前にそういうことを書いたかもしれませんが、存在すら知らないものは知らない以上頭の中にはありません。知らない、といってもそういうものがあることは知っているわけです。
そうなれば、無論比較などできるはずもないわけです。なぜなら知っているものの範疇で判断するしかないからで、ない袖は振れないからです。
聖書の話を例に持ち出すのも何ですが、たとえばりんごを食べてしまった後は、食べる前と食べた後を比較できますが、食べる前には食べた後はわからないから比較のしようがない。それはりんごを食べたらどうなるか知らないから。つまり、食べた後が頭の中にないからです。
先にりんごを食べた人がりんごを食べたらどうなるかを伝えたとしても、わからないでしょう。食べたら面倒だと思っていたとしたらなおのことです。
そうなれば、無論比較などできるはずもないわけです。なぜなら知っているものの範疇で判断するしかないからで、ない袖は振れないからです。
聖書の話を例に持ち出すのも何ですが、たとえばりんごを食べてしまった後は、食べる前と食べた後を比較できますが、食べる前には食べた後はわからないから比較のしようがない。それはりんごを食べたらどうなるか知らないから。つまり、食べた後が頭の中にないからです。
先にりんごを食べた人がりんごを食べたらどうなるかを伝えたとしても、わからないでしょう。食べたら面倒だと思っていたとしたらなおのことです。