズムの実質的別名でもあるが、超能力、霊能力への興味、関心を越えて行かないと真正の悟りはないので、改めてまとめ的に「超能力、霊能力と悟り」を書いてみる。と同時に、今後は、超能力、霊能力関連記事も復刻していこうと思う。

1.人間には、もともとある程度超能力が万人に備わっている。それは背後からの視線を感じるというもの。

2.超能力・霊能力の種類は、おおまかには六神通で分類される。天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、他心通(他人の心の中が判ること)、宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)、神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)、漏尽通(煩悩がない)の通力とされる。
この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに至らないと煩悩がなくなることはない(自分と世界全体の逆転)。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現しているので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。

3.真正の悟りとは、身心脱落とか神人合一なのだが、
その場合、フルスペックでの超能力・霊能力が使用可能になる。だが、その濫用は神仏が許し給わない。また彼らが自分の超能力を見せびらかしたりすることはない。

4.おおまかに言って10人に一人程度は霊が見えるのだろうと思う。それに加えて最近は薬物によって、霊道が開いてしまうケースも増え、厄介なことである。その点では、よい意味ではないが欧米は先進国である。

5.冥想修行の途中の段階で、霊能力・超能力に拘泥してしまうと、冥想修行の向上は止まる。

6.一方で霊能力者・超能力者は、彼らを中心としたカルトを構成しがちであり、これまた周辺の弊害は大きい。

7.伝統的に神下ろしというものがあるが、これはもともと正しい大神をわが身に憑依させた場合のみ、神仏へのコンタクト成功と見られる正統的手法である。だが、『わが身』の清浄度合に応じて降臨する神仏が変わることから、往々にしてろくな神霊が出てこないということになりがちである。

8.七つの身体と超能力・霊能力ということで言えば、
第二身体エーテル体以上が微細身であるから、それ以上を操作するのが霊能力となる。第六身体アートマン、第七身体ニルヴァーナは、個人と世界全体が逆転するので、そもそも霊能力とは別の話になる。

9.真正の悟りとは、第六身体アートマン、第七身体ニルヴァーナのことなので、霊能力者は、見ている自分を棄てないものだから、真正の悟りに届きにくいということはある。

10.次の至福千年の時代は、霊的文明と言われる。それは、万人が少なくとも中途半端に霊能が開けているということではなくて、万人が少なくとも見神見仏をしていて、霊を見たり感じたりするのが当たり前になる時代。力点は、霊能を開く方ではなくて、見神見仏の方にある。
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オカルティズムと真正の覚醒の違い-1

2022-12-20 07:04:22 | アヴァターラ神のまにまに
◎二元対立を利用したビッグビジネスとマインド・コントロールを越えて

真正の覚醒において、いわゆる日常感覚や社会通念から論理飛躍している部分は、次のような点になる。
1.自分が変われば世界も変わる
2.二元対立そのものは、のっぴきならない現実ではあるが、本源的な原因ではない。その源流は自分とその欲望にある。

1の自分が変われば世界も変わるとは、いわゆる「自分も幸福になり世の中全体も幸福にする道は悪を退治し善を勧めることだ」という社会通念からすれば、およそ消極的、退嬰的ものに思われるかもしれない。だが、実はこれぞ自分が直接に世界全体を善に化す直接的な働きかけなのである。
しかしながら、そのメカニズムを確認したり、体験したりする手段は、自分が大悟覚醒するしかない。

2の二元対立は根が深い。
いわゆるオカルティズムにあっては、地獄的勢力があってそれが世の中全体を悪化せしめているから、それを弱体化、撲滅していくことが世を改善することだなどと説明する。それは天国と地獄があるとか、天界や神界や地獄もあるという霊的な構造で説明しているわけだが、そういう世界観は無数にある世界観の一つにすぎない。
一方真正な世界観とは、覚者の側からすれば、天国も地獄も天界も神界も地獄もなく、今ここだけである。

戦後の古神道系新興宗教は、出口王仁三郎の大本教を源流とするものが多いのだが、大本教の教説自体が霊をメインとする教義であったがゆえに、そうした新興宗教は霊がかりな教義を持っているものが多い。

大本教のメイン教本の霊界物語は旧かな使いでややよみにくいが、例えば谷口雅春の生命の實相は膨大なシリーズだが、現代語で読みやすく、それを噛み砕いてブログに挙げて人気を博しているようなものまである。

霊がかりとは、二元対立を出にくいものであり、二元対立を卒業しなければ、真の悟り、神人合一までには至らない。出口王仁三郎も谷口雅春も覚者であると思うが、肝心の古事記では、天国と地獄の結婚あるいは両性具有は、シンボリックにしか書いておらずわかりにくく、霊的な世界観以上の世界については説明不足になっているようにも思える。

※出口王仁三郎の両性具有イメージとは、人間の完成形、西洋で言えば原人間のイメージである。その由来するところは、古事記でスサノオ男神とアマテラス女神が天の安の川原で仲直り誓約をするシーンにおいて、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが合体したのが、伊都能売。
万人が神知るというのは、万人が両性具有なる伊都能売を越えていくということ。

世俗のオカルティズムやモバゲーの世界では、悪をやっつけ善を扶けるのだが、残念ながらその目に見えない霊的オカルト的な二元対立部分を解決しないままにはぐらかすことでビッグビジネスにもなり壮大なマインド・コントロールにもなっている。

これは、社会全体のマインド・コントロールの結果、心理的に大きなタブーとなっている部分でもあり、払拭には多大な努力が必要だが、世界の武装解除と恒久平和、世界および自分の納得できる人生を実現するには、その解消は欠かせないものだと思う。

自分とその欲望に素直に向き合うこと、自分自身に直面する必要性は、理解されにくいかもしれないが、冥想の役割は大きい。
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冥想十字マップ狂言について-6

2022-12-18 06:18:58 | アヴァターラ神のまにまに

◎自分が変容すれば、世界も変容する

この世には、二元対立のあるものが多い。そこに自分の苦悩や不安がある。そうだとしても、そのような現実に対して、逃げずに素直に直面していくしかない。

実はこの世の二元対立の中で最も深刻なものは、あらゆるタブーの中に隠れている。ところが、そこには恐怖と恐怖からの解放がある。

もっとも二元対立そのものは、のっぴきならない現実ではあるが、本源的な原因ではない。その源流は自分とその欲望にある。

自分とその欲望の正体を言葉で解説したり、言葉で理解したりすることは、その根本的原因の解決にはならない。いくら文章で描写しても、いくら発言、解説しても誤解は誤解を生むだけで、結局出口には到達できない。

にわかには信じられないかもしれないが、ここにその二元対立を利用して、人類を絶滅させて再度ネオ人類でやり直しを図ろうとする勢力があって、何百年前から世界的に活動している。それは、世界全面核戦争を構想するものだが、平素から性善説でお人よしな人には気づかれないように、自由と平和と平等と秩序や正義などの名の下に、人を生きづらくさせる細かく大きな施策多数を打って、最後は人の叫びを極大化させ、国家対立を先鋭化させ人類絶滅を狙うものである。

その構想は、古くはイザヤ書や古事記などに見える。

そうしたネガティブな巨大構想があろうがあるまいが、あるいはそのような構想を信じようが信じまいが、身近な目先の二元対立による苦悩と絶望と不安は解決しないままであることに変わりはない。

『自分が変われば世界も変わる』というのは、にわかには信じられないかもしれないが、聖者覚者が口をそろえて言っていることである。

『自分が変われば世界も変わる』とは、禅の十牛図風に言えば、世界全体である牛が自宅に隠れた後に、自分はなにかもかもない一円相になり、その悟りの体験の薫風をもって日常を生きるということ。

あるいはクンダリーニ上昇離脱風に言えば、私がメンタル体で頭頂から離脱し、個なるコーザル体は世界全体なるアートマンに変容し、アートマンは、中心太陽に突入し、私はそこから帰還し、生まれ変わって日常を生きるということ。

不思議なことだが、禅の一円相後の人生が、『自分が変われば世界も変わる』ということ。
不思議なことだが、クンダリーニ上昇後の中心太陽からの帰還後の人生が、『自分が変われば世界も変わる』ということ。

このように自分一人だけにそうした体験が発生すれば、世界全体が一斉に善に向くというのは、これまたにわかには信じられないかもしれないが、古今東西不易の真実なのだ。自分が変容すれば、世界も変容するというのは、主観でも客観でもなく、あまりにもシンプルな現実だ。

ピントのずれた眼鏡をかければ、世界は二重に見えたりする。そのように、本当の自分に出会っていない人が、聖者覚者の言説を読むと彼が二重の世界観に生きていることに気がつく。

そしてまた真の側の世界観に生きるには、真剣な、ぎりぎりの、命がけの努力が必要となる。かつまたそれは、目的をもった冥想であってはならないというジレンマを抱える。

あきらめるのは簡単だ。だが、本当の幸せ、本当の生きがいを生きるには、そのような情熱にあふれてチャレンジすることが、どうしても必要なのだ。

 

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冥想十字マップ狂言について-5

2022-12-17 06:52:26 | アヴァターラ神のまにまに

◎私とは何なのか?

冥想十字マップ狂言の続き。
『さて、狂言まわしは、このぐらいにして、私達人類の緊急課題をここに提示する。
それは、いかに戦争をなくして、
平和を得るかではない。
政治経済の混乱でも、
人間性の超管理化や堕落の問題でもない。
エネルギーや公害の問題でもない。
人類の最終的目的や意味や価値の発見でもない。
現代物質科学文明の崩壊でもない。
それらは、症状であって、 病因そのものではない。 それ以前の根本原因が、人間の内にあることの結果にすぎない。

私達人類全員は、この私という根本原因を、何よりも先に、探究せねばならない。
私とは何なのか?
私の死とは何なのか?
私の生とは何なのか?
この究明は、いかなる観点を持ってしても解答を出すことはできない。 あらゆる観点と立場が、すでに、私という欲望の混乱だからである。

にもかかわらず、私の正体を開示しない限り、私達人類は、とめどもない混乱と崩壊の中に悲惨な死滅を死滅するだろう。
私達は、何はさておき、私自身というこの根本前提の暗黙の了解を否定して、
私とは何かを、まったく新しく究明し直さねばならないのである。
これが、この終末の時代の全人類的な最重要問題なのだ。
私の正体を見破り、
神に目覚めるのだ。


生きている
それで充分なのだ
死んでいく
それで充分なのだ

なぜなら
太陽がどれほどの大きさだろうと
私という中心太陽から見れば
爪のアカにも
相当しない

まして
本当の私が
神に
光あれと命じたのであれば』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp194-198から引用)

このブログの【Overview of the meditation 冥想の全体像】の第一章では、『人と神仏を結ぶものが冥想である。これにより人は真人間になり、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わる。』とことさらに唱えた。というのは、『私とは何なのか?』をいきなり出してもほとんどの人には取り付く島もないからである。『私とは何なのか?』は、学校教育でも教えないし、TV、スマホ動画でも話題になることはまずない。

本来『私とは何なのか?』は、真摯な冥想修行ではかならず突き当たるテーマ。ところが、体調がよくなるとか、気分がよくなるとか、願望が叶うなどという目的のある冥想では、『私とは何なのか?』を主たる課題にすることはない。

体調がよくなっても、気分が晴れても、願望が叶っても、死は最後にはすべてを奪う。すべてこの世に積み残したままで消えていく。平常時、元気なうちに死のことを考えるのは、暗い奴、変わった奴だと言われるが、素直に自分のことを省みれば、死は最も考えたくないテーマだが、最も避けて通れないテーマである。そして、なぜだか日本で隆盛な仏教は、厭世宗教なのだ。

『私の正体』とは、ダンテス・ダイジの正体のことでなく、各人自身の正体のこと。各人自身の正体を見破れば、自分は神になり、霊界の中心太陽となり、
神に対して『光あれ』と命じることさえできる。
※ダンテス・ダイジは、著書『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』で霊界の中心太陽突入体験を描写している。

一皮むけばみじめで情けない自分だが、ここは二重の見方、二重の世界観をもって読まねばならない。
自身の正体を見破っていないままでは、自分は、みじめで情けなくダメダメの一生を暮らすだけ。ところが、自身の正体を見破った後は、自分自身に何の問題もないばかりか、あらゆる他人にも何の問題もなく、かつまたあらゆる生物無生物に何の問題もないことを知る。

だからここで、私自身が中心太陽だとか、私が神に指図するなどと書いてあるからと言って、文字通りそれを信じ込むわけにはいけない。

私の言い方では、悟った人がそれを言うのは真実だが、悟っていない人がそれを言うのは誤りなのだ。

たとえば只管打坐では、修証一如といって、修行(修)と悟り(証)は同じだなどと言うが、悟った人がそれを言うのは真実だが、悟っていない人がそれを言うのは誤りなのだと思う。

彼ら悟った人たちは、未悟の人から見れば二重の世界観を生きている。

そうした非日常の上で、密教文献の言葉(テクニカル・ターム)の意味は、同一文脈にある場合であってすら、3重4重に意味が変わるとダライ・ラマは指摘している(ダライラマ/ゾクチェン入門/ダライラマ14世/春秋社)が、私もそのように思う(錬金術文献も同様)。

だから、同じ文章の中で、体験とは言えない体験を経た者だけが使う言い回しには注意して読まねばならないと思う。

一人一人が自分のことに取り組んで悟らないと、世界平和も、世界の武装解除も、世界経済の安定も、人間の超管理化や人間性の堕落の問題も、エネルギーや公害の問題も、人類の最終的目的や、自己実現も、現代物質科学文明の崩壊の危機も解決されることはないと言っているのだ。

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冥想十字マップ狂言について-4

2022-12-16 06:50:51 | アヴァターラ神のまにまに
◎神の非時間的な歴史的進化

空間的進化について述べた次は、非時間的な歴史的進化。人類の文明の進化を語る。
人類の文明の進化では、人間ボディの進化という観点もはずすことができず、前提として10チャクラ説がある。
10チャクラ説は、7チャクラ+3である。+3は、太ももチャクラ、ふくらはぎチャクラ、足裏チャクラであって、動物であった時のチャクラともいわれ、未悟の者には関係のないチャクラとされる。

以下の文明論は、周期と言う名で文明の特徴を表現している。周期は、10チャクラにシンボライズされると見れる。

第一周期と第二周期については言及がないが、動物のチャクラとして置いたのではないかと思う(一個足らないが)。第三周期以下の照応は、
第三周期:ムラダーラ・チャクラ
第四周期:スワジスターナ・チャクラ
第五周期:マニピュラ・チャクラ
第六周期:アナハタ・チャクラ
第七周期:ヴィシュダ・チャクラ
第八周期:アジナー・チャクラ
第九周期:サハスラーラ・チャクラ
第十周期:次の鳥の第一周期

アトランティス文明は、第三周期と第四周期であり、感情人間の文明として進化を遂げた。今から約1万2千年前にアトランティス文明は、アトランティス大陸沈没と同時に滅亡。

現代文明すなわち近代西欧文明は、知性人間の時代として過去1万2千年継続しているわけだが、それは第五周期にあたり、第六周期に向かおうと悪戦苦闘している。第五周期は、権力欲、自己実現の文明であり、第六周期は愛の時代であり、至福千年、七福神の幸福の時代。
第七周期以降の文明については、社会形態、社会通念が全く変わってしまうだろうから、物質文明としての描写はできず、冥想ステップとして表現するしかないと思う。

また大雑把な話として、下方三チャクラ(ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ)は、悟り志向の求道者にはあまり重視されないという説もあるにはある。

冥想十字マップ狂言の続き。
『ここまで来たら、
ついでに、
時間と空間に分割できぬ、
神の非時間的な歴史的進化についても、
狂言しよう。

アトランテス・アメンティー・タントリズムでは、アトランテス文明を人類の初めとする。
したがって、人類進化の周期は、
第三周期から第九周期までの、
七つのステップを持ち、
第十周期は、
新しい鳥の
第一周期となる。

第三周期
力とは肉欲のことであり、肉欲とは、根本無明の渇望のことである。
力の鳥は何かを求めて鳴く。
(肉体は、肉体を求めて行為する。)

第四周期
意志とは生命意志のことである。
生命とは意欲のことである。
生命の鳥はあたりまえに鳴く。
(それゆえ、汝は世界を生きる。)

第五周期
情熱とは権力欲のことである。
権力欲は愛憎を通過して、
愛情に変容する可能性を持つ。
情熱の鳥は甘美に鳴くが、
今や激しく叫ぶ。
(叫びは、一つの産みの苦しみだ。)

第六周期
愛とは、あなたさえも含んだあらゆるものである。
愛の鳥は石ころの微笑だ。
いつまでも、あなたの死を待っている。
(神は悪魔とファックしている。)

第七周期
調和とは、本当の自由だ。
自由とは、闇の夜のカラスだ。
自由のカラスは恐ろしい静寂の中で、
大声で笑って世界をくだく。
(沈んだ大地を嘆くなかれ。)

第八周期
智恵とは、無限の光だ。
無限の光は、無限の直観だ。
智恵のイーグルは、
柔和なるハトに変容しようとしていて、
すべての終りをも慈しむ。
(終息とは、何か新しいものへの予感だ。)

第九周期
もともと語るべき鳥はいない。
(何と多くの鳥達が戯れていることか!)

第十周期
サイクル・クンダリニー・ニルヴァーナ・マーヤー、果てしなき空即是色。
(限りなき空の中に、新しい鳥が、密かに降りて来る。)

浮世狂言は語られ続けている。
あの世狂言も語られ続けている。
あらゆる時と場に、
まるで、
狂言ではないかのように。
いくたびとなく・・・
いくたびとなく・・・』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp194-198から引用)

以下の各周期の説明は、そっくりそのまま照応する各チャクラの説明となっている。
【第三周期】は、力
【第四周期】は、意志
【第五周期】は、権力欲、情熱
【第六周期】は、愛
【第七周期】は、自由
【第八周期】は、知恵
【第九周期】では、鳥はいない
【第十周期】は、新しい鳥

これは全体では八であり、八番目に新世界を持ってくるのは、ヘルメス文書のポイマンドレスを思わせる。

またチャクラは、10個あるいは7個確定ということではなく、それ以上ある。またチャクラは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体にのみ存在する。ただし肉体チャクラを検出することはできない。

仮に一ボディ七チャクラとした場合、4ボディで合計28チャクラだが、チャクラの意味と言った場合、28チャクラすべてに意味を付したものは寡聞にして知らない。密教系で、チャクラの意味を書いているものはあるが、せいぜい7チャクラ程度であって、かつしっくりくる意味づけをしているものはなかった。

その点で、ダンテス・ダイジの七チャクラの意味づけは、文明論、人類の進化、人間の心理と行動と覚醒に向けた発達を踏まえたものであってバランスが良いと思う。

現代文明のテーマは、自己実現たるマニピュラ・チャクラから愛のアナハタ・チャクラへの移行である。
それは、社会での自己実現を通して、自我を極大化させ、この世の不条理に直面させ、自我の死を実現することである。その先に愛がある。

それは、第五周期(マニピュラ・チャクラ)から第六周期(アナハタ・チャクラ)への移行なのだが、それには1万2千年を要すということであって、今まさにその分水嶺を越えようとしている。第六周期とは、愛の時代であり、霊的文明であり、至福千年であり、七福神の楽遊びの時代であり、みろくの世。

『神は悪魔とファックしている。』という表現は、下衆だと思う人もいるかもしれないが、天国と地獄の結婚であって、古神道でも西洋錬金術でも普通に出ている見方。

第七周期では、すべてを棄てないと本当の自由はないことを示す。その後、新たな大地があるのだろうが、『沈んだ大地を嘆くなかれ。』。

第八周期のイーグルは、ヤキ・インディアンの世界のイーグル。すべてを知って、すべての終りをも慈しむが、そこで『終息とは、何か新しいものへの予感だ。』という感慨を楽しむ。

第九周期では、言葉で表現できないものをなにもかもなしとして、ニルヴァーナを語っているように思う。

第十周期は、新時代、新サイクルの始めだから、神もマーヤもすべてを含む種子のこと。
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冥想十字マップ狂言について-3

2022-12-15 03:17:32 | アヴァターラ神のまにまに
◎ニルヴァーナはいかなる概念内容も持っていない

冥想十字マップ狂言の続き。
『したがって、
あなたが、もともと、
ありもしないことにより、

非ステップ3 ・有相三昧
絶対者が絶対者だ。
絶対者があなただ。
全体が全体に目覚めている。
全体があなただ。
絶対者が絶対の力だ。
この絶対とは絶対に絶対なのである。
絶対の意志は、全体の生命だ。
絶対の情熱は、全体の至福だ。
絶対の愛は、全体の慈悲だ。
絶対の調和は、全体の自由だ。
絶対の智恵は、全体の覚醒だ。
一切万象、多様次元自身が、
目覚めている。

非ステップ4・ 無想三昧
闇の夜に鳴かぬカラスもない。
父母未生以前の本来の面目もない。
仏教なんぞの滅尽定でもない。
禅なんぞの無でもない。
隻手の音声なんぞ夢のまた夢
ヨーガの解脱なんぞでもない。
いわゆる概念的には、ニルヴァーナのことだが、真のニルヴァーナは、いかなる概念内容も持っていない。

これは、
完全に生きている。
これは、
完全に死んでいる。
これは、
生きても死んでもいない。
これは、
初めであり中間であり終わりである。
これは、
初めも中間も終わりもない。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp192-194から引用)

まず、私たちは、もともとありもしないことにより、

【非ステップ3 ・有相三昧】は、アートマンなる七つの身体における第六身体のことであって、世界全体、宇宙全体が自分であるということ。
そうなった場合の実感が縷々述べられているので、どこにも自分が個人であるという実感などない。
絶対とか絶対者という言葉に永遠不壊、至高、至善、至美などあらゆるポジティブな属性が隠されている。

【非ステップ4・ 無想三昧】は、ニルヴァーナだが、前半の文では明らかに禅を意識したニルヴァーナになっている。だからといって、この空間的進化が生の側から極めるルートの説明とは言えない。
そしてニルヴァーナとは、あらゆる想像を絶した神秘らしい。

【これは】、
生きているのと死んでいるのは、有相三昧。
生きても死んでもいないのは、無想三昧。
初めであり中間であり終わりであるのは、有相三昧。
初めも中間も終わりもないのは、無想三昧。
この違いがわかる人は、ニルヴァーナ体験者である神人合一者だと思う。

空間的進化は、個人の体験である定から、個人の体験ではない宇宙全体であるサマーディ(有相三昧)、なにもかもないサマーディ(無想三昧)へと進むが、これを空間的と称するのだろうか。

なお冥想十字マップでは、無想定と有相三昧の間に愛があるが、その説明はない。
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冥想十字マップ狂言について-2

2022-12-14 06:50:57 | アヴァターラ神のまにまに
◎有相三昧と無相三昧はあなたの体験ではない

冥想十字マップ狂言の続き。
ダンテス・ダイジは、定(禅定、ディヤーナ、動揺することがなくなった一定の心理状態)と三昧(サマーディ)を区分する。空間的進化とは、定においては個人である自分があるが、三昧に進むと宇宙全体、世界全体がある、あるいは何もかもないという形に進化するという意味。

『あなたの空間的進化とは、
そのまま非時空連続的な深化であり、
単純に言えば、
坐禅あるいはクンダリニー・ヨーガの修行のことである。

坐禅冥想には、
それ以外の冥想でもよいが、
次のようなステップがある。

ステップ1・有想定
仏教なんぞでいう欲界定と四色禅定のこと。
単純に言えば、平静さ・さわやかさ・注意深さ・やわらかさ・歓び・直観・
幸福感・清らかさ・安心感・静けさ・力強さなどなどが、
ある調和した身心として生じているということ。
低級あるいは、実用的なポピュラーな神通力なんぞは、欲界定あたりで起こり得る。

ステップ2・ 無想定
仏教なんぞで言うところの四無色禅定のこと。
すなわち、
空無辺処定・・・限りない広がりがあるという意識。
諸無辺処定・・・あらゆるものが限りない広がりにあるという意識。
無所有処定・・・何もかもがないという意識。
非想非非想処定・・・何もかもがないという意識もないという状態。

ステップ1・有想定と、
ステップ2・無想定とは、
あなたが修行することによって、
あなたが体験することができる。
しかし、
有相三昧と無相三昧は、
あなたの体験ではない。
単純に言えば、
三昧とは、そこに絶対者の
七つの顔・七つの次元・七つの宇宙、
七つの絶対、七つの全体、
七つの冥想が、冥想している、あるいは、冥想していないという、
そのことであり、このことである。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp189-192から引用)

※ステップ2の諸無辺処定は、識無辺処定の誤りだと思われる。
※有想定、無想定、有相三昧、無相三昧の想と相の違いについてはわからない。

有相三昧と無相三昧とはサマーディのことだが、有相三昧は、世界全体が冥想しているということで個人は世界樹でいえば小枝の一つに過ぎない。無相三昧は、もちろん個人の体験ではなく、言葉で表現できないもの。
このあたりは覚者にとっては常識だが、一般人には非常識にして、最重要ポイント。

この部分はダンテス・ダイジにしては珍しく丁寧にわかりやすく述べている。
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冥想十字マップ狂言について-1

2022-12-13 06:31:55 | アヴァターラ神のまにまに
◎ニルヴァーナの概念的理解を狂言する

世の中に人類滅亡予言は多い。不安をあおろうとタメにする予言は別にして、聖者覚者の予言は、ネガティブ予言の体裁をとりながら、そういう最悪の未来にならないように人々を戒めているものである。

ダンテス・ダイジの予言では、全面核戦争、大規模な地球の地殻変動、極ジャンプなどのネガティブ予言はあるが、最終的に至福千年の到来を予定している。こうした未来は、エメラルド・タブレットなどで予言されているのだが、アメジスト・タブレット・プロローグは、千年王国、みろく神政が必ず到来することを前提にしたプロローグである。いわば老婆心ながら、この神の息吹がほとんど感じられない中有タイプの近代西欧文明が人類が滅亡することで終わってしまえば、プロローグではなく、エピローグになってしまうという悪い冗談も書いてある。

さてアメジスト・タブレット・プロローグの最終章は、プロローグのエピローグ。それは、「冥想十字マップ」本体とその説明である「冥想十字マップ狂言」によって構成されている。

これは、まず空間的進化を述べる。空間的進化とは、
個人と神が先験的に存在していて、段階が進むにつれ個人が神に転換していくということ。神に転換すれば、空間は非空間となる。

次に時間的進化とは、最初から神が神を神しているので、神は個人であり個人は神であることを遊戯する立場で、七つの身体、七つのチャクラ、七つの属性でシンボライズされる七段階を戯れること。神が神を神しているので、時間とは非時間である。

『冥想十字マップ狂言

空間的進化とは、
あなたが神へ回帰していくプロセスの
非空間的狂言である。

時間的進化とは、
神の七つの身心の
非時間的な歴史の遊戯である。

ところで
ニルヴァーナの概念的理解によって、
あなたが、
ニルヴァーナであることに気づくはずはないのだから、
私は空間的進化の概念についてだけ、
狂言すればよい。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp189から引用)

『狂言』という表現は、一般社会人、学生の生活感覚、社会通念からすれば、まともではないがそもそも言葉にできぬ事柄を言葉で語るから『狂言』なのだというニュアンスである。

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人を迷わせるかな (一休)
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原初の光について

2022-10-26 07:17:24 | アヴァターラ神のまにまに

◎起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった

 

肉体が死ぬと原初の光が発生する。以下の文では、原初の光のことを根源の光明と訳しているが、改めてその性質を見てみる。

 

『これまでに説明したように、心身の一切の構成要素は、死の過程で崩壊していく。肉体が死ぬと、五感や微細な四大元素が溶解し、さらには心のなかの通常の相が、怒り、貪り、無知といった煩悩とともに断たれる。こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何ひとつなくなり、雲ひとつない澄みわたった空にも似た、根源なる究極の本質が顕れる。

これを「根源の光明がたちのぼる」という。ここにおいて意識そのものが法界へ、遍在する真理の空間に溶け込んでしまう。『チベットの死者の書』にはこの瞬間のことがこう述べられている。

 

一切の本性は虚空(そら)のように、空(くう)であり、さえぎるものなく、赤裸々である

中央も周辺もない、光り輝く空性そのものである

清浄にして、赤裸々な明知(リクパ)がたちのぼる。

 

またパドマサンバヴァは光明についてこう述べている。

 

始めの始めより生じることなき光明

おのずと生まれでた光明は、それ自体父母を欠いた明知の子供-―なんと驚くべきことか

誕生を体験することもなく、死の因を內包することもない――なんと驚くべきことか

明らかに見えるのに、誰一人見ることができない――なんと驚くべきことか

 輪廻のなかを彷徨(さまよ)いながら、なんら害をこうむらない――なんと驚くべきことか

仏性そのものと逢いながら、なんら益をこうむらない――なんと驚くべきことか

どこにも、誰のなかにも存在しながら認識されることはない――なんと驚くべきことか

にもかかわらず、あなたはこれ以外の果をどこか別の場所で得ようとする――なんと驚くべきことか

あなたのなかのもっとも本質的な部分であるにもかかわらず、別の場所にそれを求める――なんと驚くべきことか』

(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ著/講談社P425-426から引用)

 

この説明によれば、原初の光とは、父母未生の自分であり、本来の自己であり、宇宙全体であり、アートマン。つまり呼吸停止、脈拍停止して、肉体死が完成した時に、神仏を見るのだ。これは解脱への最大のチャンスである。

 

ところが、ソギャル・リンポチェは、「原初の光が立ち昇るのがすなわち悟りだという説を唱える者もいるが、そうではない。何が起きたかを把握できて初めて悟りなのだ。」というニュアンスのことを述べている。つまり、起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった場合があるということ。イエス来臨を毎日願っている人の許に、ある早朝イエスが降臨したが、当の本人は眠っていて気づかなかったのと同じ。

ここが、死んだ人すべてが悟るわけではないということ。

 

 

ソギャル・リンポチェは、微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの準備ができていないと取り逃がすと言っている。

 

大量死が起こる時、人は、発狂・自殺するか、退行するか、大悟するかの三種に分かれるというが、誰の死のプロセスにおいても、解脱、大悟のチャンスは平等に訪れる。しかしながら、それをゲットできるのは、事前の準備ができていた者に限られるのだろう。

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源実朝の金槐和歌集を読む-2

2022-10-14 07:17:12 | アヴァターラ神のまにまに

◎神祇歌・道歌など

 

源実朝の悟境を知るために道歌を見てみる。

 

(神祇歌)

みづがきの ひさしき世より ゆふだすき かけし心は 神ぞ知るらん

(大意:久しい昔から(神事に)努力して来た私の心は、神様が必ず御覧になっていることだろう。

※ゆふだすき-かけの枕詞。原義は木綿のたすき)

 

慈悲の心を

ものいはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかな親の子を思ふ

(大意:ものを言わない動物ですら親が子を思う気持ちはあわれであることよ)

 

道のほとりに幼き童の母を尋ねていたく泣くをそのあたりの人に尋ねしかば父母なん身まかりにしとこたへ侍りしを聞きてよめる(大意:道端で母を尋ねて泣く子がいて、周辺の人にきいてみたところ、両親ともに亡くなったと聞いてよめる)

いとおしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる

 

無常を

かくてのみありてはかなき世中をうしとやいはむあはれとやいはん

(大意:このようにばかりあって、至ってつまらない世の中を、憂しというか、あわれというか)

 

現とも夢ともしらぬ世にしあればありとてありとたのむへき身か

(大意:現実とも夢ともわからない世であるので、有るということであっても、それを実際に有ることとしてあてにすることはできない。)

コメント:空を生きる現実感はこのようなものだろう。

 

大乗作中道観歌

世中は鏡にうつる影にあれや在るにもあらず無きにもあらず

(大意:世の中は鏡に映る蔭なので、あるということでもなく、ないということでもない。)

コメント:世の色則是空なる現実のことを、実感として体感として描いている。

 

心の心をよめる  

神といひ佛(ほとけ)といふも世の中の人のこころのほかのものかは

 

コメント:神仏ともに顕在心理や潜在心理などの心理ではないが、人間の心のことではある。

 

箱根の山をうち出で見れば、浪の寄る小島あり。供の者に、この海の名は知るやと尋ねしかば、「伊豆の海となむ申す」とこたへ侍りしを聞きて、

 

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

 

コメント:この気づきの感動の明澄さと深さよ。見ている対象にも入っていっている。それは、『大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけてさけてちるかも』の歌にも通底する部分であり、その共感ぶりの深さは、人間の感覚を超えたものを感じさせる。実朝は、見神見仏体験は明らかに経た人物ではないかと思う。

 

 

朝ぼらけ八重の汐路かすみわたりて空も一つに見え侍りしかばよめる。

空や海 海や空ともえぞわかぬ霞も波もたちみちにつつ

(大意:空や海やも、海や空やとも分けられない、霞も波も立ち満ちつつある)

 

コメント:霞と波で水平線が分かたぬことになり海と空が一体になった。これは風景に事寄せて心象風景を描いたものだろう。我と宇宙全体が分かたれず一体となった第六身体、本来の自分。

 

(冬歌)

冬ふかみこほりにとづる山河の くむ人なしに年やくれなん

(大意:冬が深いので氷に閉じる山河の水を汲む人もなく年が暮れようとしている)

 

コメント:窮極の悟り、ニルヴァーナを経れば、透徹した孤独感がある。そうしたものに共感しがちな歌は出てくるものだろう。

 

以上により、実朝は、神人合一はあったかどうかわからないが、見神見仏体験はあったように思う。それが歌の端々ににじみ出ている。

 

なお、神人を殺害すると国難が起こることになっているものではある。

 

実朝暗殺にショックを受け、又、武蔵守源親広、左衛門大夫長井時広、前駿河守中原季時、秋田城介景盛、隱岐守二階堂行村、大夫尉加藤景廉以下の御家人達百人以上が出家をしたという。実朝の死は荒ぶる御家人の琴線を動かすところが大いにあったわけだ。これも神人の証しの一つだと思う。

 

さらに官僚トップの大江広元が、暗殺当日実朝に「私は成人してから涙を流した事がないが、涙が止まらない。これは只事ではない」と言上し、衣冠束帯の下に鎧を着けることを勧めたが、これは取りやめとなった。実朝は、時代のアイコン・大スターにして神人であったのだ。

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源実朝の金槐和歌集を読む-1

2022-10-13 07:41:09 | アヴァターラ神のまにまに

◎神仏を知りクリーンにしてクリア

 

兄である源頼家を北条に惨殺されて将軍になった弟源実朝の性格は、頑固だが、情に厚いとされる。

 

金槐和歌集は、古来清澄と評されるが、その歌から彼の悟境を探ってみる。

 

(春)

正月一日よめる

今朝みれば山も霞みて久方の天の原より春は来にけり

 

コメント:春は上なる世界から来ると感じていたのだろうか。

 

春のはじめ

かきくらし猶(なほ)降る雪の寒ければ春とも知らぬ谷の鶯 

 

コメント:寒さに震える私と寒さを知らぬ鶯の二重の自己認識は、普通ではない。

 

青柳の糸もてぬける白露のたまこきちらす春のやま風

コメント:青柳から山風に移る視点のダイナミックさは、常のものではない。

 

(夏)

夏の暮れによめる:

昨日まで花のちるをぞ惜しみこし夢か現か夏もくれにけり

コメント:花の散ることばかり気にしていたら、夢幻のように夏も暮れてしまっていた。

 

夏はただこよひばかりと思ひ寝の夢路にすずし秋の初風

コメント:夏も今夜だけと思って寝入ったら、もう秋の初風に涼しさに気づく。

 

(雑)

あら磯に浪のよるを見てよめる

大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけてさけてちるかも

 

コメント:大海も自分、波も自分。大海はアートマン、波は自分。

 

平安時代以前には、神人がとてもすばらしい和歌を詠んで現実にある難問を解決するのが当たり前とされる通念があった。

よって皇族、公卿が和歌をたしなむとは、和歌を楽しむということではなく、和歌で為政するということ。和歌とは言霊であり、言霊が現実を左右し、現実を操作するというのは、古神道家では当たり前の認識なのだろうが、和歌と言霊と政治の関係についてさんざん目にしてきていたはずなのに、今頃わかったことが恥ずかしい。なおその操作の仕方は、常に天機、天命に依るのであって、恣意はありえない。

 

また言霊家は、まともな和歌を歌えなければ一人前の言霊家とは言えまい。

 

出口王仁三郎は、その辺の呼吸を説明しているが、気がついている人は少ないのだろう。

 

さて実朝の心中は、まるで澄み切った鏡のようであり、大はマクロで自然全体を見た次にミクロの草木事物を見て切れ目がない。只管打坐的なクリーンさと申せばよいのだろうか。クリシュナムルティの自然描写を見るが如くでもある。

 

賀茂真淵や正岡子規という歌人からの評価が高かったのも首肯できる。

 

参考までに、和歌と言霊と現実操作の連動についての出口王仁三郎の言及を挙げる。

『今日にては神人が優雅にして高潔なる歌をもつて、その意志を述ぶるもの甚だ尠く、ただ上位の神人の間にわづかに行はれ居たりける。ゆゑに今回の常世の会議においても、神人の自由にまかせ、直接の言辞によるものと、単に歌のみに依つて意志を表白するものと、言辞と歌とを混合して口演するものとありしなり。言霊の清く朗かなる神人は、凡て和歌によりて難問題を解決せむと努力したりける。』

(霊界物語 第4巻 第16章 善言美辞から引用)

 

さらに、

『天祥地瑞の物語中、神々の御歌詠ませ給ふとあるは、御言葉の意なり。神代は現代人の如く不成立なる言語なく、互に天地の音律に合へる三十一文字を用ひ給ひしが、所謂今日の和歌となれるものにして、歌ひ給ふと言ふは、申し給ふ又は仰せ給ふ、語り給ふ、宣り給ふの意義と知るべし。神代の神の言葉を、現代人は総て歌として扱へるを知るべし。』

(霊界物語 第80巻第16章 火の湖から引用)

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ブログ再開の辞

2022-10-05 21:34:26 | アヴァターラ神のまにまに

◎神のまにまに

 

精神をいじることで金儲けしようとする教室やカルト宗教も多い中、まともなものを求めようとする人であればあるほど、瞑想とか、スピリチュアルで、公平にものを見たり考えたりしているブログ、SNSを求めるものです。ところが、そうしたものが極端に少ないことに改めて気がつきました。

 

それにこのような分野で意見表明する人には2種類あり、自分だけ納得していればよいと考えている人と他人もある程度納得してくれないとまずいと考える人がありますが、自分は後者です。

 

さて2022年9月29日ブログ『アヴァンギャルド精神世界』を閉鎖したところ、昔と違ってグーグルのキャッシュにも当ブログの記事がほとんどなくなっており、事実上過去ログを読むことは勿論、気配を想像することもできなくなってしまいました。これは意外でした。

 

また閉鎖以前は、精神世界系の定番キーワードでの検索に引っかかって来るのは、言葉によっては、『アヴァンギャルド精神世界』ばかりであり、それはそれで気味が悪いところがありました。だが、キャッシュ上でもほとんど完璧になくなってしまうのは、弊害も大きいのではないかと考えさせられるところがあります。

そして何よりも、閉鎖により、見る目を持った真摯な読者の人たちの清流があるということを発見できたことは、新鮮な驚きでした。

 

そこでさしさわりのない程度の内容でブログを再開しようと思います。このような取り組みが世に受け入れられるためには、初手にはそうした配慮は必要なものだろうと思うからです。

 

なおブログで書けないものは、メールマガジンなどでと考えていますが、従前の「アヴァンギャルド精神世界」のような検索での簡便さはないのが残念です。また自分は未悟の求道者ですが、ZOOMなどで勉強会のようなものも検討しようかとも考えています。ストレートに質疑することもこの荒れ狂うあらゆるマインド・コントロールの時代には必要だと思うからです(だがメンバー選定は至難!)。また冥想修行者にとっては、ブログのような公開コメント形式もありますが、そうでない非公開の相対の質問形式も必要なのだと思います。

なお、その場合でも私はグルでもマスターでも師匠でもありませんので、一人の「わかっていない人」であることをご容赦いただきたいと思います。聖人覚者の質疑を見ても、彼らであっても質問者に都合のいいことばかり言うわけではありません。

 

また「アヴァンギャルド精神世界」の過去ログも記事数6千以上なので、読者ニーズも千差万別でしょうし、出し方は相当に研究が必要と考えています。

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