ドストエフスキー「罪と罰」(光文社古典新訳文庫)を読了しました。
3巻はほぼ一気読みでした。
売れているのか、本屋を何軒か梯子しないと見つからなかったです。
ここから感想です。
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タイトルから予想されるように、二面性を扱ったテーマであることがわります。
人生の不条理を扱っている小説として私が一番に思い浮かぶのは、ヴィクトル・
ユゴーの「レ・ミゼラブル」。時代の閉鎖感(貧困)が非常に似ているので、同時
代なのかなと思って調べてみると、レ・ミゼラブルは1862年、罪と罰が1866年と
ビンゴ。ただ、似ているかというと、そうではない部分ももちろん多々あるのですが、
公約数はいくつかあるのではないかと思います。
全6部からなる話の展開は恐ろしいほどにゆっくりでやきもきする所もあります。
訳者の解説にあるように、メタファーが多過ぎて、素人に読み取ることができる
ことはわずかしかないです。それでも、たくさんの(気狂いな)登場人物の中で、
ソーニャとスヴィドリガイロフの二人が主人公ラスコーリニコフの影となって、
物語は収束していきます。エピローグにおいて、ラスコーリニコフとソーニャの
邂逅が、物語の救いとして読者に与えられるのですが、果たしてこれは本当に
救いなのかと考えさせられます。
ラスコーリニコフの心の揺れは、前半は犯罪者の心理として忠実であり過ぎるの
ですが、中盤以降から、重要人物が作中から少しずつ消えていくにつれて、徐々に
その軽快な語りとともに沈黙していきます。しかし、第6部の最後には、頑な
ラスコーリニコフの心が、ソーニャのはじめから崩壊しているはずの存在(意義)に
なぜか負けてしまう。読者はなぜ負けてしまうのかを分かっているはずなのに、
それがなぜかを忘れてしまう。だからこそ、この小説が何度も読み返される理由
なんだろうと思います。
さて、実はこの小説を読む動機のひとつに、この小説をいつ読むのが一番いいの
だろうかということがあります。今までのイノセントを捨てて、あるがままの世界
の存在を信じると決めたとき、果たしてこの内容をそのままのものとして受け止める
ことができるのでしょうか。人をなぜ殺してはいけないか、ということを論理に
よって打ち砕くにはこうすればいいという作者の意図を越えた部分の境地に、誰も
がすんなりとたどり着くことができるのだろうかという疑問です。言いかえると、
物語の中で【ラフコーリニコフ】が見ようとしなかった【ソーニャ】の中の矛盾した
“良心の側面”の意味するところを理解できるかということです。利己的、自己中、
KYといった言葉が意味するところは、自分では世界の枠組みというか、外枠が全く
見えておらず、“自己”の存在を何よりも誰よりも限りなく大きなものとして、観ている
ことにあると思います。そして、その絶対的なものの見方を相手に強要することで、
相手も自分と同じように見えている、つまり相対的なものの見方を自分はしている
んだと勘違いしていることにあるのではないかと思うのです。人生の主役であり、
物語の主人公であるはずの絶対的な“自己”が、裸の王様に過ぎず、恥を知ること
によりはじめて他者とのコミュニケーションを実行できる程度の哀れな“自分”しか
持ち合わせていないことを忘れてしまっているのです。そういう意味では、この世界
に生きていることに対して、恥を知ったときに読むべき1冊なのかもしれません。
誰からも後ろ指をさされない人生というのは不可能でしょうが、だからといって、
それを理由にすべてを怠っていい、という「いいわけ」にはならない。“気付く”
ことで新たな理解が生まれる。それが、コミュニケーションの本来の目的であり、
電子の羅列によって、理解できるはずのない、心の揺らぎなのではないかと思います。
“自己”と“他人”が違うことを理解した上で、もう一度、世界の姿を見る力が
必要なのではないかと思います。
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今日は久々の長文となってしまいました。
(この駄文がだれかの感想文になる、ってことはないですよね…)
日々、色々と考えることは、尽きないなと思う次第です。