Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

これが真の「ポジティブな考え方」!

2009年10月31日 | 一般



「男の松茸」さんという方から、心に深い傷を負わされたカルト宗教の子どもたちを見下げる人がいるから、反論の手がかりがないかというコメントを頂きました。ちょっと腰抜けっぽい態度ですが、気持ちは理解できるのです。

小泉さんの時代で、いっきに「水に落ちるのは自己責任、叩かれてもしようがない」という考え方が市民権を得てしまったように感じます。でもわたしは、うまく反論はできなくても、でも絶対それは違う、と感じていました。それは主に、アグネス・チャンさんの名著、「みんな地球に生きるひと」PART Ⅰ、Ⅱ、Ⅲを読んでいたからです。アグネス・チャンさんは、あのアグネス・チャンです。70年代にヒットを出していた歌手のアグネス・チャンです。でも彼女は実はカナダのトロント大学で教育学博士号を取得した方で、日本ユニセフ協会の大使を務めています。

でも今日は、アグネス・チャンさんの、クリスチャンとしての側面を打ち出した、「マザー・テレサ 26の愛の言葉」から、わたし自身が元気になれた一文をご紹介しますね。わたしは男の松茸さんの味方です。

 

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ホームレスだということは、ただ雨露をしのぐ家がないという意味だけではなく、(それ以上の意味があって、それは)見捨てられて、だれにも求められず、愛されてもいない、ということです。

「引きこもり」と呼ばれている多くの人たちがいますが、こういう人々は孤独な暮らしをしていて、だれにも必要とされず、ただ怖れおののいて、一人きりでいます。それが、日本でも、アメリカでも、インドでも、おそらく、どこの国や場所でも、いわば “今日のホームレス” なのです。人間がいるところには、どこにでも、愛に飢えている人々がいるのです。

マザー・テレサのお話。
1982年4月23日、日本の閣僚と国会議員230名が集まって開かれた、ヒルトンホテルでの朝食会で。

 

 

 

引きこもりは、人間関係に傷つき、がんばることに疲れて、生きることが怖くなっているときに起こります。だから「外敵」だと思っている人間関係、家族をもシャットアウトしてしまう。そして、自分から見れば怖くないコンピューターとか漫画とか、一方的に(自分が)操作できるものに没頭する。つまり引きこもりの人たちは、世の中と付き合ってゆく自信をなくしている人たちなのです。マザーのいうとおり、(人間関係の中に、また人間の付き合いという輪の中に「居場所」を持っていない、という意味で)「今日のホームレス」なのですね。

こうなってしまった人たちには、「怖くないよ、あなたを愛している人はここにいるよ」と周囲の人たちが改めて教えてゆく覚悟が必要です。親や大人が引きこもりを怖がっていたら、彼らはなかなたふつうの生活には戻れません。恐怖が恐怖を増大させ、家の中に険悪な空気が醸成されてしまいます。

だから、親や大人は、たえず話しかけてください。部屋から一歩も出てこなくても、ドア越しに話しかけてみてください。「顔見せてよ。ママは寂しいよ。あなたを愛しているんだよ、失いたくないよ」って。まわりを怖がっているその心をやさしく抱きしめて、もう一度自信をつけてあげるのが、親や大人の仕事です。

そして、引きこもっているあなた、あるいは不登校のあなたも、どうか学ぶ気持ちを忘れないで。ただ部屋にこもってコンピューターや漫画やTVにふけるだけでは、とてももったいないと思うのです。

世界には、行きたくても学校に行けない子どもたちがたくさんいます。(そういう地域に比べると)日本は経済的にも環境的にも恵まれていますが、世界には、初等教育を受けられない子どもが一億一千五百万人もいます(『世界子供白書2006』〔財〕日本ユニセフ協会発行より)。

教育を受けられない子どもたちは、たいへんな苦労をしています。知識がないために命を落とすことも多いのです。では、この子どもたちが何も学んでいないかというと、そんなことはない。たとえば、どうやって家畜を育てて太らせて、市場で少しでも高く売るか、一生けんめいに考えて実践しています。そうやって家族を助け、自分の力にしている。学校に行けなくても、生きていくための学びを、自らたくさん行っているのです。

もしも、学校に行きたくなのなら、自分でがんばって教科書を読み返してもいい。あるいは勉強でなくても、家事をいくつか担当するのもよいでしょう。家にいるんだから、夕飯の支度をする、洗濯物を取り込んでたたむ。そのほか、なんでもいい。ほんの少しでいいから、ムリなく、自分なりに学び、人のために行動するチャンスを、自分からつくってみましょうよ。

ただし、ムリしちゃだめです。いきなり「(ポジティブに考える能力を発揮し、)みんなと同じように学校に行き、友だちも作り、明るい性格になる」なんてことを自分に求めたら、かえってつらくなります。

だから、野球にたとえたら、まず、バッターボックスに立つこと。立つだけでいいのです。そして慣れてきたら次に、「ゴロでもいい、三振でもいいよ」と思って、勇気を出して、バットを振ってみてください。ホームランを打とうとか、初勝利をあげようとか、そんなふうに意気ごまないで。無欲でバットを振ってみてください、その一歩を踏み出すことで、きっときっと、何かが変わります。あなたのまわりにはあなたを愛している人が必ずいます。あなたは決して孤独ではないのです。

 

(「マザー・テレサ 26の愛の言葉」/ アグネス・チャン・著)


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子どもを引きこもってしまうように、また反社会的な生き方をするように、あるいはいきなりキレさせてしまう、さらにはとうとう重大犯罪を行ってしまうようにまで追い込んでしまうのは、子どもの意向や、子どもの考え、子どものペースを尊重せず、尊重どころか否定して、親や周りの大人の期待を過剰に要求してしまう、そんな過保護や過干渉に大きな大きな原因があります。引きこもってしまう子を親があきらめて、なんとかスクールなどの民間更正教育施設(?)などに丸投げしてしまう、そんなことから子どもが自殺したというニュースが最近ありましたが、こういうのを「親の過剰な期待を押しつける」と言います。子どもはみんなと同じようになれないと「いけない」という親の考え方の枠があって、親は子どもに、なんとかその通りにさせようとするのです。エホバの証人みたいなカルト性の強い宗教では、なにがなんでも教団の理想とする人物像の枠にはめ込もうとします。実はこういうことが引きこもりを起こす大きな原因の一つなのです。

精神的な成長は、人が自発的な欲求にしたがって、自発的に行動を起こし(幼い子なら、イタズラや、良心にかまってもらおうとする行動=たいていは親にとってはうるさくて困ったことに感じられる振る舞い)、失敗したら励ましを受けてまたチャレンジし、それを何度も何度も繰り返し、ついに自分の思う線に最も近い結果にいたる、それを親や大人に正当に評価してもらえる、そうすることによって自分で行動を起こし、生きていく自信を育んでゆく、というものなのです。決して親や回りの大人の言ううとおりに行動して親や周りの大人の気に入る結果を出させることではないのです。

後者の方法によって、いわゆる親の気に入る「いい子」になっても、思春期になって体力がつき、自我も強くなってくると、ついにそこらにあるものをひっくり返したりして、「あたしはあんたらのペットじゃねえんだよ!」とキレてしまう。自分の自発的な欲求を否定されてきたことから来る積年の怒りが爆発するのです。「いい子」度が強いと、傷つける行動が自分に向かったりします。あるいは前者の方法でしか育まれない自信が未成熟なために、人間関係の中に居場所を見つけられず、精神的な「ホームレス」状態に陥ってしまう、つまり引きこもってしまう。

ところが、現実社会の対処の方法はというと、原因は周りの大人たちにあるのに、周囲は子どものほうを責める。あなたが甘えている、考え方がポジティブじゃない、○○さんのお子さんはあんたみたいなことはしない、など、子どものほうに責任があるとする。これでキレないほうがヘンなのです。で、キレてしまって、積年の怒りの大噴火を起こして、身の毛もよだつ犯罪を行ってしまったら、現在の日本社会は「少年といえども厳罰に処すべきだ」と力で抑えこもうとする。「少年であっても死刑に処すべきだ」と。決して自分たちのものの考え方のほうを反省しようとはしないのです。こういう社会をキリスト教はこう表現します、「愛のない社会」。この点に関してはわたしもまったく同感です。こういう対処の仕方はまったくもって本末転倒もはなはだしい。

「あたしはあんたらのペットじゃねえんだよ!」という子どもの必死の抗議にも、「だれのおかげで食わしてもらっているんだ」で返すのです、「愛のない」大人たちは。およそサイテーのセリフですね、こういうのって。食わすのが嫌なら産むなというんです。食わしたくないわけじゃない、親の思い通りになってくれないのが、親にとっては自分への攻撃、自分への否定と解釈されるのでしょう。そしてここには、「人はすべて個人として尊重される」という、日本の憲法にも反映されることになる、民主主義の思考・基本原則への認識が欠落している現状が見られます。徳川的解釈の儒教にもとづく武家文化~明治憲法と受け継がれてきた家父長制の影響が未だに引きずられているのでしょうか。

ひとりひとりの気持ち、ひとりひとりの考え、ひとりひとりの特有の能力、ひとりひとりの希望、夢、目標、そういう個々の事情をきめ細かく汲み取り、尊重しようとしない風潮がこのところまた大きな流れとなってきています。日の丸・君が代の強制が法になり、個々人が職を追われ、辱めを受ける、これもこの流れの影響の目立った事件です。組織に順応することを個人の主張よりも重要とみなす、これは戦後の日本の資本主義のあり方がわたしたちの親の世代、そしてわたしたちの世代、わたしたちの子どもの世代に及ぼしてきた影響でもあります。高度経済成長時代には、会社のためなら家のことは犠牲にするのが美徳でした。家のことを犠牲にする、ということはつまり家庭を犠牲にするということです。

そのようにして、たとえば富や名声を築き上げた人たちは「成功者」としてTV・新聞を筆頭に、マスコミをあげて賞賛されるのです。こういうメンタリティを持つ日本人が、エホバの証人のような家父長制擁護・縦の序列の問答無用式の厳格な尊重を標榜する宗教をすんなり受け入れるのはよく理解できます、わたしには。60年代後半から70年代後半の、当時リベラルだったアメリカの影響を受けてリベラル化した青年層の、家父長制からの自由を謳歌し始めたことに馴染めず、違和感を覚えた人たちはエホバの証人社会が居心地よく感じられたのでしょう。現に60年代から70年代には、エホバの証人社会では非情な体罰によって徹底的に序列と権威に服従することを調教されていたのです。戸塚ヨットスクールなどのような団体ももてはやされました。こうして個々人の気持ちや意見を自由に聞いてみようという態度よりは、上からの権威・道徳にとにかく無条件に従え、という精神態度がいきわたったのではないかと、わたしは感じているのです。

そういう考え方では、社会や組織の矛盾を告発したり、問題にしたりすることを「子どもじみている」とみなし、「大人らしくしろ」「行儀よくしろ」のひと言で、抗議は封じられるのです。子どもがキレても、それが社会や組織の問題であるという視点から目を逸らすために、「行儀悪いから」「マナー違反だから」「みんなはそんな風には行動していない」という論と厳罰でもって抗議を封じてしまいます。社会や組織の矛盾点に目を向けるのはネガティブな思考である、と言うのです。しかしそれは違います。それは組織や社会の矛盾、つまり権威・権力の横暴に逆らわないようにする目的があって、したがってそっちのほうがネガティブな思考なのです。

一部の人間を犠牲にして「成功者」となったひとたちは、通信技術の発達によって世界中で連携するようになり、より多くの利益を求め=より多くの賞賛を求め、ついに世界同時不況を招いてしまいました。それでも犠牲になった人たちは自己責任であり、社会体制の変革は必要ないと言い続ける人たちが、なんと犠牲になる側の階層に多いのです。そういうひとびとを指して、「薔薇、または陽だまりの猫」というブログの、あるエントリーにこんなコメントが書き込まれていました、「肉屋を支持賞賛し、追従する豚」。

 

 


押しのけられてしまった人たち、脱落せざるを得なかった人たち、愛されずに育った人たち、そしてわたしを含めた(広義の)アダルト・チルドレンのひとたち、わたしたちを責めることばを吐く人たちに凹んではならない。わたしたちは確かに優秀な「勝ち組」ではなかったでしょう。ですが自ら「勝ち組」と称していた人たちは今や世界経済を破綻させてしまいました。彼らは優秀だったのでしょうか。いいえ、愚鈍だったのです。そういう人たちを「成功者」と呼ぶ取り巻き連も彼らとともに没落するのです。わたしたちをたえず侮辱してきた人たちは面目を失いました。彼らのなかにも「懺悔」をした人もいます。もう、彼らのいう侮辱のことばを気にする必要はありません。日本でも、彼らの精神的支柱だった自民党が大きく勢力を失いました。どの程度新しい政権が変革を達成できるかは未知数です。それはおそらくわたしたち国民の絶え間ない監視にかかっているのでしょう。

だから、さあ、インターネットから目を離しましょう。現実世界に目を向けましょう。今できないことをする必要はないんです。なにも学校の勉強だけが勉強じゃない。彼らが教えようとしたことは、体制への盲目的な服従でした。彼らが教えてきたのは、人間と人間には階級別の差があり、上のほうのクラスに行かなければ搾取されるだけの人生になる、上のほうに行きたければ権威に服従せよ、そうすることによって彼らの寵愛を買え、ということでした。それがいま、破綻したのです。わたしたちはむしろ、互いを高めあい、互いに共生する連帯、支配 ‐ 服従の縦割りの人間関係ではなく、共感と互助という横の連帯を作っていきましょう。少なくともわたしたちは、「上からの押しつけ」が人間をどれほど破壊するかを知っているのですから。わたしたちは決して無能じゃない。経済成長至上主義の体制にとって必要な能力というのはごくごく限られたものでしかなかったのです。人間はそれよりずっと多様であり、それに気づいた先賢は「およそ人として生まれた者には等しく、人間らしく生きる権利がある」という思想を打ちたて、わたしたちが住んでいる日本の憲法には、その思想が条文として書き込まれているのです。もうわたしたちを見下す人に頭をたれる必要はないのです。むしろ、彼らの目をのぞき込んで、真っ正面から抗議しましょう、「いいや、それは違う」と。

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