◎至道無難の悟境
(2005-07-28)
生死即涅槃
生死もしらぬところになをつけて
ねはんといふも いふはかりなり
(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、
涅槃というのはそういうだけのもの)
涅槃(ニルヴァーナ)を直接見た者であって初めて、涅槃とは言葉では表現できないものに対して、仮そめに名をつけたものであるというものであることを確認できる。この言葉があることにより、至道無難が涅槃(ニルヴァーナ、宇宙意識、タオ)を知っていることがわかる。
仏道はありがたしといふ人に
ものごとに心とむなととくのりの
法にこころをとむるひとかな
(仏道はありがたいという人に対して、
ものごとに執着するなと説く仏道の
その法に執着するとはおかしい人だな)
あらゆるものが、仏道の現れであることを知る体験が、仏道の側から起きれば、仏道は確かにありがたいことを知るが。その体験なしにただ「仏道はありがたい」と唱えても、その「仏道はありがたい」という執着すらも捨てないと、仏道の正体にはたどりつけないということだと思う。
強いて仏になろうと願う人に
さかさまにあびじごくへは 落つるとも
仏になるとさらにおもふな
(何とか仏になろうとする人に対して、
たとい逆しまに阿鼻地獄へ落ちようとも
仏に成ろうなど決して思いなさるなよ)
仏というものは、自分を離れてはないのであって、本当の自分ではない「仏」という、よそのものに間違ってもなろうとしてはいけない。
最初の一首は、仏そのものの実感を言い、後の二首は、修行者向けの警句である。
ちゃんと本当のものを知っている人がいて、それを見抜く目を持った周りの人がそれを伝えて、臨済宗の法灯が伝わっていく。臨済宗でなくとも、神道などでも、このようにして、過去連綿としてそれを伝えてきたはずだけど、今の時代に、その生きた真理そのものを持っている人がどの程度残っているのだろうか。文明の衰退とはそんな人が少ないことを言うのだと思う。