Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

自然は賢明である、自由に生きよう!

2006年04月16日 | 一般
或る宵


瓦斯の暖炉に火が燃える
ウウロン茶、風、細い夕月

それだ、それだ、それが世の中だ
彼らの欲する真面目とは礼服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを
世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
かつて裸体のままでゐた冷暖自知の心を

あなたは此を見ても何も不思議がる事はない
それが世の中といふものだ
心に多くの俗念を抱いて
眼前咫尺(しせき:近い距離。「咫」は八寸、「尺」は一尺。)の間を見つめてゐる、
厭な冷酷な人間の集まりだ
それ故、真実に生きようとする者は
むかしから、今でも、このさきも
却て真摯でないとせられる
あなたの受けたやうな迫害をうける
卑怯な彼等は
又誠意のない彼等は
初め驚異の声を発して我等を眺め
ありとあらゆる雑言を唄つて彼等の暇な時間をつぶさうとする
誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて
ただ事件の当体をいぢくるばかりだ
いやしむべきは世の中だ
愧ず(=恥じる)べきはその渦中の矮人だ

我等は為すべき事を為し
進むべき道を進み
自然の掟を尊んで行住坐臥 (ぎょうじゅうざが:もと仏教用語で、仏教の戒律にかなった日常の起居動作をいう。俗語に転じて、日常の立ち居振る舞いの全般。) 我等の思ふ所と自然の定律と相もとらない境地に至らなければならない
最善の力は自分等を信じる所にのみある
蛙のような醜い彼等の姿に驚いてはいけない
むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい
我等はただ愛する心を味わへばいい
あらゆる紛糾を破つて
自然と自由に生きねばならない
風の吹くやうに
必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
自然は賢明である
自然は細心である
半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお止しなさい
さあ、又銀座で質素な飯でも喰いませう

大正元・10

(「智恵子抄」/ 高村光太郎・作)

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読めばだいたい、ふたりがどういう状況下にあったかは、想像がつきますよね。新潮文庫版の「智恵子抄」には、高村光太郎自身による、「智恵子の半生」という一文が収録されていて、おそらくこの詩を生み出した事件であろうと思われる事情が書かれています。




「長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であった。
…(略)…
丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠(いぬぼう)へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんとひとりの親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿に来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためについて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し(もし)私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君ヶ浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴のとき、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれていた。

やがて彼女から熱烈な手紙が来るようになり、私も此の人の他に心を託すべき女性は無いと思うようになった。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑った。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思うと彼女をその中に巻き込むに忍びない気がしたからである。その頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシップが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や混濁の残留物を知っているので時々自信を失いかけると、彼女はいつでも私の心の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。私を破れかぶれの廃頽気分から遂に引き上げ救い出してくれたのは彼女の純一な愛であった」。




模範的な恋愛ですよね。「君ヶ浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった」っていうのは、言うまでもなく、子どもっぽいっていうことじゃなく、屈託がなくって、自分の感情を素直に表現できるっていうこと。これってすごい大切なことだと思います。無理をしてる人とか、自分を大きく見せようとしている人って、そうは振舞わないですもんね。これは、智恵子さんのお相手の高村さんが、安心できる人だっていうことでもあると思います。自分をさらけだしてもそれを評価裁定したりしないで、そのまんま受けとめてくれる方だったんでしょうね。

引用した詩のほうですが、現代にもりっぱに通用するメッセージじゃありませんか。日々、世間の目に迎合して生きている人間って、その人たちの観点からの「ルール違反」を見つけたら、すかさず攻撃を始めます。世間の目にビクビク怯えて生きている自分と、自分の生きかたに内心では大きな不満があるんですよね。ほんとうは自分たちを縛っているしきたりや世間体を攻撃したいんだろうけど、それができないから「真実に生きようとする」人たちを代わりに攻撃するんですよね。エホバの証人のお局たちのイジワルもひょっとしたら、そんなところなのかもしれませんね。「平和と平等をあきらめない」という、「機会不平等」の著者、斉藤貴男さんと、「靖国問題」「心と戦争」の著者、高橋哲哉さんの対談を収めた本では、生計のために不平等で無慈悲な競争原理の中で自分を抑えつけて生きている人々は、自分たちを束縛する枠組みの外で人生を展開しようとする人を陰湿きわまる仕方でバッシングする、と話しておられました。何の事件についてそういうコメントが出たかというと、2004年4月に起きた、イラクでの人質事件です。実は、わたし自身もあの人質の方々には、当時、当時はですよ、何か得体の知れないいら立ちを覚えていました。あの時分は、わたしはどん底にいまして、そんなうまくいかない事態の渦中にある情けなさが、自由に生きる人たちへの攻撃のエネルギーとなったのでしょうね。

「彼らの欲する真面目とは礼服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを
世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
かつて裸体のままでゐた冷暖自知の心を」

いい指摘じゃないですか。伝統やしきたりはもちろん、ある種の礼儀作法も同じかもしれないな、なんて思ったりします。人を好きになったり、好きになった気持ちを素直に表現するのに、どうして世間の合意を求めなきゃならないんでしょう? わたしはいまエホバの証人のことを言ってるんですよ。「模範的」でなければ、不愉快な言いかたをされなきゃならないなんて、またおとなしくそれに従っていたなんて、ホンッとにバカでした。自分の意欲、自分の目的、自分の感情、自分の考え、自分で決めたものならどんどんチャレンジしてゆこうじゃありませんか。生きかたを宗教指導者や、熟練布教者や、国家などの評価に俟つ必要なんてないんです。日本は今、国際的大競争時代を勝ち抜くのに必要な人材の育成にだけ、財政支出を絞ろうとしています。教育基本法を変えて、国家が教育内容に介入できるようにして、人間の生きかたに画一的な枠組みを押しつける法的根拠を設けようとしています。これが人間をどれだけ押しつぶすことか、エホバの証人だったわたしにはよく理解できます。このブログのブックマークにある、「エホバの証人にツッコミをいれる」の筆者の方が、はじめてエホバの証人の集会に出席されたときに、若い人たち、おそらくは2世の人たちの目が死んでいるというような感想を持った、と書いておられます。等身大の自分を表現することを心理的に罰せられる社会ではそうなるのです。蛙のようなグロテスクさと高村光太郎さんは表現されました。

「あらゆる紛糾を破つて
自然と自由に生きねばならない
風の吹くやうに
必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
自然は賢明である
自然は細心である
半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお止しなさい」。

自分の人生、自分の命、自分の表現。大切にしたいです。自然な人間の情愛(テモテ第二3:5)、自分の嘘偽りのない感情、考えをそのまま表現できる自由と、勇気をこれからは大切に、命がけで大切に守ります。他人を喜ばせるだけに生きる人生なんて、死んでいるも同然だもの。
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