父が亡くなってからはや2年…
病院の付き添いをしていた時のことは、今でも、一昨日のことのように鮮明です。
だけど、父を思って悲しくて涙が出ることはありません。
父はきっと天国で、私たちを見守ってくれている…
楽しかった思い出だけが次々と湧き上がってくる…そんな3回忌でした。
父の菩提寺で、親族10人の、小ぢんまりとした法要でした。
葬儀のとき、あんなに大勢のダンス関係の方が弔問に訪れてくださり、お花で溢れかえる中、見送られた父も、2年も経てば忘れられていく…
ずっと忘れないでいるのは、一緒に遊んだ妹や、怒鳴られたりもしながら育ててもらった私たち子ども。
そして、無条件に可愛いがってもらった孫たちですね、、、
でも、パートナー、ヒロコさんにとっては、やっぱり、あの日のまま…
パートナーの死とは、本当に、自分の半分をもぎ取られてしまうようなものなんだろうなぁ…
ヒロコさんは、父が逝ってからずっとずっと、仏壇のお花やお水を取り替え、ご飯を供え、今でも一緒に暮らしているかのようです。
私も…いつかはそんな時がくるのかなと…まあそれはおいといて、、
さて。
私にとって、お経は音楽。
法要は、3ステージ、お線香のいい香りに包まれて、厳かで煌びやかで、非日常なコンサート、、
キリスト教でいえば、「グレゴリオ聖歌」ってとこかな。
お寺さん(讃岐の国では、お坊さん、住職さんを「お寺さん」といいます)の肉声が響き渡り、拍子木のような打楽器がリズムを沿え、
このまま突進すればトランス状態!!??…みたいな、、、
こんなこと思うのは、私だけでしょか…(-_-;)
最後の3ステージめは、みんなで一緒に斉唱のコーナーがあって
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」…で始まる、ふつ~の勤行のヤツを唱えるのよ。
参列者には、歌本が配られ…
みんなで一斉にコレを唱えましょう…ってことなんだけど、誰も歌いません、、、
みなさま、歌詞を追うだけで、、、、
ダメじゃ~~ん、みんな、歌おうよぉ~~~!!!ヽ(`Δ´)ノ
お経って、一応、「歌本」によると、音程などなど、ざっくり決まりごとがあります。
ここは、ご導師さまのソロ、ここから合唱…とかね。
でっ、音の高低も歌本に記されている。
お寺さんの歌を聴きながら、歌本の記述を見ながら、なるほど、ここはこう歌うのか…と、記譜法をチェック、、
私、よう知っとるよ、この歌詞。
おばーちゃんが毎日仏壇で唱えてた。
みんなで高らかに合唱したかったなあ~~
お経は、各自、好きな高さで唱えられるってとこがスゴイんだわ。
西洋音楽の場合、「ラ」から始まる曲は、みんなで「ラ」とか、揃えなければならず、それぞれの曲にキィがあって、これは絶対!なんだけども、
お経は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」~~ってのは、キィってのはナシ。
それがなんとも荘厳な雰囲気で、会衆皆、好きな高さで唱える…けど、それが一丸となって、曼荼羅の世界をつくる…みたいな、、、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の歌詞の意味は
「始めなく終わりのない永遠の時間の中で、どこまでも広がる世界の果てまでも、悩み苦しむ人々を見守り支えて(救いとって)くださる阿弥陀仏を、私は生涯(いのち)のよりどころとして生きてゆきます。」
やと! すごいや~~~ん、知っとんか~!弟よ(^_^;)
…つか、浄土真宗のみなさま!!
ちなみに、四国八十八箇所のお遍路さんが巡っているのは、真言宗のお寺です。
真言宗のお経は「般若心経」
時折、素晴らしい合唱に遭遇します。
これはこれで、また別途、記事かきます。
…でっ、
午後は、私の所属する教会関係。
クワイヤーチームの指揮やら、ストリートライブのバンドのリハやら。全部終わったのは20時過ぎ。
長~~い1日でした。
「ココではこのように盛り上がりましょう!高らかに歌いましょう~~!!!」
…っと、直にメンバーのみなさんに伝えて、音楽を作っていく。
殆ど素人さんで、私はこの人たちを牧師先生から…神さまから一任されたのだと感じる。
毎年のストリートライブ、私は「お手伝い」をさせていただいてました。
だんだん、私の役割は多くなってきたような気がしていましたが、
これからは、1人でも「神さまのことを、思い起こしてくれる」ための、私の割り当て…な気持ちで、真摯に敬虔に、しかし楽しく、やっていきたいです。
クリスマス前、クリスチャンは、それぞれの役割分担があり、ものすごく忙しい…
救い主、イエスさまの誕生を祝うためです。
カップルやファミリーで、スペシャルなディナー…とか、巷のクリスマスとは違いまくり。
教会でイエスさまの誕生をお祝いしたら、家に帰って泥のように寝る…だけ、、、、(^_^;)
私は、クリスチャンでもない時から、そんなクリスマスを数年やってきました、、、なんか、充足感あり、、、
音楽に宗教宗派の区別はないように思います。