ぱそらぼ (ぱぁと1)

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モラトリアム

2006年08月27日 | 雑談
「モラトリアム」という言葉があります。「猶予期間」を意味する言葉だそうです。古典的には(?)、こうした時期を経て大人になっていくのが人の成長であったのに、現代はこのモラトリアム期が大人にまで拡散し、幼児性を払拭できなくなっているようです。

自己の可能性を狭めたり、束縛されてしまうような決定を避けて先送りにしようとするのが現代人の習性です。いつも一歩引いた姿勢で物事に関わり、何かととことん心中するほどの熱さを持ちません。はっきりと意見を求められることを嫌い、絶妙なバランス感覚でうまくわかっている風を装うことが上手です。自分が体験し実感したことではなく、人づてに聞いたり書物から得た知識だけで、あたかも能力があるかのように錯覚しています。

人間は、与えられた「環境」の中で生きて来ました。生きていく限り眼前に立ちはだかる「厳しい現実」とぶつからざるを得ませんでした。決定を先送りにし、やりたいようにやるといった「快楽願望」があっても、厳しい現実の前には克己的に自己実現していかざるを得なかったわけです。ところが、人間はこの「厳しい現実」を避け「快楽」を優先できる科学技術をはじめとする社会システムを営々と作り上げてきました。

結果、私達は、冷暖房機をはじめとする様々な電化製品・豊富な食料・時間すら超えられる様々な移動手段…に守られ、幼児期の快楽願望を失わず、「全能感」をひきずって大人になってしまうことができるようになりました。過保護的な環境下で、本来の自分の能力を正視することなく、決定を先送りにしますから、全能感をを持ち続けることができてしまうのです。

更には社会の仕組みも、胸を張って責任を負おうとする者に風当たりが強く、傍観者の権利擁護に余念がありません。他人のポリシーを隠れ蓑にして、いかにも自分が信念をもってことに当たっているかの錯覚を抱いていますが、信念があるわけではありませんから、いつでも別のポリシーに鞍替えすることが可能で、しかも良心の呵責も伴いません。現実の非力さを見せつけられる雰囲気を感じると、身を縮め、目をそらし、口をぬぐい、全能感を守ります。

些細な理由で、ときには理由さえわからない理由で、人を生き埋めにし親を殺し家に火を放つ現代の病魔を、自分だけは自分の家だけは関係ない恐ろしい社会だと眉をひそめていることが問題だと感じます。


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