ぱそらぼ (ぱぁと1)

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畏敬

2014年07月28日 | 命の生き方
高校1年生の女子生徒が殺人で逮捕されました。マンション自室で、同級生の女子生徒を殴って殺害、更に遺体を切断したというショッキングなニュースです。更に、どうやら殺害直後「殺しちゃんだけど」という内容で、何度もネットに投稿をしていたようで、リアルな写真も何回かアップされています。リアルタイムでやり取りをしていた者たちは、半信半疑で「マジで?」など、秘かに動揺が広がっている風です。夕方の報道では「人を殺してみたかった」などという供述をしているようですから、何とも気が滅入ります。

このような犯罪に際しては、犯人が心身耗弱にあったとして、その責任能力が不問に処される…といった議論がしばしば起こります。殺人などといった犯罪行為が、正常な精神状態で行われるとは、到底思えません。その瞬間にも人が冷静でいるなどとは考えにくいものです。だから…責任が無いという理屈は成り立たないと、私は思っています。どれだけ精神障害が立証されようと、責任の担い方に様々な方法があるとは思いますが、責任は必ず当事者に存します。

本人は「人を殺してみたかった」とその動機を話しているようですが、死に対する畏敬の念は、極論行き着くとこのようなことになるのかも知れません。明らかに精神を病んでいたとして、それでも彼女は確かに日常的には普通の生活を送ってきたのですから、日常と異常がどこでギアチェンジされたのかが解明されなければなりません。そこからしか、彼女が異常に至らずにいられた可能性を探る道は無いのだと思います。

ただ、異常な犯罪行為そのものにも増して、何度もネットに書き込んでいることに戸惑いを感じます。勿論この掲示板への投稿が、本人のものかどうかはまだ判別できてはいません。この世代の(年齢は関係ないのかも知れませんが)、ネット依存の実態は何なのでしょうか。最初は、もしかすると日常が広がる感じなのかも知れません。閉じられた日常の空間から、新しい異次元な空間が生まれたような、そんな感覚があるのかもしれません。リアルな世界では、他人は常に自分の思惑通りには動きませんが、ネット上では自分の本質を忘れて、まるで別の人間性を生きることが可能になるような錯覚があります。必要以上の干渉もなければ、身を偽ることにも何の障害も起こりません。人はそこで、自由になったように錯覚し、依存を深めていくようにも見えます。

いずれにしても(この投稿が事実として)、彼女が報告すべき相手はネットだったわけです。通信を切ればそれで済む付き合い以上の、生身の付き合い方を知らなかったのは確かです。こういう事件が起きる度に、「命の尊さ」を生徒たちに教える取り組みが見直さることになります。が、「命の尊さ」といったものは、薄っぺらな指導要領の中で示せるほど安易なものでないことも確かです。「人」というものが一体何であるのか、自分が活かされている本当の目的が何であるのか、真の幸せがどのような形をしているのか、このような問いに苛まれる経験をたくさん積まなければ、「死」というものへの正しい畏敬は生まれないのかも知れません。


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