ある課長の自殺

1998年10月24日 | テレビ

 10月23日夜9時半からの、NHKスペシャルを見た。
 2、3日前から、NHKが番組の間にコマーシャルしていたので、これは見
なくてはならないと思っていた。
 女房は、「どうせ大会社の恵まれた人が、ちょっといきずまって死んだんじ
ゃないの。つまんないよ。死ぬんだったら、そんな会社なんか辞めて、がんば
ればいいんだ。いい環境の会社を辞める勇気もなく、その会社のせいで死んだ
なんて、笑っちゃうよ。うちの会社に来てみなよ。イヤだったらすぐ辞められ
るよ。やめたってなにも惜しくないもの。有給休暇のない会社なんて、なんの
未練もないもんね」
 私は、そういう女房に心で腹が立った。なんで大会社と決めつけるんだ、と
思った。中小企業で、上と下の板挟みで苦しんでた課長かもしれないじゃない
か(まるで過去の自分のことだ)、なんて私は勝手に思い込み、その番組を見
るのを心待ちにしていた。
 昨日は会社の人と酒を飲みに行く約束だったので、ビデオに録っておいた。
帰ってきてから風呂に入り、ビデオを見た。
 見て、がっかりした。女房のいった通りだった。ここのところの習慣でメモ
を取りながら見た。しかし、内容を書く気もしない。といっても、番組を見て
ない人には分からないと思うのでかいつまんで書きます(酔ってたから正確じ
ゃないかな)。
 早稲田の大学院を出て勤めたのが、化学プラントを設計する1500人ほど
の会社で、入社したのはバブルの頃でいい成績をあげられた。6年目で通産省
の工業技術院に1年半ほど派遣されて、13年目に課長になった。しかし、バ
ブルがはじけて彼の業績が落ち始めた。それまで、彼が提示する設計や見積も
りそのままでお客は契約してくれたが、その頃から、客の予算でつくらなくて
はならなくなり、それでもなかなか契約が成立しなくなった。会社に泊まり込
みなどして、彼なりに一所懸命やったが、仕事はますますうまくいかなくなっ
た。そして課長ではなくなった。
 ある土曜日、母親に「おれ、会社辞めようかな」といった。母親は、「辞め
てどうすんの」といった。そんなことを彼のお母さんが、取材した人にいって
いた。
 次の日曜日に、彼は会社に行くと出ていって行方不明になった。
 お父さんが、彼のマンションのドアに手紙を貼った。
「会社を辞めてもいいから、帰ってきて下さい」
 なんか哀しいな。お母さんがあのとき、「会社なんか辞めちゃえばいい。な
んとか生きてく道はあるよ」とかなんとかいってれば、彼は死ななかったんじ
ゃないか。いや、そんなこともないか。なにしろ思うのは、彼が小さい頃から、
世の中、何やったって飯は食えるというようなことをいって育ててればよかっ
たのではないか。
 これまで13回転職した私としては、あ…あ、という感じです。そんなに会
社が辛かったら辞めりゃいい。死んでどうなる。あんたの代わりは沢山いるん
だ。
 一緒に見ていた女房が、
「ああいういいところを歩いてきた人は、それまでの道を外れることできない
んだな。私、外れんの恐くないよ。ヒサシ君もそうでしょ」
 その通りだ。私もこれまで辞めちゃ困る会社にいたことない。こんな会社い
つだって辞めてやる、てなとこばかりだった。だから、それなりに忍耐はする
が、辞めると決めたら早い(なんの自慢にもならない)。
 彼は、39歳独身だった。女房子供でもいたら、ちょっとは人生違ったので
はないか。
 つまんない人の人生見せられちゃったな。

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ようこそ先輩

1998年10月23日 | テレビ

 私がよく見る、NHKの番組です。
 今日は、CMディレクターの川崎徹だった。「学校をコマーシャルしよう」と
いう題で、池袋のある小学校での授業だった。
 小学生が活きいきと、あと何年かで閉鎖になろうとしている自分の学校のCM
を作っていた。
 川崎徹も、他の番組では見せないような表情でCMを作る子供たちを見守って
いた。この人はいい人だな、と感じさせられた。
 じつは、野球の日本シリーズを見ていて、番組の半分ぐらいしか見ていない。
 小学生っていいな。

 今日家に帰ると、机に立て掛けて卒業アルバムがあった。どうも女房の、中学
校のもののようだ。週に何度か来ている義母さんが、持ってきたものだと考える。
 かたいページをあちこち探したら、ありました、女房の写真が。いや~ァ、笑
わせてくれる写真でした。
 クラスのところにある彼女の写真は、大きく口をおっぴろげた愛すべきものだ
った。まるで小学生のようだった。なにも、よりによってあんな写真、でも、女
房の中学生らしい写真だった。
 あらためて、なぜおれは女房と所帯を持ったのだろうと、しみじみ考えました。

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ある会社

1998年10月22日 | 会社・仕事関係

 ってったって、私の4月までいたところですが…。
 今日、残業を8時過ぎまで一人でしていて、ふっと前の会社で仲のよかった
やつに電話をしてみようと思い、仕事が片づいてからした。
 最初に電話に出たのは、小学生の息子だった。
「お父さん、お願いします」
 というと、
「しばらくお待ち下さい」
 と、彼の子供だなァ、と思わせる大人びた口調でいった。しばらくして、懐
かしい声が出た。
「**です。元気にやってる?」
 あいつは驚いたようすだった。私の健康の気遣いなんてなしに、すぐ会社の
ことを話し始めた。
 あの会社は大変なようです。
 彼は、私より3つ年下で課長です。9月から、役職手当が2割カットになっ
たという。私も貰っていた45000円の2割、9000円か、辛いなァ。
 シンガポールの営業所、アメリカの事務所も閉鎖になるという。春に始まっ
た、本社工場閉鎖などのリストラだけではすまなかったようだ。
 シンガポールに行っていた奴が帰ってくるという。自宅は、昔から住んでい
る所沢だ。しかし、そいつが日本に帰ってきたら熊本に転勤だそうだ。まだ
33歳で、会社にいるかぎり定年まで熊本だ。なんてったって、勤めるところ
は山梨か熊本しかないのです。
 彼は、シンガポールに家族で行った。そこで赤ちゃんを事故でなくしてる。
おそらく彼は、会社を辞めるだろうな。
 私は、あの会社はあと2年も持たないだろうと判断し、そんなところで単身
赴任しているより、退職して、家族と暮らした方がいいと考えた。なにしろ、
息子たちと暮らせるのもあと何年かです。
 今のところ、予想が当たって喜ぶ気持ちもあるが、4月まで一緒に働いてた
同僚の苦しい状況は、ちょっぴり辛いです。

 今朝ラジオで、最近高校を退学する生徒が多い、といってた。お父さんが、
会社のリストラなどで失業して、授業料が払えない子供が中退するそうだ。
 私にとって、他人事とは思えない話だ。

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ねむい

1998年10月21日 | 暮らし

今日は、とってもねむいので、サボります。

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クラス会

1998年10月20日 | 健康・病気

先週の土曜日、郵便受けのチラシの中に、高校のときの3年1組のクラス会
の葉書があった。
 意外なものがあったので、それを見つけたときとても嬉しかった。意外とい
うのは、高校を出てから始めてのクラス会だからです。ここまでないと、もう
一生高校のクラス会なんてないと諦めていた私です。
 これまで中学の同窓会は何度かあったのだが、高校のはなかった。それも同
窓会でなく、クラス会なのです。何人ぐらい来るんだろう。
 葉書をくれたのは3年1組で委員長をしていたやつだ。同じクラスの女性と
結婚している。私はその女性が少し好きだった。恋心はなかった。
 私の親友(高校のときの友人で、今でも付き合っているのはこいつだけだ)
は、高校時代彼女に惚れていた。
 3年1組は、音楽のクラスだ。2、3組が美術、4組が書道、5組は進学ク
ラスだった。1組には、ブラスバンド部の5人がいた。1人だけ4組だった。
 我が1組は、昼休みや自習の時間に、私がブラスバンドの部室からギターを
持ってきて、よくみんなでフォークソングなどを歌った。けっこうその学年の
中では、まとまったクラスといわれていた。こんな“真面目”で“かたく地味”
な私ですが、なにかとクラスの中心にいました。
 クラス会の日は、11月21日(土)です。その日は、我が社の唯一のお客
である車メーカーの稼働日で会社に行く日だ。なんとか休みをとって、茨城に
行こうと思います。
 45か46歳のおじさん、おばさんになってしまった同級生、顔見ても分か
んないやつが多いだろうな。
 息子が高校3年のときに、私の高校3年のときのクラス会があるなんて、な
かなか人生面白いですね。

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会社と社員の関係が変わる

1998年10月19日 | テレビ

 昨日、「日本再建失業率4.3%・職場は確保できるのか」2回目を見た。
 番組のはじめは、興亜石油という会社を紹介していた。
 業績が悪いので、社長がアメリカから来た人に代わり、会社の組織も大幅に
変わった。その一つは、稟議を通すのに沢山の部署の長の印が必要だったのを
半分以下にした。年功序列を廃し、成果主義を取り入れた。
 次は、松下電器だった。
 退職金前倒しのシステムについて、紹介していた。生涯、松下で働こうと考
えてない若い社員は、そのシステムを受け入れるが、中高年はこれまでの退職
金制度のままだという。
 これまで松下は、年功序列を重んじていたが、ここに来て、成果に基づく年
俸制に変えた。
 携帯電話の開発を担当している部署の課長を取材していたが、あれは大変だ
と思った。半年ごとに自分の目標を上司に報告し、その成果によって自分の年
俸が決まる。その課長は、開発で採用したある部品が適切でなく、製造課長か
らクレームがあり、期日までに目標を達成できなくて、年俸が下がるようだっ
た。
 次は、三和総合研究所だった。4人のグループを取材した。ある予備校のこ
れからの経営の方針をどうしたらいいかを探すのがそのグループの仕事だった。
いろいろな角度からその予備校を研究し、データを集め、これから進む方向を
予備校側に提示するということだ。グループのアイディアが予備校経営者に採
用され、会社からそのグループにボーナスが出た。そのボーナスを4人がどう
いう割合で分割するかという話し合いも、画面に映った。
 もう一つは、見たところ30代の社長が経営するベンチャー企業だった。
 社員は全員、半年ごとに会社と雇用契約を結ぶという。そのときに自分の目
標を申告し、それが達成できないときは、年俸の減額か契約の破棄が待ってい
る。
 この会社は、退職者が多い、とアナウンサーがいっていた。
 私は思う。
 この不況の中で、企業が生き抜くことは大変だ。だから、仕事の出来ない社
員に給料を多くやりたくない、いや、そういう社員はいらない、ということは
よく分かる。だからといって、年功序列をやめて、成果主義に基づく年俸制に
して、いいのか。成績のいい社員ばかりの会社でいいのか…な。
 そりゃ、仕事の出来ない社員が大勢いては困るが、ある程度はいてもいいの
じゃないか。
 アリの集団から、働きアリばかりを集めても、その中から働かないアリが出
てくるらしい。ということは、働かないアリも、ある程度集団の中には必要な
のではないか。なんてことを考えてしまう九想です。そりゃ、仕事の出来ない
奴が同じような給料を貰っているのかと思うと腹は立つ。それでも、そいつは
会社のなにかに貢献(?)しているのではないか。
 目標管理制、成果主義、年俸制など、いつの日かあれはよくなかった、と企
業は反省する日が来るのではないか。
 年功序列、これもあまりいい制度とは思わないが、会社があまりギスギスし
ないだけいいと考える。
 しかし、今の会社で、1週間まともに会社に来ない副課長、見た目に身体の
どこが悪いんだ、と思う課長が、1ヶ月会社を休んでいる。これにはちょっぴ
り腹を立てている。

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逃げ出したい

1998年10月18日 | 健康・病気

 朝、目が覚めたのが8時頃、いつものように「子供電話相談室」をラジオで
聴く。聴きながらうとうとしてしまい、女房の、
「ヒサシ君、9時過ぎたよ」
 という声で蒲団から這いだいした。
 居間にしている部屋に行き、テレビをつけて「新・題名のない音楽会」を見
る。見ているうちにトーストされたパンが出てきた。これが私の今日の朝食だ。
 黒柳徹子が出ていて、「クラシックベストテン」などということをやってい
た。この人はいつまでも素敵だなと思った。女房のお母さんと同じ年なのだ。
それにしても、最近私はクラシックを聴いてないなとしみじみ思った。クラシ
ックを聴くだけの時間が、自分の生活の中にない。貧しいな。
 10時15分、家を出るとき女房に「行くよ」と声をかけたが、隣の部屋で
熟睡していた。黙って出る。今日は、フォークリフトの実地試験の日だ。
 新所沢駅を、電車は10時半に出た。西武本川越駅に着き、駅を出るといつ
もと景色が違った。道路に露天の店がずらっとつながっていた。昨日今日、川
越まつりということを思いだした。まるひろ(デパート)の駐車場を斜めに歩
き商店街に出たところに山車があり、その上でひょっとこがお囃子で踊ってい
た。
 JR川越駅で電車を20分待った。埼京線が台風のせいで遅れていた。私は、
座席に坐り、大沢在昌の「死ぬより簡単」を開いた。
 大宮に着き、台風で遅れた高崎線に乗り、一駅先の宮原駅に着いたのが12
時。道に迷いながら、試験場の集合場所に着いたのが、12時20分だった。
そこにはけっこうな人数が来ていた。みな作業服に着替えていて、それなりの
緊張感を感じた。私も会社の作業服に着替えた。うちのは真っ白なので、目立
って恥ずかしかった。
 私の会社で、もう一人受験するYさんが来ていない。集まっている人の観察
をしながらYさんを待つ。集合時間の12時50分になっても彼は来ない。心
配になった。
 時間になり、女性(おばさんだった)が説明を始めた。終わって、私たちは
実地試験する場所に行った。その途中、クレーンの試験をしている人たちがい
た。世の中不景気でも、こうして資格をとるためにがんばっている人がいるん
だな、と思った。
 現場に着き、4人いる試験官の1人が、試験の流れを説明してくれた。
 私は1組で試験をすることになった。1組の講師が、フォークリフトに乗り
実技試験の説明をしているとき、会社のYさんが到着。私のはらはらする心が
収まった。あとで訊くと、人身事故があって、電車が遅れたという。
 試験の説明を受けながら、「おれはこの試験に通らないな」と思った。
 これまでほとんどフォークリフトに乗っていない私には、難しい。
 昨日、休日出勤したとき、午後4時頃から会社のフォークリフトをいたずら
した。しかし、会社のはバッテリー駆動で、試験はガソリンエンジンだった。
バッテリー駆動には、クラッチはない。ここ何年か、マニュアルの車にしか乗
っていない私は、自信なかった。
 私は、講師が説明するとき、1人声を出して返事をしていた。練習が終わっ
て休憩の時、講師が生徒の質問に、試験の説明をするとき、私は大きく頷いて
いた。なるべくいい印象を与えておこうという、情けない作戦だった。午前中
では、その講師の組で2人が落ちたという。私もそうなるのかな、と不安でい
っぱいになった。
 結果、Yさんは1回で合格し、私は2度目でなんとか合格した。1回目が終
わって結果発表で落ちたとき、私はその場から逃げ出したい気持ちになった。
再試験でも落ちるのは決まっていると思ったのです。
 私たちの組は、ほとんどが20代だった。30代が何人かで、40代は私1
人だった。私が最年長でした。
 オーバーですが、私は試験に合格したことを喜んだ。最近にない開放感を味
わった。先週は、かなり不安な気分で暮らしていました。これで、なんとか今
の会社にいれると思った。落ちたら、いずらいだろうな。なにしろ実地試験で
落ちた者は、これまで会社にいないということだ。
 宮原駅に行く間、私はYさんに何度も確認した。
「おれ、受かったんだよね」
 と。Yさんは、
「大丈夫ですよ。全員合格といったじゃないですか」
「だめなんだよなおれ。信じられないんだ。家に帰ったら、『今日の結果は間
違いでした』なんていう電話がかかってくるんじゃないかと考えてしまうんだ
よな」
 宮原駅では、台風のせいで電車が40分遅れた。でも、合格した私は心が広
かった。
 川越の街は、まつりですごい人だった。私の気持ちも、かなり“おまつり”
だった。
 受かってよかったな、とつくづく思って、じみじみ幸せを感じている私です。
 しかし、学科の結果はまだ出ていない。3週間後です。

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阪神の監督は?

1998年10月17日 | スポーツ

 私は、熱心な阪神ファンではない。
 でも、プロ野球のチームの中でどこが一番好きか? と訊かれたら阪神です。
 昔20代の頃、同じ職場に阪神ファンの人がいた。その人と神宮に阪神、ヤ
クルト戦を見に行ったことがある。阪神が勝って、試合が終わっても六甲おろ
しを知らない者同士で肩組み合っていつまでも歌ったことがあった。
 でも、そのあとすぐにファンになったわけではない。私は、プロ野球そのも
のにあまり興味がなかった。もともと、スポーツから身を遠ざけて生きていた
私でした。
 私がスポーツに興味を持ち始めたのは、30歳頃かな。人間の生き方が…、
人生が凝縮されているものがスポーツだと気づいたのです。
 そうするとどうしても、日本ではプロ野球がメジャーですから、接する機会
が一番多い。その中でどこがいいかな、なんて思ったら、自分の気質に合うの
が阪神だった。
 その阪神が、野村さんに監督就任要請している。
 ある人は、「阪神に野村は合わない」といっていた。
 ある人は、「阪神は、会社でいえば倒産したようなものだから、破産管財人
として、野村はいいのでは」と話していた。
 私としては、野村さんに監督になってもらってもいい。面白いんじゃないか
な。
 弱く、だめな阪神、まるで自分を見てるようで愛着あるんだが、そろそろA
クラスになってもいい。できたら優勝して欲しい。吉田監督になったとき、期
待したんだけどな。
 そろそろ強い阪神を、ビールを飲みながら見たい私です。

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98年秋ハローワーク飯田橋

1998年10月16日 | テレビ

 NHKスペシャル「日本再建失業率4.3%・職場は確保できるのか」という番組
を見た。
 ハローワーク飯田橋に来ている3人の求職者を取材し、報告していた。
 1人は、もとホテルマンの49歳、以前は年収800万円だった。住宅ローン月13
万円があと14年、子供4人で教育費月5万円、生活費が月40万円かかるという。
現在は、食品製造会社で夜11時から5時までアルバイトをしている。時給1080円
昼間求職活動をするために夜働いている。奥さんは2つのパートに行っていて、
二人合わせて月収が24万円。
 これまで30弱の会社に面接に行き不採用だった。やっとあるホテルのフロン
ト係に採用され、10月1日から契約社員として働いている。給料は20万円ぐらい
だ。最初、転職の希望月収を40万にしていたが、20万に下げて就職できたよう
だ。
 2人目は、建設会社の一般事務をしていた45歳の人。初めは、希望職種を一般
事務にしていたが、それでは求人している会社がないので営業に変えた。しか
し、営業に変えても、それなりに経験している人しか募集はない。現在失業中。
 3人目、スーパーで食料品の仕入れを20年間やっていた人。就職に有利なよう
に、職安の技術専門学校でホテルレストラン科で半年学んだが、そこの卒業者
を募集する会社の月給は、20万円ぐらいで、そこへ就職するのは自殺行為にな
るとあきらめた。この人も失業している。
 最後にもう1人、ハローワーク飯田橋には行ってない人で、現在はある建設会
社に在職しているが、会社の転進援助制度というので人材紹介会社に毎日行っ
て、そこで転職活動をしている人。
 その人は、半年で転職先が見つからなくても会社を辞めなくてはならない。
 40代、50代の転職は、この不況下にかなり難しいようです。

 見終わって一言、
「おれは、転職できてよかったな」

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久しぶりの試験

1998年10月15日 | 健康・病気

 今日は、会社の命令でフォークリフトの免許を取るために、学科講習を受け
に大宮まで行った。
 7時10分家を出て、西武新宿線に乗った。平日の通勤時間帯に電車なんぞ
に乗るのは久しぶりです。
 本川越まで行く電車に乗る。この電車は、有があと20分もすれば高校に行
くために乗る電車だ。下りの電車のせいか、座席は埋まっているが、ガラガラ
に空いていた。目についたのは、座席の中ほどに坐っている、短いスカートの
女子校生だ。膝を15センチほど広げていて、いくらスケベなこのおじさんで
も、目をそむけてしまう。反対側の座席にいる、ピアスをしたくずれた感じの
男子高校生が、二人してその女子高校生の膝のあたりをじっと見つめていた。
 毎朝、有はどんなことをこの電車の中で考えてるのか。
 JRの川越駅まで15分ほど歩く。行く人来る人、みな木曜日の疲れを背負
っていた。
 川越線(埼京線恵比寿行き)に待たずに乗った私は、前後左右の乗客たちに
挟まれて、目をつぶってポケットラジオを聞いていた。東洋大学経済学部教授
の松原聡が、バブル以前と現在のことを話していた。この人は、ASAHIネ
ットにホームページを持っている。私、この人好きなんだな。
 大宮はすごい人だ。いつも家から川越のはずれまで、車で通勤している私は
圧倒された。
 講習会場の埼共連ビルに入ると、私と同じフォークリフトの講習を受けに来
たと思われる人間がうじゃうじゃいた。みな、ラフなかっこをしている。なか
には半ズボンの人もいた。
 朝9時から午後4時半まで、じつに眠たかった。じっさい何度か寝てしまっ
た。
 5時から試験だった。15分間。真剣にやりました。
 さて、受かりましたか。こんどの日曜日に実地試験です。

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