ぱそらぼ (ぱぁと1)

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2014年07月22日 | 雑談
「学習する」ことは「覚える」ことだと思っておられる方は、少なからずおられると思います。実際「覚えなければ」始まらないことも多々あるとは思います。必要最低限の知識というのは、やはり覚えていなければならないのも確かです。但し、徹頭徹尾すべてを覚えるのだと、勘違いして欲しくもありません。

学習の要素は、幾つもあるのだと思います。が、一言に表すと「勘」なのではないだろうかと、この頃思います。学生時代には、「勘」に頼るというのは、学習ができていない証のように言われていました。確かに試験を前に、何一つ問題が分からない…となると、勘で答えざるを得ないわけですが、それは偏に学習してきていないせいです。ただそれは言うならば、「ヤマ勘」とでも言うべきことで、当てずっぽう、何の根拠もなく、鉛筆を転がすようなものでしかありません。

本当に大切なものは、根拠に裏打ちされ、理解の上に成り立っている「勘」なのだと思います。物事には理由があります。こうなれば、こうなって、そしてこうなる…という風に、必ず理由があるものです。その根拠の過程をなぞりながら、物事を理解すると、その後は理由などを考えなくても、正しい答えが「勘」で分かるようになる、そんなものだという気がするのです。その「勘」を磨く過程こそが、学習なのだという気がするのです。

文科省は、「新学習指導要領」の根幹に「生きる力」という言葉を据えています。生きる力を育むという理念のもとに、知識や技能の習得、思考力・判断力・表現力の育成をうたっています。これからの教育は「ゆとり」でも「詰め込み」でもなく、「生きる力」を身に付けるためのものだと言っているのです。この「生きる力」というのも、実は裏返すと「勘」なのではないだろうかと、思えてきます。

地道にルーティンな理解を繰り返すことは大切です。ただ、いつまでもただ決まったことをなぞっているだけでは、そこから先に進みません。頭の中にその回路を作る作業とも違っています。そこには理由があって、過程が見えています。その先に導かれるものには、必然性が無ければなりませんが、その必然性が「勘」になるべきなのだろうと、そんな風に思ったりしています。




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