普通の人はまず公案なんて知らないし、禅語録なんて読みもしない。そこでまず公案クイズの紹介。
◎両手を合わせて打てばポンとなるが、片手ではどんな音がする?(隻手の公案)
◎釜の中から富士山を取り出して見てください。
◎仏とはなんですか。
回答例:1200グラムの麻です。(洞山)
(なぜそういう回答になるかが公案)
◎仏法の意味はなんですか 。
回答例:(棒で質問した人をぶんなぐる。)(黄檗)
(なぜそういう回答になるかが公案)
◎仏法の大意は何ですか。
回答例:(かあっーーーーと怒鳴る)(臨済)
(なぜそういう回答になるかが公案)
これら公案は、日常生活ではまず起こらないような、しかも常識では解けない、また相当に深い思索によっても解けない問題が多い。
そしてこれらの問題には唯一の正解があることを前提に考え抜く。
様々な公案を解く努力の中で、知性による方法論は、結局人間のさまざまな欲望に使役され、その欲望満足という仮に構築された実用性の中で成立していることに気づく。そして、実用性を超えた絶対に至るためには、最後には知性は全否定される運命にある。
公案の与える知的洞察は、言葉と知性によって構築されるのであるが、純粋経験と呼ぶべき見性(本来の自分を見ること。見仏。宇宙意識をちらっとでも見ること。悟りの一種。)にまで昇華される必要がある。その結果知性や分別的立場は、全面否定され、喝や棒という根源から来る一撃によって粉砕される。
公案での思弁のように、知性がその限界を見切るような動きになる時、知性は知性自体の力によって自滅し、深遠な智慧としてよみがえる。その智慧とは、究極・宇宙意識の一属性(七チャクラの属性の一つ)である「智慧」である。
一般にジュニャーナ・ヨーガ(知性のヨーガ)はその時代の固定観念を破壊する。
20世紀ではクリシュナムルティの思弁がそうであったように、古代ではソクラテスの対話もそうであった。また禅問答もそのタイプの思弁であった。
そしてテレビ、スマホを始めとする洗脳メカニズムは、そういったまともな洞察に与えるエネルギーを消耗させる形で機能している。
大東亜戦争から復員してきた人が禅寺に入って早々、住職から「公案など役には立たないかもしれませんが・・・」などと言われることがあったほど、戦争の現実は容赦ないものであったろう。同様に、現代を生き抜くのも全身全霊の努力を必要とするものであるから、現代も実は、戦争中並みの理不尽、不条理の嵐の連続であって、これを「生きる現実そのものが公案となっている」と言えよう。
そこで現代では、「公案禅」ではなく、いわばスワジスターナ・チャクラ(丹田)強化onlyの「丹田禅」となるのである。