◎ジェイド・タブレット-10-5
◎垂直上昇への仕掛け-5
◎意識のぎりぎりの限界状況を突破した先
悟った人には三種あって、うち神人合一した人は、二重の現実感、二重の世界感を生きている。すなわちみじめで情けない人間だが、それでも何の問題もないという自分と、神であった自分である。
※悟った人の三種:神に出会うこと、神と一体になること(神人合一)、神降ろし
それは、しばしば冥想(瞑想)を行った成果という風に性急に考えがちだが、真相はそうではない。
どんな悟った人でも怒りも悲しみはある。悟った人の伝記を読むと、失恋したり、子供を喪くしたりして怒ったり悲しんだりしているシーンが“珍しいこと“として記録されているものだ。だが二重の世界観に生きている彼らは、それが何の問題もないことを知っている。人間である以上、理不尽、不条理から絶望と苦悩を避けて通ることはできないと知っていながら。
それを前提に、自分が調和していれば、生きとし生ける者と死せるものすべてが、自分に調和する。自分が整えば、全世界が自分のために整う。逆に自分が混乱していれば、全世界が混乱するということがある。
このメカニズムこそが、一人が悟りを開けば世界中を善い方向に変容させるメカニズムである。一子出家すれば九族昇天すというのは、それと同じ意味である。ある教団の繁栄のために、出家するのが善いことだと言っている訳ではない。一人悟りを開けば世界全体が善い方向に変貌していくので、そのかかわりで彼の一族もその恩沢にあずかるということ。その延長線上に世界の武装解除、世界平和がある。
『世界人類と生物・無生物の平和と繁栄を求めるために瞑想(冥想)をするというのは、目的が私的でなく公的だからよい。』などという説明が時々為されるが、これぞメリットデメリットの議論であって、功利性から抜け出せていない。
悟っていない人間の目からすれば、二重の現実感、二重の世界観で日常を生きることができなければ、恒久平和も悲しみも苦しみも叫びもない世界などないということなのだ。
だからといって二重の現実感、二重の世界観を目指して瞑想(冥想)修行するなどというメソッドは、寡聞にして聞かない。
また、出口王仁三郎の
『立替を世人(よびと)のことと勿(な)思いそ 立替するはおのが身魂(みたま)ぞ』
という歌は、社会や政治が自然に自分のかかわらないところで変貌してくれるのが世界の立替だと思っている人が多いが、実際は、自分が二重の現実感、すなわち無力で情けない人間にして、全智全能の神であるという世界観に生きるようになることが立替である。
さらに、二重の現実感、二重の世界観に生きるためには、意識のぎりぎりの限界状況を突破せねばならないとは、ダンテス・ダイジの教訓である。
第五身体コーザル体から第六身体宇宙全体時間全体に抜けて行って初めて、二重の現実感、二重の世界観に生きる。それは、死の領域を超えること。
だが古仏、昔の覚者、聖者は、そこのところをあまり強調して説明はしていない。その理由は考えてみるべきだろう。