アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人と神の「実際のところ」-6

2022-10-11 03:52:39 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-6

 

(原文6 完)

『人間という奴は、

つねに小便一部を残している。

それでいいんだ。

すべてがすべてになるのは、

すべてだけだ。

 

ああ、あなたはそれほどまでに

不安という観念を

愛しているのですね。

 

無駄口ばかりたたいている。

そうなっていくそれでいいというのに。

久遠の戯れは続く。

何のためでもなく・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

本来の自分、アートマン、宇宙全体、第六身体と自分が合体するのはよい。だが、自分がそれと合体したことを思い出として記憶しているし、合体から抜けて我に戻る時、他人に戻ってもいいはずなのだが、もとの自分に戻る。この辺が“小便一部”という言葉になっているように思う。

 

それを残していれば、最初は神との至福の感覚を忘れないだろうが、いつかそれを忘れ、自分というものが不安の種に変貌していくことを見るのだろうと思う。

 

老子狂言に【メシアン・ハンドブック】という詩があり、その一節に

『君は 

あらゆるものとともに死ぬ 

君も世界も 

もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている

 

いうなれば 

君達は

体験ではない体験

それ自身を 

再体験しようとしている』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

この『もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている』

に戯れの構造の解き明かしがされている。

 

戯れという言葉には、不真面目さが伴う。が、もともとありもしない今ここというニルヴァーナと、我々が実際に生きているこの生は一回きりでのっぴきならないものであるという現実とは、相容れるところがない。だから全体として見れば、戯れというある意味で気合の入らない用語を充てているのだろう。

 

『もともとありもしないここ』から帰ってきた人の生きる姿は、悪事をしない、善いことだけをする、であることも、誤解を防ぐためには忘れてはならないだろう。

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