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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

慧春尼

2022-10-28 12:25:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎周囲に理解者なし

 

室町時代のこと。慧春尼は、相模の糟谷の人で、物凄い美人だった。兄が小田原・最乗寺(曹洞宗)の開山である了庵慧明。

 

彼女は、女ざかりの若い時期に男に興味を持たず30歳を超えてしまったのだが、ある日、最乗寺に兄了庵を訪ねて出家したいと切り出した。兄が断ると、慧春尼は鉄火箸を真っ赤に焼いてそれを顔に縦横に押し当てたので、兄も出家を認めざるを得なかった。

 

禅寺での修行に入ってからも、彼女の美貌の面影を慕う男性は引きも切らず、さる男僧は、彼女の袖に長い恋文を投げ入れた。

 

慧春尼は即座に「とてもおやすい御用です。但しお互いに僧の身の上なので、世間並みにデートすることもできない。あなたと会いたい場所は甚だ険難な場所なので、あなたは約束通り来て思いを遂げることができないでしょう」と意味深な返事を書いた。

 

了庵禅師が上堂して、一山の全員が集まって水を打ったように静まっているところに、突然衣を脱いで素っ裸になった慧春尼が出てきて、ラブレターの男性を指さして、「約束は守るから、さあ今ここで、さあさあ。」と招く。

 

禅師も師匠もあっけにとられたが、かの男性は、脱兎の如く山を逃げ出した。

 

この脱俗ぶりは、臨済の同僚の普化もびっくりだが、臨済も普化のことをやりすぎだとなじったことがあるが、なぜ普化がそうなのかをちゃんと理解していた。

 

一方慧春尼は、周囲に彼女のことを理解してくれる同じ境涯の人物がいなかったようだ。つきまとって修行の邪魔になるストーカー僧はいたが。兄も今一つだったようだ。

 

さて最乗寺山門前の大岩に薪が山と積み上げられた。慧春尼は、自ら周りの薪に火をつけ、薪の中央に坐った。

 

これにうろたえたのか、兄の了庵は、「熱いか、熱いか。」などとわかりきったことを問うのに対し、彼女は「冷熱は生道心にはわからぬ」と。・・・・最後まで誰も彼女のことをわからなかった。

 

 

同じ火定では、霍山の景通禅師は、仰山との問答が残っている人だが、正午に自ら蝋燭をとって薪の上に上り円光相を示し、紅炎の中に降魔の勢いを示したという。

 

甲州恵林寺の快川禅師が、山門楼上で織田信長に焼かれて、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と云ったのは、受動的に火に焼かれたものであり、上記2例とは異なるように思う。

 

華亭の船子和尚は、悟りを得た弟子をゲットできたので、自分で船を転覆させて死んだ。

 

これらは、死にざまを自由にするということだが、生死を超えるという本来の意味は、死にざまだけのことではないだろう。

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公案のメカニズム

2022-10-20 20:22:55 | 丹田禅(冥想法8)neo

普通の人はまず公案なんて知らないし、禅語録なんて読みもしない。そこでまず公案クイズの紹介。

 

◎両手を合わせて打てばポンとなるが、片手ではどんな音がする?(隻手の公案)

◎釜の中から富士山を取り出して見てください。

◎仏とはなんですか。    

 回答例:1200グラムの麻です。(洞山)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

◎仏法の意味はなんですか 。

 回答例:(棒で質問した人をぶんなぐる。)(黄檗)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

◎仏法の大意は何ですか。  

 回答例:(かあっーーーーと怒鳴る)(臨済)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

 

これら公案は、日常生活ではまず起こらないような、しかも常識では解けない、また相当に深い思索によっても解けない問題が多い。

そしてこれらの問題には唯一の正解があることを前提に考え抜く。

 

様々な公案を解く努力の中で、知性による方法論は、結局人間のさまざまな欲望に使役され、その欲望満足という仮に構築された実用性の中で成立していることに気づく。そして、実用性を超えた絶対に至るためには、最後には知性は全否定される運命にある。

 

公案の与える知的洞察は、言葉と知性によって構築されるのであるが、純粋経験と呼ぶべき見性(本来の自分を見ること。見仏。宇宙意識をちらっとでも見ること。悟りの一種。)にまで昇華される必要がある。その結果知性や分別的立場は、全面否定され、喝や棒という根源から来る一撃によって粉砕される。

 

公案での思弁のように、知性がその限界を見切るような動きになる時、知性は知性自体の力によって自滅し、深遠な智慧としてよみがえる。その智慧とは、究極・宇宙意識の一属性(七チャクラの属性の一つ)である「智慧」である。

 

一般にジュニャーナ・ヨーガ(知性のヨーガ)はその時代の固定観念を破壊する。

20世紀ではクリシュナムルティの思弁がそうであったように、古代ではソクラテスの対話もそうであった。また禅問答もそのタイプの思弁であった。

 

そしてテレビ、スマホを始めとする洗脳メカニズムは、そういったまともな洞察に与えるエネルギーを消耗させる形で機能している。

 

大東亜戦争から復員してきた人が禅寺に入って早々、住職から「公案など役には立たないかもしれませんが・・・」などと言われることがあったほど、戦争の現実は容赦ないものであったろう。同様に、現代を生き抜くのも全身全霊の努力を必要とするものであるから、現代も実は、戦争中並みの理不尽、不条理の嵐の連続であって、これを「生きる現実そのものが公案となっている」と言えよう。

そこで現代では、「公案禅」ではなく、いわばスワジスターナ・チャクラ(丹田)強化onlyの「丹田禅」となるのである。

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葉隠を見抜く

2022-10-19 05:51:25 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎浮き世から何里あらうか山桜

 

葉隠といえば、「武士道とは死ぬことことと見つけたり」で知られる。

それで死ぬのは肉体か、自我か。

一般には肉体が死ぬと思われて、それで終る。

 

禅者澤木興道はそうは見ない。

 

『禅は教外別伝、不立文字で、学術レコード放送局ができても放送できない。葉隠武士道の中に、「もろもろのよきことをするといふはこらえることなり」ということがある。これを倫理学とか、心理学とかいうものがあって、とかく難しく言っているが、言っている中にボーッとして、後の動きがとれなくなる。結末がつかぬ。

 

そんならどうしたらよいかとなると、実際方面では一向わからぬ。それを「もろもろのよきことをするといふはこらえることなり」と、これくらい分かりのよいことはあるまい。これは禅の教外別伝、不立文字である。「無明の実性即仏性、幻化の空身即法身」というのはそれだけのものである。

 

『葉隠』の著者、山本常朝が、「浮き世から何里あらうか山桜」と詠んだ気持ちはここではないか。幻化の空身と法身との間は大変に隔たっている。生命があると無いとの違いである。そこが十万億土の隔たりである。

 

山本常朝は殉死するはずであったが、生き残って隠退した。実をいうと生命をつかんだのである。

 

生命の息の伝わっていない者に、この「浮き世から何里あらうか・・・」の深い意味は分かったことではない。そんな奴は金の話でもしておればよい。この句は証道歌の大意を歌ったような気持ちがする。証道歌の大意のみならず、禅の大意であり、仏法の要領である。実に微妙な一句である。』

(禅のさとり/澤木興道/大法輪閣から引用)

 

「もろもろのよきことをする」とは、悟った人が善行のみを為していく姿。それを表現すると「こらえること」である・・・というところだろうか。

 

この世が「浮世」、窮極・ニルヴァーナ・タオが「山桜」、その距離は測りしれない。勿論、窮極・ニルヴァーナ・タオは、通俗的心霊スピリチュアルのことではない。

 

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」で死ぬのは、肉の身ではなく、自我が死ぬ。自分勝手で気ままな自我である「浮世」が死んで、山桜が咲く。武士道とは切腹することではない。

 

およそ悟った人でないと、この句がそれを指しているなどとは気がつきもすまい。

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一休 鴉の声を聞き反省あり

2022-10-10 05:26:49 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎森女との爛れた愛の生活を鴉が笑う

 

一休禅師の狂雲集538番より

『鴉(からす)を聞き省あり

 

豪機(ごうき) 瞋恚(しんい)識情の心

二十年前 即今に在り

鴉は笑う 出塵の羅漢果

日影玉顔の吟(ぎん) 奈何(いかん)せん』

 

大意:

鴉の声を聞き反省あり

荒々しい心や怒りや欲情は、大悟徹底した20年前と変わらず今ここにある。

鴉は、この俗塵を超えて一休が羅漢果を得た(悟った)ことを笑う

盲目の森女が日光の中で詩を吟ずるのをどうしようか。

 

 

一休は2度大悟したが、そのうちの一回はカラスが鳴くのを聞いて大悟した。大徳寺開山宗峰妙超は、大悟の後聖胎長養20年を命じられ鴨の河原で乞食生活に入った。一休は77歳で盲目の森女と同棲し、愛欲を尽くしているので、大悟20年というのは、実際の20年でなくシンボリックな20年とみる。

 

狂雲集では、この詩の前後に森女との爛れた愛の生活の漢詩が並ぶ。

 

悟っても、働かねばならなかったり、炊事洗濯掃除など家事をしないといけなかったり、愛欲に溺れたりしなければならなかったりするが、それはその人が本当にその人らしい人生を送るというもう一つの姿。人間だから人間の面は残る。

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禅の主人公

2022-10-07 17:19:08 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎自分自身を演技する

 

人間そのもの自分そのものになること、自分そのものを演じきることが人生であり、そこで自分が主人公として生きることこそが、神仏に至る道である。

 

自分が主人公を演ずるという見方は、禅にもある。禅の公案集である無門関に主人公の話がある。

 

『瑞巌の彦和尚は、毎日自分に向かって、「おい主人公」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応えた。

「しっかり醒めていなさい」

「はい」

「どんな時も他人に騙されてはいけませんよ。」

「はい、はい。」と自問自答するのが常であった。』

無門関第十二則 巌喚主人。

 

無門禅師は、修行者は彼の真似をしてはいけないとする。認識する者と認識される者が別々のままだから。だが、そこで行き詰り切って先に行くこともある。

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ころんだ龐居士を娘が助ける

2022-10-06 07:23:04 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎素直さと勢い

 

龐(ほう)居士一家は、三人家族。居士と妻と娘霊照である。

 

龐(ほう)居士が、ざるを売りに出た時、太鼓橋を下りる途中でつまづいて転んだ。それを見た娘霊照は、駆け寄って、自分もころんでみせた。

龐居士「おまえは何をやっているんだ?」

霊照「お父さんがころんだので、助け起こしてあげるのです。」

龐居士「誰も見ていなかったからよかった。」

 

 

これは、一見コントや漫才にあるシーン。だが、困窮し悲嘆にくれる相手になりきる。それも瞬時になりきるのは、平素から油断なく一瞬の隙もなく菩薩として生きていなければ、いきなりこのような慈悲の行いが発現するものではないだろう。

 

とかく娘霊照と龐居士のどちらの悟境が上かと見がちだが、死に際して、龐居士の準備した時刻と席で、霊照の方が躊躇なく坐脱していった娘らしい素直さに勢いを感じる。

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