さて、昨年からずっと(というよりもその前からですが)考えてきたテーマについて、少し書いてみたいと思います。
それは“公害と環境問題の違い”です。
実は21世紀に入ってからというもの、【公害】という言葉は影を潜め、【環境問題】や【エコ】という言葉がたくさん並んでいます。前者は、病気・会社との訴訟問題など、高度成長の負の意味を表す言葉として持てはやされ今はあまり話題に上らない言葉です。後者はそれに代わり、90年代から急激に用いられるようになった、緑の地球を表す言葉として用いられてきました。この言葉使いの変換が、巧妙に行われた結果、今では公害問題が忘れ去られたような印象さえ受けます。でも、戦争と同じで公害の問題は今も終わっていないはずなのです。それは、今も病で苦しんでいる人が居られるからです。
しかしながら、私はそういう議論ですらも、机の上で考えているだけなのではないかと最近思うようになったのです。知識というのは確かに必要なのですが、それだけでは何もならないなと、思うようになりました。それだけ年を取ったからかもしれませんが、単なる小説的な感動よりも、もっと他に必要な感動があるだろうと思うようになったのです。具体的にどう行動すればよいかは、まだ思案中ですが、そろそろ頭だけではなく手を動かし、身体を動かす必要があるなぁと、個人的に思うのです。
話は戻るのですが、公害という言葉は、会社・企業という加害者がはっきり分かる場合に用いられ、環境問題という言葉は、個人個人が地球規模で加害者であり被害者なのだから、自己責任なんだよというあまりに、んなアホな、という意味で使われる言葉だといわれます。そう言われるとそうかな~とも思うのですが、環境科学と呼ばれる人達にしてみれば、公害は環境問題の一種である、というんだから、定義があまりにズルイ。だから、私は環境科学ではなく地球物理学を専攻したのですが、そろそろやっぱり逃げられないなと思います。健康や病気といったものを追っていくとどうしても最後は、食べ物と排泄物に行き着きます。要するに身体の中身は、まだまだブラックボックスで、生命現象は分からんことだらけ、ということに帰結します。そうなると、自分の口にしている食べ物はどこから来たのか、どういった環境でできたのか、と自然にそういった話題に目が行ってしまいます。長生きしたいとか健康でいたいとか、そういう思いが強いわけではないのですが、結局、生活に直結して来る話題に興味が行ってしまうようです。
今回のテーマの根底には次の3冊があります。
石牟礼道子「苦海浄土」(講談社文庫)
レイチェル・カーソン「沈黙の春」(新潮文庫)
有吉佐和子「複合汚染」(新潮文庫)
どれも、非常にテーマが重たい本であり、批判も多数あります。
あとはこれに加えて、岩波新書の公害問題関係のラインナップが何冊もあります。
こういった本を加えて、このテーマについて、少し考えていきたいと思います。