弘前で葉室麟原作「蜩の記」を観てきました。ラストシーンはさすがに切腹では終わりませんでしたね。役所広司(戸田秋谷役)、岡田准一、原田美枝子とキャストも豪華で、寺島しのぶも尼役がどはまりでした。ただ個人的な感想を言わせていただくと、堀北真希と青木崇高は時代劇向きの顔ではないような。。あとは息子郁太郎役の吉田晴登なんですが、小生意気で出しゃばりが強く一人でかき回している印象が残りました。もうひとつ、縁(えにし)についても考えさせられました。人は誰しも縁で繋がってるわけじゃないけど、遠くにいても常に身近な存在として感じ合えるのが縁だ、というようなことを言ってましたな。
大音量の土砂降りで始まるシーンは、即映画に釘付けにさせる効果大でした。岡田准一の剣術の風切り音、武士のひとつひとつの無駄のない所作、背筋がピーンと伸びた座位、シーンの切れ間での凍りつくような静寂、と通常の映画館ではあり得ない異空間でした。ストーリーは、実際には「お由の方」とは何もなかったんですが、結果的に現代で言う冤罪を甘んじて受けたことになります。つまりは、藩のお家騒動のとばっちりということなんですが、正室と側室あるいは側室同士の跡目争いに関係したことでもあります。本を読んでると分かることですが、映画だけで理解するのは難しいかもしれませんね。それに対して一切の言い訳をせず、藩の歴史である「家譜」を完成させ、息子(吉田晴登)を元服させ、娘の薫(堀北真希)と監視役の檀野庄三郎(岡田准一)の挙式も済ませ、この世に思い残すことがないよう組んだ段取りも見事でした。
何より一番の功績は、鉄拳(源吉の五十叩きの刑の仕返しとして)と一通の書状と引き換えに、中根家老に百姓を大事にすることを肝に銘じさせたことじゃないでしょうか。年貢米は天候に左右されるということで、七島筵を特産品に育て藩の財政と農民の暮らしを向上させた功績も大きいのですが、一方でそれが播磨屋の私腹を肥やすことになります。実は「お美代の方」が武家の出ではなく、播磨屋の娘であるという事実も判明しますが、いつの時代も金との癒着は断ち切れないということでしょうか。
そんな複雑な背景はさておき、撮影場所は会津若松でも行われてますが、七割方岩手県遠野市だということです。小説を読んでて思い描いた風景と瓜二つで驚いたぐらいです。映画では、蜩が鳴いてるシーンもありましたが、あえてそれに触れないんですね。おそらく蜩の鳴き声を知らない人も中にはいるんでしょうけど。その美しい風景を巡る手立てがありました。この度遠野市では、映画にちなんだガイドブックをB5判8ページで3万部作成したそうです。同じものが遠野市観光協会のサイトにありましたので、ぜひご覧いただきたいものです。
(私が過去に書いた感想文はこちら)
大音量の土砂降りで始まるシーンは、即映画に釘付けにさせる効果大でした。岡田准一の剣術の風切り音、武士のひとつひとつの無駄のない所作、背筋がピーンと伸びた座位、シーンの切れ間での凍りつくような静寂、と通常の映画館ではあり得ない異空間でした。ストーリーは、実際には「お由の方」とは何もなかったんですが、結果的に現代で言う冤罪を甘んじて受けたことになります。つまりは、藩のお家騒動のとばっちりということなんですが、正室と側室あるいは側室同士の跡目争いに関係したことでもあります。本を読んでると分かることですが、映画だけで理解するのは難しいかもしれませんね。それに対して一切の言い訳をせず、藩の歴史である「家譜」を完成させ、息子(吉田晴登)を元服させ、娘の薫(堀北真希)と監視役の檀野庄三郎(岡田准一)の挙式も済ませ、この世に思い残すことがないよう組んだ段取りも見事でした。
何より一番の功績は、鉄拳(源吉の五十叩きの刑の仕返しとして)と一通の書状と引き換えに、中根家老に百姓を大事にすることを肝に銘じさせたことじゃないでしょうか。年貢米は天候に左右されるということで、七島筵を特産品に育て藩の財政と農民の暮らしを向上させた功績も大きいのですが、一方でそれが播磨屋の私腹を肥やすことになります。実は「お美代の方」が武家の出ではなく、播磨屋の娘であるという事実も判明しますが、いつの時代も金との癒着は断ち切れないということでしょうか。
そんな複雑な背景はさておき、撮影場所は会津若松でも行われてますが、七割方岩手県遠野市だということです。小説を読んでて思い描いた風景と瓜二つで驚いたぐらいです。映画では、蜩が鳴いてるシーンもありましたが、あえてそれに触れないんですね。おそらく蜩の鳴き声を知らない人も中にはいるんでしょうけど。その美しい風景を巡る手立てがありました。この度遠野市では、映画にちなんだガイドブックをB5判8ページで3万部作成したそうです。同じものが遠野市観光協会のサイトにありましたので、ぜひご覧いただきたいものです。
(私が過去に書いた感想文はこちら)