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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

無聞思聡の冥想の深まり

2022-11-22 09:03:56 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎小悟何回、大悟何回

無聞思聡は、最初に独翁和尚の下で「不是心、不是仏、不是物」という公案で参禅した。その後、六人のグループでお互いに深めていった。

次に淮西の教無能禅師から「無字」の公案をもらった。
その後淮上の敬兄に「あなたは6、7年参禅しているようだが、どんな境地か。」と質問されて、無聞はしどろもどろになり、悟っていないことがバレた。

無聞は、敬兄に「それでは、どうすればよいのでしょうか」と問うた。敬兄は、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」と教えてくれて去って行った。※南を向けば北斗星は見えない。が、北斗を南に向かって看(み)よ。

以後35日間、無字の公案はやらずに、「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案に取り組んだ。その間、歩いて歩いていることを忘れ、坐って坐っていることを忘れるという状態だが、どうしてもこの公案が解けなかった。ある時皆と坐禅している際、食事時にふっと心がゆったり清らかになった。この時感情も想念も破裂し、一枚一枚皮を剥いでいく(シュンニャ)ようになった。目の前の人も物も一切見ないこと虚空のようであった。

半時ばかりして我に返って、全身から汗が流れた。そこで「端的な意を知ろうと思うなら、北斗を南に向かって看(み)よ」の公案を悟り得た。敬兄に伺ってその見解が正しいことを確認してもらえた。

だが、自分では、境地が自由自在(洒落)ではないことを自覚していたので、その後香巌山に入って一夏を修行した。そこは坐禅中に蚊がひどく、痛さに両手を組んでいれなかったが、痛みの肉体感覚から離れ、歯を食いしばってこぶしを握りしめ、ただひたすら無字の公案に取り組んで、忍びに忍んでいた。

すると、思わず身心が寂静となり一軒家の四方の壁が崩れたようになり、身体は虚空のようになり一つとして心にかかるものはなくなった。午前8時に坐り始め午後二時に定から出た。自分でわかった、仏法が人を裏切るものではなく、ただ自分の努力や工夫が足らないだけであることを。

だがこれでも小さな隠れて見えない妄想が滅し尽くされていなかったので、さらに光州の山中に坐ること六年、陸安山中でも六年、また光州の山中に三年にしてようやく大悟(頴脱)した。
(以上禅関策進/汝州香山無聞聡禅師から)

よく禅では小悟何回、大悟何回などと言う。だが、いわゆる大悟ですら不完全だったり戻ったりする。あるいは、真正の大悟ですら彼にとって一片の素敵な思い出になってしまう(ダンテス・ダイジ)。

この話のように大悟した後、悟後の修行(聖胎長養)をするケースや、もう一度大悟にチャレンジするケースもあるだろう。また大悟の後に生存しないケースもある。大悟の後に酒徳利を抱えて街をうろうろするのもよい。どれが善い悪いなどは言えない。

それでも今日も冥想を。
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万法と侶(とも)たらざる者

2022-11-22 08:52:41 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎独存

襄州の龐(ほう)居士が、最初に石頭に参禅して問うた。「万法(あらゆる存在)と侶たらざる者、これはどんな人でしょうか」?
石頭、手をもって居士の口をおおった。龐居士、ここで豁然として悟った。

また龐居士が、師匠の馬祖に参禅して問うた。すると馬祖曰く「あなたが一口に西江の水を吸い尽くしてしまったら、即ちあなたに向かって回答を言いましょう。」
龐居士、言下に大悟した。

※龐蘊(ホウウン)居士(馬祖の嗣法の弟子)

口をおおったのは、龐居士自身が『万法と侶たらざる者(あらゆる存在と関係なく存在している、独立の人)』ではないかと示したもの。

ウパニシャッドでも独存が最後の方のテーマとなり、禅でも独存が最後の方のテーマとなっている。

一休和尚法語では、
『万法と侶たらざる者』とは、私の一心は、万法の外側にあり、体も色もない。だから物である万法に与しない。そうでありながら天をおおい、地に満ちている。

だから脚下漫々(無辺際に茫々)として『有』であるがゆえに、あらゆるものも一心(法界一心)と観じて、龐居士は名を残した。これは目に見えないものを見出して、このように表現しているのである。地獄はこの時初めてなくなってしまう。

一休は、第六身体アートマンに至って、あらゆる存在と心が一となり、そこで死の世界である目に見えないものを発見して、あらゆるものも一心(法界一心)となる。ここで、地獄も悪魔もなくなるのであると解説してみせている。

エクソシストは、このレベルでもって存在できるのだろう。
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長沙和尚七日で悟る

2022-11-22 08:50:27 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎どういうルートをたどれば大悟に至るか

マインドフルネスとかフルフィルメントとかおしゃれなネーミングで勧誘してくる冥想法。それは、単にリラックスとか心理の安定とか願望実現を狙うだけのものなのか、大悟覚醒を狙うものなのかよく見極める必要がある。

禅家では、どういうルートをたどれば大悟に至るかを盛んに研究した。悟りの直前に何をやっていたかを調べてみるのは大いに価値ありと考えたのだろう。

臨済禅の白隠門下の遠江の瑞応寺の長沙和尚は、毎年12月の原の松蔭寺の臘八接心(禅の集中合宿)に参加し続けていたが、悟れなかった。
ある時、白隠は、「お前の禅は、鴨が冬の寒さに水に入ってじっとしているようなものだ。毎年30里の道をここまで来るが、ここにはそんな用なし男はいらない。もう臘八接心に参加禁止」とダメを出した。

これに奮起した長沙和尚は海辺の網小屋に入り、ここで悟れなければ二度と生きては故郷に帰らないと誓い、一週間の期限を決め、坐り始めた。食事もせず、不眠で打ち込んで七日間過ぎたが、どうしても悟れなかったので、海に身を投げて命を断とうと思い、磯に立った。

すると朝日に照らされた海が、紅をひいたように輝いていた。この景色を見た瞬間大悟した。

長沙和尚はその足で白隠の下に走ったが、白隠はその姿を一目見るなり、「そなた悟ったな」と喜んだ。

禅籍といえば、禅僧の行状と公案。その一見無味乾燥な記述は、川原の石ころのようなものだが、そこから愛が流れ出す。
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香厳が竹に瓦礫が当たった音で悟る

2022-11-22 08:48:12 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎自分でなんとかするしかない

禅僧香厳は、山東省の出身、巨漢。博識であって、師匠の潙(サンズイに為)山(いさん)のしかける問答にはすらすらと答えた。ある日潙山が、「父母から生まれた直後の自分について、一言言ってみなさい。ちゃんと言えたらお前を印可してやろう。」と公案を与えた。

香厳が、何種類も回答したが、潙山はいずれも合格と認めなかったので、ブチ切れて「そんなに言うんだったら、正解を教えて下さい」と頼んだ。

すると潙山が、「他人から教えてもらったのではダメで、自分で見つけたものでないと。」

そこで香厳は僧堂に戻りあらゆる書物を調べてみたが回答となるようなことは書いていなかった。そこで蔵書を全部まとめて燃やそうとすると、同僚が「燃やすんだったら俺に呉れ」と言ってきた。ところが香厳は、「こんな役に立たないものを見て何になる」として、一気に焚書した。

香厳は、今生では仏法を学ぶまい、今後は一介の乞食坊主になって一生を放浪するのだと心に決めて、涙ながらに師匠の潙山に別れを告げ、門を出た。

途中に慧忠国師の遺跡があり、休息がてら掃除をして憂さ晴らしをしていた。するとそこでたまたま投げた瓦礫が竹に当たり、コーンと高い音を出し、思わず笑って、それにより大悟した。

目的と坐法(ポスチャー)はあるが、どうすれば目的たる大悟に至るかは、自分でなんとかするしかない。先人の前例は貴重である。
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寺を持たない枯禅の花亭と夾山和尚

2022-11-22 08:45:33 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠し

唐代の破仏(仏教弾圧)の時代、花亭和尚は小舟で往来しながら、これぞと思う嗣法の大器を探していた。ある日少々見込みのある夾山(天門)を見かけ、夾山の方から質問が来た。

※まっすぐな釣針で魚を釣るのは、周の太公望の故事。

『「毎日、まっすぐな釣針で魚をつっていられる、先生のねらいは何なのです」

「わしが千丈の絲を垂れている、そのねらいは千丈の水底だ。水面の絲の動きと安定・有無など、そんな釣り道具のような、舌頭三寸のかけひきなしに、君はどうしてわたしに問わぬ」

そこで、天門が問いかけようとすると、花亭はオールで、かれを正面からつきたおす。しかし、天門は逆に進み出て言う。
「先生の言葉は深い道理を含んでいて、言葉の域を超えています。舌先で言ってみたところで、まったく答えになりません(話帯玄而無路、舌頭談而不談)」

「わたしは今まで、まっすぐな釣針で魚を釣って来たが、ようやく今日は、一匹かかりおったぞ(毎日直鈎釣魚、今日釣得一个)」

そこで、告げて言う。
「竿の端から垂れている絲は、あなたのあやつり方次第です、静かに澄んだ水面を乱さぬ、あなたの心はまったく見事です」

花亭が、天門にたずねる。
「学生よ、君はいったい、わたしを捨ててゆく気か」
「はい、わたしは参ります」
「行くことは勝手だが、いったいあの事実を、見とどけたか」
「見とどけました」

「どう見とどけたのだ」
「岸の草を、見とどけました」
花亭は再び、言いふくめて言う。
「君はこれから、くれぐれも身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠して、それらの何れにも、とどまってはならぬ(蔵身処没跡、没跡処蔵身、不住両処)、これがわしの教えだ」』
(純禅の時代 [正] 祖堂集 柳田聖山 禅文化研究所p39-40から引用)

夾山(天門)は、既にそれを得たが、ひらけらかしてもいけないし、それにこだわってもならないと戒められた。

今でも自宅の自室で坐るのなら。枯禅の時代である。
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ろうそくの光を消す

2022-11-22 08:42:12 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎漆黒の闇と光

『蝋燭を持って歩きながら、私はある子供に、
「この光は、何処から来たか?」と訊ねた。
その子は、即座に蝋燭を吹き消した。
「僕に光が何処ヘ行ってしまったか教えよ。
そうしたら、それが何処から来たかあなたに教えてあげるよ」。
(バスラのハサン)』
(スーフィー 西欧と極東にかくされたイスラームの神秘 イドリース・シャー/著 国書刊行会P289から引用)

これは、まったく禅問答である。無門関第二十八則で、似た話がある。

龍潭和尚が徳山に、「夜も更けたので、帰ったほうがいいだろう。」
徳山は別れの挨拶をして簾を上げて出たものの、あまりに暗いのでわざわざ戻って行って、龍潭に「外は真っ暗です。」と云うと、
龍潭はすぐに蝋燭に火をつけて渡した。

徳山が取ろうとした瞬間に龍潭はふっとその火を消したところ、あたりには漆黒の闇が迫ってきた。

この時徳山は、大悟した。

この再びの漆黒の闇こそ人生の裂け目、隙間である。ろうそくの光はどこへ行ってしまったのだろう。宗派の違いはどこへ行ってしまったのだろう。
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丹田を錬る-6

2022-11-13 12:56:11 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-5

◎雄詰(をころび)の禊

 

前段の雄健(をたけび)の禊で、神我一体の観想が成った。

雄詰という禊は、神我一体となって、悪神を調伏して、善に改心させる、気合の発声のことである。

 

やり方のポイントは、

  1. 雄詰は「イーエツ」という声を発すると共に、右足を左足に踏み付け、同時に脳天に振りかざした天之沼矛(あまのぬぼこ)を斜に空を斬って、一直線に左の腰元に打ち下す、
  2. 更に「エーイツ」と発声すると共に、右肘を胸側に着けたまま前臂(ひじ)を直立し、天之沼矛(あまのぬぼこ)を打ち上げ

3.その後天之沼矛を脳天に構える。ここまででワン・セット。この1から3を3回繰り返す。

 

神我一体として「イーエツ」と打ち込むのは、四囲の悪魔を威圧懲戒する作法であって、この反対に「エーイツ」と打ち上げのは、悪魔を悔悟復活させる為である。ここは、鬼滅の刃とは異なる風光の作法となっている。言向け和す(ことむけやわす)とは文字どおり言霊の発声により悪魔悪霊を善神善霊に改心させること。

 

鬼も神と化し、禍も福と化し、どちらも自分に吸収同化して共に神我一体とするのが、鬼、悪魔を忌避せず改心せしめるのを理想とするこの行法である。

 

なお、出口王仁三郎の霊界物語の最終盤天祥地瑞では、善神軍が悪玉軍に一旦は殲滅されてしまうシーンがあり、事はそう単純に運ばないのだろうと思う。

 

以下は霊界物語での雄詰(をころび)の禊の説明。

  1. 『雄詰(をころび)の禊:雄詰といふは神我一体として、禍津見を征服し、之を善導神化する発声なり。雄詰は「イーエツ」といふ声を発すると共に、右足を左足に踏み付け、同時に脳天に振りかざしたる天之沼矛を斜に空を斬つて、一直線に左の腰元に打ち下すや否や、更に「エーイツ」と発声すると共に、右肘を胸側に着けたる儘前臂を直立し、然る後更に天之沼矛を脳天に構へ、前後に通じて続けさまに三回反復して行ふなり。神我一体として「イーエツ」と打ち込むは、四囲の悪魔を威圧懲戒するの作法にして、之を反対に「エーイツ」と打ち上ぐるは、悪魔を悔悟復活せしむるが為なり。即ち鬼も神と化し、禍も福と化し、之を吸収同化して共に神我一体たらしめむとするが、大祖神の垂示にして、神人の膨脹的大理想なり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

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丹田を錬る-5

2022-11-13 12:53:46 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-4

◎雄健(をたけび)の禊

 

これは、それぞれのステージで、全身に力を込めてがキーワード。だが最後は、ポーズ付の神人合一の観想(神は汝と共にあり)となる。気張ることは重要だが、神人合一してそれを日々の挙措で運用していくのだ。

 

やり方のポイントは、

1.帯を締める。

 

2.直立して左右の両手で帯を堅く握り締め、おや指を帯に差し『生魂』(いくむすび)と唱えつつ、力を全身に充足して腹を前方へ突き出し、体躯を後方に反らせる。

 

3.『足魂』(たるむすび)と唱えつつ、力を全身に充足して両肩を挙げ、然る後、腰、腹、両足とに充分の力を込めて両肩を下す。

 

4.『玉留魂』(たまつめむすび)と唱えつつ、更に力を両足に充足して両の爪先にて直立し、その後、強く全身に力を込めて両の踵(かかと)を下す。

 

5.左足を一歩斜め前方に踏み出し、左手はそのまま帯を握り締め、右手は第二第三指を並立直指し、他の三指は之を屈し(これを以て天之沼矛(あまのぬぼこ)のポーズとする)これを脳天に構へ、真剣以上の勇気と覚悟とを持する。

 

霊界物語での説明には、大国常立之尊(おほくにとこたちのみこと)の神名を唱える手番がないが、まずは真っ先に唱えるのだろう。

そして最後のポーズで神我一体を実現するのだが、これが天之沼矛で天地をマニピュレイトする大国常立之尊なのだろうと思う。

 

※大国常立之尊:艮の金神(うしとらのこんじん)。宇宙の創造者、天地の祖神(霊界物語入蒙記特別篇第2章神示の経綸)

 

以下は霊界物語での雄健(をたけび)の禊の説明。

 

3.『雄健(をたけび)の禊:生魂(いくむすび)、足魂(たるむすび)、玉留魂(たまつめむすび)、大国常立之尊(おほくにとこたちのみこと)の神名を唱へつつ、天之沼矛(あまのぬぼこ)を振りかざして直立不動の姿勢を構ふる行事なり。即ち、

一に直立して左右の両手を以て帯を堅く握り締め、拇指を帯に差し『生魂』(いくむすび)と唱へつつ、力を全身に充足して腹を前方へ突き出し、体躯を後方に反らせ、

二に『足魂』(たるむすび)と唱へつつ、力を全身に充足して両肩を挙げ、然る後、腰、腹、両足とに充分の力を込めて両肩を下し、

三に『玉留魂』(たまつめむすび)と唱へつつ、更に力を両足に充足して両の爪先にて直立し、然る後強く全身に力を込めて両の踵を下すなり。

四に左足を一歩斜前方に踏み出し、左手はそのまま帯を握り締め、右手は第二第三指を並立直指し、他の三指は之を屈し(之を以て天之沼矛に象る)之を脳天に構へ、真剣以上の勇気と覚悟とを持する行事なり。要するに雄健の禊は、神我一体聯想の姿勢なり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

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丹田を錬る-4

2022-11-13 12:50:26 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-3

◎天の鳥船

 

TVで冬の風物詩として、神社などでの水垢離と天の鳥船がよくTVに出てくる。植芝盛平の天の鳥船の動画では、実にハイピッチで船が漕がれる。

 

やり方のポイントは、

1.古代の神々がアトランティスからユーラシアを横断し日本に天の鳥船を漕いで旅をしたことをしのびつつ

2.渾身、特に臍の辺りに力を込め

3.気合とともに艫(ろ)を漕ぐの動作を百千回繰り返す。

 

気合は、最近の軟弱文化隆盛によりほとんど廃れつつあるが、「エイッ」「ヤアッ」などの全集中での気の集中発揮、発声。大喝一声で相手を委縮させるシーンなどで用いる。臨済禅では、師家が弟子を刺激するために多用されているケースがある。

 

天の鳥船の効果としては、肉体運動の効果に加え、気合の練習ともなっている。そして丹田を強化する効果がある。

 

以下は霊界物語での天の鳥船の説明。

『天の鳥船:之は神代の神々が天の鳥船に乗り給ひて大海原を横ぎり給ひし大雄図を偲びつつ、渾身特に臍の辺りに力を込め、気合と共に艫(ろ)を漕ぐままの動作を百千回反復する行事にして、運動夫れ自身に価値あるのみならず、之に依りて気合術の練習も出来、不知不識の間に衆心の一和する禊なり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

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丹田を錬る-3

2022-11-13 12:27:56 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-2

◎振魂《ふるたま》の行事

 

振魂の行事は、合気道開祖植芝盛平の動画

https://www.aishinkankyoto.jp/aikido-religion/

でも最初に一礼四拍手の後、いきなり振魂が行じられており、平素の稽古メニューに入っていたのだろう。この動画の振魂はささっと終わってしまうが、出口王仁三郎の指針では、数十分から数時間。

両手のひらを臍前方で十字に組んで上下に振るのだが、この動画では、右掌が上に見える。

やり方のポイントは、

1.渾身の力を籠めて《あめのみなかぬしのおほかみ》の神名を称えながら、

2.自己の根本精神を自覚して、

3.盛んに猛烈に数十分乃至数時間連続して全身を振い動かす。

 

これを見ると、単なる合気道の準備体操というようなものでなく、丹田を中心に激しく身体を揺らしながら、かつ全力で大神の神名を唱えつつ、本当の自己、本守護神を自覚しつつ行うというハイスペックな複合型の冥想法。

これを行じている期間中は、小食にするが、健康には全く問題ないという。そして気力充実、勇気横溢して、宇宙をも吞んでしまおうとするほどの気概となるという。

 

霊界物語では、神々(顕津男の神初め其他の諸神)も、玉野丘の霊泉にて振魂の禊を行ずる際に

『振魂の禊に水底の真砂まで

  揺ぎ出だせり神のまに』

という歌を詠んでいるが、この行の狙い所がこれでわかる。

 

以下は霊界物語での振魂の行事の説明。

1.『振魂の行事:禊に関する行事の内にて最も至要なる神事は振魂の行事なり。之には種々の方式あれども、普通の場合には、両掌を臍あたりの前方に於て十字形に組み合せ、渾身の力を籠めて神名を称へながら、自己の根本精神を自覚して、盛んに猛烈に数十分乃至数時間連続して全身を振ひ動かす行事なり。神代の禊には神々何れも天之峯火夫の神の御名を称へ奉られたるが、現代にては吾人の禊には天之御中主之大神《あめのみなかぬしのおほかみ》の御名を称へ奉るなり。

 

此の振魂の行事に由りて、精神内包の妄念邪想を鎖鎮すると共に、身体各部の反対的孤立的の活動を制御し、自己の根本精神を中心としたる全身の統一的活動を為すなり。禊の間は日々の食事を減じて、朝夕に一合の粥と三粒の梅干、小量の胡麻塩以外一切を食せざるも、全く自己の根本精神(本守護神)に対する全身の抵抗力を減殺し、偏に心身の統一を計るに便ずる用意なり。然るに身体は其減食のために、疲れ又は病み困難に陥るといふ心配はなし。内部の根本精神が興奮緊張の度を増し来る故に、却て元気全身に充足し、頭脳は冷静明快となり、全身爽快にして神の気分漂ふ。内省して疚しき罪穢もなければ、仮令百千万の強敵現はれ来るとも恐れず、大海高山を突破し、宇宙を呑吐する気概勃発して、一合の粥以外に何物をも食せずと雖も、更に飢餓を覚ゆる事なし。恰も自己は神代の昔に蘇りたる心地となり、日本民族の自性を明瞭に感得するに至るなり。』

(霊界物語第75巻第一章 禊の神事から引用)

 

更に、

『顕津男の神初め其他の諸神は、玉野丘の霊泉の汀に、各自座を定め、禊の神事を修せむとして、御歌詠ませ給ふ。

 顕津男の神の御歌。

 

(中略)

 

振魂の禊に水底の真砂まで

  揺ぎ出だせり神のまに

 

神々の振魂の禊つばらかに

  この水底に写りけるはや』

(上掲書から引用)

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丹田を錬る-2

2022-11-13 12:23:27 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎古神道の禊の神事-1

 

日本各地の神社神域で、今でも様々な禊の神事が行われ、出口王仁三郎から分派した古神道系新興宗教でもそれが行われているものと思う。

 

彼によると、日本には、大虚中に◎(ス)の言霊から生れ出た天之峯火夫の神(オメガでありアルファである)の聖代より今日に至るまで伝来した禊の神事がある。これは大体は次の5種のような形式で残っている。

この神事は、最奥の紫微天界の神々といえども一日も怠る事なく今日に及ぶ主要な行事である。そもそも禊は、大は治国平天下、小は修身斉家の基本である、とする。

 

1.振魂の行事

2.天の鳥船

3.雄健(をたけび)の禊

4.雄詰(をころび)の禊

5.伊吹の神事

 

これらには、身体運動と神名マントラの念唱、気合術もあって、神我一体の観想法もありながら、いずれも腹(肚)を作る狙いも意図されているという印象を受ける。

気合術の大家は植芝盛平だが、最近の時代はあまり気合のことは言わなくなった。

 

古神道行法全体としては、この外に鎮魂帰神があるわけだが、鎮魂帰神だけでは、肉身の人間としては健康も維持できず不健康となるため、この禊の神事のようなエーテル体、肉体を強化するタイプの行法が置かれている。このような肉体と精神のバランスをとる行法体系は、宗派を問わず伝統的な宗教では普通に見られるものである。

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丹田を錬る-1

2022-11-13 12:21:26 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎生命力の強化

 

私自身が理屈先行タイプであるため、このブログも丹田を錬ることには熱心とは言えなかった。覚醒する、光明に出会うというのは、どうしても肉体的な生命力強化とは逆の方向であるため、丹田を錬ることを優先しては考えられなかったのだ。

 

だが、世間には意外に丹田を錬ることが必要な人間が老若問わずいるものだ。わずか6、70年昔は食事家事をこなすことで半日以上費やすのがあたりまえだったが、今やコンビニへ行きさえすれば、コンビニ弁当を代表に大概のものは手に入るようになり、いわゆる作務、作業を通じて肝を錬る場面は激減したと言ってよい。

 

その結果、丹田を錬ることが必要な人が結構増加している。女性は丹田(肝)は生まれつきできているものであり、女性の丹田(スワジスターナ・チャクラ)は程度の差こそあれ、開いているものである(ダンテス・ダイジ説)。男性は努力して丹田を強化せねばならない。錬らない人のことを腑抜けとも言う。

 

丹田とは、気力、生命力、意志力の源泉であるが、これが現代風のライフ・スタイルにおいてはどうしても阻喪しがち。男性であれば、いわゆる事務仕事しかしない生活となると、画面は見ているが身体は動かさない半日となり、それを継続し中高年になってくると生活習慣病にかかりやすくなる。コロナ下で日がなモバゲーに打ち込む若者も似たようなものだ。

 

丹田を作る、肝を作るとは、エーテル体の強化であり、原因不明の不調や病の原因の結構な割合が、丹田の弱体化ではないかと思われるところがある。

 

丹田のできている人とは、下世話な言い方だが、腹の底から響くような声で話す人であり、与党の幹事長などの政治家などによく見ることができる。

 

だからといって、丹田を開く、丹田を強化することがとにかく善いというわけではなく、反社の親玉ですらドスの効いた声でしゃべるということがあるものだから、ここはあくまで、肚(ハラ)出し、スワジスターナ・チャクラの開顕から大悟覚醒を狙う求道としての丹田の強化を語ってみようと思う。

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禅僧山本玄峰

2022-11-08 09:55:06 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎戦中戦後の首相の相談相手

 

山本玄峰は、終戦勅語の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・・」の文句を授けた人として知られる。

 

彼は、捨て子として出生。若くして失明しかけたのをきっかけに、四国遍路中に寺のお世話になり、その後必死に修行して開悟。

戦中も戦後も要人の相談相手であって、妙心寺派管長までやった。血盟団事件の井上日召と、武装共産党のリーダー田中清玄の二人を帰依させたことでも知られる。

 

ところが、ダンテス・ダイジの山本玄峰評は辛い。昭和36年山本玄峰は、辞世として「これで浮世狂言も終わりだ」と言って、自分で息を止めて臨終したが、終わるはずもない浮世狂言が終わるとは、これこそ浮世狂言ではないかと喝破している(アメジスト・タブレット・プロローグP113)。

 

浮世狂言のある世界と、そもそも浮世狂言のない世界がある。浮世狂言の終わりとは、浮世狂言のない世界に居ることだが、迷いである浮世狂言のある世界と、悟りである浮世狂言のない世界は、パラレルにあると言えるし、ないとも言える。

 

また悟りだけがあるのではなく、迷いがあっての悟りということもある。

 

それはさておき、自分で息を止めて臨終とは、自殺ではないのかとか、禅の指導者がそれでよいのかなど、長年ひっかかっている部分ではある。もっとも中川球童は山本玄峰の介護をしていたともいう。

 

老禅僧といえば、100歳でかくしゃくたる趙州だが、老いさらばえた山本玄峰も老禅僧。これもひとつの公案、立派な禅僧でも介護を受けねばならないのか。

 

禅宗全体として戦中は軍部を支持、その頂点近くに山本玄峰がいて、出口王仁三郎はその期間牢獄に居て軍部とは無縁。

 

もっとも終戦勅語の草案者と言えば、陽明学者の安岡正篤であって、彼もまた歴代首相の相談相手だった。

 

ネットで政治を見ていると、後だしジャンケンのように、ともすればいかにもその時点ですべての環境、条件が判明していて、判断するだけのように見えるが、そうではなく、出目のわからぬ博打を打っているようなものである。世間的には無謬とされる官僚群を率いて、インテリジェンス弱く、米ロ中の狭間で苦悶しつつ、コロナで追い込まれつつでは、首相も誰かに相談したくもなるのだろう。

 

世間では、世論が正しいと思われているが、軍事教育、愛国教育を一切やってこなかった日本では、まともな外交感覚の人は極めて稀れであって、マスコミもほとんど中国批判をしないので、それも世論の歪みを形成している。まことに今の人心は、マスコミと教育をとればほとんど残らないということがネット世論を見ただけでもわかる。

 

世論が信じられないということは、自分の考えが信じられないということだが、我々はそういう情報環境あるいは巨大なマインド・コントロール下で生きているのだ。

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馬祖が瓦を磨いて仏になる

2022-11-07 06:20:53 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎坐禅を学ぶ、坐仏を学ぶ

 

禅の六祖慧能の法嗣の南嶽懐譲が衡嶽の般若寺の住職だった時、馬祖は近くの伝法院で毎日坐禅をしていた。南嶽禅師は彼が見どころがあることを知り、伝法院へ行き質問した。

 

南嶽「坐禅をして何をしようというのか」

馬祖「仏になろうと思います」

すると南嶽は瓦のかけらを拾いあげ、庵の前の石の上で磨きはじめた。今度は馬祖が質問した。

「老師、何をしようとしているのですか?」

南嶽「瓦を磨いて鏡を作ろうとしている」

馬祖「瓦を磨いても、どうがんばっても鏡などできないでしょう。」

南嶽「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」

馬祖「ならば、どうすればよいのでしょうか」

南嶽「牛車に乗っていて動かない時に、車を打つのがよいか。それとも牛を打つのがよいか」

 

馬祖は答えられなかった。

 

南嶽はさらに言った。

「あなたは坐禅を学んでいるのか。坐仏を学んでいるのか。坐禅を学んでいるのなら、禅は坐臥ではない。坐仏を学んでいるのなら、仏に決まった相(定相)はない。無住の法において、まさに取捨してはならない。もし坐仏すれば、仏を殺す。坐相に執着すれば、その理に達しない。」

 

※無住:

如何なるものにもとどまらない。現象も、現象などもないところにあっても、すべては転変し、無常であれば、そのどこにも住することはできない。そうであれば、透徹した孤独感はそこにある。

六祖慧能の「無念を立てて宗となし、無相を体とし、無住を本と為す」を意識している。

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船頭になった巌頭和尚

2022-10-30 15:43:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭和尚は、徳山の嗣法。845年会昌の破仏に遭遇し、寺を焼かれた上、追放されたため、還俗して船頭をやりながら修行。最後は賊に襲われて首を斬られて死ぬがその「 吽 ( うん ) 」と叫ぶ声が数里の外まで響いたという。

 

一休が、巌頭和尚を歌った詩がある。

 

会昌以後 僧形を破る

一段の風流 何似生

トウ(木へんに早)を舞わして未だ為人の手を懐にせず

杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭は杜鵑が月に叫ぶような自然法爾に生きたと歌っている

 

白隠は、この巌頭の無残な最期を知って、当初は修行を積んだ高僧でも賊に首を斬られて死んでしまうのなら、禅も大したことはないなどと高をくくっていたが、後に、「巌頭はまめ息災であった」と悟る。

 

今は国家による信仰弾圧こそないが、風俗紊乱で冥想修行が難しい時代、社会であることには変わりはない。まず自分から。

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