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守破離

2018年08月24日 | 社会派らぼ
かの有名な千利休が「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」という和歌を残しています。この句の中に「守」「破」「離」という3文字が含まれており、これが日本の伝統的な考え方として「守破離」という概念が生まれたと言われています。「守破離」は剣道や茶道などでの修行における段階を示したものだそうです。「守」は、教えを守り、基本を確実に身につける段階。「破」はこれまでの教えを基礎として、他の師の教えなどについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。と言った風に説明されています。

人は誰しも最初からスゴイ事ができるわけではなく、最初は素直に学ぶところから始める…と言うのが基本だという訳です。例えばミュージシャンといった人達も、最初は「コピーバンド」といったところから始まります。お気に入りのアーティストの曲を、目標とするアーティスト並みに演奏することを目指して練習を繰り返します。ただ、それが少しできるようになって来ると、今度はアーティストの曲に多少の自分らしいアレンジを加えて演奏するようになります。更には、自分で作詞作曲をするようになり、オリジナル曲を引っ提げて演奏するミュージシャンになる…といったところでしょうか。

それは「~道」と言った名のついた芸道や武道に限らず、人の成長にも当てはまる事のようです。最初は「学ぶ」ことから始めます。「学ぶ」は「真似ぶ」という言葉が語源だとも言われています。そしてこの段階は「如何に学ぶ」か「誰に学ぶ」か…といった事も重要になってきます。時々「天才〇〇」といった触れ込みで、最初からプロ並みの活動をさせようとする親御さんもいなくはありませんが、きっと「学ぶ」段階はトテモ大切なのだろうと想像します。最初から奇をてらって、オリジナルに走る…のも、現代にはありがちのパターンですが、それでは本当の「心」は育たないとも思います。

但し、現代は「学ぶ」に値する「師」がどれほど居るのか?が、はなはだ疑問かも知れません。小学校における学習などは、一見誰でも教えられそうですが、この段階でキチンとした基礎とそれを支える精神を学ぶことができる子どもたちは(そうした器量を備えた教師は)ごく限られた人たちでは無いかと思います。「教育」が目指すところは、決してそれぞれの知識だけであってはならないと思います。「離」の段階に至った(と自負している)人達が、イマイチ「本を忘るる」ような振る舞いになっていた場合、これを諫める人はもういません。勘違いを起こさないようにしたいと思います。