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2024年の新年会

2024年01月03日 | 家族

4年ぶりに私の息子たち家族と新年会をした。
前回は2020年1月3日でした。
その年の1月末からコロナが日本中に広がった。
2020年の9月15日に私は、膀胱がんの最初の手術を受けた。
2021年、2022年、2023年は新年会をやめた。
2024年の新年会、長男の息子は小5、娘は小1になっていた。
次男の娘は高校2年生です。
私は、膀胱がんの手術を5回、女房は昨年の9月に膝蓋骨骨折をして手術を受けた。

私たち夫婦と息子たち家族は今日まで生きてきました。
明日からも生きていきます。


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妻の退職

2023年12月15日 | 家族

妻に今朝あらためて確認のために訊いたら、今の職場に2006年9月から勤めているといった。
ということは17年勤めていたことになる。
その前は、私の友人の縁で元NHKのアナウンサーのアシスタントをしていた。
その人はラジオ深夜便のアンカーを今でもしている人で、
あのとき妻は、「にっぽんの歌こころの歌」で流れる曲のエピソードなどを、
毎週調べて原稿を書いていた。
私も日本の歌には興味があったので、妻の仕事に協力していた。
あの頃妻は、ネットで分からないことは東京のあちこちの図書館に行って調べていた。
埼玉の久喜市の図書館に行って調べるなんてこともしていた。

今朝の6:44に「Iさんから、今日の16時から18時に生花が、ヤマトで届くって!」とLINEがあった。
こりゃ夕方、風呂に入らないで待っていなければならないな、と思い「了解」と返信した。
会社から妻はいつも18時過ぎに帰ってくるので、それまでに風呂は入っていたかった。
妻は、朝の6時前には家を出ていた。
今日は午後には雨が降るという天気予報だったので、9時過ぎにウォーキングを始めた。
先週国が、65歳以上の人は1日6,000歩歩くようにと発表したが、私は5,000歩です。
ウォーキングで5,000歩以上歩いていれば、それ以外の暮らしの中で1,000歩ぐらいは歩いている。

16時頃、インターフォンが鳴ったので玄関に行くと、
うちから3軒先の家で外壁塗装をするという業者からのお知らせだった。
そのときに乗用車がうちの前で停まった。
運転していた女性が降りて、後ろの座席に置いていたダンボール箱を持ってきた。
妻の友人が送ってくれた花束だと思った。



大きなダンボール箱で、上から中を見るとキレイな花が沢山あった。
あ~、おれにはこんなものは贈れないな、と思った。
茨城の百姓のせがれにはこんなことはできない。
その友人は昨年の12月に妻の職場を退職した。
退職してもLINEなどで連絡は取っていたようだ。
その人は東京都文京区の生まれだそうだ。
東京都練馬区に生まれた妻も「こんな花束は贈れない」といっていた。



会社の同僚たちから、いろいろな贈り物と寄せ書きをいただいた。
女房は、「私はこんなのはいらないのに」といっていた。
私も45歳のときに200名ほどの会社を退職するときに、寄せ書きの色紙をもらったことがある。

ま、いろいろあったが妻は、今日で会社を退職です。
辞めたときの立場はバイトなので、退職金はない。
私が思うに妻は、そこそこいい会社で仕事ができたと思う。
これからはのんびり生きてほしいと思う。


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夫婦

2023年07月08日 | 家族

6月28日から東北を旅し、7月3日から膀胱がんの手術のために入院した。
東北を旅していたときは妻と意見が合わないことが多く、心がかみあわなかった。
私の足が痛くなり、歩けなくなったこともその原因のひとつだった。
なんとか夫婦間の爆発もなく、7月1日に旅を終えて家に帰ってきた。
そして私は7月2日に仕事に行き、7月3日に大学病院に入院した。
この日が息子たちの誕生日ということが微妙な気持ちだった。
息子たちが生まれて、どのような人間に育てるかということが夫婦の目標になった日です。

入院のときは、女房とは別々な暮らしをしているのでぶつかることはなかった。
必要なことはLINEで連絡をとりあった。
旅しているときは女房と24時間一緒にいる。
入院しているときは、その間離ればなれだ。
夫婦なんてどちらかといえば、離れて暮らすほうがいいのでしょうね。
退院する7月7日、病院に女房に来てもらったときは嬉しかった。

なんだかんだいってもここまで夫婦を続けてきたら、もう〝腐れ縁〟ということですね。
これからもできるだけ女房に感謝して、生きて行こうと思います。

 


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息子たちと夢で会う

2023年06月09日 | 家族

久しぶりに夢を見た。
小学生の息子たちとこの家にいた。
私は40代という感じだった。
息子たちが小学生の頃は、所沢の公団住宅で暮らしていた。
なのに夢では、この鳩山の家だった。
妻はいない。
息子たちの昼食を、私は心配していた。
冷蔵庫の上にある食パンを焼けばいいかと考えた。



そんなところで目が覚めて、夢が終わった。
久しぶりに会った双子の息子たちは可愛かった。
現在、息子たちは42歳、どうして夢では小学生だったのだろう?

私は息子たちが小学5年生の3月まで、残業しないで家に早く帰った日は、
夜の8時ぐらいに一緒に寝ていた。
それは彼らが3歳の頃からしていた。
私は図書館からいつも絵本を借りてきた。
(貧しかったので、本は買えなかった)
それを寝るときに、息子たちが読んで欲しい本を持ってこさせて布団に入った。
その本を私は、両脇の息子たちに読んで聞かせた。
本を読まないで私は、いろんな話をしたときもあった。
「UとK(息子たち)の大冒険」の物語を語ったときもあった。
息子たちが小学6年になるときに学校から、6年になったら性教育をするという連絡があった。
そういうことは私の口から話したかった。
それで、明日からは一緒に寝ないと決めた小学5年生の最後の夜に、
私は息子たちに、人間はどうゆうことをして子どもが生まれるかということを話した。
その翌日から、私は息子たちと一緒に寝ることはやめた。

私は、小学5年までの息子たちとは沢山話した。
しかし、それ以後の息子たちとはあまり話すことは少なくなった。
それからは息子たちとはほとんど会話はない。
私の自分のことを思うと、親父とはほとんど会話なんてものはなかった。
私は6人きょうだいの末っ子で、親父が40歳のときの子どもです。
私が小学生の頃、親父はおじいちゃんだったのでほとんど会話はなかった。
私が20歳を過ぎて酒を飲むようになってからは、親父と話すようになった。

現在、コロナ禍のこともあり、息子たちに会えてない。
5月に家に来た長男とは、ほとんど会話をしていない。
私は心のどこかに、小学5年生までの息子たちと沢山話したからいいか、という想いがある。
出来れば息子たちと酒を飲んで話したいのだが、それが難しい。
ま、息子たちとその家族が健康に暮らしているのならいい。
私は九想話を書きながら、3リットル1,300円ほどの日本酒をちびちびやれたら幸せです。

 


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息子と孫娘からのLINE

2023年05月28日 | 家族

今回の私の膀胱がん再発のことを、息子たちに連絡しておいてほしい、と妻に頼んだ。
これまでは私が自分で連絡していた。
でも今回は、5回目の手術をすることは、私から連絡しずらかった。
そうしたら昨日次男から、「手術がんばって」とLINEが来た。
高2の孫からは、
「また癌の手術をするって聞きました!大変だろうけど、頑張ってね」とLINEが来た。

うれしかった。
家族のためにも私はめげていられない。
これからのがんの手術、その後の治療に前向きにがんばらなくてはと自分に言いきかせた。


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GWに孫が来た

2023年05月07日 | 家族

5月4日(木)に孫がわが家に来てくれた。
息子が2人を連れてやってきたのです。
長男が小学5年生で長女が1年生になっていた。
去年の11月に遊びに来てくれたのに、妻も私もそのへんのところを忘れていた。
長女はまだ幼稚園にいるのかな、と思っていた。
私が11時半ぐらいにバス停に迎えに行くと、ちょうどバスが停まって降りてきた。

家に入って長女が手紙をくれた。
お寿司を食べながら、長女も長男も一所懸命いろんなことを話してくれる。
おばーちゃんもおじーちゃんも必死に2人の話を聞いていた。
食事が終わってから、最近長女がピアノを習い始めたといって、
うちのピアノを弾いてくれた。
まだたどたどしい指の動きだった。
長男は、花壇の雑草を取ってくれた。
庭で、おばーちゃんが100円ショップで買ってきたシャボン玉を飛ばして遊んだ。
トランプのババ抜きや神経衰弱もやった。

3時頃、息子と孫たちを妻と私がバス停まで送って行った。
家に帰ってきた私たちに快い疲労があった。
孫は来る喜びがあるが、帰る安らぎもありますね。

今日、サボテンの花が3つ咲いていました。


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幸福な疲労

2022年10月29日 | 家族

今日、長男の家族が久しぶりに私の家に来た。
前回来たのが、2020年1月3日の新年会です。
それ以降、コロナのために家に来ないようにいっていた。
長男の息子が小学4年生、娘が幼稚園の年長になっていた。
昼前に来ると連絡があったので、私は11時40分頃にバス停に行った。
12時10分前にバスがやってきて、そのバスから孫たちは降りてきた。
家に行く間、孫2人が私に話しかけてくる。
どちらも自分のことをがんばって私に話すので、
私は2人のいっていることを聞き分けることが大変だった。
私は一所懸命、孫たちのいうことに相づちを打ち話しかけた。

家に着いて、引き続いて孫たちは話し続けていた。
私の妻もそれに必死に応えていた。
妻は、朝スーパーで買っておいた寿司などをテーブルに並べた。
食事が終わってから、花壇にチューリップの球根を埋めることにした。
先日、私たちはホームセンターで球根を買っておいた。
50コで980円だった。
40コぐらい花壇に植えた。
残りは孫たちが持ち帰って、プランターに植えて育ててもらうことにした。
孫たちに、「来年チューリップが咲いたら見に来てね」と話すと、
「うん」と頷いてくれた。

それからいろんなことがあったが、私が疲れたので今日は書けません。
午後3時過ぎに、孫たちは帰って行った。
息子の家族が帰ってから私は昼寝をした。
妻は夕方、ソファーで寝た。
70歳と65歳の私と妻は、とても疲れてしまいました。
でも、とても幸福な疲労でした。


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きょうだい

2022年10月03日 | 家族

私のきょうだいは6人(女3人と男3人)です。
長男が3歳で流行病(ハヤリヤマイ)で亡くなった。
長女は今85歳で茨城の施設にいる、次女は2年前80歳で東京で亡くなった。
三女は76歳、神奈川で義兄と暮らしている。
次男は現在72歳(10月10日で73歳になる)で、1人で茨城で暮らしている。
私のきょうだいは仲がいいです。
姉たちが元気なときは、きょうだいで旅行をしていた。
私と妻も都合がつけば参加した。
私が軽井沢で暮らしていたときには、きょうだいを軽井沢に呼んで、
軽井沢を私が車で案内してから草津温泉まで行った。
2010年08月20日九想話「きょうだい」
2010年09月11日九想話きようだい旅行1
2010年09月12日九想話きようだい旅行2
2010年09月14日九想話きようだい旅行3
2010年09月16日九想話きようだい旅行4

きょうだいで日光に行くとなったときは、私と妻は軽井沢から車で日光まで行った。
そのときは私の、3年遅れの還暦祝いをしてくれた。
2015年09月17日九想話「日光を歩く」

ほんとうに仲の良いきょうだいです。
しかし今は、コロナ禍でまったく会ってない。
今年の年末には茨城に帰って、兄と姉に会いたいです。


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孫の誕生日

2022年09月14日 | 家族

9月19日は、長男の長女の6歳になる誕生日で、今は幼稚園の年長です。
9月22日は、次男の長女の誕生日で16歳の高校1年生です。
どちらとも3年ほど会ってない。
身長や顔など、変わってしまったんだろうな。
6歳になる孫とは一番可愛い時期のときを見ていない。
高1の孫の、中学生だったときの姿を見ていない。
このコは、スマホを持っているのでLINEでのつながりはある。
庭にバラなどの花が咲いたとき、野菜が実ったときに写真を送っている。
昨日、じいじとばあばは、2人の孫に小遣いとお菓子を送った。
このぐらいしか、現在の私たちが孫たちにしてあげられることはないのです。
来年の正月には新年会を開いて、孫たちに会いたいです。
コロナはどうなっているのでしょうね?


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父と母のこと

2022年07月04日 | 家族

今日は、おふくろの誕生日です。
そんなことから、父と母のことをいろいろ思ったりした。
私は何年か前、両親のことをまったく知らなくて情けなくなり、調べてノートに書いた。
父の生年月日は、1909年(明治42年)3月15日、
母は、1914年(大正3年)7月4日です。
私は6人きょうだいの末っ子で、父が43歳、母が38歳のときに生まれた。
父兄参観のときに母が来ると、他のお母さんより年取っていてなんかいやだった。
長女、次女、三女、長男、次男、そして三男の私です。
長男は3歳で赤痢で亡くなっていて、私は中学ぐらいまで5人きょうだいと思っていた。
なので私はずーっと次男だと他人(ひと)にはいっていた。

父は、酒と歌が好きな人でした。
(そのことは、今の私そのものです)
地域の盆踊りの日には、やぐらの上で歌っていた。
他の人が歌うときは、太鼓を叩いていた。
私が中学生になったときに吹奏楽部に入ったのは、親父の血を引いたからでしょう。
私が高校3年のとき、私たちの吹奏楽部(創部して5年)が初めての定期演奏会を開いた。
そのとき親父が1人で見に来ていた姿を、忘れられません。
定期演奏会のプログラムで、私がトロンボーンで1曲、ソロを吹いたのがあった。
もともとそれはアルトサックス用の楽譜だった。
それを顧問の先生がトロンボーンの私に吹かせてくれた。
どんな想いで父はあの会場にいたのだろうか?

母は、朝一番早く起きて食事の用意をして、夜遅く最後にお風呂に入って寝ていた。
「かあちゃんは、寝るのがいじばん(一番)すぎだ~」といつもいっていた。
私の子どもの頃は、竈に薪をくべてご飯を炊いていた。
水道はなく、15mほど離れていた井戸から釣瓶で水を汲みバケツで風呂まで運んだ。
洗濯は、井戸端でタライで洗う。
それは過酷な家事だったと思う。
そんな家事をしてから、父と一緒に母は農作業をやっていた。
あの母のことを思うと、母に対して感謝しかない。
母は、85歳ぐらいからぼけて私のことが分からなくなった。
母のいる特養老人ホームに私が行くと、
「遠いところからいつもすみません。どちらのひとですか?」
といつもいわれたことが哀しかったです。

父は82歳、母は90歳で他界しました。
私はどうも、両親の歳まで生きられそうにありません。
でもなんとか、がんに静かになっていただいて、父・母の寿命に近づきたいです。

コメント (2)
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