かつてのひまな野球人の記

野球が好きだった医者が書きたいことを書き散らすブログ。今は保健センター教員をしつつ神経内科医と研究者もやっています。

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2015年02月18日 23時57分12秒 | 一般
息子は昨夜は一切の経口摂取を禁じられ、空腹を抱えてまんじりともせず過ごしたようである。付き添っている嫁さんも大変だったろう。
私はというと、朝から母と式場に行って打ち合わせであった。あわせて、保管してもらっている父の体に着せてあげる服を選んで持って行った。父にはいつも着ていたような服を着てもらい、身ぎれいにして送り出してあげることにした。
父の顔は相変わらず穏やかで、少し化粧も施してもらっていた。ネクタイの結び方がいつものとは違ったので、私が結び直してあげた。不覚にも涙がこみ上げてきて、少し視界がぼやけてしまい思ったようには結びづらいところはあったが、昔こうやって父にネクタイの結び方を教えてもらったことを思い出した。それから年月が経ち、こうして自分の手で父の最後のネクタイを結ぶことになるとは。ワイシャツにネクタイを身につけ、ジャケットを羽織った姿を見るとまた涙がこみ上げてきた。
打ち合わせが一通り済んだ後で、父の棺を寝台車に載せて職場と自宅前をぐるっと回ってもらった。本来は納棺まで住み慣れた自宅に安置してあげたかったのだが、家の廊下が狭く曲がっているために棺を持ち込むことは不可能だったのでやむを得ずこういう形にした。なので、あの日朝に家を出て以来、帰宅できていない父をせめて自宅の前まで連れて行ってあげることになった。
父の職場に立ち寄ったときには、急なことだったのにもかかわらず大勢の職員がわざわざ雨の中出てきてくれて、お見送りをしてくれた。とても職場で人気があったらしく、またまた涙ぐんでしまった。
自宅の前で少し止めてもらい、父の棺に語りかけた。やっと帰ってこられたね、と。涙がまた出てきた。
また式場に戻り、保冷室へ父の体を戻した。
その後は息子が入院している病院に行き、嫁さんと付き添いのバトンタッチ。息子はようやく便が出て、経口摂取が解禁されたところだった。少しミルクを飲ませると途端に元気になり、だいぶいつも通りの様子に戻ってきた。排便にはわずかに血が混じっているようだが、回数を重ねるたびに減っていった。
夜になり嫁さんと再度交代した後は、たまたま海外旅行に行っていた妹が帰ってきて、一緒に叔父(父の弟)が来ているということで、実家に向かった。そして、しばらくお話をした後で再び式場に向かった。父と対面してもらうためである。特に妹はあの日の前日に出発していたので、ショックは大きかったのではないかと思う。
父が最後にかけていた眼鏡は救命処置を受ける際に外され、昨日持ち物と一緒に渡されて実家にあったので、今日持って行って私の手でかけてあげた。父は家にいるときは眼鏡を外していることも多く、眼鏡をかけていない顔でもさほど違和感はないのだが、外でしか会わない人たちには印象が変わって見えたことだろう。眼鏡をかけてあげると、いつもの外で見る父の姿になった。これで顔色にもう少し自然な赤みがあれば寝ているのと何ら変わりないくらいである。本当に穏やかな顔である。涙がまたまたこみ上げてきた。
父の棺の前で、私、妹、母、叔父の4人でしばらく思い出話をした。父は照れ屋だったのでなかなかわかりにくいところがあったのだが、いろいろな話ができた。本人を囲んで、こんな風にあれこれ気兼ねなく話せる機会はそうそうあるものではない。
今日は息つく間もなくやることが続き、少し疲れてきた。
それでも、まだ父の急逝には認識が追いつかない。実家は父がいってきますと言って出かけていった、あの日の朝のままである。ただ父がいないというだけで、他は何も変わっていない。今でも、帰ってきてリビングに入るときにぶつぶつと文句を言っている姿がそこにありそうに思えてならない。

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