《話を聞いてください》
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたは助言を始めます
でもわたしは助言など望んではいないんです
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたはその理由について解明しはじめます
申しわけないとは思うけれど、私は不愉快になります
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたは解決策を必死に考案しようとしてくれます
でもそれは、私の気持ちに反するのです
祈ることに慰めを見いだす人がいるのはこのせいかもしれません
神は無言だということです
無言の神は、助言したり調整したりはしません
神は聴くだけで、悩みの解消は私に任せてくれます
だからあなたもどうか黙って私の話を聞いてください
話したかったら、私が話し終わるまで、少しだけ待って下さい
そうすれば私は必ず、あなたの話に耳を傾けます
------------------------------------------------
あい子さん(仮名)は2年ほど前に夫を見限って別居しました。夫にとっては寝耳に水、青天の霹靂そのものでした。ある日いつものように会社から帰宅してみたら、妻と子どもの姿がない。二人の荷物もあらかた消えている。裏切られた、傷つけられた、俺の何がいけなかったというんだ。夫は憎しみと怒りの塊になりました。
あい子さんにしてみれば、長く悩み苦しみ、思いを夫に訴えてはつっぱねられ、もうどうにも耐えがたくなってから、準備を重ねた上でのことでした。あるていどまとまったお金を確保し、アパートも借り、一人娘の転校の手配もし、とうとう別居せざるを得なくなるまでの彼女の側の事情も丁寧な置き手紙にしたためました。
けれど、あい子さんの事情がどうあれ夫は怒り、混乱するしかありません。突然の別居以降、夫はあい子さんの実家を通じて、怒りと憎しみの非難や説教を投げかけてきました。あい子さんはそれらのメッセージに痛みを感じながら、深いため息を繰り返しました。
「ああ、やっぱり少しも分かってくれない。ほんのわずかでも分かろうとしてくれない。彼にとって私の悩みや苦しみは他人事でしかなかったのだ」。あい子さんはどうしても離婚するしかないという決意の上で別居に踏み切ったわけではありませんでした。けれども、少しもあい子さんの気持ちを汲み取ろうとしない夫にさらに落胆し、非難の痛みが重くなるにつれ、離婚の決意を固めてゆきました。
あい子さんと夫は幾度となく手紙をやり取りしました。夫は常に、「なぜなんだ、わからない」と問い続けました。あい子さんはそのたびに説明しました。 「なぐったわけでもない、裏切ったこともない、経済的な不満もなかったはずだ。子どもだってかわいがってきた。それなのに、どこにどんな不満があったというのだ。行き違いはあったとしても、突然に別居されるほど悪いことをした覚えはない」、夫はそう繰り返しました。
「そうね、なぐられたわけではないわ。経済的には満たされていた。子どもへの態度に不満はなかった。でも、あなたは私を尊重してくれなかった。私の気持ちを意に介さなかった」、彼女も繰り返し説明しました。
「尊重しなかったつもりはない。そんなにお前が悩んでいたなんて気づけなかっただけだ」。夫は応じました。「ああ、やっぱりわかってくれないんだ」。あい子さんは落胆を深める一方でした。
女性の中には、あい子さんの気持ちをリアルにイメージできる人も幾人かおられるかもしれません。けれども多くの熟年男性にはきっと、何がなんだかさっぱり分かりません。理解しようにも理解できないのだ、と思ったほうがよいかもしれません。
尊重できなかったところがある、悩みや苦しみに十分耳を傾けなかったことも多かった。だからといってそれだけで別居や離婚を考えなければならないのがわからない。第一、娘がかわいそうじゃないか。母親の身勝手や我慢の足りなさで両親が別れてしまうのは娘を犠牲にすることではないか。夫の反論は、そのレベルにとどまりました。
「ところで、今にして振り返ってみると、ご主人さんの落ち度は何だったのでしょうね。あらためて考えてみて、彼の何が、あなたの心に決断をさせてしまったのでしょう」。
「あらゆる場面で、私の意志や願いが無視された。つらい気持ちが軽視された。そのことがどうしても耐えられませんでした。私は夫から暴力を受けたことがないから、ほんとうのところはわからないけれど、たとえ一度や二度なぐられたことがあったとしても、彼が私の意志や願いを受けとめ、つらい気持ちに寄りそってくれる人だったら、離婚なんて考えもしなかったと思います」。
あい子さんは別居してまもなく、夫のお母さんと会いました。「なぜなの」と問う義母に、あい子さんはあるがままの自分の気持ちをていねいに説明しました。すると義母は「そう…。それならしょうがないわね」とうなずかれたのでした。
「息子の父親(つまり義母の夫)もまったく同じで、身勝手で鈍感な人。なにもかも、何の相談も問いかけも配慮もせずに、自分だけで決めつけて、いつだって事後報告、いいえ、報告や説明なんてほとんどしない。でも、私は我慢し続けた。あきらめてあきらめて、自分をないがしろにしてきた。良かったのか悪かったのかわからないけれど、そのほかの生き方なんか考えられなかったの。あい子さんの気持ち、とてもよくわかるわ。息子の心中や孫のことを思えば、母親として胸も痛むけれど、しょうがないわね」。義母はほんのわずかも責めることなく、意見することもなく、あい子さんの決意と思いを受け止めてくれたと、あい子さんは言います。
私はすべての男性に警告したくなります。社会的地位や経済力だけで女性の心をつなぎとめることなどできないよ。身勝手じゃダメ。誠意を持って説明責任を果たさなくちゃ。手を上げるだけが暴力じゃない。語り合わなくちゃ。妻の心に、黙って、ひたすらに耳を傾けるときを持たなくちゃ。妻が聞いてくれるときには、自分の心も開いて語らなくちゃ。そうじゃなかったらお互いの心が何も分からなくなってしまう。問わず語らずの阿吽の呼吸なんて、老境の夫婦にだってむずかしい。
「人間としての未熟」は「コミュニケーションできない状態」でもあります。心を交し合えない。人間としてそれほどの未熟はありません。説明するのは面倒くさい、話を聞くのも面倒くさい。だから自分一人で決めて押しつける。それこそ未熟な心がする横暴です。カウンセリングルームにやってくる妻たちは異口同音に訴えます。
「話を聞いてくれない」
「何を相談しても上の空」
「まじめに話しているのに目はテレビ」
「私の話を半分も聞かずに、ご意見、非難、アドバイス」
「何かといえば、おまえは甘いとか、しょせん女は…で終わり」etc...
誤解されないように明記しておきましょう。離婚の陰には異性の存在がありがちです。けれどあい子さんに、その気配は全くありません。彼女に咎があるとすれば、耐えて我慢しすぎる心のクセでしょう。つらさ、苦しさ、腹立ちを、もっとはっきり強く訴え続けていたなら展開は違っていたかもしれないし、夫も気づけるチャンスがあたかも知れません。冒頭の「話を聞いてください」という詩はカウンセラーの間では比較的よく知られている詩です。通常は、母親に向けて「子どもの心を理解する第一歩ですよ」などの説明とともに伝えられるものです。
この詩は、男性のみならず女性も、深くじっくり味わってほしいものです。つまるところ、人間的未熟とは、話を聞けないこと、イコール相手を尊重しないこと。成熟とはじっくり黙って聞き続けられること、イコール相手を尊重できること。人間的未熟は経済力や社会的地位で補いきれるものではありません。ちなみに、心理カウンセラーになるためにもっとも重視されるのは「聞き上手」になるための訓練です。自戒をこめていうなら、未熟なカウンセラーは「聞く」よりも「アドバイスや話題提供」に熱中しがちです。未熟はどこにだって転がっているものです。
(「『未熟な夫』と、どうつきあうの?」/ 山崎雅保・著)
-----------------------------------------------------
わたしがエホバの証人にいつづけることが、もうどうにもできなくなったのは、これなんです。私の本当の気持ちをエホバの証人の人たちはだれも真剣に取り上げようとはしませんでした。本音を話そうものなら、本音の内容によっては「危険人物」扱いになることもあるのです。いつも自分の本当の気持ちを抑えて、みんなに受ける自分でいなければならない。イヤミを言われ続けて、ずっと「謙遜に受け入れてきた」けれど、今日はもうそんな気分じゃない、そう思って奉仕を休んだり、集会を休んだりすると、「どうしたの?」って、電話が来る。「どうしたの」って、あんた、わからんかい? あれだけイヤミを言われれば意気消沈するのが人間だろ? 分かってて「どうしたの」って訊くのは、じつは責めているんです。つまり「長老が不完全さを表しても、集会に集わないのはアナタが間違っているよ」という意味です。組織を通して与えられる「霊的教育」はいわば信仰を養う「食事」である。イスラエル人は荒野を放浪しているとき、天から備えられたマナに不平をとなえたために、エホバへの不敬罪に問われた、アナタも同じ轍を踏むのか、と。
成員が集会を休みはじめるのは、組織、会衆の人たちのやり方に不満があるということ、あるいは自分はそれについていけないということ、自分の本当の気持ちはそんなことじゃないということ。それをあたまから否定して、組織的手順に自分を合わせることだけを要求し続ける、拒否するのは「甘え」「わがまま」「未熟さ」だという。いいえ、違います! 人間は心、感情で行動するもの。心、感情を否定されてニコニコ笑ってなんかいられない。人の気持ちを尊重することが「人間的成熟」です! 未熟なのはあなたたちのほうですよ! 人生を喜ぶことを、否定しなければならないんですね、あなたたちは。自分が喜び、愉しむことよりも、長老たちや組織の人たちに認めてもらうことのほうが大事なの? それって、「自分を見失っている」っていうことでしょう?
エホバの証人にはいい人もいるかもしれない、いいことも言うかもしれない。でも、個人の尊厳を否定しようとする精神態度にはついていけない。愛する人やいい人たちがいても、わたしは、日本国憲法が保障しようとする個人の尊厳の尊重のほうについていきます。わたしは、わたしの望むことを追い求めます。自分の内側から自然と湧いてくる興味、意欲、関心、それらがわたしを充実させてくれるからです。もう偉い人たちに認めてもらわなくてもいいんです。大会のステージに上がって、経験を話したりできる「特権」を与えられなくてもいいんです。興味、関心が同じ人たちの中には、わたしの努力や挑戦を認めてくれる人がいます。その人たちは、わたしをその人たちの思惑通りうごかそうと操作する目的で褒めたり認めたりするわけじゃない。素直にいいと思ったから、それをそのとおり表現してくれるんです。自分の感じたことを素直に言い表せるって、これこそが自由だとわたしは今、声を大にして表明することができます。
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたは助言を始めます
でもわたしは助言など望んではいないんです
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたはその理由について解明しはじめます
申しわけないとは思うけれど、私は不愉快になります
私の話を聞いてくださいと頼むと、あなたは解決策を必死に考案しようとしてくれます
でもそれは、私の気持ちに反するのです
祈ることに慰めを見いだす人がいるのはこのせいかもしれません
神は無言だということです
無言の神は、助言したり調整したりはしません
神は聴くだけで、悩みの解消は私に任せてくれます
だからあなたもどうか黙って私の話を聞いてください
話したかったら、私が話し終わるまで、少しだけ待って下さい
そうすれば私は必ず、あなたの話に耳を傾けます
------------------------------------------------
あい子さん(仮名)は2年ほど前に夫を見限って別居しました。夫にとっては寝耳に水、青天の霹靂そのものでした。ある日いつものように会社から帰宅してみたら、妻と子どもの姿がない。二人の荷物もあらかた消えている。裏切られた、傷つけられた、俺の何がいけなかったというんだ。夫は憎しみと怒りの塊になりました。
あい子さんにしてみれば、長く悩み苦しみ、思いを夫に訴えてはつっぱねられ、もうどうにも耐えがたくなってから、準備を重ねた上でのことでした。あるていどまとまったお金を確保し、アパートも借り、一人娘の転校の手配もし、とうとう別居せざるを得なくなるまでの彼女の側の事情も丁寧な置き手紙にしたためました。
けれど、あい子さんの事情がどうあれ夫は怒り、混乱するしかありません。突然の別居以降、夫はあい子さんの実家を通じて、怒りと憎しみの非難や説教を投げかけてきました。あい子さんはそれらのメッセージに痛みを感じながら、深いため息を繰り返しました。
「ああ、やっぱり少しも分かってくれない。ほんのわずかでも分かろうとしてくれない。彼にとって私の悩みや苦しみは他人事でしかなかったのだ」。あい子さんはどうしても離婚するしかないという決意の上で別居に踏み切ったわけではありませんでした。けれども、少しもあい子さんの気持ちを汲み取ろうとしない夫にさらに落胆し、非難の痛みが重くなるにつれ、離婚の決意を固めてゆきました。
あい子さんと夫は幾度となく手紙をやり取りしました。夫は常に、「なぜなんだ、わからない」と問い続けました。あい子さんはそのたびに説明しました。 「なぐったわけでもない、裏切ったこともない、経済的な不満もなかったはずだ。子どもだってかわいがってきた。それなのに、どこにどんな不満があったというのだ。行き違いはあったとしても、突然に別居されるほど悪いことをした覚えはない」、夫はそう繰り返しました。
「そうね、なぐられたわけではないわ。経済的には満たされていた。子どもへの態度に不満はなかった。でも、あなたは私を尊重してくれなかった。私の気持ちを意に介さなかった」、彼女も繰り返し説明しました。
「尊重しなかったつもりはない。そんなにお前が悩んでいたなんて気づけなかっただけだ」。夫は応じました。「ああ、やっぱりわかってくれないんだ」。あい子さんは落胆を深める一方でした。
女性の中には、あい子さんの気持ちをリアルにイメージできる人も幾人かおられるかもしれません。けれども多くの熟年男性にはきっと、何がなんだかさっぱり分かりません。理解しようにも理解できないのだ、と思ったほうがよいかもしれません。
尊重できなかったところがある、悩みや苦しみに十分耳を傾けなかったことも多かった。だからといってそれだけで別居や離婚を考えなければならないのがわからない。第一、娘がかわいそうじゃないか。母親の身勝手や我慢の足りなさで両親が別れてしまうのは娘を犠牲にすることではないか。夫の反論は、そのレベルにとどまりました。
「ところで、今にして振り返ってみると、ご主人さんの落ち度は何だったのでしょうね。あらためて考えてみて、彼の何が、あなたの心に決断をさせてしまったのでしょう」。
「あらゆる場面で、私の意志や願いが無視された。つらい気持ちが軽視された。そのことがどうしても耐えられませんでした。私は夫から暴力を受けたことがないから、ほんとうのところはわからないけれど、たとえ一度や二度なぐられたことがあったとしても、彼が私の意志や願いを受けとめ、つらい気持ちに寄りそってくれる人だったら、離婚なんて考えもしなかったと思います」。
あい子さんは別居してまもなく、夫のお母さんと会いました。「なぜなの」と問う義母に、あい子さんはあるがままの自分の気持ちをていねいに説明しました。すると義母は「そう…。それならしょうがないわね」とうなずかれたのでした。
「息子の父親(つまり義母の夫)もまったく同じで、身勝手で鈍感な人。なにもかも、何の相談も問いかけも配慮もせずに、自分だけで決めつけて、いつだって事後報告、いいえ、報告や説明なんてほとんどしない。でも、私は我慢し続けた。あきらめてあきらめて、自分をないがしろにしてきた。良かったのか悪かったのかわからないけれど、そのほかの生き方なんか考えられなかったの。あい子さんの気持ち、とてもよくわかるわ。息子の心中や孫のことを思えば、母親として胸も痛むけれど、しょうがないわね」。義母はほんのわずかも責めることなく、意見することもなく、あい子さんの決意と思いを受け止めてくれたと、あい子さんは言います。
私はすべての男性に警告したくなります。社会的地位や経済力だけで女性の心をつなぎとめることなどできないよ。身勝手じゃダメ。誠意を持って説明責任を果たさなくちゃ。手を上げるだけが暴力じゃない。語り合わなくちゃ。妻の心に、黙って、ひたすらに耳を傾けるときを持たなくちゃ。妻が聞いてくれるときには、自分の心も開いて語らなくちゃ。そうじゃなかったらお互いの心が何も分からなくなってしまう。問わず語らずの阿吽の呼吸なんて、老境の夫婦にだってむずかしい。
「人間としての未熟」は「コミュニケーションできない状態」でもあります。心を交し合えない。人間としてそれほどの未熟はありません。説明するのは面倒くさい、話を聞くのも面倒くさい。だから自分一人で決めて押しつける。それこそ未熟な心がする横暴です。カウンセリングルームにやってくる妻たちは異口同音に訴えます。
「話を聞いてくれない」
「何を相談しても上の空」
「まじめに話しているのに目はテレビ」
「私の話を半分も聞かずに、ご意見、非難、アドバイス」
「何かといえば、おまえは甘いとか、しょせん女は…で終わり」etc...
誤解されないように明記しておきましょう。離婚の陰には異性の存在がありがちです。けれどあい子さんに、その気配は全くありません。彼女に咎があるとすれば、耐えて我慢しすぎる心のクセでしょう。つらさ、苦しさ、腹立ちを、もっとはっきり強く訴え続けていたなら展開は違っていたかもしれないし、夫も気づけるチャンスがあたかも知れません。冒頭の「話を聞いてください」という詩はカウンセラーの間では比較的よく知られている詩です。通常は、母親に向けて「子どもの心を理解する第一歩ですよ」などの説明とともに伝えられるものです。
この詩は、男性のみならず女性も、深くじっくり味わってほしいものです。つまるところ、人間的未熟とは、話を聞けないこと、イコール相手を尊重しないこと。成熟とはじっくり黙って聞き続けられること、イコール相手を尊重できること。人間的未熟は経済力や社会的地位で補いきれるものではありません。ちなみに、心理カウンセラーになるためにもっとも重視されるのは「聞き上手」になるための訓練です。自戒をこめていうなら、未熟なカウンセラーは「聞く」よりも「アドバイスや話題提供」に熱中しがちです。未熟はどこにだって転がっているものです。
(「『未熟な夫』と、どうつきあうの?」/ 山崎雅保・著)
-----------------------------------------------------
わたしがエホバの証人にいつづけることが、もうどうにもできなくなったのは、これなんです。私の本当の気持ちをエホバの証人の人たちはだれも真剣に取り上げようとはしませんでした。本音を話そうものなら、本音の内容によっては「危険人物」扱いになることもあるのです。いつも自分の本当の気持ちを抑えて、みんなに受ける自分でいなければならない。イヤミを言われ続けて、ずっと「謙遜に受け入れてきた」けれど、今日はもうそんな気分じゃない、そう思って奉仕を休んだり、集会を休んだりすると、「どうしたの?」って、電話が来る。「どうしたの」って、あんた、わからんかい? あれだけイヤミを言われれば意気消沈するのが人間だろ? 分かってて「どうしたの」って訊くのは、じつは責めているんです。つまり「長老が不完全さを表しても、集会に集わないのはアナタが間違っているよ」という意味です。組織を通して与えられる「霊的教育」はいわば信仰を養う「食事」である。イスラエル人は荒野を放浪しているとき、天から備えられたマナに不平をとなえたために、エホバへの不敬罪に問われた、アナタも同じ轍を踏むのか、と。
成員が集会を休みはじめるのは、組織、会衆の人たちのやり方に不満があるということ、あるいは自分はそれについていけないということ、自分の本当の気持ちはそんなことじゃないということ。それをあたまから否定して、組織的手順に自分を合わせることだけを要求し続ける、拒否するのは「甘え」「わがまま」「未熟さ」だという。いいえ、違います! 人間は心、感情で行動するもの。心、感情を否定されてニコニコ笑ってなんかいられない。人の気持ちを尊重することが「人間的成熟」です! 未熟なのはあなたたちのほうですよ! 人生を喜ぶことを、否定しなければならないんですね、あなたたちは。自分が喜び、愉しむことよりも、長老たちや組織の人たちに認めてもらうことのほうが大事なの? それって、「自分を見失っている」っていうことでしょう?
エホバの証人にはいい人もいるかもしれない、いいことも言うかもしれない。でも、個人の尊厳を否定しようとする精神態度にはついていけない。愛する人やいい人たちがいても、わたしは、日本国憲法が保障しようとする個人の尊厳の尊重のほうについていきます。わたしは、わたしの望むことを追い求めます。自分の内側から自然と湧いてくる興味、意欲、関心、それらがわたしを充実させてくれるからです。もう偉い人たちに認めてもらわなくてもいいんです。大会のステージに上がって、経験を話したりできる「特権」を与えられなくてもいいんです。興味、関心が同じ人たちの中には、わたしの努力や挑戦を認めてくれる人がいます。その人たちは、わたしをその人たちの思惑通りうごかそうと操作する目的で褒めたり認めたりするわけじゃない。素直にいいと思ったから、それをそのとおり表現してくれるんです。自分の感じたことを素直に言い表せるって、これこそが自由だとわたしは今、声を大にして表明することができます。
Lunaさんのおっしゃってることよくわかります.JWは構造的にモラルハラスメントに非常に似通っているのではないかなと思いまして,Blog書いてます.
他の記事でも輸血拒否と大東亜戦争の狂気の類似点を書いておられましたが全くそのとおりだと思います.
トラバさせていただいてもいいでしょうか.
トラックバックしていただけるなら光栄です。
LunaさんのBlogにいくつかトラックバックさせていただきたい記事があるのでおいおいやっていいます.
気がついたんですが,Lunaさん,多分モラハラという言葉を使っていないだけで,私とJWに対して考えてる事はかなり似ているんです(私は法律的なアプローチはしてないですが,どせいさんという方が,なかなか面白い意見を展開しています).
もしよろしければ相互リンクお願いできませんでしょうか.
ちなみに私も活字中毒で本にはいくらでもお金をつぎ込んでしまいます.
よろしくお願いします.
相互リンクお願いしますね。
わたしは、エホバの証人の最大の問題は、人権問題だと捉えています。狭ーい枠組みの秩序、封建的といっても言いすぎじゃないくらいの序列絶対主義、恋愛、結婚まで指図する個人の自由への締めつけ、互いに牽制しあう監視社会の醸成、学問、表現の自由への締めつけ…。
わたしはこういった風潮にファシズムの特徴を感じるのです。それで、戦前・戦後の日本史、日本経済体制を読んでいけば、エホバの証人の前近代性を具体的に、説得力を持って書き表せるんじゃないかと思い、このブログを書いています。
でも、題材が大きいし、遠くのことのようにも見えることだし、あんまり関心を呼びそうなものではありません。事実、こういった問題を書くようになってから、アクセスがずいぶん減っちゃいました。でも、わたしは、こういった問題はずっとずっと身近な問題だし、私たち自身の生活に直接関わってくることだし、何よりも、エホバの証人という、抑圧的な社会で経験した息苦しさ、いら立ち、閉塞感を身をもって体験した経験を生かしたいと思います。
トラックバックをはってくださる方々の中には、とてもまじめに「自分たちが生きていく社会」というものを考えておられる人たちもいて、そういった方々の目にもふれているんだ、と励みを得ています。もっともっと多くの人たち、元エホバの証人の方々にはもちろん、現役の人たちにも、ぜひ、聞いてもらいたいのです。自由に生きていくということがいかに大切なことか、安心を得る代償に決して自由を売り払ってはならないっていうことを訴えたいと思っています。
ですから、人気のあるブログにリンクしていただけるのはとても助かります。よろしくお願いしますね。
もちろん、このブログを見てくださっている方々が不真面目だという事を言っているのではありません。
言葉足らずでゴメンナサイ。
すごくいい意見が、トラックバックの記事には書かれていたっていうことを言おうとしていまーす!
あとから読んでみると失礼に見えたので、言い直します。ルナのブログ、これからも応援お願いしまーす!!
それでは早速リンク貼らせてもらいます.
私のBlogは特に人気があるblogという訳でもないんですが(笑
Lunaさんの視点はすごく面白いです.
私は我が家は北朝鮮のようだったと思ってるのですが,そういうのも考えてみるとある種人権問題みたいのに絡むのかしら.
リンクを貼らせていただいているまっち~さんのブログにも似たような事が書いてありました.JWって本当に安全なんでしょうか.
一応リンク貼っておきますね.
http://blog.goo.ne.jp/machimachi_2005/e/598411d5b0da2332ec424cb9b13e33d0
いや,でも考えたら現役の人はあの状態が安全だと思ってるのかな.