国立社会保障・人口問題研究所の調査では、未婚・晩婚どころか、交際したことがない、セックスしたことがない人が多い。
出生動向基本調査では、
30~34歳の未婚者で異性との交際経験なしが、女性約3割、男性約4割。
30~34歳の性交経験のない未婚女性が、約4割、
30~34歳の性交経験のない未婚男性が、約3割強。
50代以上の独身世帯は、約4割だそうだから、50代以上では、既婚未婚合わせ全体の2割程度の人が性交経験がないのだろう。
こうした環境下で、「冥想非体験(性愛冥想)」を語るのも意外に大変である。
出口王仁三郎の随筆集水鏡から『恋愛と、恋と、愛』。GEMINIで現代仮名遣いに直してもらいました。
『恋というのは、子が親を慕う如き、又は夫婦が互に慕い合う如き情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するが如き、人類が互に相愛するが如き、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神様を恋い慕うのである。神様の方からは、これを愛したもうのである。故に信仰は恋愛の心というのである。
恋愛となると全く違う。善悪正邪美醜などを超越しての絶対境である。お互いが全くの無条件で恋し合い、愛し合うので、義理も人情も、利害得失も何も彼も忘れ果てた境地である。だから恋愛は神聖であると言い得るのである。今の若い人たちが、顔が美しいとか技量が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合っておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒涜するものである。そんなものは神聖でも何でもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻を娶って熱愛する夫に至っては、全く外聞にのみ生ずるものであって下劣なものである。
真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない、全く天消地滅の境地である。
人として真の恋愛を味わい得るものが、果たして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえども大概は、相対的なものである。神聖呼ばわりは片腹痛い。現代の不良青年などが、恋愛神聖を叫んであれこれと異性を求めて蠢動するのは、恋愛でも何でもない、唯情欲の奴隷である。』
(出口王仁三郎の随筆集水鏡から引用)
真の恋愛とは、最後は、情死や心中に至るものだろうが、無私でかつ相手のすべてと一緒になるという気持ちがあって成立するのだろう。それは、それで西郷隆盛の僧月照との心中や、ダンテス・ダイジの筋ジストロフィー青年の心中と同様に、聖者の心中は、あるものだとは思う。
しかしながら、霊界で定められた自分の異性の半身(ソウルメイト)とめぐり会い、それと添い遂げるという真の恋愛はまた別にあると思う。
それは、また求道の道を性愛冥想に採るものとはまた別の人生航路だと思う。
生活が安定しないと、冥想どころではないかもしれないが、それでも今日も冥想を。
