◎そのような思いは、ついには一瞬にして止む
(2021-01-23)
歴史とは暴力を記録するもの。これに対し、聖者の言行録とは、言葉にできないものを言葉でなぞるもの。
禅の第三祖僧さんは、北周武帝の仏教弾圧下で、各地を漂泊せざるを得ず、その中で、達磨にも二年ほど仕えたらしい。
OSHOバグワンを読もうとする人ならば、数少ない大書店の精神世界コ-ナーやブッククラブ回などに行って、どれを読もうかと本を選ぶ。その中で「信心銘」は、馴染みのないことから真っ先に切り捨てられる本の一つだろう。その「信心銘」を読んでみる。
OSHOバグワンは、あらゆる「しなさい」「してはいけない」が人を殺すと言う。(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P28)
つまり人は、「愛しなさい、憎んではいけない。」「平和を望みなさい、戦争と暴力はいけない。」「リラックスしなさい、緊張はいけない。」などと、いくらでも頭でやっている。
だが本来愛するのも簡単で、憎むのも簡単なことである。えり好み、好き嫌いが、他人を殺し、弱小民族を圧殺し、敵国を滅亡させ、自分を殺し、あらゆる狂気と暴力の巷を現出するのだ。
そこでOSHOバグワンは、息をすれば生命力プラーナを取り入れられるから「息を吸うだけで呼かないことにしよう」などと唱えてみる。なぜなら吸気は生で、呼気は死、一呼吸一呼吸の間に人は生死を繰りかえすから。だが、息を吸うだけで呼かなければ人は死ぬ。
えり好みをするというのは、そういうことだ。
どうすれば、えり好みをせずにすませるのか。
信心銘から、
「迷えば寂乱を生じ、
悟れば好悪無し。
一切の二辺、妄りに自から斟酌す。
夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。
得失是非、一時に放却す。
眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。
心若し異ならざれば、万法一如なり。
一如体玄なれば、兀爾として縁を忘ず。
萬法斉しく観ずれば、帰復は自然なり。」
これが、OSHOバグワンでは、こうなっている。
『安心も不安も迷いの故だ。
光明とともに、好悪は消える。
すべての是非は、無知なる解釈によって起こる。
夢のようなもの、空中の華のようなもの、
捕らえようとするのは愚かなことだ。
得だとか、正しいとか、間違っているとか、
そのような思いは、ついには一瞬にして止むべきものだ。
ーつの眼が眠らなければ、
一切の夢は自ずから止む。
想いがどんな区別もしなければ、
万物は、そのあるがままで
ただ一つの精髄の顕れになる。
この精髄を理解することが、
あらゆる混乱からの解脱だ。
一切が等しく見えるとき、
永遠の自己に到達している。
そこには比較も比喩も不可能な、
因果の絆の断たれた所だ。』
(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P283から引用)
ここでは、悟りは光明だと謂い、万物の帰っていくところを精髄と呼ぶ。だが、光明も精髄も理解などという言葉も原文にはない。
一切が等しく見えるの「見える」という言葉もなく、「永遠の自己」という言葉もない。一如体玄には見る自分などないからである。
OSHOバグワンの見ているであろう英訳が結構いろいろ問題がある印象である。だがOSHOバグワンは、見る自分のない一如体玄はちゃんとわかっている。
