ぱそらぼ (ぱぁと1)

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2016年10月18日 | 雑談
「秋」だからでしょうか、各所で人権関連のイベントが行われているようです。当節の自治体は、どこでも人権問題に力を入れており、県民・市民を集めて「つどい」的な行事を行うところはたくさんあります。…が、主催者の思惑通りに、参加者がたくさん集まってくれるわけではなく、必然的に動員をかけて、人を集める事になる場合が少なくありません。それでも、何らかの役員に当たった年に、半ば強制であれ、そのような話を聞いて、考える機会を持つのは悪い事ではありません。持ち回りの役員であれば、年を重ねるごとに、順により多くの人たちが関わることになって行きますから。

が、そうして、自治体でも学校でも、職場でも、「人権」を学ぶという場を多く持ちながら、実際の世の中は、差別やいじめの無い理想に決して近づいては行かないという矛盾を感じています。だから根強く繰り返さねばならない…というのが、おおよその考え方です。で、このような学習の機会は更に一層増え、それぞれに趣向を凝らし、効果的な学習方法を模索することが続きます。

立ち止まって考えてみると、ニュースになってしまうほどの問題を起こした者たちが、このような人権学習について無知識だったかというと、実はそうではないはずです。学校であれ、親からであれ、繰り返しそのような事を聞く機会はあったでしょうし、「人権に関する」作文だって、絵だって、一度や二度、書いたこともあるでしょう。それなのに、彼らは問題を起こしてしまうわけです。虐待だのネグレクトだの、無抵抗な命が弄ばれるニュースも、後を絶ちません。では命の尊さを学ぶ機会が無かったのか? と言えば、恐らくそうではないと思うのです。

「学習する」とか「学ぶ」事は大切です。知らなかったことを知り、考えもしなかった事に思いを馳せ、「命」を尊重すると言う事は、どういうことなのかを学習することは、繰り返し繰り返し重ねて、初めて効果があるものだと信じたいと思います。でも、もしかすると、「学ぶ」事には、そんなに大きな意味が無いのではないかと思えてきます。頭の中で学び、○○は「悪いこと」で、○○が「良いこと」のように、いくら学習しても、それがその人の「良心」にならない限り、単なる頭でっかちになってしまうだけのような気がしてなりません。してはならないとされる言動を「してはならない」と頭で理解しても、理性で「しない」事を選んでいるだけ…ではダメなのではないでしょうか。「理性」と「心」は別のところにあって、「心」は自分で育てない限り、育っていかないのかも知れません。

心に水をやる社会…でなければならないのだと思います。

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