今朝、雪かきをした。
なのに、また雪が降ってきました。
天気予報どうりに一日中降るのでしょうか?
私はこれから出勤します。
職場でも雪かきをしなくてはならないでしょう。
仕事から帰ってくる11時過ぎはどのぐらい積もっているのでしょう。
帰って来られるかな?
私は、昨日と今日二連休で身体も心ものんびり出来ました。
2日間、トンボの湯に行った。
今日は行くのをよそうかな、とは思ったのですが、
ここのところ寒さのせいか腰痛が再発したので今日も行きました。
温泉につかっていると、腰も膝も気持ちいいです。
心持ち腰痛が治った気がしたのですが、
家に帰って動いているとやっぱり痛くツライです。
立ち上がるのも坐るのも腰が痛い。
トンボの湯は先週までの2週間、月曜日の午後から木曜日まで
メンテナンスということで営業していなかった。
行ってみて分かったのは、内風呂の天井とサウナ室の木製の壁が新しくなっていた。
特にサウナ室では木の匂いがして気持ちよかった。
私はいつもサウナに3分間だけ入ることに決めている。
それ以上は私には拷問です。
今日、3分間サウナ室に1人だった。これは身も心も解放されましたね。
他人がいると腰にタオルなんぞ置いていますが、今日は、そんなことはしません。
露天風呂でもほとんど1人でした。
深さ10センチほどのところで寝っ転がって蒼空を見上げることが好きなのですが、
いつもは腰にタオルをかけている。他人への礼儀としてです。
今日は、そんなもんは必要ありません。
風呂に入って〝隠す〟ということはしたくないが、他人がいればしかたがない。
しかし、今日はそんなことから解放されました。
昨日、料金を払ったときカードをもらった。
3月6日まで土日が500円で入浴出来るというものです。
こんど2月末に軽井沢に来る女房とトンボの湯に来られる。
彼女は私以上に、トンボの湯が大好きです。
しかし、こんな吝嗇な自分が悲しいな。
茨城の貧しい農家に生まれたのでどうしてもお金に余裕が持てないのです。
こんどの土曜日、孫の通う保育園のお遊戯会があると、
嫁から女房にメールが来て、それで、
女房は土曜日に仕事のやり繰りをして行くんだ、というメールが私に来た。
いいな、私も孫のお遊戯会に行きたい。
可愛い孫の演技(何をするんだろう?)を見てみたい。
仕事がなけりゃ日帰りでも行ってきたい。
しかし、そんなわがままは許されません。
世間では、明日から三連休ですね。
そういうときには私は仕事です。
ハイ、真面目に働きます。
「ふんどしかつぎ」とは、なんとヒドイ名前でしょうね。
褌担ぎとは、その世界(業界)で最も地位の低い人のこと。
褌担ぎの解説
褌担ぎとはもともと相撲の世界で序二段以下の力士を意味する。
これはそういった下位の者が関取の褌を持ち運びすることからきている。
これが転じ、様々な世界(業界)で下位の地位にある者のことを褌担ぎと呼ぶ。
(日本語俗語辞典より)
こういう正しい意味を子どものときの私は知りませんでした。
でも、この「ふんどしかつぎ」という遊びは、何回もしましたね。
やることは簡単です。
ただジャンケンをするだけですから。
何人でも遊べます。私たちがしたのはだいたい5・6人です。
まず全員でジャンケンをします。そこで負けたのが「ふんどしかつぎ」になる。
あとの人は、縁側などに坐る。左から右に偉くなっていく。
「ふんどしかつぎ」が、一番左の人とキチンと礼をしてジャンケンをする。
勝つと次の人とジャンケンをする。
負けると相手と交換してそこに坐る。
勝ち続ければ「王様」になれるのです。
「王様」でいてもジャンケンに負けると「ふんどしかつぎ」に戻る。
子どもの頃は、こんな単純な遊びを永遠とやってました。
といっても1時間もすれば飽きて、缶けりや鬼ごっこをしたりした。
「ふんどしかつぎ」は、男女や年齢差も関係なしに遊べたのがよかったのかな?
むかしは、小学生の低学年から中学生まで一緒に遊んでいた。
「かくれんぼ」では「みそっかす」という存在を作ってあそんでいた。
小さい子が見つかっても鬼にならなくてもよかった。
自分が「みそっかす」じゃなくなったときに、一人前になれたと思いましたね。
この「ふんどしかつぎ」に戻りたくなくて、今回の八百長は生まれたのだろうか?
先週茨城に行ったとき呑んだ友人は、小さいときから遊んだ幼なじみです。
パー(メンコ)、ベーゴマ、ビー玉、グンケ(釘倒し)、石けり、
隠れんぼ、缶ケリ、鬼ごっこ、おはじき、チャンバラごっこ、
ダルマさんが転んだ、ドロボー巡査、ふんどしかつぎ、
山に行ってメジロ捕り、ワラビ採り、キノコ採り、ユリ根掘り、
ターザンごっこ、ティアティア(木製の車で坂道を滑る)、
川では魚釣り、ドジョウすくい、田んぼでドジョウ掘り、
池ではザリガニ釣り、などなど、
ふるさとで出来る遊びをすべてやりつくした。
学校から帰るといつも一緒にいた。
中学生になったとき吹奏楽部に入り、
彼はユーホニューム、私がトロンボーンを吹いた。
高校も同じで、吹奏楽部に入った。
文化祭には、フォークバンドを組んでステージでうたった。
小さい頃から18歳までずーっと一緒だった。
高校を出て、彼は長男なので田舎に残り、家電製品を扱う会社に入った。
私は、東京に出ていくつも転職をして、埼玉に暮らし、長野にたどり着いた。
彼は、来年定年を迎える。
でも、会社に嘱託として残れるらしい。
現在の会社で一番長く勤めている人間になったという。
社長もなにかと相談に来るそうだ。
そんな話を聞いて嬉しかった。
彼は、むかしから面倒見のいい人間だった。
彼の長男は現在26歳で理学療法士の学校に行っているという。
大学4年の11月に行きたいといわれたそうだ。
もうすぐ授業料を払う暮らしから離れられると考えていたときなのでがっかりしたそうだ。
2月に国家試験があるという。
それにどうしても受かって欲しいと彼はいった。
長女の子どもは今度小学校に入るらしい。
苦労は多いだろうが彼もいい親父をやっているようです。
久しぶりに彼とうまい酒を呑んで楽しかった。
子どもの頃、毎日一緒にいたときのような気持ちになった。
2人が呑んだ店は私たちの育った集落から4キロほど行った街にあった。
そこに彼の運転する車で行った。
私は、「金を払うから帰りは代行にしよう」というと、
「大丈夫だよ。そんなこと心配すんなよ。
あの店はサービスで代行もやんだよ。その分いっぱい呑まないとな」
10時半まで呑んだ私たちを店の若い者が2人送ってくれた。
田舎ではこういう仕組みになっているんだと感心した。
こうでもしないと呑みに来る客がいなくなってしまうからだろう。
32年前の2月7日に私と女房は入籍した。
誰も祝ってくれないので、自分で〝祝!〟をつけさせていただきました。
それまで同棲という形で暮らしていた。
結婚式を挙げていない私たちには、初めて2人が出会った11月8日と
入籍した2月7日が〝記念日〟となっている。
しかし、〝記念日〟と思っているのは私だけで、
女房はなんとも思ってないようです。
今夜の10時過ぎ電話で話し終わってからいい忘れたことに気がつき、
> 入籍記念日
> 32年目の2月7日だね。
というメールを送信すると、電話がかかってきた。
「あははは、忘れていた」と女房。
これは毎年のことです。
いまさらどうってことはありません。
年末に浅草に行ったときに、池袋から都バスに乗った。
途中、豊島区役所の前を通った。
私は、バスの中からそれを見て昔と同じだな、と思った。
私たちは、豊島区役所で入籍をした(そのとき東長崎に住んでいた)。
それから新宿に行き、三越デパートで結婚指輪を買った。
そして近くの喫茶店で指輪の交換をした。
たしか、指輪の裏に「1979.2.7」と彫ってもらった記憶がある。
そういえばあの指輪はどうしたんだろう?
女房が保存していると思うんだけどな…。
今、豊島区のホームページを見たらこんな文章があった。
> 平成22年12月に豊島区役所の位置に関する条例が改正され、
> 庁舎を南池袋二丁目45番1号に移転することが決まりました。
> 新庁舎は、南池袋二丁目A地区市街地再開発事業で建設され
> る建物の低層部に整備し、平成26年12月末に竣工の予定です。
ということはいつかあの建物は取り壊されるのだろうな。
こんど記念に写真でも撮りに行こう。
32年前、私は26歳、彼女が21歳。
私は大学生協に勤め、あの人は証券会社に勤務していた。
これでしたら、まぁ、普通ですよね。
それなりにまともな社会人です。
そのあと女房は、証券会社を辞め、私も大学生協をいろいろありまして辞めた。
あっというまにとんでもない新婚生活になってしまいましたね。
5月、私は無職、女房は、西武新宿駅の地下のパン屋でバイトをしていた。
7月、公団住宅の抽選に当選した。しかし、無職では入居資格がない。
マネキン会社に就職し、浅草の松屋デパートの地下で
鮭を売って収入証明書をもらい、入居資格を得た。
8月、2人とも無職になって北海道へ1週間ほど旅立った。
金がないので東北本線の電車と青函連絡船で行きました。
9月、私は小さな広告代理店に勤めた。
10月、高島平団地に引っ越した。
11月、女房が妊娠した。
翌年の7月、双子の息子たちが誕生した。
広告代理店といっても、社員が5人の求人広告を取る情けない会社だった。
私は、まったく広告が取れなくて、8ヶ月で転職した。
(そのときのことは2001年12月の九想話「営業マンだった私1~4」に書いてあります)
今、あらためて思い返すととんでもない暮らしでした。
アホな夫婦です。
よくこれまでやってこられたなと、思います。
今朝は聴きました。
日曜日の早朝なのでなかなか聴くことが難しい。
今日の曲は、「イムジン河」だった。
この曲には、私なりに思い出があります。
私が中学3年の冬、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が流行った。
こんなにヒットしたあとの曲は何かな?と考えていた私は、
「イムジン河」と知って感心した。
あのコミックソングのあとにこの曲。
私は、ザ・フォーク・クルセダーズのとりこになった。
そして、その後の「イムジン河」の発売中止。
私はなんのことかさっぱり分からず、中学から高校に行く頃、世の中のことに戸惑った。
今日もなぎら健壱は、〝発売中止〟のいきさつを話していた。
1番は、元歌を翻訳した詞で問題はなかった。
2番が作詞家松山猛の作った詞で、
♪ だれが祖国をふたつに分けてしまったの
というところを、その頃の状況を考慮して自主規制してしまったそうです。
今朝流れたのは、アマチュアのザ・フォーク・クルセダーズに参加していた人が
つくったミューテーション・ファクトリーというグループと、
巌菊地(オム・グッチ)という人のハングル語のイムジン河だった。
この歌については、もっと話したいことがあるので来週も引き続き取り上げるという。
私としては、はしだのりひこの高音の声が素晴らしいザ・フォーク・クルセダーズの
オリジナルが好きだ。
YouTubeを「イムジン河」で検索するといろんなグループの歌が聴けます。
ぜひ、聴いてみて下さい。
来週、「あの頃のフォークが聴きたい~なぎら健壱~ 」を聴けるかな?
「あさしな温泉穂の香乃湯」というところです。
軽井沢の近くの温泉(トンボの湯、千ヶ滝温泉)は、土日は高い。
(一般の方はいつも同じです。軽井沢に住む人にとってはということです)
それで佐久市の温泉に行くことにした。
しかし、佐久市といっても遠かった。
家から25キロあり、車で1時間もかかった。
以前は、浅科村だったそうで佐久市と合併して佐久市になった。
建物は古くあまりきれいではなかった。
私は正直、玄関で気後れしてしまった。
脱衣場にはロッカーはなく、棚のプラスティックの籠に衣類を入れる方式です。
私は、入口に戻って小さなロッカーに貴重品を入れた。
浴室に入ると土曜日のせいか沢山客がいた。
カランが1つだけ空いていた。
その前にあるプラスティックのイスに坐ると割れていて安定が悪かった。
両脇のイスは30センチと高いのに私のは15センチほどで低く惨めな気持ちになった。
うじうじしながら身体を洗い、湯船に入る。
お湯に入ると気持ちよかった。
しかし、浴室が暗い。
すぐ、露天風呂に行く。
外灯が暗いせいか、あたりがよく見えない。
これはこれでいいのだろう。
空には星がよく見えた。
風呂の底は、丸い石を敷いてセメントでかためたものでゴツゴツしていた。
肌ざわりのいい感じではなかった。
あまり人間のことを考慮して造った温泉ではないなと思う。
BGMに森進一や山口百恵の歌謡曲が流れていた。
ジャズの流れるトンボの湯とは大違いだ。
しかし、これはこれで私は好きだ。
口ずさみながらお湯につかっていた。
地元の温泉という感じでお年寄り、中高年の方がほとんどだった。
サウナに入って驚いた。3人で満員だった。
しかし、入浴料が400円ということを考えるとこれはこれでいいでしょう。
なにしろトンボの湯は、一般の客は1200円なのだ。
風呂を出て、女房と穂の香乃湯の感想をいいあう。
女湯は客が少なくて良かったという。
いろいろ不満はあったが、入浴料400円ということを考えたら仕方のないこと、
という意見で一致した。
しかし、リピーターにはならないだろう。
なにしろ遠い。
ここに来るのだったら、小諸のあぐりの湯に行くでしょう。
でも、昼間に来てみたい気もする。
佐久平の景色が綺麗だろうと思う。
穂の香乃湯の帰りに、カインズホームによった。
帰り道沿いにあったからです。
別にどうしても買いたいものなどなかったが行きたかった。
明日、女房は東京に帰る。
なんとなく彼女と、ああだこうだいいながら店の中をブラブラしたかった。
乾電池やローラー掃除器の粘着テープなどの小物と日本酒を買った。
女房は大好きなセルフレジで精算した。
これまで何回やってもなかなかうまくいかずいつも係の女性を呼んだ。
その豊富な経験のせいか今日はうまく出来た。
そんな女房を私は楽しく見ていた。
明日、東京に帰ってしまうんだ。
家に帰って、女房は準備していたトンカツを揚げた。
ハムフライも揚げた。
明日、彼女は東京に帰る。
食事をした。
私はニセビールを呑む。
トンカツがうまい。
ハムフライは私の大好物です。
テレビでは、「めちゃイケ」をやっていた。
所沢に住んでいたときよく女房と観ていたテレビだ。
女房がよく笑っていた。
彼女は、明日、東京に行ってしまう。
おでんが食べたかった。
ツルヤにおでんが何種類も沢山売っているが、
なぜかそれを食べたくなかった。
女房が作ったおでんが食べたかった。
昨日、清瀬の西友で材料は買ってきた。
私の家にも大根、ジャガイモがあった。
それで昨夜、軽井沢に着いてから女房はおでんを作り始めた。
そのときからおでんは煮ています。
今日、私は夜勤、家に帰ったのは11時過ぎだった。
風呂にはお湯がたっぷりあって、家に着いてすぐ風呂に入った。
気持ちよかった。
そして、コタツの前に坐るとニセビールが出てきた。
これはサイコウですね。
質素な食事ですが、私にとっては豊かなありがたい食事だった。
じゃがいもが皮を剥いただけで丸いまま入っていた。
私はジャガイモが大好きです。
やわらかかった。
妻に感謝。

私は今朝、実家を出て東京の女房の家に行った。
女房が金曜日から会社の休みを取って、木曜日の夜に高速バスで軽井沢に行く、
というメールが女房から来たので、
それだったら私が東京に行って一緒に帰ろうと思ったのです。
もともとは、金曜日か土曜日に軽井沢に来るといっていた。
それが女房は1日も早く軽井沢に行きたくなったようだ。
この日曜日に、フラメンコ教室の発表会があり、
1月はフラメンコに打ち込んできた。
それが終わって軽井沢でのんびりしたいという気持ちなのだろう。
茨城の実家から女房の家までは、一般道を走って3時間半ほどで着く。
110キロほどの距離です。
軽井沢の家から茨城の実家までは207キロだった。高速を使って4時間かかる。
女房の家から軽井沢の家までは145キロほどです。
所沢から高速道路に乗ると2時間ぐらいで着く。
しかし、夜の高速道路は怖い。
今夜、女房が会社から帰ってきて清瀬駅で待ち合わせたのが7時頃だった。
そして関越道の所沢インターチェンジに入ったのが7時半頃だった。
車の量もそれほど多くなく快適に走れた。
三芳パーキングエリアと上里サービスエリアでトイレ休憩をした。
あとは停まらず碓井軽井沢インターチェンジまで行った。
あと1つトンネルをくぐったら碓井軽井沢だと思ったとき、
トンネルの入口に軽のワゴン車が燃えていた。
トンネルの右側に追突して車が追い越し車線を横になって塞いでいた。
私は、ワゴン車を横目に左側を通り過ぎた。
道路にはガラスが散らばっていた。
パンクしないかなと怖かった。
それよりワゴン車の横に並んだとき、爆発しないかなと心配した。
なにしろ車が炎に包まれていて、屋根から2メートルほど炎が上がっていた。
事故を起こしてそれほど時間はたってないなと思った。
それじゃ、この事故を警察に知らせなくてはと思った。
碓井軽井沢インターチェンジに人がいたら話そうと思ったが、
私はETCなので料金所に係員がいなかった。
車を停めて建物の中に行こうと考えたが、車を停車するのは危ないと思った。
携帯電話で警察に通報しようと思った。
女房にいうと、「110番でいいの?」と訊く。
「分かんないけど、それでいいんじゃないの」
「ケータイから110番かかるかな?」
かけてみると群馬県警にかかった。
それで見たままを女房が報告した。
名前を訊かれ応えると、
「ご協力ありがとうございました」といわれたらしい。
女房は、電話をかける前は厭がっていたが、警察にちゃっと報告できたあとは、
「電話して良かった」と満足げだった。
家に着いてパソコンを立ち上げ、高速道路の事故情報を見てみた。
上信越自動車道(下り)
松井田妙義IC→碓氷軽井沢IC
規制内容 通行止 理由 車両火災
という記述があった。
それにしても、トイレ休憩をしなかったら、あの軽のワゴン車の真後ろを走っていて、
事故に巻き込まれるということもありえないことではない。
もうちょっと遅かったら、誰かの通報で道路が通行止めになり、
私たちは一般道に降りなければならなかったかも知れない。
もし、私が茨城から軽井沢に帰ってきて、女房が高速バスを使っていたら、
通行止めで軽井沢に着くのが日にちがかわる頃になったかも知れない。
しかし、車が炎上するのを見たのは初めてです。
あらためて高速道路は怖いと思った。
あの運転手はどうなっただろう?